高野文子「マッチ売りの少女」

 先週購入したマンガ数冊をひととおり読んで、すが秀実原発関連の新著を読み、ついでボルヘスの、これはずいぶん以前に買ってあって積んどいたままだった『エル・アレフ』を読み始めてみたり。今週はそんな感じ。目を通したどの作品も満足するものだったけど感想をここに書き残せるほどの何かがこころにぶちあたるというような感触はなくて、読んだまま見たまま、そのとき感じたり考えたりしたことがその通りのものとして記憶にふわっと沈んでゆく感じ。いずれしかるべきときが来たならばどの記憶も静かに浮かび上がってくることもあるんだろう。それでいいじゃないか。書くことがなくてもこうしてブログを更新したって、いいじゃないか。「足あと」残すといただけるという、うまい棒何本相当かで計られるのが適当なような微々たるポイント目当てにBK1のサイトに日参しては日々ポチっとボタンを押すのが日課になってたって、いいじゃないか。いいじゃないか。
 ……1月まで書いてた文章のストックも今回分でとうとう尽きてしまう。ひとの文章読んでばかりだった最近の暮らしもここらでそろそろ区切りをつけてまたふたたび自分の文章を書くほうに専念してこうかなと思う。んだけど、ちょっとどんなテンションで考えたり文章つづったりしてたか忘れてしまってる感じもある。未読分のフーコードゥルーズの著作を読みながら少しずつ気持ちを整えていけたらなと思う。
 おもしろ音源を紹介。maydayことデリック・メイの「wiggan remix」。久しぶりに聴いたけどやっぱかっこいいね。デリック・メイは「icon」とか「strings of life」とかもちろん大好きだしこれらは誰もが認める名曲だろうけど、個人的にはいちばんはこの曲か「drama」か、どっちかになるな。こう、こころがざわつくというか、下半身がムズムズするというか、聴いてると何か無性によこしまなことをしたくなるよね。文章書いたりマンガが描きたくなる気分が膨れ上がるのも、こんな音楽を聴いてるときだったりする。どっかで何かが回路を通じ合わせてるんだと思う。横暴とか横行への誘い。

紙に描かれなかった紙
 絵本=ペーパークラフト作品である「火打ち箱」といった明確に非マンガ的な作品、あるいは文芸誌『モンキービジネス』に掲載された都合4篇を数える準マンガ的とでも総称するべき作品群がある。両者に共通する特徴は、それらが、おそらくマンガというジャンルにすっかり属するものではないであろう、たぶんマンガというジャンルからはすでに一歩、ないし少なくとも半歩分ほどはその拠りどころを外へとはみ出しているであろう、という、ジャンルの形式を判断し識別する意識においてはどこまでも曖昧さのうちにとどまりながらも(「しかし、それらはマンガでありうるかもしれない」)、作品の実質を問う素朴な信憑としては強く確信されている憶見的な存念(「あるいは、それらはやはりマンガではない」)の混合のうちに了解されるという点にあるだけではない。両系列の作品が原作者を高野文子その人とは別にもつという点をも考慮に入れるべきであるが、より本質的なことは、それらの作品が、マンガそのものがけっして描かれない場所で、にもかかわらず(あるいは正確には、であるが故にいっそう)、そこで何が果たしてマンガを可能にしているのか?という高野文子的なマンガ制作の条件への問いかけに関わるのであり、作品という構成物そのものへの全般的な配慮のもとに現われるという点にある。絵本やペーパークラフトといった作品、ときに明確なコマ割りを伴わず判別できる枠線も引かれず(「マッチ売りの少女」)、別の場合にはフキダシによるセリフやテクストのたぐいいっさいがまったく退けられた判じ絵のような姿態を示し(「謎」)、またそれとは逆に、絵解きか(「ウェイクフィールド」)、あるいはカリグラムのようなかたちで文字と造形的形象との分離しがたい混合をなして現われもする(「鳥取のふとん」)、それら準マンガ的な作品群。マンガの描かれない場所でマンガの代わりに作品の形態をかたちづくりながら、しかし作品としてのマンガが紙面に執行するイメージの諸局面を、マンガとは異なる形態においてこれをすべて実現することができるものとしてそれら準マンガ的作品は紙面に現われる。それらはマンガに準ずるもの、マンガに副次的なものであると同時に、同じ資格でマンガにぴったりと随伴するものでもあり、あるいはむしろ、マンガが描かれない紙面においてマンガを領導するものであるとすら言えるものだろう。マンガから延長可能なイメージ形成的な線はこれら準マンガ的作品にまで確かに達しており、ふたたびその作品から延びていく線は大きく弧を描くようにして(触の弦にそって走る見えない線=影の縁のように)、もう一度、マンガ的作品へと帰っていくことができる。イメージと作品とが結ぶその連接可能な線の延長において、私たちはここまで見てきたもろもろのマンガ作品の先に新たに現われた「マッチ売りの少女」という準マンガ的な作品を見ることになる。「マンガの先」とは、作家の履歴において「より最近」、「より新しく」という意味でではなく、イメージの展開が示す延長可能な軌跡のエッジに現われるというかぎりの意味でそのようなものなのであり、あるいは誤解をおそれずに言えば、それは作品のイメージにとってある種、回顧的で復古的な姿態を取るものだとも言えよう。それはイメージの描く場に現われるひどく見知ったものでありながり、しかしやはり、作品にとっては未知の経験として現われるものでもある。
