三好銀『海辺へ行く道 そしてまた、夏』

 帯の紹介文によると「海辺へ行く道」のシリーズも今作でおしまいらしい。おしまいとかいっても連作短篇という体裁の作品集だったので全篇とおしての物語としての主筋があったというわけでもないし、シリーズ3作におさめられてるどの作品で連作が終わってもおかしくない感じではあった。とはつまり3冊目のこの単行本におさめられた掉尾になる作品(「私家版「噂鳥について」」)にあってそこでこれまでの事がらをすべて終わらせるのに相応しい何か劇的な幕切れみたいなものが用意されてるわけじゃまったくないし、この不始末といえばいろんな意味で不始末な感じが、事がらの終わりようのなさみたいな印象の方をこそ強く刻みこんでいるようにも感じられる。シリーズのおしまいは出版とか作品連載とかいった慣行上のちょっとしたしきたり、いちおうのけじめみたいなもんで、マンガの紙面に、たとえば切れ長の目にバサッとした黒髪の人物が出てきて線の細い直線だらけの町を歩き出せばもうそこは「海辺へ行く道」の世界とまったく地続きの場所としか思われないだろうし、きっとその場所でもこれまでどおり、夢のなかでしか出会えないようないかがわしくてとりとめのない小さな出来事が放り出されるみたいに飽かず繰り返し起こることになって、そんな具合に三好銀はこれからもこの真夜中の遊園地みたいな寄るべない世界を描くことになるんじゃないかと、どうもそんなふうにしか思えない(『短篇集ヒミツキチ』ってオムニバスに収録されてる作品なんかも「海辺へ行く道」のどの巻に紛れ込んでてもおかしくないようなエピソードだろう)。
 冒頭におかれたエピソード「北風は今夜も吹いて」では作品世界の一貫した舞台だった海辺のA市に大風が吹く(一冊目の『海辺へ行く道 夏』に収録された「回文横丁」の記述から奏介くんの住む物語の舞台をこれまでずっと「F市A町」というふうになんとなく了解してたんだけど、この単行本に収められたエピソードの記述から推測するとどうもF市はA市の隣の市で奏介くんはA市に住んでるみたいだ。誤解があったかもしれない)。三好銀の『いるのにいない日曜日』には「北風番地」というやはり冬の木枯らしにまつわるできごとを描いた小さな回があるけど、紙ヒコーキとか遠くで遊ぶ子どもたちの歓声なんかを意外な間近さに運んでそれらを正体不明の気配として人の前にもたらし不意をついて驚かせることになるそこでの北風の人目を忍んだようなようすとはかなり異なって、「北風は今夜も吹いて」ではこの北風はもっとずっと荒々しいもの、ちょっとした暴威といっても差し支えないような自然の威力として作品の世界に吹きこんでくる。海にのぞむモーテルの周囲にめぐらされた屋敷林(防風林)の枝には吹き飛ばされた海岸のゴミがびっしりとひっかかるほどだし、アパートの屋根はまるごとひっぺがされて宙に飛ばされてしまう。真夜中に吹く嘘みたいに強烈な北風が、それじたいとしても嘘か冗談みたいな奇怪な光景をA市にもたらす。無数の女性下着がからまった屋敷林は意図の読めないオブジェみたいだし(「エロスの殿堂だね」)、橋のど真ん中に落っこちて自動車を立ち往生させるアパートの屋根もこれ以上ないくらいにばかげた景色を川の上に作り上げている。屋敷林に積もったゴミがすっかり撤去されて、この珍しい防風施設の取材に訪れた奏介くんたち新聞部一行の目の前に、エピソードのラスト、一枚の短冊が舞い落ちてくる。できすぎた嘘みたいにしてどこからともなく落下してくるこの季節はずれの「七夕の短冊」っぽいその紙片には願い事が書かれてあって、そこには子どもの手蹟みたいなつたない文字がのたくったようにして文句を連ねている。「せかい中のこどもがかなしみませんように」。ここのくだりを目にした瞬間どきっとした。