しるしと人生―― 『ヴァージニア・ウルフ短篇集』

 「でも、それからどうなったんですか――もうひとりの男の人は、家の角を曲がってきた男の人は?」一同は尋ねた。「もうひとりの男の人? もうひとり?」アイヴィミー夫人は小声で言った。屈んで袖無し外套(クローク)を手探りしていた(サーチライトの光はバルコニーを外れてどこかへ行っていた)「その人は、たぶんどこかへ消えてしまったんでしょう」
 「光は」彼女は付けくわえた。袖無し外套(クローク)やら何やらを拾いあげながら。「ただあちらこちら照らすだけ」

ヴァージニア・ウルフ「サーチライト」

 長いこと手をつけずに積読本の棚に差したままだった『ヴァージニア・ウルフ短篇集』(ちくま文庫)がふとした拍子に目に入り、にわかに「あ、これ読も。いま読も」となった。奥付を確認してみたら8年前の発行となってたから、ほとんどそれくらいの時期に手に入れた本だったのかもしれない。いくらなんでも寝かせすぎた。(同じ棚にはおそらくこの文庫と同時期に購入した同じくウルフの『オーランドー』もあって、そっちは以前に一度手にとってはみたんだけど、読み始めた途端にそこに書かれた言葉の連なりになぜだかくらくらしてしまい、やむを得ずすぐに本を閉じてしまったという記憶がある。いつかまた挑んでみたいとかねがね思いつづけている、そんな気がかりな本のひとつ)。
 ヴァージニア・ウルフの小説にかんしては『ダロウェイ夫人』と『灯台へ』、それから『波』という作品をずいぶん前に読んでるんだけど、今ではそこで感じたはずのぼんやりとした感触だけが記憶のうちになんとなく残っているだけで、言葉の連なりが形づくっていた具体的な褶曲、結び目、肌理や曲直のありかたみたいなものいっさいは情けないことに自分のなかからすっかりと抜け落ちていってしまっている。だから過去に読んだそれらの長篇作品とくらべてここでの短篇作品との絡みで何かをいうことはできないんだけど、この短篇集に収められた個々の作品を通してとくに目をひいたのは、そこに集った人物(おもに、女たち)の生の実質をなすような水準にあるものと、その晦冥で錯綜しがちな思考やイメージ、欲求や意思、情調等々の殺到にも事態の噴きあがりを遮り、あるいは秘匿し、ふんだんに貯えさえしながら、しかしそこにおけるそれら雑多で不純なものでもある人生の質すべてのありかを指し示しもする、いわば秘鑰の役割を果たすかのようなしるし、そのような、対照的で対立的な拮抗関係にこれらふたつの水準を導きながら両者を分かちがたく結びつけてもいる小説言語のありかた、人生と符牒、移ろいつづけるものと存在するもの、書かれるべきものと書くべきもの、見られるべきものと見えているもの、そんなような切断とも癒合とも断定しがたい事態を繰り述べる言葉のありかた、そういったものが読んでいて見えてくるような気がしてならなかった。
 ヴァージニア・ウルフは人生を描く――、そこでの「人生」といったものの内実に関してはとりあえずおいといて、まずはごく率直にそのように一口で言えるとして、じゃあその語られるべき人生という不可視の内実がどのような資格のもとに作品において語られるかといえば、それはある特権的なしるしのもとにおいてである、ということは最小限言えるように思う。語られるべき内容をおのずから語る事柄、見えないものを見えるようにすることを可能にしてくれるしるし、不断に移ろい、変わりつづける事柄がそこに流れていることを指し示す浮標のような存在、それ自体はそれが指し示す事柄の流れからすでに零れ落ちてしまった死物のような存在としてありながら、それに眼差しを注ぐ者に、それがかつて確かにそこに流れていたことをありありと想起させることの可能な、そのようなそれ、しるしとはとりあえずそのような働きのなかでヴァージニア・ウルフのここでの諸作に現れているようにも思う。それは語ることの困難なものがそこにあることを指し示しながらその困難を困難として書くことの実践へとかろうじて繋げてくれもする、ある特権的な役割を果たす貴重でかけがえのない奇貨として出現する物品ではあるけれど、しかしそれはまた、物品というよりその残骸、痕跡、ほとんど物同然の境地にまで零落した遺物かがらくた、染みや、あるいは人物の身体でいえば、痙攣や表情の些細で醜い特徴的な歪みの一瞬の現われ、そのような瑣末で卑小な、いわば存在の抜け殻のようなものとして描かれるものでもある(そのようなしるしを安部公房的対象とでも呼びたい気もするけど、むろんこの発想は転倒している。安部公房がすでにウルフ的眼差しにおける振る舞いのなにがしかを引き継いでいた、とでも言った方が事の順序としてはより適当だ)。

