三好銀『海辺へ行く道 夏』

 前からアマゾンのオススメのページを開くたびにやたらとこのマンガの書影が表示されて、絵柄の雰囲気も良さげだし、ちょっと気にはなっていた。ただ作者の名前もまったく見覚えがないし、もともとが見知らぬものにたいして手を出すのを躊躇しがちなたちなもので、これまで触れずに眺めているだけだったんだけれど、最近は今まで読んでいた連載作品のいくつかが終わりをむかえてしまったりして読むマンガも少なくなってきてしまい、じゃあ新しい作品をさがしてみようってことで、この単行本をカートに入れてレジまで進んでみた(アマゾンにて)。で先日品物が届いて、さっそくページをめくってみたら、なんか読む前に期待していた当の絵柄がちょっと苦手な感じだった(とくに人物の顔立ちなんかに軽い違和感を感じた)。ありゃ、これは失敗したか、って不安になって読み進めるのをやめようかなとも思い始めたんだけど、まあひととおり読んでみようとちょっと無理くり気持ちを奮い立たせて読み続ける。6篇からなる連作短篇集みたいな体裁の作品なんだけど、一作読んでは間を空けて、別の中断している本を読み直したりDVDを観たりして、つまみ食いみたいな不誠実な態度でともかく全篇読み通す。いっかい読み終えると、最初に感じていた違和感はすっかりなくなっていた。しかしそのかわりに、読む前に抱いた個人的な趣味からくる偏見なんかとはまったく関係のない、作品そのものが放つ強い違和感みたいなものが気になりはじめていた。とても変な、困惑するしかないような、ふしぎな作品を読んでしまったという感覚だけが強く残っている。ともかく、この三好さんという作家が、作品のなかで描かれる空間の構成にたいしてとても自覚的に取り組んでいることはよく伝わるような気がする。(しかしまさにそこのところが実際にはよくわからないから、自分がこの作者の描く作品の良い読み手ではないってこともよくわかってしまう)。
 この作品のなかで描かれる空間はほとんどどの瞬間も、まるで世界の関節がそこで外れてしまっているかのように微妙に傾いでしまっている。物語の舞台は一連の作品を通じて「F市A町」という海辺の小さな町に設けられていて、町のどの場所からでもちょっと首をめぐらせればすぐにその土地を囲む海の様子がのぞけるかのような印象を覚えさせるけれど、そこでは、大きな環境としてあるこの海の水平線が画面に描かれると、一本の線で引かれて土地を水平に限界づけるスクリーントーンによって表現されたその平面はいともたやすく均衡をくずしてしまい、シーソーの板を見ているみたいに右か左にその肩を傾けてしまう。線が傾いてしまうのは海の水平線に限ったはなしじゃなくて、たとえば作中に何度か描かれる坂道を走る路線バスの後ろ姿はほとんど必ずといっていいほど、大きくパースのつけられた道の傾斜にそって、この町がつねに臨む水平線同様に左右に傾いたまま進行していく。絵によって描かれている海の水平線が、読み手が今まさに手に取っているその書物の版型の物理的な横長にたいして完全に平行して水平をたもっている場合もある。その場合、線の傾斜はそれとはべつに引かれたもう一本の線との関係において相対的に傾きを表現するようにも見える。たとえば作品冒頭の第一話目(「遅いランチタイム」)の一コマ目の室内描写は、その相対的に表現される傾斜の絶対性みたいなものを例示しているものとして見ることができる気がする。けっして広くはなさそうな部屋の、たぶん中央のあたりから、ちょうど大人が立ったくらいの目の高さで、部屋の一角が眺められている。額に入った絵らしき小さい四角形のかたちが目の高さに据えられている白い壁が視野の横3分の2くらいを正面に近い角度で占めていて、その壁にじかに接している左手側の壁は、画面の手前に寄せられて開け放たれている障子によって強い角度をもつパースペクティブで平行四辺形のかたちに空間を区切っている。左手の障子の外枠がかたちづくる上下の辺はコマの下の方向へと斜めに走っている。