ゾラ『居酒屋』

 小説のドラマの水準には度を越した過大があるように思った。主人公である洗濯女ジェルヴェーズの汚辱にみちたむごたらしい死で終わるこの物語は、彼女の人生からの転落と道徳的な廃頽を克明に追って、その叙述により、際限のない極大化にいたる過大な負荷をかけられている。ドゥルーズに「ゾラと裂け目」という『獣人』を論じた文章があった。ドゥルーズはそこで、ゾラの作品におけるプロレタリアートたちのその生活と運命をつらぬく、永遠回帰的な力動の存在を見いだしている。端的に「裂け目」と呼ばれ、あるいは諸本能に対する「死の本能」、「小遺伝」に対する「大遺伝」、個別のドラマに対する普遍的な「エポス」(叙事詩)などと呼びかえられていく、同じひとつのできごとを舞台の上と下での二重のテーマに分割してみせるドゥルーズの視力は、ジェルヴェーズの生において彼女を圧倒することになるこの過度に大きなできごとの膨れ上がりをも、「二重帳簿」の同じ語彙と概念でもってルーゴン-マッカール家の系統図に差しあわせることになるだろう。≪(…)誇張が過ぎると作家を非難する者に対して答えるためのロゴスを作家は持っていないが、そのエポスを持っている。エポスの語るところでは、解体の描写において行き過ぎるということが決してないのは、裂け目が行くところまで行く必要があるからである。≫。『居酒屋』を前にしてその叙述の「誇張」を非難の口実にする者に対するドゥルーズの反駁のことばが、ゾラがそこでおこなった営みへの彼らのあまりにも「過小」な見積もりによって対置されているという事情は、ここであらためて共有されてもいいと思う。少なくとも、ご都合主義だとか予定調和とかいった物事の適度や了解可能な常識によってはかられる尺度に対して、テキストで起っていることは確かに並外れたものを抱え込んでいる、度を越してしまっている。『ジェルミナール』の文体を分析する『ミメーシス』のアウエルバッハのように、それ(≪彼のいささか大味な強引な想像力のために、誇張、乱暴な単純化、あまりにも唯物的な心理学に陥っている、と非難すること≫)を留保つきでいったん認めたうえで、ただしそれは、未来の≪社会改革について蹶起を促す檄文≫でもあり、同時代の芸術的な要請に自然主義文学が答えてみせた「様式混合」の見事な達成物である──、そんなふうに「表象的体制」のことばの枠内でできごとを位置づけ、アンカーを打ちこんで固定してしまうことも、たぶん不可能だろう。ドゥルーズの繊細で大胆な思考が透視してみせた、作品を「二重帳簿」的なエピックとして読む視点、それを全面的に受け入れるか否かにかかわらず、ジェルヴェーズやクーポーといった人物たちがここで一身にしてルーゴン-マッカールの系統の全体を背負い、プロレタリアートの血と階層全体があおるアルコールの総量を注ぎこまれる、その均衡を欠いた過大な膨れ上がりを、テキストに確認することは難しいことじゃない。ドラマの水準においてリアリズムを破綻させているのは節度を欠いた「誇張」のためではなくて、描かれようとするできごとそれじたいの水準でリアリズムの理念を決壊させずにはおかないもうひとつの、ほんとうの理念が、できごとの全過程を極大化の運動において支配しているからだろう。その真の理念的な水準において「誇張」は過小と同義語になる。行くところまで行っていない者たちを置き去ることばになる。
 こうしてドラマの水準でゾラの叙述は物語の穏当な経済と運行をはるかに裏切って、その成果と効果において過大の方へと大きく反り返っていくだろう。同時に、物語をその極大化の成果へと運んでいく因果関係の諸要素の連絡の局面において、知覚不可能で閾値にまで達しない微小な因子が表象の表面のあちこちに着床していく。

 「あんたは幸せよ! おかみさん」とビジャールのおかみが言った。彼女の亭主は飲んだくれの錠前屋で、毎晩帰ってくると死ぬほど殴りつけるのだ。「うちの亭主が酔っぱらって、こんなふうなら、かえって楽しいようなものよ!」
 ジェルヴェーズは気持が落着くと、さっきの仕打ちを後悔した。手をかしてクーポーを立ち上がらせた。そして、笑って頬をさしだした。ところが、ブリキ屋は人前もはばからず、彼女の乳房をつかみ、つぶやいた。
 「そう言っちゃなんだが、おまえの下着はだいぶ臭いぞ! それでもおまえが好きなんだ!」
 「放して。くすぐったい」と、もっと強く笑いながら叫んだ。「いやらしい人! こんな馬鹿な人ってないわ!」
 彼は放さなかった。彼女は洗濯物の山のために軽い眩暈をおこし、クーポーの酒くさい息もいやとは思わず、身をまかせていた。彼らが商売のよごれ物のなかで、口いっぱいにかわした接吻こそが、ふたりの生活が緩やかに崩れてゆく、最初の崩れのようなものであった。