 それが何らかの物質であって、多かれ少なかれ丸みを帯びているならば、それに死せる炎をその内深くに持つものならば、何でも――磁器、ガラス、琥珀、岩、大理石――有史以前の鳥の滑らかな楕円の卵、何でも彼を惹きつけた。また彼は視線を地面に落としながら歩くこともした。ことに家庭の塵芥が棄てられる空地では。その種のものはしばしばそういう場所で見つかるのだ――投げ棄てられたもの、使う人間がいなくなったもの、あるべき形を失ったもの、用をなさなくなったもの。

「堅固な対象」

 そのようなそれ固有の使用価値や有用性が剥落した結果はじめて現れる物品の残骸(またはマントルピースの上で実用書類のペーパーウエイトとしてのみかろうじてその有用さを認められる、属性としての剥き出しの重さにまで還元されきった物の存在といったもの)、ウルフ的しるしはそのようにして誰かの人目を執拗に惹くものとして姿を現わしているだろう。同様の対象が「壁の染み」における暖炉の背後の壁に浮いた丸い染み跡や、「池の魅力」における水面に浮かぶ一枚の「貼紙(ビラ)」として誰かの目を強く惹く奇妙な対象として現れているだろうし、あるいはその類例としてさらに、「乳母ラグトンのカーテン」における転寝する女の膝元にかかった縫いかけのカーテンや、「サーチライト」においてバルコニーに集う人々の周囲を滑るようにして夜陰を照らし出していく円形の輝きがあり、または表題そのものが端的にその作品における含意を示している「徴」における、アルプス中腹の避暑地のホテルから双眼鏡で眺められる山頂の《月のクレーターによく似た小さな窪み》に照り映える雪の輝きといったものも、ウルフ的しるしのひとつとして数え上げることができるだろう。このようにしるしとして見出されることの可能な幾つかの例を挙げていくと、しるしの持つ物的性格のようなものはここでウルフ的しるしを選り分けるにあたり、その弁別にかならずしも本質的に関与するものじゃないことが確認できる。物の堅固さや有用性の剥落や手触りの確からしさといった存在の持つ独特の特性の数々は、それとしてしるしのしるし性に参与する証になるものなのではない。そうではなくて、しるしの充分条件とはヴァージニア・ウルフ的言説風土にあって、それが遡行不可能な過去の時間を貯えたいわば「結晶イメージ」(ドゥルーズ)として結実されて眼差しの前に差し出されてある場合にのみ、そのようなものとしてテクストの上で認めることができるものなんじゃないかなと思う。物的特性一般はしるしの付帯的な属性であってそれ固有の目印になるものじゃない。それは眼差しの対象として見る者の眼前に現われ、現れた矢先に強く目を惹き、その凝視や《盗み見》(「書かれなかった長篇小説」)の振る舞いにおいて見る者に過去の時間を何らかの仕方で喚起させるという特異な働きにおいてはじめて、しるしとしての特性を得ているように思われる。このしるしにおいて、書くこと、言葉を綴るということがそれによる促しと励ましの宛先として現れることができる。

 ガラスだった。不透明と言っても差し支えないほど濃い緑色をしていた。海に掻き撫でられて角が失くなっているだけでなく、輪郭も変わり、そのためそれがもとは壜だったのかタンブラーだったのか窓に使われていたのか特定することは不可能になっていた。それはただガラスであると言うよりほかないものだった。しかし、それは同時に高価な石であるとも言えた。金の枠に留めて、あるいは穴を穿って鉄線を通すかすればおそらく宝石になるはずだった。結局それは本当に宝石なのだろう。王女は入江を舟で渉る。奴隷たちは歌いながら櫂を操り、船尾(とも)にすわった黒髪の王女はその歌に耳を傾けながら、水の面に指を辷(すべ)らせる。たぶんその王女の身を飾った宝石ではないだろうか。あるいはエリザベス女王の御代に沈んだ宝の箱の樫の側板が割れ、転がりでたエメラルドが海の底を延々と旅をして、ついに浜まで辿りついたのだろう。

