ミシェル・フーコー『レーモン・ルーセル』

 立て続けに二回繰り返して読んでみたんだけど、結局難しすぎて議論に追いついていけなかった。ただ、理解できた範囲にかぎってもこの本はめちゃくちゃ刺激的だし、文学を読むフーコーはやっぱりとんでもなく凄い。原著に当たっているかどうか、原語に通じているか否かが決定的に左右するテクストの読解の水準というものは確かにあって、そしてそれを差し引いたとしても、そこから出力されるものにここまで圧倒的な差がつくのかと、呆然とするしかないくらいに凄い。『言葉と物』を一回おさらいしておけばもう少し理解できたのかもな、とも思う。理解が足りていないので、当然のように、またしても、支離滅裂な私的なメモ以上のものは書けない。自分でルーセルを読んでいるあいだは思いもよらなかった新たな視点や目を瞠る卓見がほとんど一ページごとに提示されて、もはや目眩がするような気分なんだけど、なかでも特に考えさせられた一点だけ。
 ルーセルの「手法」(プロセデ)というものを起源を欠いた反復の諸変状として捉える、テクストに注がれるフーコーの視線は、この手法の絶対に目には見えない閾をつねに見据えようとしている。閾とは、秘密や謎の領域に通じるはずの扉がそこで開かれるか閉じられる、あるいは、見えなかったものが見えるようになるある種の光の恩恵がそこで盲目の夜のとばりと見分けのつかないものになる、そのような曖昧で両義的な、裂け目の体験の領域としてある。手法がそこから発生し、そこを限ってみずからを沈黙のうちに閉じようとする、そのような空虚な空間が、閾として、ルーセルのテクストのことばを発生と消滅とがひろげる隔たりの内部に挟み込み、支えている。テクストの平面上で手法のもたらす効果、ディスクールの連なりの中で反復の呼び込むさまざさまな姿形や振る舞いといったものは、この閾における扉の開錠と施錠の働きの中で、いまや半ば目に見えるものになっている(『わたしはどうやってある種の本を書いたか』の死後公表によって秘密は啓示されている)。秘密を前にして、それが閉じられるのか、それとも開かれようとしているのか、一義的には決定できないこの扉の曖昧な動きが、扉の向こうの秘密=手法の所在というより、むしろ正確には、扉そのものの不可視で不埒な現前をこそ告げていることをフーコーは確認する。手法は秘密における素材であると同時に、秘密を指し示す秘密における、メタグラムの入れ子状のフォルムの次元をかたちづくっている(あるいは、可能的には、秘密や罠に向かう意識がそれらの存在の局在化を越えて全域に偏在化しようとする止めがたい趨勢をもつように、別の手法、別の隠されている秘密への曖昧さの意識といったものが、分断された小部屋どうしを破線状に繋げるようにして、隣接する網の目状のフォルムのもとにこれらを縫い合わせていく)。いずれにせよ、すべてはこの必然的な曖昧さのうちに捉えられていることを、フーコーは何度も強調する。
 この閾においてルーセルに強いられた必然的な両義性は、終局的な遡行の果てには、彼の言語空間の総体を起源の不可能さへと連れ戻すことになる。欠如と言ってもいいし、裂け目とい言ってもいい、起源の不在、裂かれた起源といった事態だ。言語学的事実としてそれは、シニフィアンの不足として記述される。手法はつねに反復の諸水準を住処にしている。ルーセルの最初期のテクスト群にあって手法のゼロ度か1度をかたちづくるようなもっともシンプルな姿をした反復は、同音異義語か同型文の意味を違えた繰り返しとして現われる。例の、《les lettres du branc sur les bandes du vieux b(/p)illard》がそのもっともよくできた範例となっているような、テクストの平面を冒頭と末尾とで同一性の形態にしたがい円環状に囲い込む反復がそれだ。文と語の姿の同型性、同一性のもとに、まったく異なる二つの意味内容が包摂されている。ここには、同じものと差異との二重性の戯れが反復(開きながら閉じるもの)として手法によって組織されているけれど、ルーセル-フーコーはそこにこそ、記号の根源的な不足と、その無能力に完全に相即する、語の語ることにおける権能の栄光のしるしを読み取る(ことばは二つの事物のあいだで真っ二つに裂かれて身元不詳の怪しげな分身として同一性をほころばせる、そして同時に、この二分化の身分においてことばは、事物の原理的に無際限な増殖の中で、あるいはそうでなかったならば無限に砕け散って鏡の微小な砕片にまで至る壊滅的な差異化を免れて、「毎日の言語」を語る同一性を維持することが可能になる)。