嘘といかさまと偽ものだらけの作品世界としてこれまで受け止めていた三好銀の海辺のA市にとつぜん現実が、作品の外で物語とはまったく無関係に流れていた外部の時間が場違いにも突如闖入してきたかのような、違和感というかちょっとしたショックといっていいような感じすら受けた。ちなみに初出一覧によれば「北風は今夜も吹いて」は『月刊コミックビーム2011年3月号』に掲載された回のものだ。雑誌が刊行されたのは2月のことだから、一瞬胸をどんと突かれたかのようなこちらの印象は、まあたんなる勘違いによるものだったんだけど。だったんだけど、作品の最終巻って事情もふくめて、この勘違いは作品を読むうえで以降ちょっとかんたんには解除できそうにない不純なフィルターみたいなものとして意識に覆いかぶさってしまったこと、そのことはこの勘違いとは関係なく、もはやほんとうのことだ。
 もともと「海辺へ行く道」の描く作品世界では人がしきりと出入りするのが常みたいなところがあって、それもちょっと一筋縄ではいかない、社会の薄暗い場所で生息するような怪しげな人物の群れが、たとえばイカサマ師だったり闇金業者、興信所の探偵だったり、援交目的の女性だとか身元不詳のアーティストたち、後ろ暗いところを匂わせる画商とか振り込め詐欺グループの一員とかいった、一癖も二癖もある連中が、どこからともなく流れ着いてはしばしのあいだA市に居を定め、と思う間もなくすみやかにどこへともなく消えてゆくという、ちょっともぐら叩きゲームのもぐらを思わせるようなせわしない出没を繰り返す場所として環境設定されているだろう(前巻の「どこかに穴でもできたのかい」を思い出してもいい)。三好銀の描くあの印象的な人物の後ろ姿だとかベタ塗りされて真っ黒な影そのものと化した人物の形象なんかは、この身元不詳のデラシネみたいな人物たちに相応しい謎めいたシルエットをかたちづくっているようにも思う。あるいはそれとはちょっと別に、自動化された言葉の境位みたいなものがある。人物の後ろ姿とかシルエットなんかが形象のイメージにおいて存在の不確かさみたいなものを印象づけているように、ほとんど自動化されたような言葉、書き言葉として書く人と書かれた文字との繋がりを時間においても場所においても切り離すことができるものだけじゃなく、話し言葉として話す人と話された言葉の内容との繋がりさえも断ち切ることができる、それらを別々の時間と場所に存置して不確かな半-現前みたいな状態においたままでいることができる、そんなような言葉の自動化の境地があるようにも思う。『海辺へ行く道 冬』の「冬眠しない蛇」における淫らな寝言だったり『いるのにいない日曜日』に収められた「寝言で教えて」での本屋に響く出所不明の朗読の声だったり同じく「秋めくことば」のベンチの貼り紙のメッセージの文句、あるいは『海辺へ行く道 夏』の「回文横丁」におけるおまじないめいた回文だとか。今作での「真夏の気象予報士」で、振り込め詐欺に加担する若い母親の、彼女の息子の寝しなに子守唄がわりみたいにして囁かれる天気予報を告げることばもそのような様式化されてほとんど自動化された紋切り型の発話の一種だろうし、または「私家版「噂鳥について」」で主題化されることになる神出鬼没の鳥と人とのキマイラが歌うでたらめな噂話とそれを伝える説話論的な階層間の移行の(まるでエスカレーターに乗ってるみたいな具合に進行するタイプ間の移動の)事例なんかもそのような言葉のあり方とまったく関係がないものだとは思えない*1。存在と不在いずれか一方のものとしては判然と見極められない、とてもいかがわしいありさまが言葉や形象のイメージで結実されているように思うけれど、そういうような所在や現存の不確かなありさまみたいなものは、やはり三好銀の作品にしばしば取り上げられる写真だとか絵とかいった主題にも見出されるものだろう。宛先も差出人もその送られた意図すらもはっきりとは明示できない絵葉書だとか写真、テレビの録画映像(「バカ猫」=黒猫の映ったテレビドラマの画面)、一枚の絵なんかのたぐいが作品のなかを無目的なまま動いていくといった印象がある。写真や絵は三好銀の作品にあって被写体や対象となるモデルとそれを撮る/描く人との水準を分離し、目的や意図もわからない不透明な謎の晦冥さのうちに読み手を放置するためにこそ現われるかのようだ。