「堅固な対象」

 あるいは、乳母の膝のうえの《エプロンをすべて覆い隠すほど大きな青い柄物の生地》の広がりを背景にして語りだされる、幻想の描く人生といったものの趣き。

 布全体に描かれた動物たちは乳母のラグトンが五回目の鼾息を発するまで動かなかった。一回、二回、三回、四、五――ああ、ようやく老いた乳母は眠った。羚羊(かもしか)は縞馬に向かって頷いた。麒麟は高い梢の葉を食べはじめた。すべての動物たちが身震いし、凝り固まった四肢を解した。何故かというに、青い生地に描かれた模様は野生の動物の一団であり、動物たちの下には湖や橋や円い屋根の家が並ぶ町があり、小さな男たちや女たちが窓から外を眺めたり、あるいは馬に乗って橋を渡ったりしていたからである。けれども老乳母が五回目の鼾息を放つとすぐに青い生地は青い大気に変わった。木々の枝はそよいだ。湖の波の音が聞こえた。端のうえの人々が動きだし、窓辺の人々が手を振った。

「乳母ラグトンのカーテン」

 ここではガラスの塊も《青い柄物の》カーテンもその内部に語られるべき内実(真実らしきガラスの来歴や空想された王女の航海という物語、または動物物語といった純然たるおとぎ話等々)を秘めた不在の、ないし過去の時間の結晶物であり、同時に、その時間を展開することを可能にする秘められたものを開く鍵、ひとつの秘鑰でもあるものだろう。しるしはそのようにして、一方で書かれるべき事柄を秘めながら、他方でその秘密を開くこと(書くこと)をも条件づけているものとしてテクストに現れている。それ自身の上で反り返る秘密、秘密を保持しながら秘密を解放するものでもある書くことのこの自己言及的な律動、不在であることの開示であると共にその不在の充足でもあるようなある実践、むしろ「純粋な実践」とでも呼びたいこの撞着的な書くことの励起、そういったある特異な困難をめぐるような事態がここには起こっているんじゃないかと思う(そんなふうに書くとほとんどレーモン・ルーセルの仕事みたいな様相を呈してくるわけだけど、自動化された秘密をめぐるルーセルの狂気と一体化したあの天才的な暗号造形といったものが、無限にどこまでも、徹底的に読めて書くことの可能なシニフィアンの体系の内部だけで遂行されているように見える一方で、ヴァージニア・ウルフのしるしはしかし、人生という記述不可能な生の経験的実質を巻き込む形で不純なものの水準と共に取り出されてくる、という決定的な違いがある。その意味で両者は互いに認知しあつこともすれ違うことすらもない、お互いがお互いにとっての異星人みたいな、完全に別個である二人の作家的存在でありつづけるだろう)。
 表徴のもつ二重の働きかけ、秘密において拒むことと秘密において誘うことという相補的な対立性の複合的な働きが言説の実践の場を準備し充たすものであることは別の幾つかの作品でも確認することができる。「サーチライト」のアイヴィミー夫人に彼女の幼少時代の曽祖父にまつわる思い出話を語りださせたものとは、そのようなしるしの特別な働きかけによるものだった。夜の闇を照らし出すサーチライトの円形の輝きとして現れたしるしは、過去から到来する過去の時間そのものの貯えとして、アイヴィミー夫人と彼女の語りをもはや不在のものである散逸したものの次元へと一挙に運び去っていく。《「見て」アイヴィミー夫人が言った。光が通りすぎた。「あのお陰で何が見えたか、あなた方の誰も言いあてることができないでしょうね」夫人がそう言ったので、しぜん、みな口々にそれを言いあてようとした。》 サーチライトが夜の闇に浮かび上がらせる円形の輝きはそれとしてその場に集った人々によって眺められる、覚束ない、きわめて移ろいやすい対象でありながら、そのありか自体がそれとは別の何かをそれを眺める人々の視界に出現させる、そのような揺れながら移ろいつづける眺めそのものでもあるものだろう。まず見られる対象として現れるしるしは、即座にそれ自身を見ることそのものの条件へと反り返らせて、眺めとそれについての語りとをある不可分の二重的経験の場へと引き込んでいく。そのような二重的経験、見ることと見られること、語ることと語られてあること、不在である過去の時間と現前している現在の時間、対象として受動性のうちにあるものとその対象において当事者として出来事を生きてあること、もはや何もかもいっさいがそれら明瞭な区分の対象となることはない。人はキスをするのか、それともその時キスされてあるのか、誰にもそれを正確に答えることはできない。そこには区分がないのではなく、明瞭さがないというの正しいように思える。何もかもがしるしのもとで相互の場所と演技を交替しあい、混じりあい、また同時に解けあうものとして現れる。曽祖父についての逸話なのか、それとも夫人自身の身の上にかんする語りなのか、曽祖父の愛した少女なのか、それとも曽祖父の愛においてそれを引き受ける夫人自身のことであったのか。いっさいは移ろいながら形を変えていくように見える。《「それが……その娘が私――」彼女はそこで口篭った。「その娘が私です」と言いかけたかのように。しかし気がついた。そして訂正した。「その娘が私の曾祖母なのよ」》 しるしは眺めとして、そこでの語ること、言語の実践全般を、ある特異な、途轍もない、ほとんど前代未聞といってもよいきわめて過酷な愚かしさの経験へと巻き込んでいく視覚的前兆として現れているようにさえ思われる。
 しるしがシンボルとして、ある不在のものの前駆的な指定という働きの側面を注目される場合に、とりわけ死といったものに対する作家の関心が作品において主題や強調の対象となるようにも思える。掌編「徴」では、予兆される死の気配といったものが、アルプス山頂の《死のように完全な白》さに覆われる《月のクレーターによく似た小さな窪み》として、その中腹に位置する避暑地のホテルからそれを双眼鏡で眺める「彼女」の視界に聳えるようにして現れることになる。山頂の小さな窪みとはそれとして地勢の不自然な欠如か削除のような観を呈しているはずのものであり、その陥没した光景においてここにいまだ不在のもの、しかしいずれ生じるであろう死の出来事の予兆として、そこでの「彼女」によって眺められる。その「彼女」は眺める人であると同時に、また他方で、一篇を通じて窓辺の椅子に腰かけながら手紙を書き綴る人でもある。