 私たちはこれまでの記述のスタイルを継いでここでも、「マッチ売りの少女」という作品総体をかたちづくっている少なからぬ構成要素であるテクストの部面とその物語の内容部分とをほとんど顧慮せずにことを進める。見ておきたいのは、やはりここでも、紙面に見えるものの水準を条件づけているイメージの見えないものの水準である。
 ……紙面を見つめる瞳は、そのページの上に奇異な光景を見出すだろう。白紙の上に展開されるその眺めは、突如これに邂逅した瞳にあるいわく言いがたい奇怪さの印象を刻みつける。「マッチ売りの少女」というタイトルとそのページに署名された作者名とが予想させる作品の展開は、誌面に掲載された前半6ページ分のテクストを辿りつつある読み手に対し、静かなさざなみのような具合に媚態にも似た態度を示して小さな揺動をもたらす。なるほど、私たちが辿りつつあるこれらのテクストは、確かに最初のページが作品名において明瞭に告げているとおりのものではあるが、しかし、私たちはいまだ、同じページが告げている作者名が漠然と期待させる、作品のその肝心の実質を目にしてはいない。これではまるでアンデルセンの「マッチ売りの少女」のようにしか読めない。高野文子という署名が予期させる作品の実質がいまだそこには欠けている。おそらくマンガであるようなもの、あるいは少なくとも、ここに読まれているテクストの内容を補綴して、イメージの可視的な広がりにおいてそれをさらに豊かに繁らせてくれるような、そのような絵解きの役割をつとめてくれるだろう何か。予期とはぐらかしとがかたちづくる小さな揺れ動きの中にたゆたっていた瞳と意識は、テクストの語るところが終わった直後、ちょうどこの作品の維持する持続の真ん中部分で、突如異様な眺めに大きく覆われることになるだろう。アンデルセンの「マッチ売りの少女」がつつがなく語り終えられ、ごく軽微な不審とともに間髪いれずにめくられる誌面のページは、そこに高野文子の「マッチ売りの少女」の描く大きな広がりを突如見出す。それは奇観といってさしつかえない眺めだ。見開きいっぱいに紙面に広がり、同時にこれを分割する幾何学模様のふしぎな眺めが、そこに現われる。即座に、それに見舞われた途端に、実質の読み取りも分析的な分節化の作業もぬきに、私たちは、いま眼前にしているその紙面に引かれる線の連なりや重なりが、予期していたものとはまったく異なるもの、たとえば慣習的にマンガと呼ばれている作品の実質とはもはやまるで異質な何かであることをイメージの直観において悟る。それはまた、テクストのすでに終焉した場所で、あらためて展開される造形的なイメージが物語の言説を再度、別の語り口で語り直そうとしている、そのような姿態にも見えない。挿絵や絵解きに類するものとして見られるためには、それら誌面に溢れる形象のイメージはあまりにも不明瞭すぎるのだ。その意味で、仮にそれがそう見なされることが許されるのだとして、アンデルセンの「マッチ売りの少女」の物語を補足し完結に導く絵解きとしては、この誌面の残余の6ページに繰り広げられているイメージは二重に不要なものであるし、むしろ障碍として働いていると言わざるをえない。それは作品の前段箇所ですでにテクストが充分よく語ったところを再度語ろうとすることによってまったくの不要とされ、また、その語り直しをそれとしていったん認めるにせよ、しかし語り直すべきものをきわめて不明瞭で口ごもったかたちでしか語ろうとしないことからまったくの障碍とみなされる。だとすれば、この紙面にひたすら繁るかのような無言のイメージ群はいったい何だというのだろうか。それは図像の解釈を求めているのだろうか。絵解きとしてテクストのことばを補うのではなく、解釈を待つ判じ絵として別のテクストの言説によって補われることを求めているのだろうか。しかし、すでにアンデルセンによるテクストが過不足なく充分に語ったものに耳を傾けているからには、間違いなく同じ「マッチ売りの少女」としての資格において現われているこのイメージに向けて、あらためていかなることばをつぎ足し、差し向ければよいというのか。