 「カナリア笛を吹いてごらん」というエピソードには「メグ」と呼ばれる奏介くんの伯母にあたる若い女性が登場するけれど、彼女もまた貸金業、借金取りといういささか胡散臭い肩書きの職種にあって、部下の手違いから遺失した「500」(万円)という大金を回収するという、これもまた汚れ仕事と称してよさそうな人目をはばかる業務をおびて実家のあるこのA市へとやってくることになる。その意味でメグもまた三好作品に現われる詐欺師たちの系譜に連なる一人物とみなすことができそうだ。その久しぶりの帰郷は彼女の親類ないし知人、どちらであるかは物語ははっきりとは告げないものの、奏介くんと例のお手伝いの女性も含めて南家一同に縁故のある人物の葬儀への参列という目的もかねているらしい。葬儀の最中に参列者のあいだで会話が交わされ、その言葉によれば「この辺り」も相当寂れてきているらしいことが告げられる。不景気のあおりをくらって商売が立ち行かなくなり、運びきれない家財道具を川に投棄して夜逃げをする商家も多く、空き家は目に見えて増えてきているらしい。町の様子はあたかも虫食いでできた小さな穴が無数に開いてしまってでもいるかのようだろうか。ここで触れられた住人の夜逃げと川への荷物の遺棄という話題はエピソードのなかで点景化されている別の場面に繋がっている。メグの部下である二人の若い男が、大金のつまった遺失物のバッグを見つけ出すために夜中に川床をさらう場面、そこに上流から大きな箱がつぎつぎに流れてくる。間をおいて音もなく男たちのもとに流れ着く三つの箱には同じ子どものものらしい身の回り品がつまっているけれど、最初の箱から三番目の箱までそれぞれ、中学生のものから小学生時代のものへ、さらに園児のころの思い出の品へ、といった具合に、彼(女)の人生をさかのぼるような、いわばタイムカプセルのようなかたちで品物がつめこまれている。三つ目の箱が流れ着き中身を確認したのち、川上に目をやると、さらに四つめの箱がゆっくりとこちらに流れてきていることに気がつく。今度のは「いやにでかい」、「本当にでかい」。「もういいよ」「行こ……」。夜逃げした住人によって遺棄されたものとおぼしき最後の箱の中身は確認されないまま、場面は夜の暗闇にしずんでいく。遺棄された身の回り品といった物品の性格と好対照をかたちづくって、一方で例の遺失したバッグの方はといえば、それを拾った人間によって実はすでに「義援金」として寄付されてしまっていたことがエピソードの最後に告げられる。それが何のため寄付された義援金であるか、またしても物語はその詳細に触れることはないけれど、ともかくこのエピソード一篇が、無為のうちに打ち棄てられて川に流れ着く思い出の品々と、なぜか(何の理由も示されないまま、その在りかがまるであらかじめそこに定まったものででもあるかのように)海岸にそそぐ河口や沼の底に沈みこんでいると信じられていた大金が、義援金という思いもよらぬかたちで再発見されることとのあいだで、棄てられる物と拾い出される物との対照的な関係をかたちづくっていること、そのことだけははっきりしているだろう。これは『2011年7月号』の雑誌に掲載されたエピソードだった。
