吐く息が一呼吸ごとに目の前の大気を打擲するむちの朝のようだった。むっくむく鳥。

 むっくむくやったで。……今週は文庫でトリスタン・ツァラの『ムッシュー・アンチピリンの宣言(ダダ宣言集)』を読んで、それからカール・アインシュタインの小説『ベビュカン』を読み始めてみたり。ツァラの宣言集はずいぶん以前に買ったきり手をつけずに積読棚でほこりをかぶってたような状態で、そしてこの先も当面手をつける予定はなかったんだけど、どうもアインシュタインが(ベルリン・ダダのみならず)チューリッヒでのダダの誕生とその後の運動の展開とも影響関係があったってことらしくて、まったく別個の関心からそれぞれ偶然に手元に確保していたこの2冊の本の関連から、取り急ぎ読みたかったアインシュタインの小説を読むためのいいきっかけになりそうなことも手伝って、逆算してこの本から目をとおすことにしてみたという次第。結果、一週間かけて難儀しながらツァラの言葉を追ってはみたものの、何をいってるのかほぼちんぷんかんぷんだった。あまりにも理解できなかったので、むしろあとくされなくすみやかに忘却の彼方に追い払えるというものである。強がりなのである。面白そうな本をまったく理解できなかった自分にしんそこガッカリなのである。(以前にロートレアモンのマルドロールの歌を読んだ際にも同じような挫折を味わったことを思い出した。詩とかシュルレアリスムとかいった、文学のとくに前衛方面に対する感性といったものが徹底して鈍磨してるんだなと痛感する)。
 よって、今まだ序盤を読んでいる最中のアインシュタインのベビュカンも、たぶんツァラの文章と同じように、このまま何一つ確からしい感触もつかめずに終わってしまうんじゃないかと危惧している。明日あたりには注文していたアインシュタイン『二十世紀の芸術』も届くことだろうし、断続的ながら腹をくくってこの線の読書を進めていく所存である。ジュネットの本がまだひかえてるし、ハイデガーの『芸術作品の根源』もこの機会に再読しときたい。

 書くことがないときは写真や動画の転載多めで。今月購入の書籍。

 『ゴリオ爺さん』は、バルザックの数ある翻訳から次に何を手にとっていいか迷ったので、信頼できる訳者の一人である平岡篤頼さんの仕事ってことで選んだ。厚みもあるし読みでがありそう。集英社ギャラリーの『世界の文学(フランスIV)』にはクロード・シモンロブ=グリエの、それぞれいずれも自分は未読の作品に篇が収録されている。ちょっと前には気づいてたんだけどお値段的になかなかふんぎりがつかなかったのを今回無理して購入。いずれ読む日を楽しみに待ってちょっとのあいだ本棚で寝かせておく。『来るべき書物』は脊髄反射で。高い単行本が多くてブランショの本はこれまでほとんど手をのばす気力がわかなかったので文庫化はうれしい。そしてBDを2冊。ド・クレシー先生の『サルヴァトール』とエマニュエル・ルパージュという作家の『ムチャチョ ある少年の革命』。ニコラ・ド・クレシーは作家買いするって決めてるBD作家のひとりだけど、『ムチャチョ』のルパージュってひとは名前も知らなかった作家で、けどたまたまYouTubeで彼のアトリエを訪問した動画を見つけて、そこで見た作品の原稿の様子にとても感銘を受けて実作の購入を決めた。膨大な下絵の数々に驚いたし、塗りがとても美しい原稿だと思った。

 
 ド・クレシーさんの作画作業の光景もあがってる。うまいなあ。

 


  ついでに久しぶりにおもしろかったdragon house関連の動画も貼ってしまおう。ETというひとのパフォーマンス。

 
 肩から先の関節のやわらかさにまず驚かされるけれど、その柔軟さが人間の身体というものを見たこともない奇妙な記号の連続みたいなものに変化させているようにも感じられて、とてもおもしろい。まるで未解読の象形文字が目の前で踊っているかのようにも見えてすごくおもしろいんだけど(背後の壁に長く引き伸ばされて映るダンサー自身の影絵とともに二重になった記号みたいな視覚的な効果もおもしろい)、しかしもちろん筋肉や関節のそこでの運動の可能性と限界とによって人間の身体のもつ輪郭・身体の圏内といったものの大枠に限界づけられてはいる。体の柔軟さは自由な身体による運動の表現ってよりも、むしろ束縛とか窮屈さの表出のようにも感じられたりする。音楽の流れにそってひっきりなしに位置を変えつづける身体の姿勢や四肢の配置が描く自在なパフォーマンスの内部に、それとは正反対の束縛や詰屈、歪みや矯正を意味する何らか不純な記号が嵌めこまれているみたいに感じられておもしろいと思いました。ちょっとあの、カフカの描いた例の針金みたいな線による人物のデッサンを思い出したりもしましたけれど。