ゾラ『ナナ』

 のっけから引用長いよ。

〔…〕強い光が突然死人の顔を照らした。それは見るからに恐ろしかった。みんなは身慄いして逃げだした。
 ──ああ、あの人は変わっちまった。と最後までとどまっていたローズ・ミニョンは呟いた。
 彼女は部屋から出て、扉を閉めた。ナナは蝋燭の光のなかで、顔を上に向け、ただひとりあとに残された。それは、寝台の上に投げだされた、骨と血と膿と腐肉の堆積であった。天然痘の膿疱が顔じゅうを埋め、小さな粒が一杯に並んでいた。しかも、その膿疱は色褪せて萎み、泥のような灰色を呈していて、もはや輪郭さえ見分けがたいほど崩れてぶよぶよになった顔の上では、土にはえた黴のように見えた。左の目は、化膿した血と肉と膿のなかにすっかり見えなくなり、右の目は半ば開いていたが、落ちくぼんで、黒く腐った穴のようだった。鼻からはまだ膿が流れ出していた。片方の頬から口にかけて、赤みがかった瘡蓋が拡がり、口をひん曲げて、おぞましい笑顔をつくっていた。しかも、この恐ろしいグロテスクな死の顔には、髪が、あの美しい髪が、今もなお太陽の輝きを失わずに、黄金の川のように流れていた。ヴィナスは見るも無残な姿に変わったのだ。溝川のなかに棄ててあった腐肉から彼女がとって来た病菌、彼女が多くの人々を毒したあの病毒が、彼女の顔に帰ってきて、それを腐敗させたようだった。
 部屋はがらんとしていた。絶望的な大きな吐息が大通りから昇って来て、カーテンを膨らました。
 ──ベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!*1

 『ナナ』の末尾の場面。「骨と血と膿と腐肉の堆積」、「泥のような灰色」、「土にはえた黴」、「黒く腐った穴」といった比喩的な描写が、人間の顔立ちを、物質的で受動的な、非人間的な腐った地層のようなものへと解体してゆき、その見えるものの姿において光のなかに照らしだしている。ただし、見えるものはすっかりそのままでエクリチュールに差し出されているわけじゃない。上に読まれるとおり、隠喩の方式において、それは、剰余的なもうひとつ別のイメージにより二重に強化された光景として見られることになるし、「ベルリンへ!」のシュプレヒコールは、この場面全体が、普仏戦争というもうひとつ別の死への過程、国民全体がこれから赴こうとしていると死への行進と軌を一にしていることを、「生きた教訓」として、象徴的に語ろうとしている。死や遺体といったものが現われるがままでそこに物質的で受動的な見えるものの受苦の姿を描きだすことにかんすれば、そのような事態は、たとえば、この前読んだレーモン・ルーセルの作品におけるあの機械群の描写の方に、より強烈に、明瞭に読み取ることができる。ゾラの描写は、肝心の部分で、象徴の手法によって二重に焼きつけされている。その意味で、ドゥルーズがゾラを現代の叙事詩作者とみなしたことはやっぱり正しい。機関車や蒸留装置を、「<死の本能>」の働きがそこに仮託される、ある特異な幻影化された象徴として読み取るドゥルーズの視点は、ここにおいてもやはりとても説得的だ。≪ルーゴン-マッカールのすべての小説には、場所でも証人でも作用体でもある、幻影化された巨大な対象がある≫*2。『ナナ』においてそれは、女優ナナが立つことになる劇場の舞台でも、高級娼婦としての彼女が女王のように振る舞うあの巨大で豪奢をつくした娼館でもなく、ひっきょうナナその人の一個の身体に全面的に宿っている。「<死の本能>」としてドゥルーズに明確に名指されたこの「裂け目-蜘蛛」は、貧民の中から発生し、ナナの健康そのものの輝く身体に小さな遺伝を超えて飛び火したうえで、ブルジョワ階級全体に向けてその淫蕩の因子を裂け目の縁にそって放出し、宗教の救いや家族の道徳観念といったものを一片残らず粉々にまで破壊する。そして遂には、≪溝川のなかに棄ててあった腐肉から彼女がとって来た病菌、彼女が多くの人々を毒したあの病毒が、彼女の顔に帰ってきて、それを腐敗≫させるまでにいたる。ここにおいてドゥルーズの知見に新たに付け加えるべきものは少ない。「裂け目」は、ナナの身体、その見えるものの姿において、もっとも深い亀裂を走らせる。

〔…〕衣装戸棚の前で、姿見に全身を映しながら着物を脱ぐのが、ナナの愉しみの一つだった。彼女は、肌着まで脱ぎ捨て、全裸となって、われを忘れて長い間自分の身体に見とれていた。自分の肉体に対する熱愛、繻子のような肌としなやかな身体の線に対する惚れ惚れするような陶酔から、彼女は真剣に、注意深くなり、わが身いとしさに我を忘れるのだった。そんな恰好をしているところを何度も髪結のフランシスに見付けられたが、ナナは振り向きもしなかった。そんな時、ミュファは腹を立てるのだが、ナナはわけがわからず、呆気にとられた。この人は何を怒っているのだろう。他人の為じゃあるまいし、自分の為にしているんだもの。*3