つまりこの眺めは部屋の天井付近から(ひょっとしたら天井を突き抜けたさらに上方から)眺められていないといけない。ちょうど大人の立ったくらいの目の高さからでは(正面の額のかかった白い壁を基準にした視点からでは)、障子の外枠はそのように下方にむかっては伸びていかないだろう。開け放たれた障子の外枠からのぞく屋外の空間には、海の水平線が平行に、傾くことなくまっすぐに伸びている。部屋のかたちづくるパースペクティブにしたがえば(大人の目の高さか天井付近の高さから眺められるかぎりは)、たぶんこの水平線はほんらい部屋のこの視点からは見ることができないはずだ(水平線はコマの上の辺の枠線をこえてもっと高い位置、『海辺へ行く道』という書物の物理的な大きさを越えてしまうような虚空の位置にくるんじゃないだろうか)。複数の視点が混ざり合わないまま同居してしまっているこの場面の情景で、障子の外枠と水平線とがかたちづくるおのおのの線がパースペクティブという正当な居場所をめぐって不等交換のもたらす紛糾に巻きこまれてしまっているみたいだ。一方の正確さを立てれば他方は否が応でも不当に、露骨に、傾斜していかざるをえない。そして対立的で相補的なこの関係の糾問と動揺の過程にあって、相互の線はどっちも、けっして最終的な安定や均衡をえることはできない。線と線との相互的な位置関係にしたがって表現される水平線の絶対的な傾斜、みたいなものがそこにはあるような気がする。あるいはより正確には、この作品においては水平線だけが傾く、という限定も外さなければならないかもしれない。柱や建築物のかたちづくる垂直に走る線もまたこの作品において傾斜することから免れることはできないし、俯瞰によって据えられた視点で無理やりパースを与えられた地面だとか川だとか階段の稜線を区切る描線もまた、画面のなかでいったん立ち上げられたうえであらためて、めいめいにふさわしく垂直と水平のあいだの任意の中間的な角度につぎつぎと傾げられていく(視線のなかで強引に傾いていくような印象がある)。このマンガのかたちづくる空間を構成する直線の傾きがちな傾向は、たぶんコマの内部に盛りこまれる描かれた絵の内容における事物の位置関係やその姿勢を忠実に反映するような性質のものではない。コマのなかに描かれるもろもろの素材(人物や建物、景物なんかの形象)は、それらを横切り、あるいは斜めに区切る無数の直線の動向とはほとんど関係なく独自の姿勢をたもっている。それは素材と線とがそれぞれまったくべつべつの規則によってみずからの位置や姿勢を決定しているかのような外観の印象をあたえる。あるいはべつの言い方をすれば、それら相互の関係がかならず傾斜的に混じり合わないような具合に按配されるよう注意深く配慮しなければならない、という唯一の規則だけに、素材と線とがともに奉仕しているように見える。素材と直線とのこの傾斜的な混じり合わなさは、それじたいとしてはほんらいコマの内部の素材の一部にほかならないはずのもろもろの直線(海の水平線だったり土地の地平線や建築物の稜線だったりする、ページを縦横に貫通する無数の線)を、ほとんどマンガのコマそのもの、画面を限界づけるフレームそのものの枠線と同様の、中立的な性質の次元にまで変質させているようにも見える。しっかり確認したわけじゃないけど、たぶんこの『海辺へ行く道 夏』という作品で用いられているコマの形態はほとんどすべて、傾斜のない直線が直角をなすスクエアな四角形によって組み立てられていたように思う。コマの枠線っていうのは本質的には目には見えないものなんじゃないかという気がする。それは目で追うことができるし、指を重ねてうえから正確にその輪郭をなぞっていくことすらできるけれども、コマの内部に描かれたあれやこれやの素材の形象たちと同じようには存在しないし、また見ることができるものとして表象されているわけでもないんじゃないか。