 この場面ののち次第に進行していくジェルヴェーズとクーポーふたりの生活の、その廃頽の最初の兆候が、ジェルヴェーズの営む洗濯屋の繁栄と家族の生活の幸福の盛りの時点ですでに兆しつつあることが、話者の視点から先取り的に予告されている。ランシエールが「表象的体制」の作動させる幾つかの抑圧のプログラムについて語るように、了解可能な知と行動の因果的な連関は、叙述の構成するテキストの平面に許容可能な範囲でおさまっているようにも見える。そのような見かけを授けるパースペクティブは、ルーゴン-マッカールの「大遺伝」、プロレタリアートの運命を端から端までつらぬく舞台下の「裂け目」の存在によって、ドゥルーズとともにほかならぬゾラじしんによっても大域的に確保されているものだろう(≪わたしは、パリの場末の汚濁した環境のなかでの、ある労働者一家の避けることのできない転落を描こうとしたのである。酩酊と怠惰のすえに生れる家族関係の解体、卑猥な乱倫、誠実な感情の加速度的な忘却、そして、あげくのはての汚辱と死。これこそ、生きた教訓なのだ。それ以外のものではない≫)。ただし、なおそこには、叙述の連鎖させる因果的な影の形態において、わたしたちにはそのありかをけっして見定めることのできない知覚不可能な微小な鎖のかけらのようなファクターが漂いつづけていることも確かだろう。大域的に卑猥で頽廃でもあり、怠惰による転落をあらかじめしるしづけ、同時にしかし、局所的にはなけなしの幸福と無邪気な享楽のちょっとしたマークにすぎないこの「口いっぱい」の接吻が、それそのものとして、大きな帰結の「避けることのできない」衝迫と運命の見えない連結の対象をかたちづくるということ。遺伝と環境と時代がその下部で混じりあうことになる「裂け目」の大装置から、エクリチュールの因果的連鎖の継ぎ目にむけてそれを破断させるように無数に射出される微小な細部の反描写的な描写がここにはあるように思う。物語の説話的な連鎖をほころばせながら繕うものでもあるその細部描写は、たとえば、母親ジェルヴェーズの前夫との同衾の場面を目撃してしまう娘ナナの、「性的な好奇心でぎらぎら輝」く「いたずらっ子らしい大きな目」にも見いだすことができるだろう。この場面がトラウマ的に作用してその後のナナの不身持ちを説明するものとしてナナじしんの口からあらためて代弁(再説)されることがあったとしても、その事実は物語の舞台の上でプロレタリアートの「小遺伝」や環境が再現するドラマの割り振りをそれらしく説得させるだけであり、ナナのぎらぎらと輝く大きな目の対象描写は、知と行動の因果的連鎖を過不足なく埋めることなくそれをぽっかりと開口させたままにおく。諸行為において知ることと見ることとが連携してかたちづくるドラマの因果的な部面を支えるパロールに、疎隔や飛躍を伝達する(欠如を伝達する、または、伝達されるものをもたない伝達それじたいを伝達する)知覚不可能なサンタグムの破片が混入している。クーポーの血のなかに徐々に浸透していくアルコール濃度の日々の差分がついに計られることができないように、また、ジェルヴェーズの抱える汚れものの山の発散する臭気が洗濯屋の内部で人知れずその濃密さを増していくように、『居酒屋』のドラマを極大化へと運んでいく叙述の鎖は、微小な開き目の無数の重ねがけと、それが知覚されないままいつのまにか結実させることになるできごとの大きな変異とを、実現していく。
 ドゥルーズの『獣人』論には「<大いなる幻影>」という叙事詩的な象徴について説くくだりがある。ゾラのどの作品においても姿を現わし、その機能としてドラマの舞台上での人物の振る舞いや諸状況の推移を(諸行為が演じる、見えるものと知ることの過程を)、舞台の下の水準で割り当て、配分することを可能にするエクリチュールの隠れた作用的な機械装置がそれだ(『獣人』における機関車)。それが叙事詩的だというのは、それがちょうど、死すべき者たちが演ずる舞台の背後にあって、これらの冒険を賦活する神々の上演がそこにつねに確認することができるという類比において、ゾラの作品に、諸本能と死の本能との二重帳簿的なエポスの様相を指摘できるからだ。またそれが、「幻影化された対象」ないし「象徴」と呼ばれるのも、それがパロールにおいて現われるがままの客体的で対象的な次元にとどまることがなく、エポスの二重性、多義性において、見えるままの姿であるよりもさらに大きなもの、見えるところと言われるところにはけっして現われないもの、リテラルな言表内容よりもつねに余分に何かを語るもの(ないし、正確には、死の本能の特質により、つねに沈黙しつづけるもの)等々であり、そのパロールの均衡を崩すもろもろの特性が、ドゥルーズに事態の把握をそう促すからだ。『居酒屋』においてこの「<大いなる幻影>」の形象におさまるべきものを、「コロンブおやじ」の居酒屋の中庭に据えられた大きなアルコールの「蒸留装置」に見て取ることができるかもしれない。

