伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』

 三好銀クロード・シモンの新刊がとうとう出たようだけど、今月はもうそこにまわせる金子がねえです。財布すっからかんだ。煙草や缶コーヒー買うにも難儀してて、灰皿にたまったシケモクを漁るという、あさましさのかぎりをつくす惨状が、いまわたしを襲っている(あ、部屋にある自分の灰皿をってことね。さすがに公園にある灰皿を物色するとかいうことではない)。なんだこれ、どんだけなんだよこれは。もう土管にでも住むことにしようかな。
 
 今週は四方田犬彦の『漫画原論』を読み終えた流れでマンガ評論つながりってことで伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』の方も読んでみた。どっちもおもしろいし刺激的だし勉強になる。『漫画原論』の方は表象文化系の著述に特有のかおりというのかな、蓮實っぽいちょっとなつかしい感じの文章で、内容的に「これは鋭いなあ」とか「そこは気づかなかった!」ってハッと思わせる箇所も多々あるんだけど、趣旨としておおむね「ですよねー」って完全に同意する感じで読んだ。だもんで、読み終えても実は頭にくっきりと印象が残っているという部分があまり多くない。小さい章ごとに主題を変えてって各論を積み上げながら書物の全体像をかたちづくってくという軽やかなスタイルの本なんで、そこらあたりも印象の希薄さにつながってるのかもしれない。しかしまあ著者はマンガを応接する態度において「愛好家」を自認してるわけなんだけど、学殖の該博なさまとかそこで参考されるいちいちの資料に対する書誌的な博捜の確かさとか、これはまさしくプロの仕事以外の何ものでもなくて、そこらへんの経験に裏打ちされた論述の厚みにはただただ賛嘆するしかない。この人ほんとマンガ好きなんだなって感じる。四方田犬彦にはほかにも白土三平を論じた作家論があるみたいだけど、そっちの方もぜひ読んでみたいと思った。いずれ購入する。
 『テヅカ・イズ・デッド』の方はうってかわってすごく挑戦的でポレミカルな著述という印象。書物の論述全体がヘゲモニー闘争のための武器でありそのための舞台であるという感じすらする。たんに既存の権威的な言説を卓袱台返しの対象にしてるとかではなく、ちゃんとそこからリスタートして進むべき道筋の大きなラインを提示しているところが立派だなと思う。マンガの評論にかかわるそこらへんの舞台の事情がうっすら透けて見えてくる感じもしたんだけど、いろいろと大変なんだろうなってことは門外漢なりに察した。ここで主張されてる論述の内容がとてもおもしろいものなんだから、一読者としてそれ以外のことにはあまり興味がない。ただ、あらゆる意味において言説の純粋な内容とその背景になってるモヤっとした事情とが截然と分けられるなんてことがあるわけはないし、特に、自身の言説がまさにそこに組み込まれてるマンガの歴史(表現史)そのものをあらためて問い直そうとしているこの書物のような状況介入的なこころみがそのようなお手軽な分離をけっして許してはおかないってことも事がらの必然だろうけども。そこはそれ、純粋に興味を覚えたとこにかんしてだけ感想を。
 ざっくりとした理解だと、マンガの表現史を現在に生成しようとしているこの本の記述における論旨の展開は、過去に見失われたものを新たにふたたび見出すというある種の反復をこころざしているように見える。反復とかいってもそれは歴史の円環をなぞるみたいなこととはまったく反対のことで、手塚マンガを起点にして閉じられた歴史観(それはまったきイデオロギー、失効した虚構だけど)の輪っかを解除して、差異をはらんだものとしての反復をマンガの表現史に見出すって感じになってる。何がふたたび回帰し今ここであらたに見出されようとしているかというと、起源において隠蔽され否認されたものでありながら、しかし現にマンガが描き継がれているあいだ歴史のなかでひとときも消えてはいなかったものであり、マンガの終焉が大合唱されているそのさなかにまさにその異口同音の号令のかたわらでふつふつ湧き上がっていたもの、そのような不埒な現前としての「キャラ」の存在であるということになる。伊藤剛は本文で手順をふんで細かく定義してるけどこの「キャラ」っていうのは端折っていっちゃえば、要するに人間とか人格のようなものとして認知可能なものでありリアリティーを喚起するような図像として紙面に登記されてるような線画的存在のことだ。この「キャラ」が戦後マンガの実践の枠組みのなかで抑圧され隠蔽される。何がキャラを否認したかといえば、それはキャラと対置されるかぎりでの図像としての「キャラクター」的な位相による、と。(この封印の決定的瞬間を捉えて手塚治虫地底国の怪人』を分析する伊藤剛の手腕は抜群に冴えてる。ここのくだりは読んでても惚れぼれする)。では何故キャラクターはキャラを抑圧したのかといえば、そこでもリアリズムの要請によるものだという答えが得られる。