それはむしろ、そこで(線で区切られた空間の限界内で)見ることができるものが現実に描かれることを可能にするひとつの機能であるように思われるし、見ることのできるものがそこにあることを標しづけ限界づける標識であるようにも思えるし、また結局は、見ることができるものを見えるようにするそれじしんの機能のかすかな痕跡の投影であり、標識のはたらきそれじしんの二重化された標識であるようにも思われる。コマの枠線は見ることができるものの裏側にあってそれじしんは存在としても可視的なものとしても現われず、機能としてだけ触知されるような、見ることそのものや見ることに同時に条件づけられている見る者のある身体や視線の運動の軌跡としてだけ、じしんの引いた筆跡を跡づけるような気がする。『海辺へ行く道 夏』という作品には、その見ることを条件づけて限界づけるコマの枠線の不動の運動性みたいなものが、ほかならぬコマの(完全にスクエアで静止した)形式における枠線じしんと、コマの内部で絵の素材として盛りこまれた傾斜する具象物のもろもろの線(枠線そっくりのそれ)とのあいだで、不等に交わされつづけ絶えることのない動揺として、ほとんど一コマごとのめまぐるしい勢いでつぎつぎに更新されていっているように思う。不等式の動揺しつづける交換項としての二項(コマの形式的な枠線とコマ内部に盛られる素材が描く直線)がおのおのみずからそのようなものであろうとしていることの鈍い証しとして、たとえば、線の傾斜とコマの枠線の垂直水平の同期的で排他的な共存の関係が指摘できるかもしれないし、また、一本の線とコマの枠線がともに水平垂直を絵のなかで並行的に実現するときにはほぼ確実にまったくべつの形象から伸びて走り出すもう一本の線が前二者の連合にたいして新たに傾斜する動揺をコマ内部に作り出していることも見つけることができるような気がする。偶然にすぎないのかもしんない。
 この連作短篇集で語られる一連の物語には、各エピソード相互にとくに強い結びつきはない。物語の舞台(F市A町)と時間(学生たちの夏休み期間)が、手で大きく、そっと風船をまとめるみたいになんとなく寄せられている以外は、主人公である中学生の少年と彼の親類だか家政婦だかよくはわからない初老の女性がほぼ全篇に顔を出すことくらいが、各話に共有される緩やかな繋ぎ目になっている。6篇のエピソードのほとんどは中学二年生の少年の行動をおもな焦点にして、それぞれべつの内容の物語が綴られていく(それら個々の物語じたいもほんとうにささいでなできごとが語られていて、筋じたいもふしぎな夢でも見ているような気分になる、とりとめがないものだ)。主人公である少年が家政婦みたいな女性と住まう家では一匹の黒猫を飼っているらしいことがはなしの流れのなかで触れられる。しかし読み手が登場人物によってその事実を告げられるとき、かんじんの黒猫は行方不明になってしまっていて姿をくらませている。痕跡から推して、どうやら折にふれて人知れずちょくちょくエサを食べに住処へと帰ってきてはいるらしいものの、連作中ついに黒猫は少年のもとに戻ってくることがないし、作品の読み手もまた、とある一篇で描かれる当の黒猫の写った写真でその顔を確認できるばかりで、真っ黒い影のようなその後ろ姿をかろうじて作中あちこちで目にはするものの、やはり少年同様その姿を真正面から目にすることができないまま物語は結ばれる。見ることができる対象的な存在でありながら、見ることができるときには、しかしその後ろ姿の刻む真っ黒な影か染みとしてしか確認できないこの黒猫のふしぎな現われ(けっして見ることができないことを告げるためだけに現われる、見れないことの現われ)を、マンガのコマの枠線の特性における見られることと見ることを可能にする条件、その相互の不均衡を生きる、可動的で反-表象的でもある特異な表象物として捉えることは、やっぱり無理やりすぎるだろうか?(『意味の論理学』のドゥルーズなら、その黒猫をズバっと、空虚な桝目とかシニフィエを欠いたシニフィアンと言い切るかもしれない)。
 ……妄想おわり。わけわかんない文章になった(『海辺へ行く道 夏』という作品のふしぎさと魅力が自分にとって理解を越えているということの証言くらいにはなった)。