レーモン・ルーセル『アフリカの印象』

 読み方は最後までよくわからなかったんだけど刺激的な作品だった。以下とっちらかったメモ。
 訳者の方の解説やフーコーの文章*1なんかを読むと、レーモン・ルーセルは自分の書いた作品の幾つかを、自身「手法(プロセデ)」と呼ぶ、ある特異で秘教的な性格をもつ制作の実践過程において組み立てていったということらしい。その謎のような作品制作の詳細については、フランス語の読めない自分のような者には、注釈者たちのことばからこれを大まかに想像することくらいしかできない(悲しす)。その注解のことばによれば、ルーセルは作品に費やす言説をある種の暗号文のようにして構成していたらしい。地口や語呂合わせのメカニズムを利用して(音韻的な類似関係や同音異義語の意味的なずれ、語のもたらす観念連合の流れなんかを利用して)、作品の言説のはらむ潜在的なぶれを可視化し、二重化や分身をテキストの表面に溢れさせているとのことだ。その「手法」によって、読むことができることばの背後にはいつでも余剰的な別のことばが顕在化されうるという、暗号の、自身を複数化する性質が、ルーセルの作品のことばに宿ることになる*2。この『アフリカの印象』という小説もそのような「手法」によって書かれた暗号的な作品のひとつなのだという。

(…)アンジェリックは、平面天体図をかごの中にしまい、その奥から、かなりの数の穴が不規則にあいている一枚のボール紙を取り出した。暗号用語で格子とよばれているこの道具は、二人の恋人が危険なしに連絡をとり合うのを助けるはずであった。これを白い紙の上にあてて、まず穴の中に文句を書き、そのあとを空白部分を手当たり次第にえらんだなんらかの文字で順番にうめてゆくならば、その文句は解読不能となる。一方、ヴェルバルは、これとまったく同じ格子を文章の上に置きさえすれば、手紙の意味をよみとることができるのである。