絵解きとして見られた場足のイメージにおける困惑は、今度は、判じ絵として見られた場合のテクストの側に移っている。不明瞭な何ものかを図示している絵をうしろに控えて、テクストはすでにおのれの使命を充分に果たし終えたはずのその場で、この期に及んでさらに何を語ればよいというのか。無論、イメージは何も語りはしない。それは不確かで不明瞭な何かを、これ以上ないくらいにくっきりと鮮明な輪郭線のもと黙々と図示するのみだ。都合13ページの誌面を同じ「マッチ売りの少女」という総題のもと、テクストとイメージとでちょうど半分ずつに分有するそれら異質な表象の面には、その接触面においてすり合わせ不可能なズレが生じてしまっているだろう。イメージはテクストに対して(絵解きとして)過剰であるか、(判じ絵として)不足しているかしており、両面のあいだの不均衡はもはや修正のしようも隠しとどめようもない。こうして私たちは、紙面にうっすらと開いたこの透明な亀裂の前で作品というひとつの眺めを得ている。
 ……描かれた図像に迫っていくべきだろう。作品の後半6ページが紙面に展開する幾何学図形状の矩形の連なりを追ってみるべきだ。私たちはそこに、あたかも短冊状に切り取られた細長い紙片の束ででもあるかのような形象の外観を見出す。これはマンガではない、という最初の一瞥が与えた直観はそこにとりあえず、それらしき根拠の一端を無言の言質というかたちでではあれ、遅まきながらあらためて見出すことになるだろう。セリフにおけるテクストのことばやフキダシの風船形をいっさい欠いたその紙面に短冊状の矩形が横並びに配置された大まかな外観を見取ることができ(あたかも物干し竿にかけられた洗濯物のたぐいか、あるいは吊り下げられた暖簾ででもあるかのような恰好だ)、そのことによって、マンガに特徴的な上下動を伴う蟹行的かつ斜行的なコマの運送とはおよそ異質なリズムをもつ視線の誘導路を、その紙面の上に確認することになる。配置された短冊相互を隔てる不揃いな段差や、仮にそれとして見るならば余りにもランダムでミニマムな絵の実質が、いま目にしているこの図像の連なりがいわゆる4コママンガのたぐいともまったく無縁の何かではあること、そのことも即座に了解される。おそらくこれは、最小限グラフィカルな何かとは言えるものではあっても、厳密にはマンガとは異なる別のものであるだろう。おそらく。
 あるいはひょっとすると、短冊の一枚いちまいを下降的に見取らせることによって視線における線状の運動を組織するこの図像は、たとえば一巻の絵巻物が潜在的にではあれそれをマンガとして見ることもできる場合が想定されるように、同様の訳合いからこれをやはりマンガと名づけることができるのだろうか。少なくともマンガ的な何かではある、とは言えるのだろうか。瞳の運動を統辞的な線状性の形式で組織することから、これをたとえば、一種の象形文字の連なりのようなものとして待遇することの可能性を問うてみるべきか。作家はすでに、そのような形象=文字との合同としてかたちづくられる「書かれたイメージ」ないし「描かれた文字」の実例を作品として差し出している。「鳥取のふとん」がそれだ。私たちは作文用の原稿用紙に擬態したその作品の紙面に、意味を指示しつつある漢字の形態化の過程と、描かれた図像の身体を意味として漢字に差し出す形象の痩身化の過程を同時に見出す。それはイメージにおける指示(図示)と文字における意義との意味凝集的なアマルガム=蛹化と羽化との混成として了解されることになる両過程であるが、「マッチ売りの少女」に見られるこの連接する映写フィルム状の図像に欠けているものこそが、そのような意味として明瞭に分節され、充分に満たされた要素のまとまりであることに留意しなければならない。それは乾いた口で意義される意味を正しく語るのではなく、ほのかに潤んだ瞳の膜質の表面で輪郭の重なり合ったおぼろげな画像を図示するものであるだろう。そして、すでに「鳥取のふとん」からして、この借問された象形文字=作品の図像的イメージという等号は破綻している。漢字の形態化と図像の痩身化という文字的なイメージの形成過程は作品の半面を説明するものでしかなく、形象はそこで、原稿用紙の罫線と枡目が仕切る線状的区画で、越境的につねに揺れ動きつづけ、継起性と共時性とを両実現しているだろう。紙面に現われている枡目の区画は文字がそこを一列に行進していくことになる単一の線路をかたちづくると同時に、文字=形象が必要とあらばその線から別の線へといつでもひとまたぎに移動することを可能にする、縦横無尽に走る跨線橋の連鎖のごときものとして作画的に機能しているはずだ。同じ事情は「マッチ売りの少女」が紙面にかたちづくる矩形の短冊状のラインにも当てはまるだろう。視界には不明瞭で分節化不十分な要素がつねにどこかに残りつづけている。