キャラクターといったものを表象的な体制における人間的なリアリズムを擬制的にもたらすものだというふうに了解しておけば、このキャラクター的なリアリズムが抑圧するキャラの位相とは(さらにいえばそれは他者に対する抑圧という振る舞いの事実そのものをも隠蔽している)、マンガの紙面における何にも似ていない(外部に指示対象をもたない)、あるいは類似者としてトートロジカルに自分自身にのみ似ている、いわば表象的な馴致から逸れていくモデルをもたないものたちの生息するような、たぶん路上の落書きにも似た猥雑で混濁した始原的な環境ということになる。キャラとは自律的な「前キャラクター態」である、と。この原則的には分類も表象もできない自生する図像の戯れみたいなもののもつリアリティー=強度が抑圧の対象となり、戦後のあるとき視界から一掃されようとする。(例外はあるんだろうけど、おおむねそんな方向で事態の太い幹は伸びていく。ある事例をイレギュラーなものとして周縁に掃き溜め、例外的に存置すること、それが大文字で正典化された歴史の書き込む言説の機能であり条件であるだろう)。戦後マンガ的で表象的体制に属するリアリズムの圧倒的な趨勢の水面下に伏流しながら、90年代以降もう一度マンガの場に帰ってくるのがこのキャラの図像的現存であり、あるいはその強度だけが可能にするキャラクター的位相におけるもろもろのキャラ的(「亜人間」とかとも称されてる)リアリティーである、と。「マンガのおばけ」(=キャラ)は文字どおりのルブナン(幽霊)として帰ってくることになる。リアリズムは旧来のそれとは別種のよそおいか内実をともなって、異なる相貌のもとで反復=回帰する。もはや人間を表象することを本務とはしないこのキャラ的なリアリズムは、では何をもって自身をリアリズム(=自然主義)と標榜することになるかといえば、自分自身への再帰的な準拠のもと(キャラはキャラにのみ似ている)、わたしたち読み手のもつ記憶だとかかつて一度は抱いたことのある情動とかいった、人間が人間であるかぎりどうあっても消去しきれない(とみなしうる)最小限の残余の痕跡みたいのものを陰画的な囮のようなものにして、これをマンガの経験の質的な場に吸着させることによってである。リアリズムはバラバラに断片化されたものだとか空っぽの器みたいなもの、あるいはぎゅうぎゅうにつめこまれて破裂寸前の容器みたいなもの、等々といった、人間の限界付近でかろうじて再認される何かとして経験されようとするってことなんじゃないだろうか(著者はこんな抽象的なもの言いはしてないけど)。つまり90年代以降のマンガの表現史にあって、相似者としてのキャラの現前という事態はもはや表象されるかぎりでの人間を、じゃなくって、残余の、文字どおり「心残り」な何かに似た形象を描くというかぎりでの人間の相似物による寄るべない(「心もとない」)リアリズムを基礎づけるもの、そんなようなものとしてのみ、かろうじて認められることになるのかもしれない。……と、そこまで言ってしまうとこれはさすがに自分の関心に引きつけすぎかもだが、ひととおりこの本を読み終えてそんなふうなことを思った。著者はマンガの表現史に何か一口には言いがたい「懐かしいもの」の帰還とか、あるいはその人知れぬ持続みたいなものを見出そうとしていたのかもしれないけれど、その批評のこころみを起点に道を少しだけ逸らしていって、最低限の感情移入を許容するそのひとかけらの懐かしい「人間」の残滓、痕跡みたいなものとは別の何か、個体としての人格における既知の記憶や感情の状態とはもはや別の何か、少なくともそれが「人間」のものであるとはもう誰にも断定できないようなそんな何かを、マンガの経験のなかから取り出すことはできるのかな、とか夢想した。たとえば伊藤剛は「プロトキャラクター態」としての「キャラ」の識別条件として、ひとつには「固有名によって名指されることができるもの」みたいなことを挙げているけれど、その特徴を人格(のようなもの)の時間のなかでの連続性とか同一化の働きなんかにぜんぶプレゼントしちゃうのではなく、そのようなリプレゼンテーション一般の働きを拒むものの影の符牒として、つまり物語の組織化にもっぱら資することになるものとしてじゃなくて、反対にそのような同一化の機能をなし崩しにしかねない、いわば洞穴に響きつづけるこだまにも似た、何かとても危険な声=しるしとして受け止めることなんかも、これは可能なんじゃないかな、とか思った(耳栓の向こうの空間で無音のまま響くセイレーンの歌声が人間を、主体を立ち上げるわけじゃなくて、左右の耳のあいだで可聴域に反響しつづける同じひとつの呼び声がここに迷路を浮上させる、みたいな。虚空に膨らむ煙のごときパイプの形象、みたいなものとしての固有名の呼号)。……「キャラ」の話とはまた別に、「フレームの不確定性」についての実証的な検討のくだりなんかかもものすごく興味深い。少女マンガの紙面の構成についての示唆とかとても勉強になった。このあたりもそのうちまた読み返すことになるだろうなと思う。(同一化の技法としてのモンタージュにかんする映画理論がけっこう参照されてたけど、ここに丹生谷貴志の『ドゥルーズ・映画・フーコー』みたいな書物を呼び出すとなんかおもしろくなりそうな予感がする。同一化を志向するものとしての映画じゃなくて、「演劇的分身」に対置されるかぎりでの「映画的分身」、その愚鈍な影を映し出すだけの、反-表象的で「パイプ」的なイメージを現前させるものとしての映画。みたいな?)。

 今週のグッドチューン。chicks on speed「we don't play guitar」。