 「この山は」ホテルのバルコニーの椅子にすわってその婦人は記す。「ひとつの徴です……」彼女はそこで手を止めた。彼女は双眼鏡で一等高い地点を見ることができた。レンズを調節して焦点を合わせる。あたかもその徴というのがどんな物であるのか確かめようとするように。彼女はバーミンガムに住む姉に手紙を書いていた。

「徴」

 死のシンボルに導かれるようにして書き継がれる姉への手紙の言葉は、そこに彼女たちの母親の死というかつて起こったひとつの死「について」のトピックを織り込んで徐々に繁っていきながら、しかし作品末尾に唐突に、眺める人であり書く人でもある彼女の不意をついて、現に今、眼前で生じた死=不在の生起、陥没の発生、ある実質の一瞬の消失、そのような出来事の出来に巻き込まれることになる。正確を期するなら、ひとつの出来事の眺めが生じたというよりむしろ、そこで眺めの不在が生じた、何も起こらなかったことが生じた、出来事について言葉が書きつけられたのでもなく、何か「について」書くということが書かれなかった、そのような営みとその打ち消しとの分かちがたい癒合的な反-出来事のごときものが彼女の目の前に、彼女の手に執るペンの動き(あるいはその落下)のなかに現れた、そう言うべきなのかもしれない。

 「こうして書いているあいだにも、斜面を登っていく若い人たちの姿をはっきりと見ることができます。みんな一本のロープに繋がれています。前に書いたと思いますが、あのなかの一人はマーガレットと同じ学校に行っています。彼らはいまクレバスを渡っているところで……」彼女の手からペンが落ちた。インクの滴りが便箋のうえにジグザグの線を描いた。斜面には若者たちの姿はなかった。

