ボルヘス『ブロディーの報告書』

 収録されている短篇ほぼすべてを通じてテンプレのように踏襲されている説話的な決まりごと、あたかもそこで語りが開始されるにあたっては欠かすことのできない、それがある種の儀式か誓言でもあるかのような厳格さで、この短篇集のボルヘスによって律儀に守られている伝聞形式の予備的な構築といったものがある。聞き書き、伝え話、二次情報の報告、打ち明け話、手稿の写し書き、又聞きの採録……等々、語りの間接性と媒介性へのあからさまな傾向がボルヘスによって物語の内容に入る以前の段階で早々と組織される。「わたし」一人による独創や彼の直接的で特別な記憶にもとづく固有の体験談によっては、話者「わたし」は何ひとつ語りだそうとはしないだろう。表題作である「ブロディーの報告書」での出来事そのものを運ぶ語りのルートは、おそらく四重の、ないし五重の段階(空間的かつ歴史的でもあり、純粋に形式的なものでもある、複数の隔たり、段差)を含んでいる。作者ボルヘスによって興味深い人類学的な一事例として最終的に採用されるに至るまでに、この仮構されたフィクションの連絡通路は、一次的な直接的経験(19世紀にアフリカ中部に派遣されたスコットランド人宣教師の体験)から、その当事者である人物によって人類誌的な記録として書き留められた手稿の水準へと事態を移行させ、さらには、遺失されていたこの手稿を後年発見するボルヘスの親友の偶然のお手柄というクッションともなる機運を得てようやく、この報告書いっさいの言葉をスペイン語で翻訳しここに上梓すると宣言する、作品冒頭の作者ボルヘスの言葉へと通ずることになる。事態は念入りに構築されているが事がらはこれで収まるわけではない。おそらくこの上にさらに、一篇の全体が、そのパロディーとしての作品の性格を全面的に負うことになるスウィフトの『ガリヴァー旅行記』の言葉へと全脈絡を開いていることが前提となっているからだ。説話的な形式性は以上のようなケースを範例として、作品集の全篇を通じてこのような間接性、媒介性を義務づけられているだろう。(幾つかの例外的な事例にかんしては後に、また別に語ることにしよう)。
 わたしたち読み手はそこに、語りの階層的な間接性において、作品で語られるもろもろの事がらへの真実味の付与、信憑性を担保しようとする予備的しぐさの一々を見取ることになるのだろうか(聞き手にとっては「わたしの見た宇宙人の話」よりも「わたしの友人が語る、彼の見た宇宙人の話」の方が、おそらく幾分かは、より「真実味」がある、というように)。確かに、伝聞調の説話形式が語られる事がらの真偽の決定を曖昧に存置することは一般的にそうといえる。そしてこのあやふやな定かならぬ真偽のほどが、偽であることが決定できないかぎりで真でありうることをそれとなく仄めかし主張しつづけることも確かであるように思われる。語りの形式が喚起するこの択一の未決定な曖昧さの水準で、ボルヘスはしかし明確に、判断されるべき物語の事がらの「偽」を突きつける。作者が説話形式の水準でしつらえる語りの階層化、媒介性へのこの執拗な示し合わせは、順列化された出来事の内容そのものの最深部、語りの形式が遂行する物語の運搬に対してその語られる肝心の内容である運搬物に、対象としては語りえない亀裂や空無を刻む線が走っている。語られる物語の事例において生じるこの空無の混入には、そのひび割れをまぬかれる例外的ケースがない。観察される作品のあらゆる場合に、語りの遂行にとって部分的であり致命的でもある小さな欠如の穴が穿たれていることが指摘されるだろう。真実性はこのごく軽微な亀裂においてその有機的な全体を取り壊され、なし崩しにされる。「ブロディーの報告書」において語られることのなかった真実を穿つ空隙の核心とは、すでに述べているとおり、そのメタテクスト的なパロディーの性格から、フィクションが別のもう一つのフィクションから無理やりに引き出すところのものである。この場合、話者はスウィフトの『ガリヴァー旅行記』の名前を口にすることを固く禁じられるか、あるいはそうでない場合、真実味の前提として、このフィクションが実際はフィクションではなかったという明白な嘘(読み手をけっして騙すことのできない不能の嘘)を真実めかしたフィクションとして差し出すかしなければならない。選択肢は二つだが、いずれにしろ帰結は一つである。つまり出来事の嘘、対象をけっして指し示すことのできない虚構の言明を口にしなければならない。「マルコ福音書」ではこの空無の核心は物語の中で黙したままでありつづけながらそこで起こる事がらいっさいを使嗾し、出来事を贖罪的な帰結へと導くことになる「聖書」に書かれた言葉の朗読という形をとって、イエス磔刑のレプリカを(反)実現する。これは反復される歴史のパロディーとしてその指示物を欠いたフィクションの言説的形態と、しかしその単なる虚構性を超えて厳然たる効果を現実にもたらす、一個のユーモアの力として見出されるような欺瞞性の現われである。反復をもたらすこのようなユーモアの力の描出は「めぐり合い」や「老夫人」にも同様に見出されるものであるが、とりわけ「別の争い」こそが掌中もっともその効果を強く発揮させている作品である。物語の主人公である「百年前」の出来事の当事者とその目撃者、複数の伝聞の仲介者を挟んで執筆者であるボルヘスへと至るまで、この作品にもまた説話の圧縮的な儀式的ポーズの幾つかが見出される点についてはすでに省いても構わないだろう。確認しておくべき点はそこでの反復の様態の描出に尽きる。ナイフによる決闘といった現実の対峙において決することの適わなかった仇敵同士の雌雄の帰趨が思いもよらぬ別の形でついに決着の日の目を見るということ、つまり男たちの喉もとにぱっかりと開いた致命的な傷口において彼らの死と同時に反復が可能となったということ、この出来事の実現と同時にまた、残忍さと踵を接して(しかしその情欲的側面とは断固として峻別された形で)ユーモアがおのれの乾いた笑みを笑うこともが可能となるということ、少なくともボルヘスはそのように事がらの全体を観想していること、その点だけが確認できればよい(《……大胆で冗談好きな悪党として名をとどろかせたフアン・パトリシオ・ノーランの噂は、たしかあなたも聞いているはずだ……》)。