 マンガの紙面に現われるコマの運行がある一定の継起的な順序にしたがい配置されていることが確かなのだとしても、そこに見られることがおおむね予期されるような標準的で通則的なコマの配分といったものに対しては、「マッチ売りの少女」に描かれるこの短冊状の帯は余りにも破格な──ぶっきらぼうな繊細さと称してよいような──印象を帯びていはしまいか。コマ割りのもつ統辞的な線状の説話形態が事がらの理念においてそうあるところのものを(紙面において空間的にレイアウトされるコマは、読むことの時間性のなかでは視線の運動においておおむね継起的に辿られる、というそれ自体としては充分根拠のある理念的なドクサ)、しかし「マッチ売りの少女」という作品は、これを現に紙面の実現形態において複数の直線の連なりとして描いている。とすれば、これはマンガ的ではあるが厳密には非マンガ的な何か、なのではなく、理念に対して取りうる振る舞いにおいて余りにもマンガ的な──いわば、超マンガ的といったような──何かなのか。いやそれとも、紙面におけるコマの配置という空間的な視覚の剰余効果を巡る配慮と問題意識以前の、言うならば前マンガ的な擬似形態(絵巻物の描くひと連なりのイメージがそれであるような)とでもいったものをかたちづくろうとしているのか。
 ……「マッチ売りの少女」を巡るジャンルとの関係の吟味とその還元的な画定という、それ自体として興味を惹かないでもないこの課題の追求は、このあたりで停止されるべきであろう。紙面に突如開けたイメージの眺めが私たちの感性と思考とにもたらす戸惑いは、以下どのように定義を施そうと、どれほどことばを連ねようと、ついにこれを懐柔することなどは到底できないはずのものであるからだ。私たちとしては先ほど用いた語彙を再度ここでも持ち出し、それは準マンガ的な作品として姿を現わしているという点をだけ確認しておけばよい。(しいて呼称を与えるならば、それは下マンガ的とでも言えるものとなるだろうか。それはマンガのイメージの地下に隠れており、マンガが現われないときにかぎって、これになり代わり、イメージの描出を紙面において代執行するという意味で、マンガの下部にある秘密の本体をなすものとして見られるだろう)。問題は、どのような訳合いからこの準マンガ的な作品がマンガとイメージを通底するものとなっているのか、という一点に尽きる。それを見るためには「マッチ売りの少女」が紙面に描いている具体的なイメージへとさらに接近をこころみなければならないだろう。

 イメージとして見ることのできるものは再三繰り返しているとおり、誌面の白紙を背景にして幟のように立ち並ぶ、短冊状をした矩形の帯の連なりである。正確を期するならば、それは矩形とは異なるものだ。縦に長く伸びた一本いっぽんの短冊状の帯は最小単位としての別の形態の図形をそれぞれの内面に抱え込んでおり、帯を構成するその単位としての図形は正六角形をしたフレーム状の形態を示している。雪の結晶にも似たこの六角形のフレームの複数の連なりにおいて個々の短冊の帯がかたちづくられているわけで、つまり最前まで矩形と形容されてきたこの短冊状の帯は、少なくともその短い方の辺にあたる天地の両部分で、正六角形の頂点がかたちづくる120°に開いた三角形の二辺を露頭として覗かせている。どこかしら結晶の柱を思わせるその形態はだから、正確には長方形をなしているのではなく、それ自体が縦方向に思い切り引き伸ばされた六角形の形態として、その内部を構成する正六角形の小フレームを拡大的に反復させているものだと言えるだろう。矩形というか結晶体の柱状の帯(大フレーム)は内部に抱えこんでいる小フレームとしての正六角形の多寡とそれらの重なりや組み合わせの方式により、それぞれが紙面に描く規模と形態をさまざまなパターンで変異させているだろう。最小単位としての正六角形ひとつだけで構成されるフレームもあれば、それらの連なりによって構成されるより大きなフレームもある。小フレームの連なりは大フレームの外形に見られる直線を崩すことなく縦方向にまっすぐ伸びていく場合もあれば(ちょうど幟のような具合に)、あるいは、斜め上下か左右で接しあう六角形相互の辺を蝶番のように共有して、交差的であったり隣接的であったりする変則的なかたちを描いて伸びていく場合もある。あるいはまた、それらフレームの組み合わせの諸パターン(垂直的な結合、交差的結合、隣接的結合)が複合することにより、結果として小フレームそのものの外形は消えてしまい、一個の膨張的に拡大した大フレームの外形だけが特に目を引くものとなっている場合がある。……いずれの場合にせよ、フレームの伸縮や膨張といったかたちで紙面に見えるもののイメージの諸様態を描く、その作図における内在的な規則は、すべてただ一個の小六角形の外形が描く線分に宿っていることになる。