 書かれてきた言葉はそこで完全に欠語する。ペンが落ちる。《インクの滴りが便箋のうえにジグザグの》クレバスを描き、紙を、言葉を、引き裂く。しばしば死「について」書かれてきもしたであろう言葉たちはそこで、死「そのもの」の刻む言葉、言葉というより言葉の不在の事態となる、そして紙面に綴られていく自身の文字の連なりを見つめていたはずの俯かれた視線はそのクレバスの発生において眺めを決定的に見損ねる、正確に言うならば、見えない眺めの発生といった事態に、正しく、見えないという様態、眺めの欠如という様態において、それをそのとおりのものとして立ち会うことになる。ヴァージニア・ウルフにおけるしるしの秘めるものとは、このような逆接的な仕方ではじめて自身を開示することになるものであるだろう。それは(この「徴」におけるように)極端なケースとしては死のごとき不吉な力による書くことの活気づけでもある、そのように言いうる場合からも、けっして逃げ出すことのない作家の力と欲望の埋蔵量、そのありかたの証言ともなっているだろう。
 それ自体が(用をなさないもの、有用さを失ったもの、時代錯誤なもの、等々として)秘められた秘鑰でもあるこのしるしが指し示す秘められたものは、存在するものの存在性とは別の仕方で移ろいつづけるもの、ひとつところに留まることのないもの、その全体を見渡すことのできないもの、実在として手で触れることのできないもの、であるがしかし、ある特異で貴重な瞬間には、そのときだけは、見ることや書くことを通じて作家の生の核心に到達しうるもの、作家の生がそこへと参入しうるもの、そのようなある希望のごときものを胚胎する不純な深みの次元として見出されるもののようにも感じられる(そしてまた、希望の絶対的な途絶といった事態が作家を襲うとするのなら、それもまたそこに淵源するものであるだろう)。そのような希望と絶望のないまぜとなったアマルガムこそが、たとえばヴァージニア・ウルフによって簡潔に「人生」と名指されているものの実質にあたるんじゃないかとも思う。そして確かに、希望と絶望とで織り込まれる困難な経験の実質といったものを叙述するにあたっては捉えがたい流体や光による類推がふさわしい。《堅固な対象》はその背後に、その晦冥で黙せる質料の内部に、水の流れや光の反映、声の響きといった反-実在的なものたちによる恐るべき戯れの運動を秘めている。ヴァージニア・ウルフはたとえばそのように確信していたようにも思われる。「池の魅力」で水面の中心に一枚の貼紙を浮かべる藺草に囲まれた静謐な池は、岸辺に臨んでその深みを思いやってみる者に、人生という思考にとって深甚な捉えがたさをもつものの所在、その計りがたい不埒な生動を伝えようとする。

 もし人が藺草の茂みに腰を下ろして池を見るならば――池というものは何かしら不可思議な魅力を持っている。人が説明することのできない魅力を――赤と黒の文字が記された白い紙が水の表面に薄く貼りついているといった印象を覚えるだろう。また一方、その下では、理解の及ばない水の生活が営まれているという印象も受けるはずである。人の精神における試案や熟慮といったものによく似た営みがそこで行われているという印象を。時の推移にかかわらず、時代の推移にかかわらず、多くの者が、ひじょうに多くの者が独りでここにやってきたに違いない。自分の想念を水のなかに流しいれるために、何事かを池に尋ねるために。この夏の夕つ方ここにいる者がちょうどそうしているように。たぶん池が魅力を持つのはそのせいだろう――池は水のなかにあらゆる種類の夢想や、不平や、確信を擁している。書かれたこともなく、口にされたこともないそれら。ただ流体のような状態で犇めきあう、実体性の限りなく希薄なそれら。

「池の魅力」

 池の中心に白い影となって静かに揺れる貼紙の存在、《一マイルほど離れた場所にある大きな農場が売りに出されていて、(…)その旨を記した貼紙(ビラ)の一枚、農耕用の馬や若い雌牛すべて、さらには農耕機具一式も合わせて売却すると記した貼紙》が、そこでのしるしとなるだろう。家屋と土地とそこに集った不定の人々のかつて抱いたの記憶や情念、歴史のすべてが、この一枚の貼紙の覚束ない揺れ動きに先導されて水のなかへと殺到にも似た様相で流れ込み、蝟集し、ひしめきあい、交互に声とイメージを交替させながら叙述の場へと到来する。《自分は一八五一年の大博覧会の熱狂を見てからここにやってきた》という《頬髯を生やした赤ら顔の人物》の想念、《一六六二年》に一人の娘を恋する者であった男の声、重ねられた男との逢瀬ののち池に身を投げることになったというその娘の絶望の嘆き、大きな鯉をその池で釣り上げたという子どもの自慢げな喜びの声、そして、《嗚呼、嗚呼》とだけ呟く水底から届くひどく悲しげな声。しるしの下の池の深みはそのような雑駁で同定のむずかしいさまざまな声とイメージと思念たちが散逸したままそのとおりのものとして流れ、淀み、解け、ふたたび集い、そしてまた交互に渦状の運動を展開しながら幾度となく、またしても、流れ、淀む。ヴァージニア・ウルフの見つめる人生の生動とはそのように振る舞いつづけるもののように思われる。
 そのときヴァージニア・ウルフにおける「書くこと」とはどのような意味をもつものになるのだろうか。書くこと、小説作品を叙述するということ、「人生」を描写の対象として希望するということ、それはどういった所作を作家にもたらし、どのような姿態において言語の形体を形づくることになるのか。たとえば「書かれなかった長篇小説」という短篇もまた、ひとつの表徴が眼前に存在することの厳密な確認から始まっている。そこでは冒頭の一文から、人物の人相に宿るいわく言いがたい魅力といったものが作家の眼差しの前に現れている。《そうした不幸の表出は視線を新聞のうえまで引きあげさせ、憐れな女の顔を注視させるに充分値した。不幸の色がなければありふれたその顔。不幸の色合いのために人間の宿命の象徴にまで昇華した顔。人生とはあなたが人々の眼のなかに見いだすものだ。》 ここでのしるしは不幸によって彩色された女の顔であり、眼である。ヴァージニア・ウルフの精細な眼差しは人物の眼の動きに特異な運動を見出している。それは「知る」ということと「見る」こと、そしてそのことの表出(ある印象の刻み込み)とを巡る自己瞞着的な身振りの現われであるものだ。