 A市の片隅に小さな虫食い穴が開いてしまっているとするなら、A市の隣のF市にもまた同様の穴がくしの歯みたいに開いてしまっているという事実が、作品集最後のエピソード「私家版「噂鳥について」」で描かれることになる。町の荒廃という由々しき出来事は、ここではそれそのものとして作品に主題化される。ここに描かれる「噂鳥」という伝説めかした生き物の造形は、別の作品集(『短篇集ヒミツキチ』)に収められた「ホテル「月の裏」」という掌編に描かれた「月の鳥」を思い出させる(それは「始祖鳥」を描く想像図そのものの姿をしてる)。あるいは鳥の体にヒトの女の足を生やしたこの噂鳥の造形からはまた、前巻の「あるアーティストの帰郷」で描かれた「日本猿」の立像を想起することもできるだろう。マネキンに特殊メイクをほどこして制作されたこの日本猿撃退のための魔除けの役を果たすオブジェも、猿のからだから無毛のヒトの足が突き出ているという奇怪な姿を晒して衆目を集めていた。そしてエピソードの結末にかんしても今作の「私家版「噂鳥について」」は、「あるアーティストの帰郷」での結末に対する同工異曲をなすような反復的な観を呈しているものだといえるだろう。
 噂鳥の語る作り話はその話題にされた町を廃れさせるような災いの力をもっているとされる。そしてF市に進行する町の空洞化や荒廃はこの噂鳥に原因があるのではないかという疑いが希薄に、そこはかとなく、しかし拭いようのないまま市民のあいだにはびこっている。(噂鳥がよその町で囁くF市の噂が、いまF市に災厄をもたらしている原因なのではないか?という噂話それじたいにまつわる噂がまことしやかに囁かれる)。その噂話はデマとか悪口のたぐいではあるけれど、それはむしろいっそ「フィクション」と呼んでも差し支えなさそうな、いわば感染性の増殖する作りごとのパロールみたいなものだ。噂鳥は群れをなして誰にも気づかれないままあちこちの空に飛び交っており、たとえ弓矢に射られて一匹が仕留められたとしてもそれを目撃していた別の仲間がたちまちそこから別の場所へと飛び立ってゆき、その先で害意のある噂をばらまいて殺された同属の報復を果たす。(この噂の感染性の増殖といった性質からは『海辺へ行く道 冬』に収められた「冬眠しない蛇」のあの「エロい寝言」の感染を思い出すこともできるだろう)。
 では噂鳥を撃退するにはどうすればよいのか。それは一度場所に取付いてしまったからには、事後にはもうそこでどんな処置をほどこそうとすでに何もかもが手遅れであるように思われる。噂鳥に対処するには感染に対する予防的な処置みたいな手立てでしか打つ手はない。ちょうどカラス除けのためにカラスの死骸に擬した作り物のカラスを畑に高く晒すように、噂鳥は噂鳥のレプリカによって厄払いするしかない(「噂鳥は醜い自分の姿が嫌いだから噂鳥そっくりの作り物を集落の一番目立つ所に置けばいい」)。本物の噂鳥が町にやって来ないようあらかじめ町の一番目立つ場所に掲げられる偽ものの噂鳥。ではしかし、すでに噂鳥の存在それじたいが噂の噂といった一個のフィクションのなかにしか生息場所を見出せないものであることが本当だったならば、このフィクションの存在を追い払うために別のフィクション(作り物の噂鳥)を代わりに据えることとは、いったい事態に対し、本質的にはいかほどの変化を付け加えるものなんだろうか。フィクションを払うためのフィクションと追い払われる側のフィクションとのあいだにどのような差があるというんだろうか。興味深いことには、この噂鳥はそれ自体としてはけっして害意をなすものではないという点だろう。噂鳥はそれがある場所に居ついたのち、そこから去っていった先々ではじめて、元いた町に害をなす偽りの噂をばらまく。その論理にしたがえば、噂鳥が居ついているかぎりにおいて、噂鳥はその場所に害をもたらすことだけはけっしてないということだろう。それはフィクションの消えた場所に対して現実の災いをもたらすものだ。