正六角形の図形が外周にもつ6つの辺と、それぞれの頂点から図形の中心を通過して相対する頂点とのあいだに引かれる3つの対角線、それらの線分がここでの作図における最小限のエレメントとなっているだろう。紙面に見えるものとして描かれるイメージの変状的な諸パターンは、すべてこの基礎的な小フレームの線分に対する操作的な介入によって実現されていると言える。線分を延ばすことやそれを任意のある点で止めること、あるいはそもそもそれを延ばさずにフレームを小さなかたちのまま白紙の空白の中に留めること、といった線の足し引きによる作図があり、あるいはまた、二つ以上のフレームを線分の等分的で共延長的な性質のもとに繋げ合わせ、あるいはずらしながら重ね合わせ、そこにより大きなフレームを形成する、といった線の積み重ねによる作図がある。正六角形の形象は見えるものとして紙面に描かれる図形をあらかじめ規定する、きわめて厳格な規矩の水準をもうけるものであるだろう。
 紙面に降り積もる小さな雪の結晶のようなこの正六角形の図形は、しかし無論のこと、そこにいとも整然と並ぶ幾何学模様が描くその眺めの無償の美しさを白紙の上にもたらしているだけなのではない。連接するフレームの数やそれらの組み合わせの方式が実現する形態の様々な外観上の変奏は、物語の内容が語るところに応じて、そこにおける分節化や総合といった操作がほどこされているだろう。見えるものを形象として描く作図の規則は形態それ自体の水準に内在するものだが、その作図の規則の紙面における実際の適用は、これを形態そのものとは異なる、物語の言説化可能な水準に依拠する。あたかもそこに雪の結晶の運動を描くものであるか、あるいは微小な精密部品の一覧を載せた図版の一頁ででもあるかのような観を呈するこの紙面の眺めは、しかし紛うかたなく「マッチ売りの少女」というひとつの物語として語りうるものから発する照明を受け止めて、白紙の上にイメージを浮かび上がらせている。ふたたび、先ほど言及したテクストとイメージとの関係性にかんする話題に戻ろう。それは二つの異質な表象体系がお互いの顔を突き合わせる際に不可避的に招きよせてしまう表象の凶事として考えられた。イメージは絵解きとして、テクストのことばが喚起する物語のもうひとつの無色透明なイメージに向けておのれの可視的な装飾をほどこすのか、それとも、それは判じ絵として、紙面に象嵌されたおのれが今にも語り出そうとしていることばをテクストの響かせる確乎とした声によって重唱されるのを待ちわびているのか。紙面における作品構成の水準がもうける双方の完璧な釣り合いの中で(テクストの6ページ分を引き継ぐイメージの6ページ分)、絵解きとしてテクストの後から遅れてやって来るイメージの過剰と、判じ絵としてすでに通り過ぎたはずのテクストを先走りすぎたものとしてもう一度呼び戻すイメージの不足とのあいだの、埋めがたい溝が生じている。こうして見かけ上の均衡の真っ只中に見えない透明の亀裂が紙面を薄く割いて走っているだろう。それは二重化された表象が取り憑かれる招かざる凶事だ。高野文子の「マッチ売りの少女」はアンデルセンの「マッチ売りの少女」とのあいだの厚みのない隙間に、この不可視の亀裂を浮き上がらせている。ではそれは、いったいどのようにしてだろうか? テクストの言表機能とイメージが遂行する図示する働きとのあいでに生じるこの表象面の亀裂は、相互にリズムを狂わせながら(遅すぎるか、または早すぎるかするテンポで)相手を二重化しにやって来る表象のめいめいが、しかしすでにめいめいそれ自身の資格においてめいめいのうちに二重化(分化)をこうむっているということから不可避的に導かれる定めとして紙面に出来しているはずだ。表象するものは、それ自体が別の表象の働きの対象でもあることを確認しておこう。表象の分化においてさらなる倍化をこうむるという、表象の言わば自乗された二重化の過程があるのだ。表象されるテクストの語るものを絵解きするために遅れて到来するイメージの表象は、この倍化する二重化の働きの中でおのれ自身における二重化(分化)をこうむる。両表象面の境に生じる本質的な不一致がこの分化を導くだろう。そのとき、表象を事とすることをその務めとしていたはずのイメージは、判じ絵の身分においてかえってみずからが表象されるべきものの不透明さに身を沈めてしまっている。同時にテクストも同じ分化の働きによって二重化されるおのれの本体をそこに見出しており、すでに通り過ぎたはずのイメージの場所へともう一度、今度は判じ絵と化した他者を表象するために戻っていく。こうして、パラドックス的な循環の無限につづく回廊が回り始めている。……あるいはそう言って言い過ぎであるならば、しかし少なくとも、そのとば口の扉がこの通廊へと通じる光景を細く開けた隙間からわずかに覗かせている、そのようには言える。マグリットの絵画作品を読み取りながら「描くことは断言することではない」というかたちでフーコーが引き出したイメージとテクストとの不一致の関係を、高野文子の「マッチ売りの少女」を読む私たちも、私たちなりにうべなうことになるだろう*1
