フーコー『カントの人間学』

 蛇「シャーッ!」
 カントの「純粋理性批判」の上巻を読み終えたところでフーコーの『カントの人間学』に手をつけたのが早お正月の頃のはなしで、つまり、以来十日以上この本を繰り返し読んでたことになるけど(3回は読み直した)、残念ながらけっきょくはかばかしい読解に至ることもなく本日をかぎりに読み続けることを一旦断念。このままではいつまでたってもこのブログの年が明けない。しかし、いやー難しかった。『批判』を読んでればなんとかなるんじゃないか?とたかをくくって読み始めてはみたんだけど、持ち前の勘の悪さもあって、やっぱり最低限の前提として『人間学』とか『論理学』とかいった論述の直接の対象になっているカントの著作を読んでいないとどうしても理解に無理があった。降参。これが本の内容がつまらなかったり自分にまったく興味がないんだってんならとっとと諦めて素直に手を引けばいいだけのはなしだったんだけど、わけもわからずやたら面白かったというのが災いのもとで、どうにもこうにも引っ込みがつかなかったというのもある。年始からひどい蹴っつまずき方をしてしまったよ。2013年、早くも挫折感で心が折れそうなわけですが、落ちこんだりもするけれど、わたし、この町が好きです。小さい頃は神さまがいて、ふしぎに夢を、かなえてくれた。優しい気持ちで、目覚めた朝は(シャーーッ!)。
 フーコーはこの本の最終章で「人間学的錯覚」ということを言い出すんだけど、この指摘とカントの『人間学』での考察自体、それからフーコーのこの『人間学』に対する見解といったものがどういう具合に関係しているのかがよくわからなかった。(わからない箇所ならまだまだ他にもたくさんあるけれど、とりわけそこを理解しておきたかったという強い心残りを感じる点で、この人間学的錯覚を説く一連の連関がとくに印象に残った)。「人間学的錯覚」は《カント以後の西洋哲学に特有の「錯覚」》としてフッサールハイデガーはもとより現代哲学や人間諸科学全体の思考の脈網に絡みつく宿痾みたいなものとして素描されている。それは発生の形態にかんしていえば、一種の忘却の誤謬みたいな形をとるものだとされているようにも思われ、18世紀後半を通じてカントの思考が「人間」という有限性を帯びた形象を巡って経験性の探求のなかで辿ったプロセスにおける複雑な起伏が消去されて、その結果、人間についての思考の根拠となるものにかんする思考(根源といってもいいし起源といってもいいような、ある「根本的なもの」、基礎的なものを志向する哲学的探求)が人間それ自体の上に乗り上げる、実体化されおのれ自身の足元に折り返された人間の有限性という暗礁に乗り上げる、そんなような、ある種の閉塞や拘禁状況を巡る病態論みたいなものとして指摘されているようにも思われる。(《認識の予備的な批判からも客観への関係という最初の問題からも解放された哲学は、だからといって、根本的な定立であり、考察の出発点である主観性から解放されはしなかった。それどころか、哲学は逆に主観性のなかに閉じ込められてしまうことになった。厚みを増し、実体化され、「人間的本質」ののりこえ不可能な構造のなかで閉塞する主観性のなかに。》)
 カントの思考のなかのどのような契機が忘却されたのか、そのような哲学と思考全体にわたる大規模な錯覚を導いた消去とはどのようなものだったのか、その忘却と引き換えに人間の形象の実体化と起源からの隔たりの測定が仮初めにも可能となる、そのような契機をもうけることを思考に可能にし、あるいは積極的に促しさえしたものとはなにか、といえば、それこそはカント哲学の全体において『人間学』のはたした特異な反転的反復という機能的側面にあることはフーコーの記述から確からしい。《一定の交錯するアナロジーにしたがうと、『人間学』は『批判』の陰画(ネガ)らしきものであることが垣間見られるのである。》 第6章の「鏡のなかの反復」ではそのタイトルどおりに、「批判前期」から継続していたと目されるカントの経験的なものを巡る研究が、三批判を経由して、その後の『人間学』において『批判』との関係でいかなる成果として結実するかを示しつつ、そこにおける『批判』の反転された反復のいくつかの様態を描き出すものとなっている。