そこからは、虚構の鳥が害をもたらすのではなく、むしろ虚構の喪失こそが世界に荒廃をもたらしていると、そう判断することができるだろう。噂鳥の(あるいは日本猿の)奇怪なレプリカをなによりも高く掲げねばならない理由はそこらへんにありそうだ。一足飛びに言ってしまえば、三好銀の描く世界に出没する胡散臭い詐欺師たちやアーティストたちの役割とは、その世界の空洞化や荒廃に面する縁のような場所で暗躍しながらさまざまな潤色をほどこしてゆき、その場所をついにいかがわしいフィクションだらけの風土に変貌させること、そのことだけに無心に挺身するもののようにすら思われる。そして噂鳥や日本猿のオブジェといったものは彼ら詐欺師たちアーティストたちの住まう居留区を指し示す旗じるしのようなものとして人目を惹きつづけると、とりあえずは事がらをそんなふうに大雑把に了解することもできるんじゃなかろうか。
 作品世界の舞台となる土地にしずかに浸潤してくるかのような荒廃の希薄な気配みたいな印象がまんざら気のせいばかりじゃないんだとするならば、そのおしまいの予感みたいなものは一方でフィクションや広い意味での作りごと全般の水準での解体や流産、死滅とかいった、ちょっと物騒な事態といっしょになって、この作品の読み手の意識に、やはりうっすらと、希薄に、達することになるんじゃないかとも思う。(この作品世界の内部にわだかまってるおしまいの感覚が「海辺へ行く道」というシリーズそのもののおしまいという作品世界の外部の事情を通過し、さらにそこを通りこして、もっと何か大掛かりなおしまいの予兆のようなものにまで達していると、そこまではさすがに言い切れないけれど、さりとてこの憶測を「そんなことはない」ってかんたんに切り捨てることもできない気はする。なにはともあれ、この作品はそんなような何ものかの終わりという鈍くて重たい感覚の発生のなかで読まれることを求めているのだけは確かなんじゃないか、とか思う)。
 「ロニー・下村の埋葬」というエピソードには前巻の「あるアーティストの帰郷」に登場した人物、奏介くんの先輩にあたる高校生で天才肌のアーティストの卵「テルオくん」が再登場する。三好銀の世界に登場するアーティストという存在の識別標とは、要するに変装をおこなったり本物そっくりの偽ものを作って(あるいはしばしば偽ものにしか見えない偽ものを作って)人を惑わせたり騙したりといった愉快犯的で撹乱的な模倣行為をもっぱら事にするというところにあって、つまりこの点では彼らアーティストたちは、同じく三好作品に馴染み深いあのさまざまな手口を披露する詐欺師たちとまったく同じ性格をもつ者として作品に描かれているだろう。アーティストと詐欺師は同じ星のもとに生れた双生児の二重の形象をかたちづくっているようにも見える。
 アーティストであるテルオくんがこのエピソードでおこなう活動は変装をほどこすことと塑像を制作することのふたつだ。制作物をモデルを似せるというミメーシスの理念に規定された行為として双方を同種の活動と見ることが可能だけれど、この詐欺とか偽造まがいのふたつの芸術行為は(変装の方にかんしてはテルオくんの直接関与していないところでではあるものの、現に年金の不正受給という詐欺行為の小道具としてこの「作品」が悪事に利用されてしまう)、しかし仔細に見ると、モデルとそのコピーとのあいだのベクトルの水準でそれぞれ別の向きに線を引くものであるように思われる。変装にかんしては前回の「あるアーティストの帰郷」でテルオくんが自身にほどこしていた扮装が今作では他者に対するある種の援助のためのものへと変奏されているという違いがあるだけで、基本的にはこの新旧の行為は同じ方向に向けられた模倣であると言えそうだ。つまり生きている人間がすでに亡くなっている者の容貌をまとって現われて、そこで死者による生者としての生活を偽装するというものだ。