フローベール『感情教育』

 これはめちゃくちゃおもしろい小説だった。……と、書き始めたのはいいけど、じゃあどこがどうおもしろかったのか?と人に尋ねられたら、さっそくことばに詰まってしまう。ちょっとおもしろさの規模がでかすぎる気がする。(読んでるこっちの身の丈が、そこでフローベールのテクストが要請する読み手の資質や素養みたいな条件にかんしてあまりにも足りていない、追いついていないことを強く感じる。小説を読むことはいつでも自分の卑小さを再確認するマゾっぽい体験ではあるけれど、『感情教育』に接してみてはとくにその感が強い。お手上げ)。個別には言えることがまったくないわけでもない。まず、文章が圧倒的にうまい。たとえばこんなくだり。

(……)こんな恥をかかしてフレデリックは間が悪かった。ほんとうのことをいうのに気がひけた。やっと、急に思いついたような声でいった。
「ああ、そうだっけ。忘れていた」
「なんだい?」
「今晩はちょっとよばれているんだ」
「ダンブルーズの家かい? なぜ、手紙にそれを書いとかなかったんだ?」
ダンブルーズではなくて、アルヌー家である。
「ちょっと知らせてくれればいいにさ。そしたらぼくも一日遅く来るんだのに!」
「そりゃ無理だよ」フレデリックぶっきらぼうにいった。
「今朝になって招待されたんだもの。ついさっきのことだよ」
そこで自分の不始末のつぐないをし友人の気をまぎらすために、彼はトランクのこんがらかった紐をといてやり、その手まわりの品物をすっかり箪笥にしまい、寝台をあけわたして自分は物置部屋に寝ていいといったりした。そして四時かっきりになると身支度をしはじめた。
「まだ時間はあるよ」も一人はいった。
ようやく着替えを終わって出ていった。
《これが金持さ》デローリエは思った。
で、彼はサン=ジャック通りの以前から知っている小料理店へひとり食事しにいった。
フレデリックは階段の途中で何度も立ち止まった。それほど胸の動悸がひどかった。(……)

(岩波文庫感情教育』上巻73頁)

 主人公フレデリックがパリでの生活の無聊と孤独から懇請して自分の下宿に呼び寄せた同郷の親友との、たぶん一年ぶりくらいの再会の場面。フレデリックには以前から思いを寄せる夫人があって、場面の直前のくだりではそれまで容易には近づきえなかった彼女の自宅へとついに足を踏み入れるチャンスが僥倖のようにもたらされたことが触れられているけれども、そこで引用場面は、女と親友とのあいだでためらうことなく女のほうを選ぶフレデリックの、友人を適当にあしらうその恬淡さ、すでに女へと向かっているこころの性急さなんかが、友人どうしのごく短い会話のやり取り、会話文と地の文とで齟齬をきたして対話をまったく形づくらない交差的な形式でもって、ものすごく巧みに表現されている。なにげないけれど、省筆のきわみみたいなものすごい文章だ。小説を書こうと思ったことはないけど、これは自分が同じ場面を処理してみようと想像するだけで、ちょっと思いつかないし真似もできない筆の運びだと感じる(フローベールに対するリアリズムの完成者みたいな評価は、こういうどこかしら夢のような素早さをもつ文章を読んでしまうと、それじたいではちょっと納得しかねる。エクリチュールは現実らしさを再現しているんじゃなくて、エクリチュールこそが紙の上に現実を夢のような厳格さで紡いでいるようにすら感じる)。
 フレデリックという青年の人物造形もおもしろい。芸術や文学で身を立てようという漠然とした夢を抱いてパリへとやってきた若者が、社交界での交わりを通じてしだいに遊蕩や女漁りの楽しみを知り、ついに思わぬ遺産相続から大金をえて、じしんプチプルのひとりとして功名を遂げていく。このフレデリックの性格の特異さとして、たぶん、他者の代わりを務めることという特性を見出すことができるようにも思う(正確には、他者の代わりを務めることに失敗しつづけることという事態を引き受けるように見える)。若者らしさにふさわしくなにごとにつけ体面を重んじるフレデリックは、しばしばその性格や情緒に導火されるような場面に遭遇するとにわかに激発する。想い人である夫人の主人アルヌーや彼の友人知人の誰かひとりといった人物が、当の彼らの不在の席で侮辱されたり批難される場合、彼じしんこそが当の彼らをもっとも憎むひとりですらあったとしても、彼らに代わってその場で反論したり怒りを示すのはフレデリックその人であったりする(命をかけて馬鹿げた決闘すらおこなう)。あるいは、アルヌー夫人と娼妓であるもうひとりの恋人ロザネットのあいだで振り子みたいにふらふら誘引されつづけながら不決断と決断、その撤回を繰り返すフレデリックの恋愛全体が、夫人の夫であり情婦の先行的な所有者でもあるアルヌー氏の色事を周回遅れで代行しようとするものとして見ることができるだろう。スタンダールの主人公たちの間男的振る舞いが、子(息子)をなすこととして仮初めにも事態を成就していた場所で、フローベールの『感情教育』は、フレデリックを代行(間男行為)の失敗者としての独身者の身分としてそこに放置する(ロザネットとのあいだにもうけた息子はすぐに亡くなり、その横たわる死のさまを描いた醜い絵画=表象の失敗物としてだけかたちに残る)。おそらく作品におけるそのような徹底した代行-表象の失調性はフローベールによって確信的に企てられてあって、フレデリック二月革命直後の代議士選任の選挙で、当然のようにこれにも失敗する。19世紀半ばのフランスの動勢を描いた時代史としてもある作品全体の時間的な流れが、ルイ・ボナパルトのクー・デタの時間でひとまず結ばれているということも傍証のひとつかもしれない。主人公の造形はフランス近代史の現実と相即するものとしてあって、するともう、悲しいことにここから先のことは教養のない自分にはさっぱり理解できないことに属する。能力的にここが限界。
 ともあれ、最初に書いたとおり、この小説はめちゃくちゃおもしろい。人生の時間の一部をこれを読みつづけることに割いてもまったくかまわないってくらいににおもしろい。それだけ『感情教育』という作品がその底に蔵しているものは豊かだと思う。まだまだ読めていないことがたくさんある。なにより読んでて笑えるところがいいしね。たとえば、『ドン・キホーテ』を読んで、大笑いして、またホロっとくるような感性の人でまだこの作品に目を通していないならば、是非読んでもらいたい。唐突に名前を出したけど、表象(の臨界)みたいなことが気になってて近代小説を手がかりに何か考えてみたいならば、『ドン・キホーテ』同様フローベールは外せないっていう感触が強烈に感じられる。おもしろい。凄い。