 向かい側の五つの顔――人生というものが何であるかを知っている顔。人が人生に関する知識を隠そうとするのは、いかにも奇妙なことではないだろうか。五つの顔すべてに浮かぶ抑制の徴。唇を引き結び、眼を伏せ、自分が気づいていることを隠すために、あるいはそれには何の意味もないという印象を与えるために然かるべきことを為す五人の人物。一人は煙草を吸っている。もう一人は新聞を読んでいる。(……)そして五人目――五人目のその女における最も恐ろしい事実は彼女が何もしていないということだった。彼女は人生を直視していた。ああ、憐れな女よ、不幸な女よ、あなたも同じように振る舞うのだ――我々みなのために――人生を見ていることを隠すのだ。

「書かれなかった長篇小説」

 「知る」ということが「見る」ことと同義であるのならば、「知らない」ことを演技として表出するためには「見ない」こと、見ていないことの振る舞いを選択すればよい。そのとき、見ていないことを殊更に印象づけるためには別の何かを見るということがもっとも正しい選択になるだろう。そこ(列車の車内)に居合わせた五人の人物のうち四人までは時宜にかなった、実に正しい処世上の振る舞いにおいて、そのように「知らない」ということを表出するために別の何かを見、別の何かをしている。語り手によって「憐れな女」と呼ばれる女性はしかしそこで、「知らない」ことを表出するにあたり、あまりに愚直に、そのとおりのものとして、何も「見ていない」という態度を選ぶ。その愚かしさ、あまりに愚直な剥き出しとなった隠蔽の身振りにおいて、何かを「知っている」こと、人生を「見ている」ということが無防備に、裸のままに突き出してきてしまう。語り手の眼前に現れたしるしはこの無防備な裸の眼差し、不幸の色合いが生のままに搾り出されたかのようなこの剥き出しの「見ていない」ことの表出に、目の前の他者の人生を「見る」、「知る」ことを可能にする。《私の内心の声が聞こえたかのように、彼女は顔をあげた。すわりなおして、溜息をついた。彼女は私に謝り、こう言っているように見えた。「あなたが知ってさえいれば」それから彼女は人生に視線を戻した。「でも、私は知っているのだ」私は密かに答えた。》 こうして「彼女」と「私」との黙劇めいた対話がそこに始まる。会話のない沈黙の、会話を凌駕する活発さと饒舌さに満ちた、沈黙における対話の流れが始まる。しるしがそれを可能にした。眼差しであるしるしの存在こそが言葉のやり取りを可能にし、見ることと知ることの混じり合いのなかから書くということが現れる。ほどなく「彼女」は「私」によって「ミニー・マーシュ」という名を授けられるだろう。反りの合わない義理の妹の存在が「彼女」の傍らに呼び寄せられ、二人の姪と甥と共に食堂で気まずい会食が開かれもするだろう。《十二月の午後三時。霧のような雨が降っている》その眺めを窓外に臨みながら、淡い光のなかで神に祈りを捧げることになるだろう。幼少時代のささやかな罪。《「卵が安くなっている」》ことが念頭にちらついているだろう。「ジェイムズ・モグリッジ」と名づけられる巡回セールスマンの男が彼女に近づいてくるだろう。それとして同定することのできないある不名誉と屈辱が彼女を苛みもするだろう。「ベニー」と名づけられる《毛の抜けた老犬》。《ビーズで編んだ敷物、リンネルの下着の心地良さも想像してみるべきだろう。》 《親指が磨りきれた手袋を取り、穴に発展しようとしている箇所に戦いを挑む。あなたはもう一度防備を固める。灰色の毛糸を内に外に走らせて。》……
