ウラジーミル・ソローキン『青い脂』

 芸術における「表象的体制」が作品の表現のなかで執りおこなうある調整といったものについて、『イメージの運命』のランシエールは、それは再現されるべき見えるもののイメージを観客や鑑賞者といった作品の受け手の眼前に可視化しながら、他方で見てはならないもの、それが可視化されてしまうと表現と鑑賞者たちとのあいだの穏便な関係が即座に破綻してしまう、そんな過剰な何かを、表象不可能なものの不可視性として暗黙裡に退け、というかむしろ、隠すべきものとして秘密に設ける、みたいなことを語ってたはずだ。眼を抉ったオイディプスの姿といったものは劇作品のト書きの言葉のなかでは可視化することができるけれど(そのイメージを間接的に指し示し、表象の到来を促がすことはできるけれど)、血塗れの姿をそれとして可視化し演劇の舞台に上演するような残酷さや醜悪さだけはけっして許されない。そのとき盲目のオイディプス自身の瞳が何もイメージを映すことがないように、このオイディプスの姿を舞台の観客の前にさらけだすことは、表象的体制においてはけっして認められない。戯曲の言葉はここで、表象の他者であるイメージを見せるという機能を果たすと同時に、おのれ自身はけっして目には見えないもの、見られてはならないものとして他者の視線からひたすら身を隠し、一種の透明なものとなるってことなんだと思う。オイディプス劇の例はランシエールの論述全体にとって説得力のある格好の題材になっていると思うけど、表象作用の原則といったものを考えると、これは別に、血塗れのオイディプスとかいったわかりやすく観客の目を背けさせるイメージにおける残酷さ、醜悪さだけにかぎった話じゃなくて、作品のミディアムと表現物との関係としてもっと広くとることができる問題だろう。たとえば、裂け目から溢れる出血のような赤い絵の具の色彩が目の前の画布に広がっていたとして、でもそれはけっしてそのようには見られてはならず、頭飾りの色彩を描写する単なる赤色の部分として絵画の鑑賞者に了解されなきゃならない。同様に、「古びたビリヤード台にチョークで書かれた文字」といった内容を伝える言説が「老いた盗賊の手紙」と読み間違われる、なんてことが小説の言葉の喚起するイメージの上で起こってもならない。ミディアムそれ自体が不可視で透明であり、非物質的で非身体的な触知不可能なものであるという(捏造された)了解が、表象の規則の支配的な体制での表現のあり方を規定することになるんだろうと思う。
 ソローキンの『青い脂』のなかには劇中劇みたいな格好でたくさんの文学的テクストが嵌め木細工(しかも、相互に嵌合の狂ってしまっているような不恰好な細工)のように埋め込まれている。「水上人文字」と題されたテクストはそのなかのひとつだけど、松明を握った千人からなる細胞たちがスローガンとなる文章の一字一句を人文字として精確に形づくって水泳しつつ、夜の川面を明々と照らしながら、護岸に集まる人々に向け、党の威信と社会主義国家の指針とを生けるエクリチュールとしてデモンストレーションしていく、というどこか人を食うような不思議な感触のエピソードで、この奇妙な行動の推移とそこから出来した意想外の結末とが淡々としたリアリズム的な筆致で描かれる小品だ。「文は人なり」はここでは字義どおりのものとして水泳者たちの身体とその運動とによって体現されていて、メッセージを伝えるひと連なりの表象の言述が、川の冷たさや松明を掲げる腕の疲労にともなう震えといった人間の身体の反応、または使命を帯びた者たちをそこで捕捉するさまざまな感情や思惟の推移なんかによって身体化され、物質化されようとしている。あるいは血肉と化した表象がそこにある、とかいってもいい。一篇の結末が乾いたグロテスクさのうちに繋ぎとめているように、文字は血を流し、叫び声をあげ、またはばらばらに砕け、炎によって焼けつくされることも可能な人間の身体の物質性により、残酷で滑稽な見世物としての可視的な次元を取り戻しているようにも見える。表象は身体化されて不透明な肉の厚みのうちにみずからの語る文字を刻もうとするようにも見えるけど、ただしこの表象は語ることに必ず失敗して大きな災難を被るものであるという条件ではじめて働きを果たすようにも思えるし、つまり表象作用はどこででもまったく行き詰まっているように見える。
 「水上人文字」にとても顕著な表象のミディアムとしての人間の身体といったものを、媒体物=運動機関における燃料や力の伝導装置みたいに再解釈してさらにこれをラディカルに戯画化すると、別の作中作であるプラトーノフ3号(作家プラトーノフのクローン)による「指令書」に見られるような、人間の肉体に起こるグロテスクな光景が描かれることになるのかもしれない。肉片機関車の燃料室にくべられる人肉だとか動輪に縛りつけられる人体によって走り出す機関車とかいった作家の逞しすぎる妄想に由来する虚構の設定は、でもそのとおりのものとして、比喩ではなく字義どおりのものとして受け止めなければならないことになるだろう。それは、肉が肉としての資格で痛みに悶え叫び声を発し、その力が動体に運動力を授けることを告げるものであるはずだ。そこではミディアムは物質に固有のグロテスクな姿で細分化され、また可視化され、まさにそうして切り刻まれようとしているように見える。
