ハイデッガー『芸術作品の根源』

 5、6年前に一度読んだきりだったものを久しぶりに再読。最近ではデリダジュネットアインシュタインなんかの芸術関連の著作がちょっとずつ積読棚にたまってきていて、それらの本を今後読んでいくためにちょうど測距儀みたいな役割を果たしてくれるようなブレのない(あるいはブレがあるのなら、逆にそういう振幅がそれとしてよく見て取れる)そんな本が読みたかったし、ちょうどいいタイミングかなと思って。しかし、以前と同様にあいかわらずハイデッガーは難しいなという印象を再確認したけど、すごく刺激的なことを書いてたんだなという点も確認できた。当時は最低限そこらへんすらもたぶんよくわかっていなかった。通例のごとく分量にしてわずか100頁ちょっとの本を読み終えるのにまたしても一週間もかかってしまったんだけど、簡単に感想を書くためにもう一度あたまから読み直し始めてみたら一度目には気づけなかった筋道のとっかかりみたいなものがいろいろと見え始めてくるような気もしてきて(たんに気のせいかもしれない)、しかしそこをあらためてきちんとすべて拾いなおしていたらきっとまた一週間やそこらあっという間にとんでしまうことになるはずで、「これはヤバイ」となり、戦きつつも観念して再読を打ち切った。だもんで、今回は(も)これからの宿題を洗い出すという体で、疑問や理解できなかった点も含め走り書き的なメモとして、いい加減なことばかり書いてしまう。書いてしまうぞえ。(ゾエ?)
 ハイデッガーはここで芸術作品の本質といったものを規定するにあたり、それを「真理がそれ自体を作品のうちに据えること」というようなかたちで明示している。その非人称的で再帰的な真理の生起の結構(「真理が、真理を」)を、他方でまた、芸術家一般の存在というこの真理の運び手として特定化されうるある固有の人称性の活動(「創作」)として記述してもいる。「真理」とはここでは、存在がそこ(開けとしての「世界」と、保持することと蓄え、縛ることとしての「大地」とのあいだの継続的な闘争の戦われる、ある亀裂として現れるような危機的な場所)においてみずからの開けが十全に開かれてあることを露わにする、そのような不断の動向として描き出されているものだけれど(真理、アレーテイア=「不伏蔵性」)、芸術の創作における固有性はこの真理の生起の循環的で非人称的でもある結構に対して、不可避の、逆接的でアナクロニズム的な時間構成による媒介的な介入を果たす前提として真理への参入を算定されているようにも思われる。すでにこのような真理の生成における逆接的特徴を説いているところからして、最近にかけて読んできたディディ=ユベルマンからアガンベンジャン・ルイシェフェール、マリオ・ペルニオーラといった著作家たちの論考に顕著な、一種の歪んだ時間性への一連の問いかけといったものが、各論者が構えるそれぞれに固有の領域、けっしてぴったりとは重なり合わない別個の問題意識のもとでながら、いわば行列をなしてハイデッガーのこの小さな論文に後続しつつ、それぞれの仕方でこれと鋭く切り結ぶもののようにさえみえる。(さらにしかし、とりわけ、『カントの人間学』のフーコーの存在を忘れちゃいけないだろう)。
 芸術における芸術作品の現われ、エネルゲイアとして発源しながら作品存在を「こちらへと立てること」(作品を制作するということ)、森のなかに空き地を切り拓くみたいにして存在の全体を無そのものに淵源するある充実の輝きのもとに存在させようとするかのような(反)営み――たとえば『ベビュカン』のカール・アインシュタインがテクストに響かせた呼号(「カーテンになれ。カーテンになって、おのれ自身が別のものになるまで、おのれをののしれ。カーテンを引き裂け」)に対応するような、反実在的な亀裂や引き裂きの痕跡の刻み込みとしてだけ現われ、そのようものとして遂行される、存在へと持ち来たらされる作品制作の経験、たとえばそういうような何かが、ここでハイデッガーが述べている「創作」ということの実質なのかな、とも推測する。(作品におけるその徴候的な亀裂といったものにとくに注目すれば、そこに『イメージの前で』や『時間の前で』での絵画作品を前にしてのディディ=ユベルマンの問いが発せられる場所と『芸術作品の根源』でのハイデッガーの立つ場所との近さが見出されるかもしれないし、あるいは、不伏蔵的な真理の「空け開け」と一体化している存在の伏蔵性、覆うことと偽ることとの二重の拒絶としての伏蔵、それら両契機の真理の生起における不可分の律動といったものに着目するなら、『裸性』のアガンベンハイデッガーから受け取った寄与のありかといったものがことさら目を引くことになるって感じがする。また、主観性と客観性の区分がそこにおいては無限に脱力させられるかのような、そのような無人の空間の表象とその空白における力動の漲りみたいなものに注目すれば、ランシエールのイメージ論やドゥルーズの映画論との近さと隔たりとが測られることもできるんじゃないだろうか。もっとも、ほんとうの問題といったものは、ハイデッガーからのそのような贈与を彼ら各人の思考がどういうふうに処することになるのか、その一点にかかっているんだとは思うけど)。