 やがて彼女は立ちあがった。(…)彼女が奥のほうの樫の仕切りの向う側にある中庭のガラス張りの屋根の下で動いている赤銅の大きな蒸留器を見にゆきたくなったのだ。ブリキ屋は彼女についてゆき、指で装置のあちこちをさし示し、巨大なレトルトから透明なアルコールの糸が流れおちるのを見せて、どんなふうな仕掛けで動いているかを説明した。蒸留器には奇妙な格好のガラス容器と、ぐるぐると数限りなく巻いた管がくっついていて、陰気くさい外見を見せている。煙ひとつ出ていなかった。内部の空気の動く音と地下の唸りがごくかすかに聞こえてきていた。陰鬱で強力で寡黙な労働者が真昼間にやっている深夜作業という感じだった。(…)銅器の鈍い光沢の蒸留器は炎ひとつあげず、陽気な影ひとつ見せず、ただひっそりと働きつづけてアルコールの汗を緩慢で執拗な泉のように吹きだしていた。そのアルコールの汗は、この部屋を浸してからあふれ出て、郭外大通りの上にひろがり、パリという巨大な穴じゅうをいっぱいに満たしてゆくこととなるなんて。ジェルヴェーズは戦慄を覚えて後退りした。

≪居酒屋≫の前につっ立ってジェルヴェーズは考えこんでいた。ほんの二スーでもあったら、一杯飲みに飛びこむんだけれど。一杯でもこのすきっ腹の一時おさえにはきっとなるだろう。ああ! 前にはずいぶん飲んだわね! やっぱり楽しい思い出だった。彼女は遠くから酔っぱらわせ器械にじっと目を注いだ。自分の不幸のもとはあれだと思った。もし金が手に入ったら、ブランデーをあおって死んでやろうと夢想した。髪の毛がぶるっと震えた。気がつくと夜は真っ暗だった。

 ドゥルーズは幻影化された対象としての『獣人』の汽車の、その幾つかの機能について言及し、≪それは、何も見ず音も立てぬ純粋な<死の本能>である。汽車は騒々しいものであるが、それでも汽車は音も立てない沈黙である≫と語っている。ドゥルーズのこの記述に即して、汽車と「酔っぱらわせ器械」との同質性は見やすいものになるだろう。ただし、ドラマの不当な極大化と叙述の連関の微小な差異化という逆行する二つの傾向において『居酒屋』を読んできたここでは、この「蒸留装置」を、前二者を特徴づける運動性と性向とにおいてそれらから区別される、ある不吉で、不動なままにありつづけるなにものかとして捉えなおさなければならない。それを「<死の本能>」というフィクションの外部に流通の拠点をもつ語彙でもってあらためて表現する必要は特に見当たらない。またしかし同時に、ここでのドゥルーズの術語がまったく不適当であるという積極的な理由もいまのところ見当たらない。それを明確に名指すことばは、今はまだ用意できない。だからここでは当面、ドラマの総体とそれを動かす叙述の運動、その記述のなかに埋めこまれた細部としての異質な対象、この三つの性質の異なる混じり合わないものたちを、それぞれにそれぞれとして指差すことで満足しておかなければならない。それはともかく、自然主義の理念はこの過当な極大化と過小な差異化とのあいだで引き裂かれてじぶんじしんを裏切り、あるいは正しくも、ゾラの『居酒屋』において、その真正の姿の一面を取り戻すことになる。