 表象作用と表象されるもの、そしてその表象を支持する可視的な素材との関係が描かれるにあたって、イメージの描写の次元で、ソローキンの『青い脂』は執拗にミディアムとしての人間の身体性における物質とのあいだの限界みたいなものを突出させようとしているように思う。架空のスターリン作家賞受賞者が執筆した短篇小説としてラジオの音声を通じて朗読の声を響かせる作中作「青い錠剤」では、ボリショイ劇場の舞台と観客席の全体が巨大な下水渠に姿を変えており、そこで上演されるオペラの眺めは排泄物の渦巻く汚水のさ中で展開されることになるけど、光や音声に象られた文化的表象の上演はそんな具合に不純物と混じり合い、視界や聴覚を濁らせる細片化された糞便の乱流を通じて、これをともなわずには実現されることがない。身体性が表象性のミディアムとしてグロテスクな物質性、肉の露呈の場所となるところで、この物質はまた、断片化とか混在や膨張、接合、剥離、燃焼や浸潤や破壊、いろんな侵入と再侵入が試みられる目に見える対象となり、表象の仮構する透明性や非物質性なんかの理念を徹底して妨害するものともなるんだろう。ミディアムとしての物質性が否応なく突出して迫ってくるこの場所で、たとえば一篇にしきりと導入される人物たちのさまざまな会食場面は、場合によって豪勢だったり野卑だったり貧相なものだったりまたはしばしば理解不能なものだったりするけど、ともあれ、食餌とそれを食べる諸器官としての人間の身体との混合をひたすら描くものになる、というような感触がある。あるいは、肉の縁で縫い合わされ、字義どおりに連結されたcorps=corporate state(肉=連結部隊=冷酷な統治状態)を形づくる人間パッチワークの醜悪な形象(ドストエフスキー2号作「レシェトフスキー伯」)とか、国家の産み出した奇怪な精髄として「レーニンスターリン」の奇形化したな身体部位(角とか乳首、睾丸といった複数化する部分対象)に宿るとされる神話的な存在(アフマートワ2号作「三夜」)なんかといった、クローン作家にかこつけて作中で描かれることになる作品のモチーフなんかも、ミディアムとしての肉の物質性がテクストに強調してやまないショックやグロテスク、極度の卑猥とか残酷、狂気や滑稽さを糧のようなものにして、異物感に満ちたでこぼこのイメージを描くことになるだろう。読まれるイメージはそこでまさに物質のようなごろりとした違和感を際立たせているはずで、読者にとってこれらは、容易には嚥下することのできない異質な物体として、書物の言葉が給仕する食卓に盛られた汚物のごとき観を呈するものだともいえるかもしれない。(スターリンフルシチョフのある日の昼餐の光景が描かれるけれど、事態は、その特別の席に読み手も同席させらされて、そこで目の前に並べられた「料理」を無理にでも口にしなければならないというような状況を思わせるものであり、小説の提示するイメージはソローキンの連ねる言葉によってあたかも脅迫的な歓待の宴のごときものとして演出されてるという気分すらする)。または、狂気のテーマ。ドゥルーズはどこかで(たぶん『意味の論理学』で)、分裂症者が帯びることになる身体の経験を穴だらけの濾過器に変成した肉体みたいに記述していたはずだけど、『青い脂』における狂人たちやその狂気の生成を、そうしたミディアムとしての肉体がこうむるテクストの観点からの不可避の失調として読み直してみることも意味があるかもしれない。準備不足でそこまでは深く言及できないけど、誰かの役に立てればいいし、ちょっと覚え書き程度までに記しておく。
 ともあれ、ソローキンが『青い脂』のなかで産み出し、組み立てるイメージの素材は、以上のような具合にしておそらく、表象作用をになうミディアムの次元で抑圧され隠蔽され、または脱身体化や抽象的な透明化をこうむり、表現のテーマや自然らしさの要諦にかしずく格好を強いられていた物質性といったものを、強引に起立させ、可視化させ、そのようなもろもろの肉の振る舞いのイメージにおいて、それ自体を対象にイメージ化させているように見える。イメージの素材を物質として軋ませたいがために、軋み、唸りを上げる素材の姿を描写の対象として表象(イメージ)している。作品のなかで描かれるさまざまな肉の姿形やその変形にともなう効果としてのショックといったもの、突発する暴力行為やスキャンダラスで偶像破壊的な性的放縦の数々、麻薬や糞便に対するやみがたい嗜好、カニバリズム的モチーフの紙面における横溢、それらのイメージは、イメージが上演される舞台下の装置のからくりを舞台上に引っ張りあげたときに不可避的にイメージがこうむることになる歪んだ現実の痕跡を示しているもののように思う。さながら陸揚げされた深海魚の姿がそうであるように、ミディアムとしての物質をそれ自体としてイメージの光に照らし出そうとすれば、ソローキンの筆が描くように、グロテスクな変形や破裂を避けることができないってことなんじゃないだろうか。これはたぶん、真正の自然主義表現だけがもつ逆説みたいなもののようにも思われ、真実を照らし出すために光をまっすぐに当てようとすればそうするだけ、浮かび上がる像は歪曲とグロテスクをはなはなだしいものにするということであり、たとえばゾラの小説における描写の最良の部分にその典型を見出せるようなものであるようにも思う。(『ナナ』の結末で、亡くなった主人公の相貌に割かれる描写における、ある「自然」の出現とかそのグロテスクな効果なんかを思い出す)。イメージが自分自身の本性を映し出す鏡はつねに歪んだ像しか反映させないってことなのかもしれない。
