スタンダール『パルムの僧院』

 『赤と黒』はちょうど2年前に読んでいる。物語の細かい脈絡はすっかり忘れてしまっていて情けないんだけど、当時控えておいた感想を読み直してみたら、『間男の父親をもつ息子が自分じしんも間男として女の前に現われて、おそらく(事実ではなく権利問題として)いずれ間男となるであろう息子の父親になる(彼が父親との関係でそうであったような関係性を、父親としての彼との関係において新たに反復する息子をもつ)。正統な家系や血統のもつ見かけ上の正嫡性は、そんな具合に、いつでも庶子的存在によって斜めに歪められているだろう』、みたいなことを上っ調子に書き綴っていた。ここでの間男っていうのはもちろんジュリアン・ソレルのことだけど、当時そういう妄想ぎみの放言を書いたときには実は、ソレルが(あたかも一家族の家庭に託卵された偽の雛鳥のような)「間男の父をもつ息子」であるという出生の秘密にかかわる部分を『赤と黒』の文章からは直接見つけることができなくて、テキストの記述から否認されたように言い落とされているソレルの母親の非在といったものを唯一の徴候的な傍証とみなして、無理やりそのような結論をみちびいたわけだった。『パルムの僧院』の大岡昇平の訳注によると、しかし『赤と黒』のソレルの庶子的属性(偽られた正嫡性)は、ややこしい理屈なんか抜きに、それなりの注意力のある読者なら一目瞭然に読み取れるものだったらしい。(《(……)しかし彼(スタンダール)は、ファブリスを完全なイタリア人として描いている。ちょうど『赤と黒』のジュリアンを貴族の落胤とほのめかしながら、真の平民として描いているように。(……)》(81頁))。『赤と黒』を読み返して確認はしてないけど、どうもそういうことらしい。……それはともかく、1839年出版の『パルムの僧院』はその9年前に出版された『赤と黒』でのジュリアン・ソレルの出自と行く末にかかわる運命を、新たな主人公ファブリス・デル・ドンゴ小侯爵のうえに再度(今度はおっちょこちょいな読み手にも見落としようの無い明白さで)しっかりと刻み直している。そこでは、北イタリアの小国ロンバルジアの領主であるデル・ドンゴ侯爵の次男ファブリスが、彼の母親とフランス軍の一将校(「ロベール中尉」、ないし「A***伯爵」)とのある日の密通の結実であったという事実が、「明白に」ほのめかされている。そしてファブリスが、彼との成就されなかった恋愛関係にありながら死によって慈悲なく二人が分かたれるまでけっして男を愛することをやめなかったクレリア・コンチ(クレセンチ侯爵夫人)とのあいだに、サンドリーノという名の一人の息子を秘密にもうけえたという事実もまた、見落としようのない記述のうちに黙説的に書きこまれている。間男の父親をもつ息子が、じしん間男として、新たに家系や家庭の関係性を(ただし、斜めに)再生産するということは言えるのだと思う。ファミリーロマンスの三角形を斜行的に横切りながら、それを隠微なしかたで断裂させ、同時にそこに、分裂の痕跡をつくろうような幕をはって(見かけ上の)不滅をもたらすものこそが、スタンダールにおける間男の権能であるのかな、と思う。その家族的な斜行関係をそれだけで取り出して、間男=ファブリスからの観点から離れてみると、クレリア-ファブリス-サンドリーノという可能的な(ただしテキストの事実としてはありえない)家族の正三角形のごとき編成に対して、愛人ファブリスを奪われたことへの嫉妬というある種暴力的な欲望にとり憑かれてながらその場へと介入するサンセヴェリーナ伯爵夫人の存在がここではおもしろい関係を形づくるような気がする。ファブリスの叔母であるという親等上の独特の配置が、彼女を、ある場合には息子サンドリーノをクレリアから奪おうとする真の母親のごときもののようにみなすことを許すだろうし、またある場合には、夫ファブリスをクレリアの目をかいくぐってしきりと誘惑しようとする不貞のコケットのような外観のもとに把握することを可能にもする(いわば、叔母的な斜行性とでも言うべきものがある)。だから、ファミリーロマンスの構成にあって「間男」であるということは、すくなくともスタンダールの作品においては、人物の性別や実際の不義行為とは直接的にはあまり関係がないことなのかもしれない。スタンダールの作品における間男の主題、その重要性みたいなものがあったとして、その最良の現われは、恋人との密通が皆無の間男、男ですらない女ですらある間男、そのような家族的編成における関係性だけを転写された「間男性」の純粋形象の描出の瞬間にあるのかもしれない。
 で、ここまできて卓袱台をひっくり返すみたいだけど、ファブリスとクレリアの不倫っぽい恋愛は実際には、物語の終盤もだいぶ進んだころにようやくはじまる。(文庫で二巻、総ページ数で750ページくらいの物語の、終盤から10分の1くらいまでに迫ってきたころに、ようやくクレリアがクレセンチ侯爵と結婚して侯爵夫人になる。それまでは、いかに恋愛相手に婚約者が決まっていようとも、ファブリスの恋愛は間男的振る舞いとして社交界から後ろ指をさされるような不貞の性質もったものではぜんぜんない)。物語がそこにいたるまでにファブリスには遊びめかした恋愛の真似事のような試みがいくつか経験されるけれど、それらの行為の相手はたしかに何某の伯爵夫人だとか情夫もちの若い女優であったりして、ことばの狭義における間男的振る舞いにそぐうものではあっても、うえで見てきたような意味でいずれかの家族や家系の構成の基本的なかたちを歪めるような力をもったものなんかではけっしてない(文字どおりの恋愛的遊戯にすぎない)。物語の第一巻で描かれるできごと──ナポレオンのイタリア遠征へのファブリスの風変わりな従軍とその戦場からの離脱、彼の懸想相手だった女優の情夫をなりゆきで殺してしまったことに端を発する逃避行とパルムへの帰還、それら物語前半のできごとを通じて、ファブリスに間男的実体性(女を奪うこと、同時に、子どもを奪うこと)に付帯する間男的属性を条件づける行動の価値をもたらすものは、男から逃げること、女の亭主や子どもの父親の居座る家庭からまんまと逃げ出すこととしての、扮装と変名の果てしないあの散逸的な試みにあるようにも見える。