 ハイデッガーのここでの叙述によれば、真理の生起という事柄にあって芸術家の存在といったものは、真理の駆動する生成の運動の描く軌道の円周にそって抹消されていくものとしてのみ浮上してくるようにも思われる。近代的な含みのもとでの芸術家という「主体」のありかたは真理の開けと引き換えに不可避的に消え去っていく媒介的な身分としてのみ、去り行く後ろ姿をのみ、現わしてくるように思われるし、同様に主体の相関物としての客体や客観性といった対象性全般の水準も、近代的な知一般をめぐるあれやこれやの議論やお喋りや取り引き等々のなかでいっとき世間を賑わわせた活気ある逸話のひとつ以上でも以下でもないものとして、ハイデッガーの思索の内部からゆくりなく退場を促されているようにも感じられる(物の物的な規定をめぐる物概念の歴史的検査といったものは第1章「物と作品」で入念に行われている)。そのようにして、芸術の現実化、固有化としての作品存在の現われ、ハイデッガーのいう「創作」にさいして、近代的な知の枠組みの一掃が企図されており、創作という営為と創作される作品とはそのような人間的なものの窮乏のような場で、それ自体とは必然的に「別のもの」としてのおのれの姿を露わにするもの、そのような何かとして語られている気もする。
 作品の作品存在に関しては、それはまず、おのれがおのれとは別のものであることを告示するものとして把握されているだろう。それはアレゴリーやシンボルとして、物それ自体の水準として与えられてある自己の限定を超え出る何かとして、作品であるおのれを、物の物的存在や道具の有用的限定の水準からみずから引き抜き、そのようなおのれのありかたを声をもって公表する存在の開示だとされている。「あらゆる芸術は根源的には(狭い意味での詩作品ということではなくて、広義の)詩作である」というようにハイデッガーは発言しているけれど、そういうような断定もひょっとしたら、作品存在のおのずからなされるこの別のものの告示であるような物的なものによる自己超克的な宣言性の水準とどこかでかかわっているものなのかもしれないけど、そこらへんはよくはわからない。それはともかく、ここではたとえば、ディディ=ユベルマンのような人が芸術の表象再現性という通念を否定するために語っていたはずの「描くことは宣言することではない」というあの強い語調の言葉をハイデッガーの声の上にかぶせて二重に響かせておくべきなのだろうし、さらにその響きに「これはパイプではない」でのフーコーによる、あの「描くことは断言することではない」という言説とイメージからなる類似性の回路に踏み迷った者から届くかのような声を混入させるべきなのだろう。(そのうえで、いったん混和したそれらの声をあらためて識別しなおし、それぞれの響きがそれぞれの向かう先にどのように響くことになるのか、ひとつにはおそらく、そのような複数の相互に微細な差異をはらむ異質な機微の重なりやズレの数々から発する軋みのような雑音を聴き取ることこそがここでの課題になるんじゃないかなとも思える)。ハイデッガーにおいて芸術作品の作品存在がある別のものの開示の水準を開くとされるとき、真理の空け開けの場所に詩作とともに、詩作として現れるその別のものは、そこでいかにその存在の衝撃的な「不気味」さや「途方もなさ」といった常識的な世間の尺度や通念を超える情態の異様なありさまが強調されていたとしても、それはつまるところ世界と大地とが、(ギリシャ人ならギリシャ人、ドイツ民族ならドイツ民族という)それぞれに固有の民族性や歴史性のうえで相互に拮抗することによって亀裂として裂開するひとつの空き地、そこに響くひとつの声といったものに収斂されていく一個の宿運めいたものとして叙述されているようにも思われる。