 舞台上で見ることができる女優としての彼女目当てに劇場にやって来る多くの観客たちや、娼婦としての身体を求めて引きも切らず邸宅に訪れるお客たちの存在は言うまでもなく、ナナの金蝿のように光り輝く身体は、ナナじしんにとっても、見ることの組織する蜘蛛の糸のような欲望の編み目の源泉として、打ち勝ちがたい大きな威力を、見えるものの光のなかで発散している。死がそれを通じて自己を上演し、またブルジョワジー総体の大掛かりな解体へと向けて、自身を他者のもののもとへと産出するための生産手段としてこれを利用するところの、ほかならぬナナの身体が、見えるものの「繻子のような」表面を突き破られ、最後的に、物質的な腐敗の過程へと回帰し、崩れ去ってゆく。『ナナ』の最後の場面に読むことができるあの壊滅した遺体の顔の描写とは、見えるもののそのような限界の形象であり、あるいはむしろ、形象の限界といったものをかたちづくる。そこに見ることができるものは、無論もはや人間の顔などではなく、しかしかといって、「穴」や「堆積」、「泥」や「川」、「黴」といった自然の産み出す事物ですらない何か、受苦そのもののうちに捉えられた物質の苦悶としか呼びようのない、描写が産み出した何ものかだ。
 それは、みんなが身震いして逃げ出した後のがらんとした誰もいない部屋のなかで、誰の視線を受け止めることもなく、見えるものの引き換え不可能な無償さのうちに鈍く光を発し続けている。または、少なくとも、そのようなものであろうとする。女たちにはかろうじてそれに触れることができるけれど、男たちにはこれに近づくことすら不可能だ。

〔…〕事実、御常連はみんなそこで再会したのだ。大通りの騒ぎをちょっと見ようとぶらぶらやって来た彼らは、互いに呼びあい、この哀れな娘の死をきいて驚きの叫びをあげたのだ。そして、彼らはやがて政治や軍隊の作戦などを話し始めるのだ。ボルドナヴ、ダグネ、ラボルデット、プリュリエールなど、それから他の連中もやって来て、仲間はだんだん増えていった。そして彼らは、フォンタンが五日間でベルリンを奪取する戦闘プランを説明するのに耳を傾けていた。*4

 そこにおいては、男たちに残されたしぐさは、僅かばかりの愛惜と追悼のことばを吐いて、すみやかにこの死そのものを隠蔽し、目の前からこれを厄介払いする別のディスクール、抽象的なまったく別の死に向けての「戦闘プラン」を、お互いの間で交換させることくらいが関の山だ。死を死によって厄払いするこの男たちの言説はフェティシズムと呼ばれる事がらの本質を無自覚になぞりなおしているだろう(顔の前にハンカチをかざし、ベンチに腰掛け、俯いたまま見ることをいっさい棄却して絶望するかつてのナナの情夫ミュファ伯爵だけが、かろうじてそこで、ナナを追悼しえるしぐさを示しているだろう)。
 死の物質的な生産物としての死体に寄り添いながら、そこに、見えるものの描写を試みた作家たちの系譜といったものが、文学史には描けるのかもしれない。レーモン・ルーセルはその反復する機械の動作の描写において、例外的な反復=死の様態を描いたかもしれない。フローベールは横たわるエマの口から流れ出る黒い液体を間近に見据える。クロード・シモンの死んで腐敗する軍馬や、レチフのドキュメントを構成する幾つかの逸話もそこに加えていいかもしれない。あるいは、マルグリット・デュラスの、たとえば『ヴィオルヌの犯罪』は、クレール・ランヌの見えない「地下室」に向けての供述を、見えるもののイメージにおいてこれをなんとか再浮上させようとする、墜死寸前の際どい報告として言説化しているかもしれない。アンドレ・ブルトンはナジャを取り逃がす、または、ナジャから逃れる。あるいはひょっとしたら、『灯台へ』のヴァージニア・ウルフだけが(「意識の流れ」のウルフとは違うウルフが)、死が膨張させる空虚の充満というかたちで、ゾラとはまったく異なる意図のもと、その死が可能にする見えるものの物質的な有りさまといったもののゾラの目指したまさに同様のエクリチュールの効果を、ある瞬間には、確かに描写しえたといえるのかもしれない。それを目にする者も目にしうる者も誰一人いないにもかかわらず、見えるものの描くエクリチュールの地平においてこれを見ずには何一つできごとは進まないという、ディスクールのこの強制された賦課の形態において、死は近代に書かれるテクストの描写のいっさいを、裏側からひそかに宰領しているのかもしれない。


 

*1:ゾラ『ナナ』〔新潮文庫711頁〕

*2:ジル・ドゥルーズ『意味の論理学(下)』〔河出文庫 276頁〕

*3:『ナナ』〔新潮文庫 318頁〕

*4:『ナナ』〔新潮文庫 701頁〕