そこでは生きている者が死者を真似る。「ロニー・下村の埋葬」でのもうひとつのミメーシス、塑像による似姿の作成の方はといえば変装とは対照的に、まだ生きている人間が模倣の対象となる。しかしたんに生きている者がモデルになっているというだけではなく、模倣は不吉にも生者の死に姿を象っている。「ロニー・下村の埋葬」される姿が石膏という死物である素材によって模倣行為の対象となり、生ける者の死後の姿をあらかじめ真似る。早過ぎた埋葬の恐怖がアーティストの手加減のない悪戯のなかで暗示されているというわけだ。
 そんな具合に、観念された生と死とにはさまれて異なる向きをもつふたつのミメーシスによるフィクション=虚構物の形成といった事態が「ロニー・下村の埋葬」というエピソード一篇に同時に見られることになるけれど、個別のケースでいずれのニュアンスが強調されるにせよ、この場合つまるところ、フィクションとはそもそもが死の側の方にこそよりいっそう馴染もうとするものなんじゃないのか、という気もする。出来事を分割する線は生と死のあいだにではなくて、ここでは死へのふたつの了解、現実の死と虚構の死のあいだに走っているんじゃないのか。模像として見晴らしのよい場所に立てられる噂鳥の像は象徴の二重化の働きのうちに自身を高台に据える。噂鳥そのものはけっして作品のなかに現前することはない。それは不在のものである沈黙する死みたいなもんだ。この不在が言説として組織して吸着する「噂鳥にまつわる噂」という(町の)死にかんするフィクションがあり、レプリカである噂鳥の像はこの死のフィクションに対置されるもうひとつの死のフィクションとして形態化されてあり、あるいはむしろそれはフィクティブな死、フィクションによる死の偽造といった象徴的な重ねがけによって前者の死のフィクションにくさびを打つ。死のフィクション、死が語らせている噂といったものに対しては、フィクティブな死、死を騙る噂をおく。世界に対する詐欺師たちやアーティストたちのここでの使命とはひっきょうそれにつきるものであるようにも思われる。「生と死」とか「破壊と再生」とか「世界の壊滅と復興」とか、なんとよんでもいいんだけど、そういった二項対立的でわかりやすい概念のかたちづくる甘美なペアは、それ自体が死が語らせているフィクションの内包の一部にすぎないものだろう。仮に死それ自体といったものを想像することが許されるとして、だとしてもそこでは死はけっしてみずから語ることのないものであることは事がらの性質上揺るがしようのない事実なんだから、死にまつわるあらゆる話柄といったものは、どこまでいっても黙したままの死が他者の口を乗っ取って語らせる騙り/死のフィクションであることをまぬかれないはずだ。(噂鳥にかんする市民たちのまことしやかな噂とはそのように強いられたフィクションであるだろう)。そのような本物そっくりの顔をした偽ものの死、死のフィクションに対しては、この語りが騙りであることを語る騙り、しかしまたおのれ自身も死を糧にする死であるという前者とまったく同源の出自を隠そうとしない、騙りであるかぎりの騙り、偽ものそっくりの偽もの、フィクションであるかぎりでのフィクション、といったものがここにあらためて呼び出されなければならないだろう。