単なる物の存在から発して、芸術作品の真理における「立て返し」の動向を介して再び存在の存在することへとあからさまに送り込まれる存在の別のものの輝きには、ディディ=ユベルマンの説くような芸術作品の言表可能な水準での特長である「あれでもあり、これでもある」の不純な健啖ぶりを示す徴となる色斑の拡散みたいな制御不可能な動勢がすっかり消去されてしまっているようにも思われるし、フーコーマグリットの作品を前にしつつ散乱した鏡の破片のひとつひとつを取り集めるようにしてそれぞれの影を律儀に覗き込みながら確認し終えてみせた、あの迷路の完成を示す不純な反映の戯れなんかともほとんど重なり合うことがないようにも思われる。ハイデッガーにおける真理の生起における動向や運動には(たとえば『カントの人間学』のフーコーがいうような意味での「散逸」として世俗的世界に現象する経験的な所与の集合離散的働きを担う因子としての)雑多なものによる活動の水準が徹底して拒まれているように思えるし、移動や交換や流通なんかをともなう広い意味での末梢的で社交的な運動のもろもろいっさいの途絶がひたすらに見据えられており、陳腐なイメージを繰り出せば、あたかもそこに死せるギリシャ人の死のままに鼓動を打ち続ける、奇怪で、途轍もなく巨大な一個の心臓が暗い明滅の輝きを繰り返し、その否定し難い威力の放射においてあたり一面を不穏な光源のもと照らし出しているかのようにさえ感じられる(そして白状すれば、その思索の辿る軌道のおそろしいほどの魅力は、正直にいってとても否定しづらい。自分のなかに、確かに、ハイデッガーのもつ思考や気分の一端に魅了されてしまう感受性の部分が存在することを否定できない気がする。これはどうもきな臭い)。
 真理の創設としての芸術の創作の営みにおいて創作する者(近代的主体)は消え去り、主観性と相互に向き合う客観物としての対象一般であったはずの作品の通念上の存在といったものも、そこで崩落か横滑りを引き起こしながら、作品のあるがままの作品的存在の本質の発現において危険な安らいのなかに飲み込まれていく。芸術作品の根源、存在するものがそのようなものとして存在する本質の、その本来的によって来るべきところである根源の原初性がそのようにして思考のまどろみを破って現れてこようとしているんだろうけど、創作それ自体もまた、別のものとの本質的連関のもと、この根源からの(/への)真理の生起という事象に参与することになる。芸術作品の制作は手仕事的な意味での「技術」として了解されるべきなのではなくて、翻訳を介して意味内容の曲折を経てしまっているギリシャ語の「テクネー」を本義における含みにまで拉し去ること、歪みを矯正することが、そこでの別のものの探求の手がかりとなっているだろう(再び『カントの人間学』におけるフーコーの言語観との際立った相違が目をひく。そこでのカント=フーコーにとって、言語の変形とはあくまで歴史と時間の内部的連関における不可逆な有限的過程のおろそかにできない剰余的生産物であって、それら言語の配置の変遷を克明に踏査することこそ放棄はしないけれど、それが矯正や復原の対象となることなどけっしてなかったはずだ)。ハイデッガーによれば、ギリシャ的経験におけるテクネーの本義は「知=見ること」にあるとされる。それは正確には、「すでに見てしまっている」という完了形において表明されるべき知と転倒的な時間性との交わりとしての経験であり、そのギリシャ的人物造形の典型的なシンボルとして預言者における知のありようを挙げることができるものでもある。預言者は存在の現前においてつねにすでに事前に現前を了解しおおせているものとして知=見ることの先行性を担う者であり、その転倒したアナクロニズム的時間把握の特権性においてすでに決然とした覚悟を引き受けうる先駆的存在でもあるだろう。芸術作品の創作におけるテクネーはそのような予見性と覚悟性、決然的態度の揺るぎのない一貫性によって貫かれてあるべきものだとされるだろう。作品存在がそれに固有の別のものを存在のなかから取り出しその眼前の場所を同じままに別の場所での立ち合いに変えることができるとするならば、創作における先行する見ることとは、存在を別の時間に属するものとして把握することを可能にするものであるはずだ。それは実質化されいかなる留保もなきものと化した一種のデジャビュ的経験のようにも思われる。「見たこともないものが見覚えのあるものとして現前する」、「知らないはずのものが知っているかのように現前する」……事態はそうはなっておらず、もはや見たことのあるもの、知っていたものが、そのとおりのものとして存在のなかに生じる、すべては「すでに見終えてしまっている」ものとして現れる。