 レーモン・ルーセルの書くことばがつねに暗号的で不確定の、複数の形態をにないうることが確かなのだとしても、そのエクリチュールの外観は「手当たり次第にえらんだなんらかの文字」のごときまったくの「解読不能」の死文か乱文のような状態に陥ってしまっているわけじゃない。構文においても指示される対象の描くイメージの水準においても、それらはちゃんと読めることばになっている。「手法」がことばの暗号化を組織するのは音韻や形態といった言語の物質的な相においてだとして、また、その物質的な素材によって条件づけられ基礎づけられる形態がいかようにも(いかなる意味をになうことも不可能なほどに)変形や解体を加えられることが可能だとしても、ことばを文としてかたちづくるものは、ルーセルのテキストにあって、物語や意味の側からの圧力をつねに受け止めつづけているし、その形態の常用的な姿をきちんと保持しているように思う。畸形的なイメージがそこにあるのは確かだとして、ただしそのイメージは読まれうる文字を書きこまれた正面の顔を読み手の側にいつでも向けてくれている。「手法」が条件としての言語の物質性に介入するとき、その介入や操作の手続きは、言語の意味や観念が運ぶ物語性といったものをつねに貯蔵している。変形や加工の対象としてまったくの物質であり、また同時に、意味を産出し、表現をになうものでもあるルーセルのここでの文、エクリチュールは、端的にその最小単位の姿において機械とよばれるのがふさわしいように思われる。そして、複数のことばを産みだし、自身が産みだしたことばにおいて自身を複数のものとして反復的に作動させることによって、表現するエクリチュールの機械は『アフリカの印象』の描くもろもろのイメージのなかで特権的な形象をかたちづくっている。「手法」によって産みだされるエクリチュールは、物質と物語から成る、完全には混じり合わないまだらな機械の混成体を形成しているのだけれど、このエクリチュールの機械が、テキストの上に広がる見えるもののイメージの水準で、機械のイメージを描き出している。ここには、機械としてのエクリチュールと、機械についてのイメージとの、別様の二つの機械にかんするイメージの差異がある。機械が機械を描くと言ってもいい。表現する機械についてのイメージにかんして言えば、それがテキストに描かれるところによれば、それらは動作を反復するものであり、その反復の過程にあってイメージ(なにかの映像やだれかの似姿)を再現するものであるだろう(そこには、フォガルの寝台を覆う植物の葉がかたちづくる映像スクリーンだとかルイズの発明した全自動の絵画制作装置といった無数の表現機械が見いだされる)。また、そこで見えるものとして描かれたイメージの水準で、それらの機械に費やされる対象描写は、それじたいとして完全に、過不足なく充足している。この自己充足も機械の機械たるゆえんを基礎づけるだろう(たとえば、それらの作品の出版や上演が同時代の読者と観客たちからの完全な拒絶反応を引き出し、同時に、それに対するシュルレアリストたちの騒乱的な擁護をも引き起こすといったスキャンダルを構成する逸話の数々は、ルーセルの発明したこの機械の、そのあまりの充足ぶりへの不安がひきおこした率直な反応だったとすら思える。ルーセルの描いたイメージには決定的に「余分」が足りていないし、「不足」すらもが欠如しているように感じられる。このエクリチュールの欄外の余白に、感情や身体の誤作動的な反射運動でもって、書かれていない余分や書かれてしまった不足を事後に付け足し、補うことだけが、そこでの観客たちの唯一取りうる行動となったんじゃないだろうか)。
 とにかく、イメージの機械が描く機械のイメージだけが見えるままの姿で眼前に繰り広げられていくという印象がある。機械についてのイメージがおのれ自身のなかで再現的に反復させるおのれのイメージといったものは、そこにどこかしら鏡の性格を連想させるものがある。それと関連するように、なんらかの映像を映しだされることになるスクリーン状の物質や、ごく剥がれやすい、玉ねぎの皮の無数の層を思わせる薄膜状の表面をもつ対象が、『アフリカの印象』をかたちづくるイメージのなかにしばしば見いだされる。同じものの無際限な反復の過程を死物の運動として特徴づけるこの鏡のような表面状の事物の氾濫は、それを、ミメーシスの剥き出しになったミメーシス、運ぶべき意味や物語を剥離した何ももたないミメーシスの出現といったものとして捉えることができるような気もする。「手法」が文の水準で遂行する分割と再編によるエクリチュールの複数化(「セリー技法」)*3の手続きとはまた別の分割を、イメージはイメージの内部で、見えるものの自足的で機械的な無限反射の原則に従いこれをおこなう。
 整理してみると、まず、「手法」の手続きによってエクリチュールの機械が文を別様の無数の文として自身を分割し暗号化していく大きな原則がある。それとは異なる水準に、エクリチュールが見えるものを産出する機能によってテキストの上に描いていく、機械についての充足したイメージの展開がそこには見られる。このイメージの広がる水準は、それが描くところの対象にふさわしく(光や音声、風や川の流れといった幾つかの流体のサンプル、もろもろの物的な素材によってかたちづくられる機械群の性質にふさわしく)、意味や物語とは隔絶してそれじたいとして完全に自足しきっている。それらが反復をおこなうのは、同じものの再現を可能にする鏡の無限反射的な効果によってだ(そこには、ひょっとしたら鏡の反-ロブ=グリエ的な使用といったものがあるのかもしれない。ルーセルの鏡はひび割れない)。ただし、これらの機械についてのイメージ群は、その描写の外部に、いわば傍注のようなものとして、物語のパロールによる意味論的な付加価値を受け入れる余地をもっている。作品の構成として実際的には二部をなしている『アフリカの印象』の後半部分で語られる物語が、前半部分で描かれる機械についてのイメージの傍注的な言説をかたちづくる。それらのパロールは機械についての描写に対し事後に物語としての肉付けをおこない、謎めいたイメージの数々をその背景の深みにおいて照らし出し、注解する。確かに、機械についてのイメージ「についての」補遺的なイメージならば、そこにいくらでもパロールを積み重ねていくことは可能だろう(そもそも、ことばってそういうものだろう)。ここで肝心なものは、鏡や機械そのものとしてあるルーセルの特異なイメージの、その現われ方のほうにあるように思われる。そこでは、鏡は自身の姿をそっくりそのまま写しだすだけでそれ以外の何ものの影も反映させず、機械の方はと言えば、それもまた、機械を生産する手段を自身産みだしながら、それによって自身以外の何ものも産出しようとしない。「手法」がかたちづくる合わせ鏡の真ん中で、何かが静かに調子を崩していくばかりだ。そんな感触がこの『アフリカの印象』という作品にはある。つまり結局は、今のところルーセルのこの作品にかんしては、ほとんど何ひとつわからないというのが正直なところだ。

*1:ルーセルにおける言うことと見ること」『フーコー・コレクション2』ちくま学芸文庫

*2:参考までに、ルーセルの「手法」について訳者の岡谷公二さんが解説で具体的な例示をしてくださっている箇所を引用しておく。≪(…)ところでこの短篇(「黒人の中で」)は、《Les lettres du blanc sur les bandes du vieux billard》という一行で始まり、《Les lettres du blanc sur les bandes du vieux pillard》という一行で終わる。この二行は、billardのbを一字だけpにさしかえてあるだけで、ほとんど同音である。しかし意味はまったく異なる。前者においてlettreは「文字」、blancは「白色」、bandesは撞球台の「クッション」のことで、つまり、「古びた撞球台のクッションに書かれた白墨の文字」の意である。後者において、lettresは「手紙」、blancは「白人」、bandesは「一味」と解され、全体は「年老いた盗賊についての白人の手紙」となる。つまりルーセルは、この二行の文章を最初に思いついたあと、その間の空隙を埋めるために、以上のような筋を考案したのである。≫レーモン・ルーセル『アフリカの印象』380頁

*3:≪レイモン・ルーセルが、セリーの交流を設立するのは、音韻関係によってであり(「年老いた盗賊(pillard)の群れ」「古びた撞球台(billard)のクッション」=b/p)、差異の一切を埋めるのは、pを意義するシニフィアンのセリーとbが意義されるシニフィエのセリーが再び結び付く驚くべき歴史物語によってである。この歴史物語は、この方式では一般にシニフィエのセリーは隠されたままでありうるので、それだけ謎めいたものになる。≫ジル・ドゥルーズ『意味の論理学(上)』河出文庫80頁