 そこにおけるウルフ的語彙と文法の範例といったものを幾つかあげることができるだろう。「きっと……だろう」、「かもしれない」、「けれど(そう述べる)つもりはない」、「違うのだ、たぶんこういうことなのだろう」、「……なのだろうか?」、「そうだ……なのだ」、「いや、違う、違う」等々。条件法的語彙と構文の一覧としてこれらは緊密な言表単位を形づくっているように思われる。それらの語彙によって形づくられる小説言語の連関は書かれたものそれ自体として行文のなかに埋め込まれてありながら、そしてそのようなものとして確かに読まれつつも、しかし書かれた言葉それ自体というよりも、むしろ書かれた言葉がその存在によってはじめて書かれることのできるような、条件の次元にある「下に置かれるもの」としての仮定法をもうけるものであるようにも思われる(『時間の前で』のディディ=ユベルマンが説くとおり、このヴァージニア・ウルフの語彙使用における仮定法の意義を、《芸術作品の「主題」だけではなく、芸術作品の最も奥深い「原理」をも与えることができる》ものとして敷衍して了解したい)。おそらく典型的な(そして幾分かは通俗的な)自然主義文学といったものならばそれを無意識に抑制する方向で圧力を加え、そのようなエクリチュールの動静に対する不断の沈静化を図るに違いない、いわば小説言語にとっての恥部のごとき部分が、この仮定法として書き言葉の下に置かれるものの言説的な実体であるだろう。小説の言葉とは本性としてつねに「何かについて」書かれる言葉として現れることになるものであるが、ウルフ的語彙における仮定法の存在は、それがテクストに書きつけられる度に、そこに書かれた言葉が「何かについて」の寄与性にかしずくものである事実を指呼してやむことがない。それは通俗的小説の図る無意識の瞞着的試みにとって最大限拒否されなければならないものであるだろう。それはおのれがおのれとはまったく別のものであるという事実をもっとも恐れている。おのれが、おのれの想定しうる範囲で無や不在に等しいものとみなす、そのような何かであるという厳然たる事実に恐れ、これを忌避している。ヴァージニア・ウルフの不断に繰り述べられる仮定法的エクリチュールは、この別のものであるおのれの身分をその通りのものとしてあからさまに告げ知らせながらテクストに響く。そのとき、逆説的ながらテクストははじめて、おのれが「何かについて」書かれる言葉であることの寄与的な事実性から抜け出してしまっていることを事後的に自覚するに到り、端的に「書くことについて書くこと」、不在である何かについて書くこと(「何かについて」は書かないこと)、あるいはよりいっそう的確には、何か別のもの「と共に」書くこと、別のものである書くこと、そのような別のものであるおのれと共に書くこと、「書くことと共に書くこと」、そのような純粋な実践性の地平に引きずり出されていることに気づくことになるだろう。ヴァージニア・ウルフの仮定法が集積させる純粋な実践性の(ないし、不純な原理性による)言説空間とはそのような裂け目の時空に開く引き裂きの経験の痕跡でもあるだろう。すなわち、しるしであり、人生でもあるものの、癒合と裂け目。文学とはそのとき、この溢れ出した不在の言葉たちの別名でありうるだろう。

 いま、彼女は眼を開けている。窓の向こうを見ている。その眼のなかには――どのようにそれを形容したらいいだろうか? ――そのなかには裂け目がある――分離が――たとえば茎を掴んだとき、蝶は飛び去る――黄昏時、黄色い花にぶらさがっていた蛾はあなたが手を動かすと飛びたつ。高く、届かないところへ。私は手を出さないだろう。そうすると、静かにぶらさがり、震えている。命、魂、霊――それがミニー・マーシュの何であるにせよ――私もまた自分の花のうえで――高原の上空の鷹――独りだ。そうでないと言うなら、人生の価値はいかなるものなのか?

「書かれなかった長篇小説」