小説

しるしと人生―― 『ヴァージニア・ウルフ短篇集』

「でも、それからどうなったんですか――もうひとりの男の人は、家の角を曲がってきた男の人は?」一同は尋ねた。「もうひとりの男の人? もうひとり?」アイヴィミー夫人は小声で言った。屈んで袖無し外套(クローク)を手探りしていた(サーチライトの光はバル…

バルザック『サラジーヌ』

バルザックは以前から興味があったんだけど、『人間喜劇』がどうにも膨大すぎるって印象があってどの作品から手をつけていいものやら見当がつかずにこれまで放置していた作家だった。ロラン・バルトの『サラジーヌ』論は読んでないんだけどとりあえずその存…

マヌエル・プイグ『リタ・ヘイワースの背信』

マヌエル・プイグは『蜘蛛女のキス』で有名なような気がするけど作品を実際に読んでみたのは今回がはじめて。今週はその彼の『リタ・ヘイワースの背信』という小説を読んで一週間すごした。具体的にどこがどうとは言えないんだけど、わりかしおもしろい小説…

松田青子「スタッキング可能」

『早稲田文学5号』に掲載されてる松田青子さんの中篇「スタッキング可能」を読んだ。(読んだんだけど、この作品で描かれてるような真っ当ないわゆる「会社勤め」の経験がないために、最初に目を通したときすぐに「これは自分にはまったく関係のない世界のは…

黒田夏子「abさんご」

早稲田文学新人賞を受賞した黒田夏子さんの短篇「abさんご」がとてもおもしろかった。描かれているのは語り手の私的な回想に属する過去の出来事やそこで感じられたり考えられたりしたさまざまな観想なんだけど、しかしこの過去の世界が、語り手や語り手自…

ロブ=グリエ「もどってきた鏡」

『早稲田文学5号』に掲載されてるロブ=グリエ「もどってきた鏡」の連載初回分(連載途中の作品にかんしてはあんまり断定的な口調でものを言わないことに決めた。なぜなら、以前書いた連載中の『農耕詩』とか『青い脂』についての文章でたっぷり恥をかきまし…

ウラジーミル・ソローキン『青い脂』

芸術における「表象的体制」が作品の表現のなかで執りおこなうある調整といったものについて、『イメージの運命』のランシエールは、それは再現されるべき見えるもののイメージを観客や鑑賞者といった作品の受け手の眼前に可視化しながら、他方で見てはなら…

ナボコフ『ロリータ』

ナボコフの『ロリータ』から一箇所だけ、第一部の20章(新潮文庫版で147頁から以下)。 主人公のハンバートが妻であるシャーロットの殺害を思い立ち、冷静に周囲の状況や自身の振る舞いをイメージする場面。舞台は二人だけで水浴に訪れている湖畔の砂浜で、周…

コルタサル『秘密の武器』

コルタサルについてはアルゼンチンの作家で幻想とか奇譚みたいな作風の短編作者ということくらいしか読む前には知らなくて、ボルヘスっぽい作品を書くひとなのかなくらいに想像していたんだけど、じっさいに作品を読んでみると予想とはだいぶ印象が違ってい…

ジュネ『泥棒日記』

ジュネの『泥棒日記』を飾る多彩な挿話の数々の中から一点だけ、特に印象に残った作家による一連の叙述。 ジュネは彼のベルギー時代の思い出として、そこで深く交わることになったアルマンという名の一人の屈強な悪党に関して並々ならぬ情熱とこだわりをこめ…

脱法おじさん(抜け忍)

……ドゥルーズの『シネマ2』を読み始めたのはいいんだけどちんぷんかんぷんでジュネの『泥棒日記』に寄り道。しかしこっちはこっちでドゥルーズとはまた違った意味ですごく濃密な文章が繰り広げられてて、やっぱりはかどらない。放心しながら複数の書物のあ…

ボルヘス『ブロディーの報告書』

収録されている短篇ほぼすべてを通じてテンプレのように踏襲されている説話的な決まりごと、あたかもそこで語りが開始されるにあたっては欠かすことのできない、それがある種の儀式か誓言でもあるかのような厳格さで、この短篇集のボルヘスによって律儀に守…

ボルヘス「薔薇色の街角の男」

『汚辱の世界史』に収録されているボルヘスの掌編「薔薇色の街角の男」では、話者であるならず者あがりらしき無名の男による回顧的な述懐が面談相手である聞き手「旦那」(作者ボルヘス)にむかって語りかけられる、という一人称による説話的なスタイルが採用…

ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』

今週は久しぶりに小説など読んでみた。けっこうのあいだ積みっぱなしになってたナボコフの『カメラ・オブスクーラ』。ナボコフはじめて読んだけど良かった。感想を書いておきたいんだけど、この訳者の貝澤哉という人がとても眼力のある読み手で、おもしろそ…

あいかわらずマンガ作りは続いている。ペン入れからベタに仕上げと、アナログでの作業に結局20日以上かかって、ようやくコミックスタジオでの作業が昨日から始まった。ペン入れにはほんと参った。とにかく線がまともに引けない。力んじゃって直線一本まっ…

