レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』

 問題の規模がでかすぎるので、気づいた点だけ箇条書きでメモ的に記述していくしかない。おびただしい数の個々のイメージの奇怪さや、襞のように屈曲した細部の複雑さなんかはいっさい無視して、テクストの形式面にかかわる点だけ。

 レーモン・ルーセルの手法(プロセデ)は、ある文の内部におけるもろもろの語相互の関係の別の分節化や、音韻的な類似関係にしたがうある文の別の文への二重化といった働きにより、ディスクールを分割する。音素や言語素、単語や文節といった、語に走る切れ目にそって一旦ばらされた文は、それらの断面を接着面に利用して再び結合しなおされ、また、テクストの平面に大きな隔たりのもとで再配置され、複数化して分岐の機能を担い、文の大域的な反復をもたらす。手法は言語の物質的な相に直接的に介入し、その結果は言語の描く複数化したイメージとして表現される。手法における反復は、二重化されたイメージ相互のもつ家族的類縁性と相違性というふたつの相反する特性を、ひとつに取りまとめる。この反復はイメージを二重に割るだけではなくて、その本質的な働きはむしろ、手法に固有の水準で、言語の次元を表現をになうものと物質的な素材とに分割することにある。
 分割は諸イメージのあいだでの分割ではなく、イメージを支える表現的な言説そのものの水準での分割を行使している。この水準には、お互いにみずからに欠けている対象を相手が差し出すものによってのみ補いうる二種類の描写的な言説が見いだされる。一方には、見えるものの姿を見えるままに描き出そうとする厳密な対象描写のシニフィアンの次元がある。描写の特権的で範例的でもあるイメージの対象はさまざまな機械の反復する動作として結像する。反復する機械としてのさまざまな対象は徹底してその意味的な背景を欠く。いまひとつのイメージの言説は物語の体裁をまとっている。それは前者の言説における機械としての対象イメージの故事来歴を語る、歴史物語のシニフィエをかたちづくる。もっぱら見えるものとして描写された対象に関説し、事跡や事物の由来、人物の履歴や出自を解き明かすこれらの歴史物語は、その言説の境界線に入れ子状か蜘蛛の巣状に接する、同質で付加的な別の物語を組み込み、編み上げていく。そこには、反復する機械の動作のイメージとはまた別の、無限後退的な物語の反復的展開を見ることができる。
 シニフィアンシニフィエとの時間差を利用した分岐と合流という視点からテクストのここまでの説話論的な流れを見るかぎり、手法が分割するエクリチュールの水準での物的素材と表現の一組から後者の水準が生じていることが確認できる。この高次のシニフィエ的水準から派生的に下降した描写的表現の水準で、さらに対象描写と物語的な言説というシニフィアンシニフィエのペアが可能となっている。しかし、この物語的な水準には個々の具体的な故事来歴の物語が読まれるだけで、大文字の物語、いわば物語の物語のなかには、小さな諸物語の補足的で挿話的な断片が無限後退的に見出されるだけだ。この物語の挿話的な連鎖をシニフィエの反復として捉えるかぎりで、わたしたちの予想は、ここに隣接して物語にシニフィアンの形態を与える別の、さらに低次の、何らかの言説的対象が見いだされることを求めるが、このあらずもがなの手前勝手な予期は、ルーセルのテクストの具体面によって完全に潰えさる。おそらく、この歴史物語の後退的な反復に対してそれにシニフィアンの形態を与える物語の言説といったものの一例を、ルーセルのテクストとは無縁の場所において、現実的に考えることができる。それはたとえば、カフカが「父の気がかり」で描く、あの無機物と生物の合いの子である「オドラデク」のような奇怪な形象、及び、それに関する言説と酷似したものとして現実化されるのではないか。ルーセル的な小さな逸話の特徴を形成するのは、それらが原理的には無限後退的にシニフィエの同質性の線に沿って言説の意味の意味を繰り述べていくことが可能でありながら、セリーはつねにその始発点に回帰して往復運動の反復性に奉仕することになるという、テクストの示すまぎれもない事実にある。カフカのオドラデクは、それが世代を超越して存在しつづけること、物語を超えた時間のなかで往復運動とはまったく異なる反復を生きていること、あらゆる意味を欠いたシニフィエのないシニフィアンにすぎないものであることにおいて、ルーセルのセリーがかたちづくるカスケードのなかで空白となった場所を、権利上埋め合わせることが可能であるだろう。オドラデクは物語の解読不能な残骸、死文字の欠片として形態化される。