 紙面に描かれる図形のあの不可解にも見える連なりを分節化し、総合をほどこしているものは、以上のようにテクストとイメージとが完全には重なり合わないことで生じるひずみから逆光的に表象の表面へと照射される照明、あるいは、ブラックライトが対象の表面に実現するようないとも暗き輝きである。白紙の紙面は黒く光を発する。見えるものの形象を描く線の明瞭な連なりは背景に沈み込もうとしており、代わりに紙面の余白が紙の白さという属性を携えながら、しかし黒さと見紛うばかりの不透明さのもと、この広がりの場にゆっくりと浮かび上がろうとしているかのようだ。この暗さの中にどのようなイメージが描かれ、どのような仕方でこの黒さが照らし出されようとしているのだろうか? ……さらに紙面の描く図像へと目を凝らしてゆかねばならないだろう。

 正六角形の小さなフレームがここでの作図における構成の最小単位をかたちづくるものである点はすでに確認した。アンデルセンの「マッチ売りの少女」が語る諸場面の描写は、高野文子の「マッチ売りの少女」でのイメージの基礎となる個々の大小フレームに対し、おのれに相応しい装飾がほどこされることを求めているだろう。テクストはイメージに対して整形的に働きかけている。(対してイメージの方はと言えば、おのれを縛る規則にしたがい成型的=形成的におのれを実現し、実現したおのれ自身をほとんど機械的に紙面に反復させ横溢させようとしているように見える)。蜜蜂の巣房のような正六角形のフレーム内を蝶の羽のように左右対称に分かつ二つの三角形、そのそれぞれに二本の縦線が装飾されると、しごく簡略化された模式図のようなかたちでではあれ、そこには一点透視によって描画される街路と街並みの景観が確かに現われる。そしてフレームの頂点を真円の中心に見立てて隣接する二本の辺を内角の側にそって円弧で繋げればそこには人の顔が現われ、この一筆書きされた顔からやはりフレームを描く線の軌跡を基準にいくつかの線を延ばすと、ポケットのついたエプロンをまとう人物の胴体とそこから伸びる彼女の腕がかたちづくられ、するとたちどころに少女のイメージが紙面に姿を現わすことになる。同様の装飾的な作図のさまざまな操作によって、彼女の指先で火が点されるマッチ棒や什器のしつらえられた家屋の内部の様子、街路に降りしきる雪や食卓に並ぶご馳走の盛られた食器類といった、物語のことばが要請するかぎりの形象のイメージがつぎつぎと紙面に結実されることになるだろう。こうして化粧壁を塗り固めるようにしてテクストのことばに堅固な造形性を付与する絵解きとしてのイメージがある。他方で、判じ絵として見られるイメージはテクストのことばのもつ「語を語るもの」という働きによって、おのれがかたくなに図示するにとどめているものを修辞的に代弁させようとするだろう。私たちは紙面に描かれるイメージの中で三つ一組をかたちづくる不明瞭な造形の組み合わせにしばしば出会うことになるが、アンデルセンの綴る「マッチ売りの少女」の物語の骨格にはほとんど関与せぬかのように思われるこの数的要素の無償の戯れに見えるものが、しかし少女によって繰り返される三本のマッチ棒の点火という説話的な裏づけのもとで、ほかならぬこの物語の言説可能な水準からイメージの源泉を汲み上げているという事実に逢着する。イメージにおいて正六角形のフレームが対角線にそって三等分にされること、あるいは出来事のイメージが三度繰り返して描かれることには、テクストによる裏づけをもつそれらしき意味が見出されるわけである。また、絵解きか判じ絵として読み取られるべきイメージのテクストとの関係性は、おおむね線状に連なるそこでのフレーム総体の形態とも深く関わっているだろう。私たちはこの線状に連なるテクストの文字列とイメージの形態をそれぞれ追って、描かれたイメージをことばのように読むことになるし、書かれたテクストをイメージのように見ることになる。作品の紙面で6ページずつの区画として明確に分有されたそれぞれの表象は三度ずつ反復され、結果として最低限六度の往還がイメージとテクストとのあいだの読み取りで要請されることになるだろう。(それ自体において読まれるテクストは絵解きとしてのイメージによって見返され、判じ絵としてのイメージにおいてさらにもう一度見返される。同様に、それ自体として眺められたイメージは絵解きに対応するテクストとして読み直され、さらにもう一度、判じ絵の資格においてテクストによって読み返される)。見ることと読むこととによる表象の遂行はイメージとテクストとを分離可能ではあるが解除不可能なかたちでつねに結び合わせているが、それはたんに両者を結合させているというだけなのではなく、つねに交差的に縫い合わされたかたちで実行される。一対一の結合的な対応があるのではなく、むしろ靴紐が靴の穴を差し合わせて行くように、二本の縄をあざなって一本の綱をかたちづくるように、それはつねに交差的なずれを生み出すようなかたちで連接的に繋げ合わされている。作品構成における停止した外観とともに、作品の経験がもたらす表象の運動があるだろう。紙面に開いた無色透明の隙間がその運動を強いている。