議論の詳細を網羅することはできないけど、ここでは「総合」と「所与」の関係にかんする『批判』から『人間学』への反転のポイントをとくに注目しておいたほうがいいのかな、と思った。つまり、『批判』の能力論における認識のア・プリオリとしての条件である統覚「私」の自発性の働きと経験的で多様なものの無関心な広がりとして本源的な受動性のうちに現れる所与との関係が、『人間学』ではその逆として捉えられているということ、認識のア・プリオリは現実存在の経験的な受納と同時に遡行的につねに「すでにそこに」あったかのようにしてアナクロニズム的構造のもと還元済みのものとして思考に示されること(そのズレの経験において時間というものが発生すること)、他方で、経験の平面において均一に広がるはずのものであった純粋な所与は本源的な受動性において総合の働きかけを待つものというより、その散逸の偏差をはらむ分布において、「すでにそこに」あるものとしてではなくあらかじめ謎めいた不透明な総合の働きによって根拠づけられ構成されているものとしての姿を現わすこと(交換や記号のやり取りにおいて散逸的で形態的なパースペクティブをもつ空間を何らかの仕方で準備し、満たすもの)――、人間学的錯覚というものについての理解にはそこらへんを押さえておくのがいいような気がしているんだけど、じっさいにはよくわからない。カテゴリーと純粋直観の形式として明瞭な光源のもとでくっきりと照らし出されていた『批判』における各能力の機能と区分は、『人間学』の反転された鏡の反映のなかでは経験性と有限性におけるそれらの脆く危うい揺曳を示す人間の危機的現存の明示的な形象となる。第7章「源泉・領域・限界」では人間についての認識が問いうる3つの問い(「何を知りうるか」、「何をなすべきか」、「何を望みうるか」)を各能力(感性・知性・理性)の観点から明らかにしつつ、それらの問いが第四の人間学的問いかけ(「人間とは何か」)に収斂するさまを確認し、そこからこの人間学的設問に相関的な世界への問いの設定へとこれら三分法を接続しながら、真理と自由(可能的なものと必然的なもの、自然(ピュシス)の領分と当為の領分)の相互的な帰属と超越の運動が世界のなかの人間という有限性の経験の構造を一定の相関関係のもとでいかに形づくるかが素描されているだろう(所与と人間の知の「源泉」としての世界と受動性-自発性の相関関係、決定論と義務とが「領域」として限界づける世界と必然性-自由の関係、理性が理念の働きのもとに描き出す全体性と侵犯の「限界」としての世界と理性-精神の相関関係。それらの三分法はさらに「三批判」の分割とも重なりあう、らしい)。
 「鏡のなかの反復」において素描されていた人間の逸脱や危機や苦闘にさらされる姿といったものはこの「源泉・領域・限界」の章の人間と世界との交わりという契機を経由して、つづく第8章「体系的、大衆的」でさらに具体的な分析の目標となるわけだけれど、とりあえず確認しておきたいのは、ここらへんのフーコーの記述に明らかな反転と捻転につぐ思考の反復の様態といったものがまず一点。カントの思考における反転的反復を追うフーコーのここでの記述から、人間的錯覚にかんして彼が最終章で語る、たとえば《人間学は限界と否定性について語ることしかできない》という文句が理解可能になるんじゃないかなとも思う。あるいはまた、「批判」から人間学を経由して超越論哲学へと至るカント哲学総体の辿りうるラインを描きながらも、《人間学はどこまでも縁でありつづける。中心はいつもそこからずれているのだが、たえずその縁に立ち返り、その縁に問いかけるのだ。》とか、《人間学が根本的なものの地帯の通路となるには批判に従わなければならなかった》とかと明言するとき、その理由となるのはカント『人間学』に不可避的だったのその反復的で従属的な性格にある。《『人間学』の経験性はそれ自身に根拠を持つことはできないこと。『人間学』はただ『批判』の反復としてのみ可能であること。したがって、『人間学』は『批判』を包摂することも参照せずにおくこともできないこと。最後に、『人間学』が『批判』の外で経験的な次元におけるその類比物となるのは、すでに名指され、明るみに出されたア・プリオリの諸構造に依拠するからであること。したがって、カントの思考全体の編成のなかでは、有限性がそれ自身の水準で考察されることなどありえない。