コルタサル『秘密の武器』

 コルタサルについてはアルゼンチンの作家で幻想とか奇譚みたいな作風の短編作者ということくらいしか読む前には知らなくて、ボルヘスっぽい作品を書くひとなのかなくらいに想像していたんだけど、じっさいに作品を読んでみると予想とはだいぶ印象が違っていて、たとえば表題作の「秘密の武器」なんかに関してはボルヘスというよりもロブ=グリエの『覗くひと』に近いような印象がある。(短篇集『秘密の武器』は59年、『覗くひと』は55年にそれぞれ刊行されてるらしく、二人の作者は年齢も8歳くらいの違いしかないらしいので同時代人ということになるだろう)。
 コルタサルのこの短篇集に収められている作品には、ボルヘスの語る物語に見られるような出来事の象徴的で結晶的といってもいい眩惑的な中心的イメージを発生させる説話的な装置や強力な描写の対象といったものこそ存在しないものの、その代わりに、自身が行使している語りの形式に対する強い自覚があるし、書いて読まれるものとしての小説の言説に対する深い省察があるんじゃないかと思う。ここに収められている5つの短編作品すべてがなんらかの形で言葉に巻き込まれた言葉といった言説の修正不可能な不和のような状態を実現しようとしているものに読めるし、その言説の不和、不能状態、失敗する記述のような水準を通じて登場人物たちの狂いはじめるもろもろの行動が描き出されることになるようにも見える。語りの対象として描かれる描写や出来事の状況、人物の行動といったもろもろの再現的な物語内容における水準での狂気や幻覚の徴候、殺人の暗示なんかは、それらが幻想譚や怪異譚を形づくるほどに効果的に描かれるさいには必ず、語りの形式そのものか、または内容で起こる出来事を事前か事後に代表する言語の事故のような事態に導かれているようにも思える。
 5つの作品のうち、「女中勤め」、「悪魔の涎」、「追い求める男」の三篇はジャーナリスティックで状況報告的な一人称の話者による説話スタイルをとっている。「女中勤め」における老いた女中の語る話し言葉採録といった説話の構え、「悪魔の涎」における話者「わたし」を襲う幻覚的体験の人称レベルでの錯乱的構成、「追い求める男」でのルポルタージュ的で日誌風でもある話者の現在の記述(ちょっとビュトールの『時間割』での叙述を彷彿させるような、記述の中断と再開のリズムの展開)。「女中勤め」の「わたし」(フランシネ夫人)が語る過去の回想の言葉は老いからくる現在の身体の衰微につきまとわれているだろう(《手が震えるようになってからというもの何をするのも大儀でね》)。老いによる衰退とそれに起因するものでもある生活の困窮が夫人の物心両面における現在を内と外からじわじわと逼迫している様子を読み取ることができるけれど、行動面におけるこの不如意は語りの遂行されている現在に影響を及ぼすのみならず、話者自身が積極的な役割を果たしている語られる過去の出来事にも勢力を張り出していると言えそうだ。説話はそれを語る夫人その人が出来事の内部でこのうえなく善良で誠実に振る舞えば振る舞うほど、篤実に語れば語るほど、彼女がそこで起こったことの何をも知ることがなかった事実を暗黙裡に語ることになるし、誠実な語りはそれだけに不実で腹黒く、秘密を抱えたものとなるようにも見える。そこでは人物の性格における善良さの特質がそのまま保持されたうえで、その説話的な義務の遂行における愚鈍さの確信、または彼女に対する不信へと読み手を必然的に導くことになる。善良な人物が嘘をついているということではない。善良な語りが結果として不実な人物を作り出しているというのがより正確なように思われる。