 再び、イメージの水準において対象描写がシニフィアンを担っていた言説の地点にまで戻る。このイメージにおける範例的な形態をかたちづくるものは、その特性として反復をおこなうもろもろの機械的な対象群だった。機械であることの条件は、反復の過程で目に見えるイメージを見えるままにかたちづくるという点にあり、そこでは、ある種の絵画や映像、彫像作品、パントマイムのようなしぐさの演劇や、動物や植物といった生き物たちのしめす振る舞いまでが、機械状のアジャンスマンを芸術と科学の描写の次元で構成する。この水準での分割は、予想されるとおり、これらの機械を二種類のものとして識別できるかたちで、さらに下位の境界線を引く。『ロクス・ソルス』の水槽の中で演じられる活人画のような外観を呈する人物や事物たちによる上下運動や、ガラスの檻の中で表象=再演されるリビング・デッドたちによる壊れた録音テープのような際限のない往復運動が、反復の過程の中での描写の対象をかたちづくる。フーコーが「ルーセルにおける言うことと見ること」で語るとおり、そこでの物体の運動としての反復行為はトリガーとしての「事件」=死を見えるもののの水準で純粋に、無媒介に展開し、存在と不在によるデジタルな時間的交代を、黙劇のかたちで無償に反復しつづける。この即自的な機械は、低次に分割された、「(描写としての)シニフィアンの(リアルな事物としての)シニフィアン」をかたちづくっている。
 オドラデクのような対象が太古の無時間性の中でシニフィアンを絶対的に欠いたまま永遠に佇立しつづけるものだとすれば、ルーセルの死者たちによる機械状の連鎖は、潜在的なセリーの片割れとして、語られるべき物語を描写の別の次元に引き寄せることができる。ここでの機械の対象描写は、それが対自的に見られるかぎりにおいては、その外縁部において(より高次のイメージの水準でそれがシニフィエと分岐する点において)、物語の故事来歴を語る言説と合流することができる。そして、その高次のイメージの水準からの観点においてのみ、これらの可視的な機械群は、同時に、即自的であり無媒介であり、かつは即時的な反復をおこなうものとして捉えることができる。視点はつねに、当の言説カテゴリーが属する水準に対してタイプか隣接において異なる別の言説カテゴリとの関係性の中で反復的に読み返される必要がある。
 他方には、同じ水準で、また別の本性をもつ機械=対象が現われる。この対象は『ロクス・ソルス』の中で、セリーの連鎖上でおのれとは別の対象を指示するサイコロや、同じしかたで別の対象と言説を指示するよう命じるルーン文字の刻まれた髑髏としてテクストに見いだされる。それらの対象は、本性として、語であり同時に物体でもあるという記号の身分をもつ。指示するシーニュがそこへと向けて自身を漸進的に分割し、意味や言表内容を配置を違えたおのれ自身のあいだで次々に手渡していくことになるセリーの終着点と、運勢や秘匿された真実が指示されるべきシーニュがそこから開始されることになる占いと宝探しの主題をもつセリー上での始発点とが、つねに反転可能な状態で見いだされる。順行と逆行との線が正確に一致する諸対象によるこの反復的な往還運動のなかでは、すべての記号的な要素が、それとは別のシニフィアンに対する意味的な相関項としての性格をもっており、終局的な物語のパロールの圏内に全面的に包み込まれている。占いに関しては、それはあらかじめ辿り着くべき答えを知っている占者のインチキの行為としていっさいが終始するし、真実の開示と隠蔽の手続きもまた、すべての事がらをあらかじめ知っている父=殺人者、ないし暗号制作者の手によって、その見かけだけの迂遠な仕掛けが律儀に施される。この水位での機械=対象は、ロゴスや推理の混じったシニフィアンシニフィアンの中のシニフィエとして読むことができるだろう。反復は、ロゴスをまじえた媒介的で、折衷的な、遠回りのものとなる。
 こうして、テクストの構成するディスクールの諸形態は、あみだくじ状のカスケードの流れの中でそれぞれに固有の位置をもち、相互に隣接か組み込みの関係を形成している。視点の最上位にある「手法」が可能にするエクリチュールと文の水位から降ってイメージの水準へ、そこから描写と物語の言説が分岐し、指示作用とその効果としてのさらに下位の、諸機械と小さな挿話的言説群の水溜りへと辿り着く。言説タイプの最下層では、分岐した結果にしたがい、最小限三つ(潜在的な理念型を考慮すれば、少なくとも五つ)の支脈を見出すことができる。できあがった系統樹のようなこの図表を、個々のレヴェルでの水平方向での分岐を度外視して大きく縦に分断すると、シニフィアンシニフィエからなるセリーの断面図を取り出すことができる。『ロクス・ソルス』のイメージの中に何度か現われることになる形象、反転する文字(地と図、あるいは、表と裏とで二重化されるエクリチュール)は、作品におけるシーニュの反復運動それじたいの象徴的なエンブレムとして象られているのかもしれない。ディスクール全体の流れを整流するものとして、どのレヴェルの言説にも少しずつ異なる性質の反復が埋めこまれているだろう。ルーセルにおけるテクストの発生というもっとも極大化した問題の水準で、それらの諸反復とは権利上まったく資格の異なる、最大の反復といったものがどこかに残されているのかもしれない。それもまた、ルーセルの残した今なお活動しつづける不吉な謎の一つに数えることができるのかもしれない。