 わたしたちはまた、この「別の争い」という掌編から、出来事や事件の当事者、行為者といった概念を、すでにその一般的で常識的な了解の範疇からは遠く隔たったところで理解しなければならない可能性を学ぶ必要性が生じていることにも気づかされるだろう。死における、死に向かう、死に追い立てられる徒競走、直後に這い寄る死に踵を踏まれながら敢行される、数秒後に確実にひかえる死に向かうこの致死的なレースの二人の出走者においては、しかしその勝敗の帰趨が双方いずれに落着することになったのかはついに知れることのないまま落命をむかえる。行為の行方を見、聞き、あるいは語り伝え、書き継ぐことになるのは、行為者たちの生き、死んでゆく地平とはまったく別の場所にあって、別の資格と身分、別の時間に生きてある者たちの営みである。出来事の核心に穿たれた空無であるひび割れはこのような仕方でも語りのセリーにその痕跡を刻みこむ。すでにボルヘスは語っている。《……あるできごとを告白するのは、その行為者たることをやめて証人となることだ。できごとを見、語るが、実際に行った者ではない人間になることだ。》(「グアヤキル」)。つまり行為者は語りにおいてある欠落を生きる、生きて死につつあると、そうも言い換えることができるだろう。語りが孕む空無の核とは行動者たち、当事者たちによる出来事のこのような(反)実現の効果が発生する、紙より薄いこの表面の場所のことでもあるだろう。
 そこから、出来事が同時に過去と未来、あるいは語られるものと語ることとの二重性に分岐し分割する時間の二方向でのベクトルが生じることにもなるだろう。私的であると公式の歴史であるとを問わない出来事の回想(たとえば「ロセンド・フアレスの物語」や「争い」、「フアン・ムラーニャ」といった作品の説話形式)や過去の遺物(たとえば「めぐり合い」における二本のナイフのもつ説話的効果)、残された言葉(「マルコ福音書」での聖書のような)、残らなかった言葉(遺失したルーン文字のような碑文や言語の混淆によって侵食され忘却された祖父の話し言葉など)といった、この短篇集に見られる幾つかの細部要素が提起する問題とは、この出来事の二重の時間にかかわるものであるはずだ。語られるべき対象、父祖の世代に属する人物たち、有名無名を問わない文献の中の事績、反復されるべき過去の事件といったものは、すべてそのかつてあった形質や状態、状況の中に、忘却や遺失、非知のごとき語りえない空無を抱え込んでいる。語りの混信したセリーはそこから、実現されるべき出来事の発信する記号を受け止めるために、身を持して待機の姿勢を構えつづけている。《闇にうごめいていた物語は闇に消えるべきである。》(「争い」)。ボルヘスがあるとき弄したこのような言辞は決まり文句めいた一種の韜晦にしか聞えない。つまり語ることとは、このような《闇にうごめ》く言表を闇のままに、闇を充分に含ませながら、闇の領分のものとして現働化させ、出来事を受肉させること、それにほかならないからであろうからだ。別の口でボルヘスの語った《文学とは統御された夢である》とは、そのような謂い以外の何物でもないはずだ。……周知のとおり、ボルヘスの後年を襲った失明という出来事は、口述筆記の手助けなしには行われがたい文学活動へと必然的に作家を導いた。さらに新たなセリーの増設、新たな語り=エクリチュールのセリーが付け足され、分節化が起こったというのだろうか? おそらくはそうなのだろう。ペンを執るべき《手足を欠き、盲目で、傴僂であるが、無限の力をそなえている》(「ブロディーの報告書」)そのような者、備わるのは《無限の力》ではあるがさながら無力な敗者、ナイフを胸に突き立てられ蒼白の表情で瀕死にあえぐ者のような、そのような反-神のごとき作家が、死児その者としてそこに誕生したのではなかったか?

 「お前の迷路には三本、よけいな線がある。ギリシアの迷路を知っているが、これは一本の直線だ。その線のなかで、じつに多くの哲学者が迷った。一介の刑事が迷ったって、ちっともおかしくない。シャルラッハ、生まれかわってまたおれを追うときは、A点で犯罪を犯すふりをしろ(あるいは犯せ)。それから、A点から八キロ離れたB点で二番目の犯罪を、A点とB点から四キロ離れていて二点の中間にあるC点で、三番目の犯罪を犯すんだ。そしてそのあと、A点とC点から2キロ離れていてやはり中間にあるD点で、おれを待て。いまトリスト=ル=ロワでおれを殺そうとしているように、このD点でおれを殺すんだ」
 「この次あんたを殺るときは」と、シャルラッハは答えた。「一本の直線でできていて、目に見えなくて、切れ目もない、迷路で殺るよ。約束する」
 彼は二、三歩後に下がった。それから非常に慎重に、ピストルを発射した。

「死とコンパス」(『伝奇集』)