 「悪魔の涎」では、語りの作り出すこの虚偽の効果は人物の同一性そのものにまで及び(「ぼく」が語るのか、それとも「彼女」なのか、あるいは描かれる「雲」や「鳩」こそが言表することになるのか……)、見えるものの資格において言葉によって描写された対象をも巻き込んで、その見えるものを、書かれるもの、ないし読むことだけができるものという言説の剥き出しにされた姿に変貌させるように読める。その言説の裸形性は、錯乱した人物における幻覚的な知覚の状態を伝えるものであると同時に、言葉によって見えるものとして差し出されていた対象の可視的な信憑性を償却することによってあらわになる、小説の言語の徹底した可読性としても現れているだろう。一枚の写真に写された被写体が動き始め、未来を演じることになるのは、現実の病理的な臨床場面においてだけではなく、あるいはそれ以上に、対物描写の言語を巻き込むことのできる小説という語りの言説の場においてのことでもあるだろう。狂気に陥っているのは人物である以上に、それよりあらわに、言説の遂行の次元でのことであるはずだ。
 物語の内容を巻き込んで言説自体のそのような錯乱状態を実現するものは、中篇作品「追い求める男」では、話者や人称に張り付いた固有の問題なのではなく、その語りの対象の側へと移行することになるけれど、有能な「批評家」であり優れた「伝記作者」でもある話者「わたし」はそこで、単に言説の行使における有能で優秀なだけのまったき不能状態を味わうことになる。《「ブルーノ・Vがあなたに関する本を書いてますが、もうお読みになりましたか?」「ああ、よく書けてるね」「他に何もおっしゃることはありませんか?」「よく書けているってこと以外何もないね」》。一方で言説の行使は批評家に、他方で行動は錯乱したジャズマンに、という単純な領域の配分と相互の対立関係があるのではない。ノマディズムが強いる行動の不調和、自殺に終わる行動の致死的な行き詰まりと同時に、失敗した言表、言表の喪失というより、失敗としてはじめて顕在化することのできる言説の影の核心といったものがある(「空っぽの骨壷」とか「エレベーター」や「地下鉄」といった、移動や運動可能な容器と内容物との対照が形づくる形象のオブセッションがジャズマンの言表不可能な心象を占める)。麻薬や分裂症によって乗っ取られてあてどを失う行動の失調を、あらかじめ不行動を自身に課す不能の言表者が一般受けするよう分かりやすく噛み砕いて翻訳し、そうして伝記を記述する。その意味でこの中篇作品は徹頭徹尾、言説の中を動いていくものになるだろう。小説はこの徹底した不行動、行動の失調の中から、行動のかすかな残滓のような影の形態を探し出し、取り出すことになると、そう告げているようにも受け取れるんじゃないだろうか。苦悶にも似たこの凝固した姿勢の中から、その中からのみ、行動の零度のようなものがごく稀に現れることがあると、そのように告げているようにも思える。
 「母の手紙」と「秘密の武器」の二篇は人物の過去から現在へと回帰してくる幽霊的な反存在のサインの通達を描くものであるけれど、そこでもまた、徴候は言語の形態をとって出現する。「母の手紙」における手紙の文言の中の小さな書き間違い、「秘密の武器」におけるドイツ語の歌の歌詞や「アルジャン」というまったく身に覚えのないはずの地名の不気味な(ウンヒューミリッヒな)暗唱、同じように不気味なドイツ語訛りのフランス語の発音のどもり、といった言説の不和を徴づける純粋状態の言語が、見知らぬものの再来のサインを発することになる。人物の同一性はしだいにほろこびを広げてゆき、過去からやってくるものがその現在の裂け目に宿りついて、最後にはその場を占拠するにいたる。二個のものが同じ場所を同時に占拠するようにして幽霊が帰ってくる。それはまた、言説のこじあけた裂開が行動の生きた現在をがんじがらめに縛り上げ、新たなこの言説によって、人物と、彼らの営む生に憑依を完成させる過程の進行のようにも読める。

 「あいつ、ひどく痩せたと思わないかい?」と彼が尋ねた。
 ラウラは曖昧な身振りをしたが、その頬をつたって二筋の涙がこぼれおちていた。
 「そうね、少し痩せたわね」と彼女が言った。「何もかも変化していくのよ……」

「母の手紙」

 ……たとえばこんな具合にして、幽霊との共有不可能な時間の中での共生のようなものが始まることになるのかもしれないと、ちょっとそんなことを思った。

秘密の武器 (岩波文庫)

秘密の武器 (岩波文庫)