風邪の輪くぐり

 めずらしく風邪などひいてしまった。もともと体は丈夫なほうでこれまでの人生おかげさまで大きな病気ひとつせずこれたし、風邪なんかもたぶんすくなくともここ5年はひいてこなかったはずなんだけど。覚えてるかぎりでいちばん最近寝込むほどの大きな風邪やらかしたのは10年くらい前にインフルエンザにかかったときで、以来ほぼ無病息災な感じだった。だもんでなんだかちょっと悔しいというか、むしろ腹が立つという気がしないでもない。ただ風邪ひいたっていっても仕事休むほどのものではなかったし、微熱があって鼻水少々、咳きがうっとおしいくらいなもんで生活にさしさわりがあるほどの症状でもなく、この程度で良かったちゃあ良かった。今もまだ咳きはこらえきれずときおり突発的に出る感じで(「ゲホ!ゲホーッ!」「さ、才野ー!?」みたいな感じ)気管の奥にしつこい痰が残っていつまでたっても胸のあたりがすっきりしないんだけど、この時期本格的に寝込んでるひとも多いんだろうからこんな程度の風邪ものの数にもはいらないんだろうなとは思う。そして『農耕詩』を読み終えた。
 『農耕詩』第I部の文章の圧倒的な読みづらさ、というかおもしろさは作品の読み手の意識を攪拌するかのように殺到する無数のイメージの節度を欠いた連発的な現われとして経験されるけれど、そこで連鎖してゆく文の主語となってる人称代名詞「彼」は自分の体のうちに取り込むべきそれら散発する閃光みたいな諸イメージを同一化とか個体(人格)化とかいった働きとはほとんど関係なく、それらをそれらのまま解放するために身を開いているかのようにすら見える。そこでは人物を特定する固有名は周到に退けられているか、あるいは小さな不一致をつねに確保するような仕方でしか現われず、叙述のなかに描かれる具体的なイメージ、何者かの行為や行状を伝える報告的な文章がしっかりとした固有の輪郭をもった顔のもとにぴったりおさまることはけっしてない。そこにいるのはほかの誰でもなくいつでも「彼」である、という具合だ。フランス革命時の将軍だったり第二次大戦に従軍した騎兵だったりする人物を直接指示する名前が書きこまれるべき欄は空白になっており、この空欄を縁取る影の言表みたいにして代名詞「彼」が小説の言葉のなかに現われている。要するにこれは人称代名詞によるセリー技法の実践みたいなものとして了解できるんじゃないだろうか。シニフィアンとして諸人物の集合すべてに対してつねに最低限一人の超過の指定を付け加える空虚な枡目であるような語「彼」と、シニフィエとして叙述の内容がそこに帰属するべき固有名をもつ特定の人物からつねにあぶれている位置無き占有者としての諸イメージ、みたいな感じで、小説のことばの実践においてそのような異質な二つのセリーが言葉とイメージのあいだを裂きながら、同時に縫い合わせていっているようにも思える。そのような語と語が指し示す内容との不一致が折り込まれた関係はそもそも言語自体に本質的にそなわる働きからくるものであるはずで、たとえばレーモン・ルーセルの作品から同音異義語によるセリーの設立を見出すドゥルーズはそのとき小説言語によるそんなような言葉の権能の現われを認めたであろうし、同じことをフーコーもまたルーセルの小説に固有の手法から引き出そうとしていたように思う。まったく同じひとつの語「彼」が複数の人物だとか異なる時間と場所に起こった無数の出来事なんかをレトリックの力のもとに糾合し差し合わせてゆく。ただしクロード・シモンの『農耕詩』が興味深いところは、そこに歴史のなかでの崩壊だとか解体とかいった作家固有の作品モチーフを重ね合わせてるところにあって、でも同時に、その戦争における敗退や潰走の経験だとか事物の死や腐敗だとかいった大きな意味でのなだれの止めようのない進行過程を描きながらも、当のその言葉自体はといえば、しかし読みつぐほどにいよいよ盛んに繁ってゆき、甘美なまでに見事なイメージを紡いでいっているというところにあるようにも思う。

 ……おーなんか頭がうまくまわらないな。考えたことを言葉に置きなおすのにやたらと難儀する。以下、書き始めたとき考えてた文章の流れのアウトラインだけでも。崩壊と循環のサイクルを描くクロノス的な時間とウェルギリウスの『農耕詩』に読めるオルフェウスの物語のなかでの供犠や蜜蜂の再生の関係、その循環から零れ落とされる八つ裂きのオルペウスと冥府落ちのエウリュディケ、『歴史』とか『フランドルへの道』で描写される死馬の描写のおもしろさなんかを再確認して、そっからもっかいドゥルーズを参照しつつ一回で過去と未来の両方向に同時にそれて事物に固着した現在を薄っぺらに縮減してくイメージのアイオーン的な時間のありさまを示唆してみて、そこに『ファルサロスの戦い』でのアキレスと亀エピグラフとかそこでの描写を振り返ったりして、とか、本作での将軍と将軍の弟、将軍の息子との名前における類似的な関係性を考慮しつつ上述の人称代名詞「彼」とのかかわりからこれを考え直す、とか。そんな感じの記事にしてみたかったけど、気力が尽きた。ちょっとそこまで辿り着ける気がしない。あったまってとっとと布団に入るべし。
 
 こんな夜は優しい歌声に耳を傾けるのです。さねよしいさ子で「風の輪くぐり」。