そこには情態としての混乱もいかなる錯乱もともなうことがない。たとえば『映画を見に行く普通の男』のジャン・ルイシェフェールといった哲学的存在を映画館の暗闇のなかに縛りつけながら映写機の放つ光条の戯れにおいて震撼させつづけることになった、あの「先行する知」における「知っている」とも「知らない」とも、見覚えがあるともないとも、いずれとも断定しがたいデジャビュ的ジャメヴュとでもいいたいようなあの時間錯乱といったものは、ハイデッガーには金輪際知るよしもないのだろう。むろん、「真理」は、それが生起にあたいするものならばハイデッガーの叙述に呼応しながらその傍らで出来することになるはずで、そしてシェフェール的存在にとってそのような「真理」などはもはや文字どおりの「知ったことではない」ものなんじゃないかとも思うけども、どうだろう。(「映画を見に行く普通の男」を襲う錯乱と寄る辺なさと無能力とには確かにそのような「真理」の前を素通りしうるような強度がともなっているようにも思われたし、その一点においてシェフェールにはそのように言い放つ権利が確かにあるとも思われるけれど、あるいはまったく反対に、そのような人間こそがこのうえなくかけがえのない恩寵として真理のごとき存在の現われをもっとも強く切望しているのかもしれず、そして彼の書く言葉の端々からはそのような気配が濃厚に漂ってきさえしているのも確かだろう。よくはわからないけど、だとしてもそれがハイデッガー的な「真理の生起」とはやや異なるものであること、そのことだけは確かであるようにも思われる)。
 芸術作品の創作および芸術の作品存在におけるアナクロニズム的な時間把握と別のものの存在の生起、そうした点を踏まえておくと、ハイデッガーのこの論文における真理との連関における「無」の問題についてもある程度は見やすくなるかもしれない。この本の叙述のなかで無といったものがそれ自体として話題になることはない。記憶にあるかぎりでたぶん2箇所くらいで、無や不在といったものについてハイデッガーが語っている場面があったはずだけど(メモをとってなかったので今ちょっとそのくだりに正確に言及することはできない)、しかしそれをポジティブに語ってはいなかったはずで、彼の念頭にあるものは徹頭徹尾、存在の空け開けという現実的なものの実現の一点にかかっており、ある場合に無ないし不在は、頽落的で通俗的で投げやりでもある俗人の眼差しが存在の伏蔵において存在(物)の眼前における存在性を見落としつづけるという、見ることの一種の過誤によるものであるというニュアンスで語られていたようにも思う。それとはまた別に、真理の生起における結構において本質として存在することに本来的に備わる物の「伏蔵性」(覆い隠されてあること、くらいの意味で大雑把にしか了解できていないんだけど)ということが確認されており、無や不在に見誤れそうな存在のそのような様態においてそれらの傍らをよぎるようにして叙述が進められている。創作と創作される作品とが無にきわめて近しい場所をかすめて別のものの存在の出来を取り出してくる、そのような伏蔵されてある存在の様態こそは物の物的な存在それ自体だとされていて、これらの存在は形相に対する質料でも感覚諸器官に対する所与の感性的多様性のことでも、あるいは基体や実体に対する属性や偶有性なのでもなく、それを見る者の目の前で見る者の「見守る」という態度のうちにはじめて安らいつつ現われることの可能な、そのような非対象的な受納に対する贈与として存在するものであるとされる(ゴッホの絵画作品に描かれた農婦靴の描写にそいながらそのような物の物的な存在の安らいとそれを見守ることへの贈与が叙述されている)。木彫作品のおける木質な何か、建築作品における鉱物質な何か、絵画作品における色彩的な何か、音楽作品における音響的な何か、詩作品における音声的な何か、そういった作品の作品的存在がそれに付け加わることによってはじめて作品として存在することになるそのような何か、そういったものこそがほとんど不在や無でありながらこれ以上ないくらいに伏蔵されつつ現われる存在の性格だとされている。創作はこれに働きかけ、創作作品はこれに剰余の贈答を送り、そのようにして別のものの別の時間がはじめて存在を開始することになる。ハイデッガーにはいろいろと問題にすべき点が多いんだろうけど、たとえばこのような主張にはほぼ全面的に同意をしてもいいのかなとついつい感じてしまう。要するにとても厄介な著作家だなと、いろんな意味で痛感している。夜も更けてきたのでこのへんで。