 テルオくんや奏介くんといった三好銀の世界のアーティストたちが作品として何をかたちづくっていたか、または何を素材として組み立て、どのような工程を紙面に覗かせていたか、といったことをここでちょっと振り返ってみるのもいい。それらは舞台演劇の小道具として作られた精巧な人間の人さし指であったり(「回文横町」)、浮世絵から型起こしされた乳房や心臓も分離可能な想像上の人魚の模型であったり(「海辺へ行く道」)、あるいは人の顔から引き剥がされるもう一枚の皮膚であるかのような変装のためのマスクであったりする(「あるアーティストの帰郷」)。氷詰めにされる巨人の彫像(「工場船と冬のきのこ」)やロニー・北村の石膏像(「ロニー・北村の埋葬」)、日本猿のオブジェといった作品の制作過程の光景を描く描写からは、それらもまた寸断された身体の部位から組み立てられているものだという秘密の事情をうかがうことができるだろう。ちょっと物騒な言い方をしてしまえば、作品とはあたかもそれがバラバラに解体された死体ででもあるかのような、死物であるこれら断片化された素材の組み合わせからできあがっているという見方が許されるんじゃないだろうか。モデルである本物にそっくりな何かがあたかもそこで息づいているかのように作品として再現されようとしているのではない。何にも似ていないもの、あるいは最低限自分自身の死に姿にのみはそっくり似ている、そうとだけ言えるもの、死のフィクションが何によってかたちづくられているのか、その秘密の素材と組み立て法をあからさまに明示しながら、このまったく同じ死んだ素材と組み立てによっておのれをかたちづくり、景色を半透明に、二重にぼやけさせ、一変させ、フィクティブな死をここに告げるもの、そのようなものこそが三好銀の描くアーティストや詐欺師、犯罪者たちによってもたらされているようにも思われる。それは何かのおしまいをまことしやかに語る言説の偽られた偽りの引く限界の線を跳び越えて、本物の偽りを今ここにまで持続させる、真のフィクションによるかけがえのない恩賜のようなものなんじゃないだろうか。つまりおしまいを語るにはまだまだ程遠いといえるし(それは語りの対象にはならない触の影みたいなもんだ)、あるいはそれをこの期に及んで語りだそうとするなんて今さら遅すぎるともいえる(何もかもがすでに事の始まりからおしまいの領分のものとまったく同じものからできあがっていたんだから)。そんな心配とはいっさい関係なく、そしてあるとき、ほんとうのおしまいが不意にやってくる。「これでおしまい」。もう誰の声も響くことのない、場所ともいえないような場所で、朽ちかけた作品だけが無言のまま野晒しにされて、海辺の、高台の、どこでもいい、どこか見晴らしのよい場所で、しかしそれを誰にも見られることのないままじっと立ちつづける。これでおしまい。たまにはそんな光景を想像してみるのもいいんじゃないだろうか。これは見えないまま至るところに転がる、もっともありふれた眺めのひとつといっていいものだろう。そしてその眺めはちょっと人を愉快な気分にさせるものでもあるように感じる。……三好銀の『海辺へ行く道』とはぜんぜん関係ない話になっちゃってきたのでこのへんで切り上げよう。

海辺へ行く道 そしてまた、夏 (ビームコミックス)

海辺へ行く道 そしてまた、夏 (ビームコミックス)

*1:「私家版「噂鳥について」」の説話的な構成にかんしてメモ。ディクション(d)とフィクション(f)の照応にかんして作品には7段階の階層が存在することになるだろう。d/fの順で一覧を作っておく。1) 作者/三好銀の描くエピソード「私家版「噂鳥について」」 2) テクスト作成者S氏/作中に存在するテクスト「私家版「噂鳥について」」 3) 奏介くんの友人・平井/級友のあいだで読みあげられる「私家版「噂鳥について」」4) 物語の語り手・少年エジレ/「私家版「噂鳥について」」の物語 5)死にそうなお年寄り/少年エジレに向かって語られる噂鳥にかんする昔話 6)物語に登場する若い男/たまたま助けた若い娘に向かって語られる噂鳥の由来にかんする故事来歴 7)物語のなかの噂鳥/村に荒廃をもたらす作り話・デマの噂話 ……以上、ディクションの通路は巡回的通じ合っていて、作品内の奏介くんたちの現実へと噂話(フィクション)の効果がつねに波及するよう大きくカーブを描いている。