トーマス・ベルンハルト『消去』

前から気になってた小説。物語の語りかたがちょっとおもしろい。人称代名詞によってタグづけされるようなかたちで自由間接話法による文章が記述されていく。≪アイゼンベルクが彼女に歩み寄った、と私はガンベッティに言った、と私はいま、自分の仕事部屋の窓…

レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』

問題の規模がでかすぎるので、気づいた点だけ箇条書きでメモ的に記述していくしかない。おびただしい数の個々のイメージの奇怪さや、襞のように屈曲した細部の複雑さなんかはいっさい無視して、テクストの形式面にかかわる点だけ。 レーモン・ルーセルの手法…

ゾラ『ナナ』

のっけから引用長いよ。 〔…〕強い光が突然死人の顔を照らした。それは見るからに恐ろしかった。みんなは身慄いして逃げだした。 ──ああ、あの人は変わっちまった。と最後までとどまっていたローズ・ミニョンは呟いた。 彼女は部屋から出て、扉を閉めた。ナ…

レーモン・ルーセル『アフリカの印象』

読み方は最後までよくわからなかったんだけど刺激的な作品だった。以下とっちらかったメモ。 訳者の方の解説やフーコーの文章*1なんかを読むと、レーモン・ルーセルは自分の書いた作品の幾つかを、自身「手法(プロセデ)」と呼ぶ、ある特異で秘教的な性格をも…

ゾラ『居酒屋』

小説のドラマの水準には度を越した過大があるように思った。主人公である洗濯女ジェルヴェーズの汚辱にみちたむごたらしい死で終わるこの物語は、彼女の人生からの転落と道徳的な廃頽を克明に追って、その叙述により、際限のない極大化にいたる過大な負荷を…

フローベール『感情教育』

これはめちゃくちゃおもしろい小説だった。……と、書き始めたのはいいけど、じゃあどこがどうおもしろかったのか?と人に尋ねられたら、さっそくことばに詰まってしまう。ちょっとおもしろさの規模がでかすぎる気がする。(読んでるこっちの身の丈が、そこでフ…

スタンダール『パルムの僧院』

『赤と黒』はちょうど2年前に読んでいる。物語の細かい脈絡はすっかり忘れてしまっていて情けないんだけど、当時控えておいた感想を読み直してみたら、『間男の父親をもつ息子が自分じしんも間男として女の前に現われて、おそらく(事実ではなく権利問題とし…

ウラジーミル・ソローキン「青脂」

クロード・シモンの「農耕詩」といっしょに『早稲田文学3号』に掲載されてた作品で、こちらもテキスト全体の約3分の1ほどの部分的な訳出とのこと。ソローキンってはじめて読んだ作家だったけど(名前を聞いたこともなかった)、これは面食らった。そしてけ…

クロード・シモン「農耕詩 I」

『早稲田文学3号』に掲載のクロード・シモン『農耕詩』の第一章。これは凄い文章だった。圧倒された。エクリチュールのうえで何かたいへんなことが起っていることは感じるんだけど、厳密にはよく分からない。悔しいけど、何が凄いのかもよく分からない。同…

ビュトール『時間割』

二年ぶりくらいに再読。おもしろかった。久しぶりに読んで気づいたけど、この小説の推理小説っぽい結構というのは、主人公のアドレセントな、まったくおっちょこちょいな奴と断じてかまわないような、惚れっぽかったり過度に思い込みの激しかったりする未熟…

堀江敏幸『いつか王子駅で』

「いつか」と疑問の副詞が「王子駅で」と場所を指す補語をともない、しかし直後に続いてしかるべき肝心の述部が宙に吊られた恰好なものだから、そこから、たとえば「いつか王子駅で会いましょう」と不定の未来における約束が交わされようとしているのか、そ…

多和田葉子『ゴットハルト鉄道』

マユコは先端恐怖症や高所恐怖症というのがどんなものなのか想像ができないほど、自分は神経の太い人間だと信じ込んでいたが、よく考えてみるとふたつだけひどく恐いものがあった。ひとつはハチ、もうひとつはハシだった。蜂が顔のまわりを飛びまわると、重…

バラード『コカイン・ナイト』

かっこよさげなので、雰囲気重視でいきなりニーチェとか引用してみる。 (……)根拠の原理がその具体的な形態のどこかで例外をゆるすように見える場合、人間はとつぜん象徴界の認識形式に迷いをおぼえ、途方もない戦慄的恐怖にとらえられるものだが、ショーペン…

チェスタトン『木曜日だった男』

「君の変装は良いね」サイムはマコンを一杯飲み干して、言った。「ゴーゴリの変装より、ずっと良い。初端(はな)から、あいつは少し毛むくじゃらすぎると思ってたんだ」 「芸術観の相違さ」教授は物思わしげにこたえた。「ゴーゴリは理想主義者だった。無政府…

セルバンテス『ドン・キホーテ』

ドン・キホーテのユニークな狂気の本性を形作っているミメーシスの身振りはテキストのうえで二重化(重層化)されているように思う。「騎士道物語」という当時ヨーロッパで流行していた文芸ジャンルを読み耽り、それが昂じて、分別盛りもとうにすぎた賢明なラ…