 紙面の図像が図示するとともに語るところのものにも目を向けよう。私たちはそこに見慣れたものを見出す。すなわちここまでの記述の過程ですでに辿り終えた循環する主題系の各要素が、ここにすっかりとひと揃いされた恰好でおのおの姿を現わしていることに気づかされる。あるいは正確に言うならば、それら既知の主題群の現前はここまでかくも覚束ない記述をジグザクに重ねてきた私たちの視線にかぎって、その姿を露わにすると言うべきかもしれない。高野文子の「マッチ売りの少女」へとこのような経路にそって辿り着いた私たちの瞳だけが、そこに以下の主題的対象を見出しているのかもしれない。もとより私たちのここでの務めは作品に対して正しい解釈をほどこすといったこととはまるで無縁であったからには、ここに見られる対象のイメージを確たるものとする誰にとっても客観的な証拠などといったものは、これをひとかけらも提示するあてはない。私たちはここまでの流儀にしたがいここでも、私たちに固有の傷痕を作品へと返すまでなのかもしれない。……つまりまたしても、「扉」である。扉の形象は作品の描くイメージにおいてもっとも頻繁に現われるもののひとつである。開閉する動作の展開に応じて少女の眼前のイメージを受諾するか拒むかするものとして、扉は見えるものの閾の役割を果たしている。あるいは「布」。布は少女のまとうエプロンやスカートとして六角形のフレームを線で区切るか拡張するかして現われている。少女の棒のような腕によって探られるエプロンに開いた扇形のポケット。鏡はどうだろうか? 鏡は鏡そのものの形象としては姿を見せてはいない。しかしたとえば、三本の対角線によって六つの三角形の区画に等分された六角形のフレーム内に明々と灯されるマッチ棒のともし火、その三面鏡の表面に反映する影像の戯れのごとき外観が、あの「鏡」が取り仕切っていた紙面の場へと私たちをもう一度連れ戻すかのようだ。鏡と同様、紙もまた「マッチ売りの少女」の描くイメージに直接的には現われていない。そしてその形象としての紙の内容のフォルムにおける隠棲に見えるものは、やはり主題としての「紙」にこそ相応しい。「紙」はそこでさまざまなかたちで文字どおりに展開される六角形の形象の、あたかも折り紙かペーパークラフトを思わせる姿態をまとって、表現のフォルムとしてのおのれを紙面に差し出しているだろう。山折り谷折りの線にそって裏と表とでくせをつけられ、自在に折り曲げられる、厚みを欠いた少女の身体。真っ平らの少女。こうしてマンガ作品においてイメージの現われがそれらの連関によって限界づけられているように思われた四つすべての主題が伏流しつつ、マンガではない作品の表面にもこの固有の形象をともなって現われているだろう。

 高野文子の「マッチ売りの少女」において私たちが最後に見取っておかなければならないものは、「見えないもの」のイメージである。イメージとテクストとのあいだの懸隔においてかたちづくられる表象の断層から、イメージが内容のフォルムにおいて描く見えないもののしるしとしての既知の四つの主題までを確認できたいま、残された務めとては、それらの連関が具体的にどのようなかたちで紙面に見えないものとして結実されてあるかを見取ることにある。なぜイメージはかくも捻れたかたちでテクストと交わらなければならなかったか。なぜ紙面に描かれる形象がこのような様相を示さなければならないのか。すべては、イメージにおいて目には見えないものの水準において起こった出来事の効果として了解される。すべてはこの白紙の上に起こった出来事だと言える。紙面に描かれる正六角形の形象は黒く明瞭に引かれる無数の線によって見えるもののイメージをこの場に持ち来している。しかしこの最小単位として見られる個々の正六角形のフレームは、その見えない背景の余白に、フレームとフレームのあいだに広がる何らのイメージも描かれてはいないはずのその真っ白な紙面を覗かせる場所に、描き込みのされていない単純な空白とはおよそ正反対の、不在の充満とも言うべきある膨張を漲らせているだろう。ひとひらの雪のかけらか、または蜜蜂の巣房の一室のごとき外形を示していたように見えた正六角形のフレームは、イメージが受け持つ6ページの紙面いっぱいをまんべんなく埋め尽くす同じフレームの無数の反復を背景にして現われている。