 もちろん表象の素材はそのとき目に見えないものであることからすっかり抜け出してしまっている。小説のミディアムであるこの素材=言葉が不純で可視的で不透明なものとなるのは、描写のイメージがテクストへと引率してきたグロテスクな光景の上演と同時的でありながら、しかしそれらイメージの効果を条件のレベルで支えている、作家の叙述におけるそれ自体一種の暴力の次元によるものであると見たほうがいいようにも思う。テクストの内部でコピペされたみたいに唐突に現れる外部の(物語の本筋や出来事の連関とはまったく無関係に外在する)作中テクストは、書物や執筆原稿、テープレコーダーの録音音声といったメディアとしてのミディアムの物質性をありありと触知させるものだろう。それらの言葉は文字どおりコラージュの素材みたいにして、どこか余所から切りだされて、『青い脂』のテクストの平面に(前後の脈絡を欠いたまま)貼りつけられている。テクストの織り物はつぎはぎされるパッチワークそのものの姿形をとるものであり、小説言語の処理におけるそうした振る舞いは、イメージの水準における物質的なもろもろの残酷さの上演と軌を一にするものでもあるだろう。そして、テクストがこうしてツギを当てられているように、物語の内部で叙述される出来事の因果的な連関からも有機的な一貫性や整合性といったものをはなからあてにすることはできず、至るところに口を開けた綻びや物語のつつがない運行を阻むかに見えるこぼこが、この叙述に不整脈にも似た動揺を強いているようにさえ感じられる。物語が語られる場の空気の急激な変化、知らぬ間に気圧は変化しており、平温状態で突如目の前で沸騰をはじめるコップの水でも見るかのような驚き、スターリンのあの激烈な馬鹿笑いの叫び(「ヤサウゥゥフ・パショォォォ!!!」)の場面に立ち会っているかのような突然の断絶と変動への驚きが、テクスト全体を襲う暴力として物語の言葉のなかに現れる。あるいは、一篇全体を浸すかのように溢れかえる造語や卑語、外国語の混淆状態といったものがあり、破格の文法や構文、秘教語を文字ったまったく解読不可能な言葉なんかもここにはあるだろうし、小説作品のミディアムとしての言語は物質の水準において読み手の眼前へと突き出してきているはずだ。表象の素材である言語はそこでみずからが捏ね上げたイメージとともに、単に目に見えるもの以上のものとして今や読み手に襲いかからんばかりである、そう言うとしても、これはあながち大袈裟な話ではないのかもしれない。
 ここまでそんなふうに作品を読んでくると、物語のなかのキーアイテムである「青脂」を、表象の素材一般として象徴化された物質であるとみなしたい気分がする。クローン作家の執筆における剰余生産物として物質化されることになる透明に青く発光するこの青脂は、エントロピー・ゼロという特異な不変的性質をもっている物質とされているけれど(細かいSF的裏づけの設定部分はよく理解できないから無視するけど)、それはたとえ太陽の炎の中に放り込んだとしても僅か一度も温度上昇することはなく、宇宙が滅びることになったとしてもおそらくそこに居残りつづけるであろうと予測されるような、いわば物質の中の物質であるような魔法の物体とされる。ひとたびこの世界に生成されたからには燃え尽きることも凍りつくこともけっしてないけれど、削ることも延ばすことも切り分けることも、さらには液状に分離して取り出すことも可能なその特性は、物質中の物質として、以後消去不可能で無視しえない可視的現存のうちにこの世にとどまりつづける。作家の頭脳の労働から発生して、物語の最後に再び脳へと帰ってくることになるこの徹底して反精神的な物質の不埒な現存を、今のところは、表象の透明性や抽象性をどこまでも拒む作品のミディアムの現われとして、象徴的に、了解しておくことにする。それはたとえば、サドにおける犠牲者たちの不滅の身体のごときものに相当するんじゃないかな、ともちらっと予想する。むろんサドはと言えば、近代性の端緒を示す巨大な道標としてフーコーが特権視した作家の一人であり、ここまで暗黙裡に参照してきたランシエールの準拠枠にしたがえば、表象的体制を踏み破る「美学的体制」に属する作家的存在であるはずで、表象の混乱や破綻といった事態をミディアムという観点からソローキンの小説テクストに確認したかったここでの文章にとっても重要な証言者となることは確かだろう。(……とか知ったふうにうそぶきつつ、実はサドは『悪徳の栄え』を途中で放り投げちゃってそれきりだもんで、証言もくそもないんだけど。いずれ読みます)。……今とりあえず書ける感想はこんな感じで。

青い脂

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