有限性が認識と言説に与えられるのは副次的にでしかないのだ。》 このような記述の確認から、フーコー人間学的錯覚と名づける人間にかんする哲学的思考にまつわる誤謬といったものが、カントの思考の辿った複雑なプロセスを忘却したうえで犯される「混同」というタイプをもつものであることが理解できるだろう。『批判』に対する経験的な領野での反転的反復であるという『人間学』のその依存性、そしてその後にやってくるはずだった来るべき超越論哲学によって事後に根拠づけられることを待つものであるという「先行する遅れ」とでもいった時間構造的な性格、そして『批判』と超越論哲学の実現という時間的な隔たりのなかでカントの思考の始まりから終わりまでに随伴しながら潜在しつづけるという場所なき場のようなその思考の配置における通路的位置づけ、そのような『人間学』の辿った経験のすべてを誤って実体化してしまうとき、人間学的錯覚が大いなるまどろみのなかに姿を現わすことになる、とそういうことなんだろうか。このへんから、フーコーの記述を何度読み返しても何もかもが混濁して理解できなくなってしまう(フーコーの書くものに対する自分の読解力の限界がこのへんにあることだけは、よーくわかる)。ひとつの指標として、この人間学的錯覚の思考における生産物として、人間についての認識にまつわる弁証法化といった事態が問題になっている点をあげることができる。《人間についてのあらゆる認識はなぜ、最初から弁証法化されたものとして、あるいは弁証法化しうるものとして示されるのか? そしていずれにせよ、なぜ、本源的なものへの回帰、本来的なものへの回帰、あるいは根本的な能動性への回帰、すなわち世界に意味を成り立たせるものへの回帰が問題となるような意義を帯びるのか?(……)人間学とは、人間の経験と哲学を非反省的な媒介によって結びつけ、私たちの知の根拠へと向かわせる秘密の道なのだ。「人間とは何か」という問いの惑わしに満ちた多義性こそが、均質で、脱構造化され、果てしなく反転可能なこの領野、人間が自分自身の真理を真理の精髄として示すこの領野を生んだのである。》 《真理の精髄》とは別の文脈で《真理の真理》とも呼ばれてすでに指摘されていたところのものでもあり、それによれば経験的な領域に不可避な否定性によってつねに脅かされる運命にある有限性を刻まれた人間存在は《真理の領野と真理の喪失の領野》の円周によって決定的に限界づけられており、あるいは、《鏡のなかで反転される複製》によって分節化されてあるその境地、《認識のア・プリオリが定義される地帯と現実存在のア・プリオリが確定される地帯とは、かくも近く、またかくも遠い》。カントの考察から取り出したそのような真理の弁証法化の運命といったものを、ではフーコーはどこまでを肯定し、どこからを拒否することになるのか。そういうような思考の細かな綾みたいな部分がどうしてもうまく見取ることができない。フーコーの他の著作にあたるなりすればこういう不審がいずれ解消される日もやって来るのだろうか。どうも心もとない。そして人間学的錯覚のまどろみと、人間学、そして人間の誕生とはどんな具合に関係するものなのか。それは日付や誕生地をまったく同じくする三つの別個のものなのか。あるいはひとつのものの別の側に向けられた三つの顔立ちをもつものだったのか。それはカントの哲学研究のなかで周到に腑分けされて、やがて到来するはずだった超越論哲学とよばれる試みのなかで相互にぴったりと重ねあわされるか、あるいは三つの顔をもつもの同士がそれぞれの顔を黄昏の仄暮れのなかで、または朝明けの薄明のなかで、砂の上に描かれた表情に手をまぶすみたいにして消し去ろうとする、そんなしぐさの開始を告げようとするものだったのか。いずれにしろまったくそういうものではなかったとするなら、ではカントの思考はこの人間をその人間学のなかでどのように処すべきものとして取り扱おうとしていたのか。そしてフーコーはそのカントの企図に、カントの弟子として、どこまでの意図を汲んで、どこまでの達成を目指そうとするものだったのか。……まあわからないよね。めちゃくちゃ面白いのは確かだからフーコーの書くものはこれからも読み続けるつもり満々だけど、まあわからないよね。そして、明けましておめでとうございます。(シャーーーッ!)