(……)「お前の名はなんていうんだ。報告でもすることがあったら書いといてやろう」
「ヴァジといいます」とファブリスは妙な顔をして答えたが、あわてて「つまりブーロです」といい足した。
ブーロとは、B:***看守の細君がくれた通過証の持主の名前であった。前々日彼は歩きながら調べておいたのである。彼も少しはものを考えるようになっていたし、そう驚いてばかりもいなかった。軽騎兵ブーロの通過証のほかに、彼はイタリアの旅券も大事にしまってあったが、それによれば晴雨計商ヴァジという、あまり芳しくない名前を名乗ることもできたわけである。

(……)彼は女たちにイタリア語で話し、女たちはフランドルの方言で答えたので、彼らはほとんど手まねで了解しあうだけだった。娘たちはもとより利害の念なぞ毛頭なかったが、ダイアモンドを見て、彼に対する熱中はきりがなくなった。娘たちは彼を変装した王子と信じた。

(同115頁)

ファブリスとその従者はルガノとコモ湖を隔てる山のあらゆる小道を知っていた。彼らは猟師つまり密輸入者に変装した。

(同121頁)

(……)「わかりました。将軍、あなたを逮捕します。ミラノへは私がお連れしますよ。ときにあなたはどなたですか」と彼はファブリスにいった。
「息子です」と伯爵夫人が答えた。「ピエトラネーラ中将の子アスカニオです」

(同127頁)

(……)ファブリスは美しいサン=ミケレ・イン・ボスコの丘に上り、城壁の外側から町をまわった。小道にはいり、フィレンツェ街道から五百歩離れたところへ出た。それからまた町にはいり、彼の人相が正確に書いてある旅券を恭しく警察の役人にさしだした。旅券には神学生ジュゼッペ・ボッシと記してあった。

(同313頁)

 ……引用タグをコピペするのに疲れたからもうこのへんでやめとくけど、同じ巻にはファブリスの変装と偽名にかかわる記述がすくなく見積もってもあと3,4箇所はあげることができる(これらの引用箇所はファブリスの個別の変装と変名を示している特徴的なポイントを拾い上げているだけで、そもそも第一巻の記述を占めるかなりの部分が、ファブリスがファブリスその人であることを隠して行動している偽装的な様子を描くものだ)。戦場への潜入と犯行からの逃避行の全くだりを通じてファブリスがそれから逃げ出し、また自分がそれではないことを懸命に証立てようとしているものとは、極言すれば、デル・ドンゴという父と家族の名前そのものであるのだろう。そこに、奪うことではなくて逃げることとしての間男の名前のばらまきという実践を読みこんで、『赤と黒』から継続されたスタンダール的作品における一主題の、『パルムの僧院』への連絡部分としてみたい気がする。ちょっとこれは無理すじだろうか。趣味で楽しんで読んでるんだから妄想よしとする。