 第二種の手法(それこそが、狭義の、厳密にルーセルによってそれと名指された、本義の「手法」だけれど)では、この同じ文、フーコーが「守護神的(名付け親的)文章」とか「誘導文」と呼ぶ始発の文を、これと饗応しこだまを返す「反用文」(アンチフラーズ)との隠れた秘密の連累において、これを自在に分割し、あるいは異なる文脈に置き直し、思いもよらないプロフィールを形成しつつ再接合し、テクストの奥まった場所に散骨する。寸断された遺骸のようにしてテクスト内部に埋葬された「守護神的文章」は、たとえば『ロクス・ソルス』のカントレル博士の、あの「生きている死体」をイマージュのもっとも有効な範例としつつ、同時に、ことばの平面へと露呈されてもあり、死に捕らえられた生のフィギュールといったものを、送り返される反復のうちにかたちづくっている。≪一本の直線でできていて、目に見えなくて、切れ目もない、迷路≫という純粋な形態をかたちづくっていた第一種の反復の水平的行路に、第二種の手法の、地下墳墓と地上、暗がりとそこに差す白昼の光、隠蔽と露呈という、垂直的な運動が、直交して差し込む。反復は倍加されており、シーニュと事物との対応関係も、既にn乗された負荷のもと、解読困難なまでに錯綜を極めている。事物との指示関係においてシニフィアンが二重化(ルドゥブレ)されるだけではなく、今やそこでは、テクストに現われるシーニュの数だけ事物が分化(デドゥブレ)され、可能な反復の編み目を放射状に広げることになる。描写における目に見えるものが、その来歴を説明する物語の言説と関係を結ぶ反復の第三種においても、事情はおそらく、別種の閾において、同様の同一性と差異の戯れを示すことになるだろう(見えるものにおけるキマイラ的な「変身」=二重化と、レシの言説が組織する宝探しと遺産相続の挿話に見られる、「迷宮」探索的な起源への遡行とその最終的な根拠を画定することの不可能=閾の空白の発見)。
 ルーセルの手法を可能にし、条件づけ、なおかつそれを、必然的なものにすらしているものは、言語の発生の起源にある、生まれの、この本質的な曖昧さ、両義的本性にある。テクストにおいて手法が条件づける水準で遂行される反復は、その舞台裏の機械仕掛けの水準で、既に言語のメカニズムが条件づける手法の手法として作動していた働きの、閾から発する、反復の反復として現われている。夜の暗さと背中合わせの曙光の狭間で決して目に見えないものとは、この閾における手法の手法、反復の倍加された反復の、起源における毀損され、翳らされた輝きだ。
 「閉じこめられた太陽」がそこにはあると、フーコーは、修辞も比喩も抜きに語っている。夜空に散乱された星座以前の星の瞬き、暈をまとう蝕の輝きが、ルーセルの言語空間を端から端まで覆い尽くしている。見えるものの中にある見えないもの、見えないものを見えるようにするそれじたい見えないもの、反復の過程にあってそっくり同じものをかすかに武者震いさせて輪郭を二重にぼやけさせるもの、起源においてペアから生れる血筋の確固たる同一性ではなく、「僥倖性」の星型のしるしのもとに双生児の栄光ある片割れとして聖別され、同一性を二重性のほつれのもとにもちきたすもの、それらはつまり、起源の亀裂と、反復がそこから可能になる閾からの、絶え間ない偶然性の息吹を伝えているものだろう。同じものの生を円環の形状に房飾りする、死に食いこまれた言語の、死に食いこんだ言語の、迷宮の果ての翳りと輝きの明滅だ。フーコーが対話形式に託して(それまでの緻密なテクスト分析から最大の距離を取って)最後に、それが本文の欄外を補遺として埋めるものであるかのように語るとおり、ルーセルは自身の生をある種のモデルにしてそれを作品として言語のうちに転写したのではなくて、ルーセルの生きる言語空間そのものの複写、限りなくそれに類似した同じものの反復、二重化こそが、そこに作品を結実させているんだろう。事物の存在すらが言語によってはじめて可能になるその空間では、言説の外部といった留保をもたらす別の領域の可能性は、あらかじめ排除されてしまっているか、生きたまま抽出することが不可能なまでにこの空間と混じりあってしまっている。たぶん、死を除いては、ここには出口はないし、反復を停止するあてもない(その死すらが、「死後の、秘密の」啓示のテクストとして、ルーセルの作品群とその生を、開いたまま閉じるものの反復の過程に、閾の空虚な領域に、あらかじめ組み込んでしまっている)。そして、死によって解除不能なまでに嵌め込まれたルーセルのこの言語空間は、今なお、当面は、わたしたちの生きる同じ空間でもありつづけるだろう。ただし、必然性によって組み込まれたこの空間にあって、また別の偶然性、別の「額の星」をいただいて、ルーセルとは別の通廊をそぞろ歩きし、やはり同じ太陽のもとで進んでいくこと、そのことは可能であるだろう。フーコーはおそらく、わたしたちのそのような反復的な歩みに対し、しいて反対はしないはずだ。