描かれる場面のイメージの内容としてのフォルムやそれを描画可能にしている正六角形の基礎的な表現のフォルムといった私たちの目に見えるもののすべては、それらすべてを包摂して紙面の隅々にまで広がっているこの余白の充実を背景に、文字どおり氷山の一角として露頭を示しているにすぎない。正六角形は作図の基礎的なフレームではあるが、それは紙面に見えるものとして現われているかぎりのイメージに、すでに適用されたものとして見出されたものである。それは条件づけられたものの資格において見られている。作図を条件づけている水準はその適用済みの個別に現われているイメージの側にはない。イメージを真に分節し総合する線は余白のうちで目にはけっして見えないまま背景の白さの広がりに端を発し、個別のフレームを黒い線の軌跡のもとで束の間浮かび上がらせ、そして通り過ぎ、すみやかにまた不可視の余白へと消えていく。結合し重なり合い、隣り合いながら交差的にずれていく、それらフレームが自在に示すさまざまな振る舞いは、すでにこの見えない余白によってこそはじめて可能となっていた。そこから、私たちがこの正六角形の形象をあくまでフレームとよび、ここまでマンガの枠線やコマ割りとは異なるものとして峻別していた理由が明確になる。正六角形の外形はその輪郭線の内部にテクストの言表可能なものとの関わりに応じてさまざまな潤色や装飾をほどこされることが可能であったが(内容のフォルムをもつことができたが)、それらの修辞的操作はマンガのコマとそこに盛りこまれる内容物との関係がつねにそのようなものであるような具合には、分節するものとされるものとの明瞭な分離をけっして許さない。それは心理学的であったり認知理論的であったりする裏づけのもと、マンガのコマと内容との紐帯や連携が強く主張される場合とはまったく無関係に、且つはそのような主観的な水準における還元の遂行ぬきに、いっさいの留保なく認められなければならないものだ。「マッチ売りの少女」における正六角形のフレームにおいては、内容のフォルムである形象の水準とそれを描画可能にしている枠線との関係がまったく分離不可能なかたちで現われているだろう。余白を背景にして、額縁が絵の内容そのものと完全に混じり合ってしまっている。絵のかかっていない額縁を考えることは容易に可能だろう。では額縁をもたない絵を思考することができるだろうか? 額縁だけをかけかえられた同じ一枚の絵といったものがイメージ可能であるならば、それもおそらく可能であるだろう。それはマンガのコマの枠線とそこに描かれる形象との関係を考えるに際しても同断であるはずだ(あるいはコマの枠線に飛びかかって挑もうとするマンガの登場人物の、破格と言えばそうも言えるような破天荒な姿といったものを思い浮かべてみるべきだろうか。分節されてあるおのれを条件づけている分節化の次元そのものに対して、果敢に挑みかかるマンガのキャラクターといったものを。しかし私たちが前にしているものは、おそらくその種のメタフィクショナルな実験性などとはまったく縁遠いものであるはずだ。試み自体が潜在的にもう一回り大きなコマの枠線に囲われているかぎりではじめて可能となり、そしてそのこと自体にはけっして気づかない、気づこうとしない、そのような無邪気な破格さとはおよそ無縁のものが、いま私たちの眼前に姿を現わしているはずなのだ)。
 高野文子の「マッチ売りの少女」は線の分節作用とその効果との区別を曖昧なまま瞳の前におのれを差し出しており、内容のフォルムとそれを可能にしている表現のフォルムとの識別をほとんど不可能なまでに混線させているだろう。瞳は六角形のフレームにそってその外形の描線を丹念に追っていくが、いまおのれが確かに見ているその黒い線が果たして内容の形象をかたどる線であるのか、それともこの内容が描かれるための場所を紙面に指定し区画している額縁としての枠線であるのか、いずれか一方を択一的に見定めることはついに不可能であるだろう。それそのものとしては目にはけっして映らない紙面の余白が、この外形の線を通じて形象の輪郭に入り込んでしまっており、同時に形象を描く確かなものであるべき線が余白の広がりへと漂い出してしまっている。線は事のはじまりから形象と余白とを分かつ堅固な境界であることをやめてしまっているだろう。私たちはすでにすべてがなし終えられたこの余白の場に遅ればせながら辿り着き、そこでのイメージの現前に立ち会うことになる。見えないものがこの紙の表面で、裏でも表でもなくその広げうるかぎりの表面という表面にわたって、すべてのイメージを取り仕切っている。
 最後に、節の冒頭で掲げた問いに答えを与えておこう。マンガとは異なるものとして現われながら、マンガの真下に潜んでいるもの、マンガが描かれない場に現われながらマンガをそこに実現するものとは、「マッチ売りの少女」の以上見たすべてのイメージの在りようとして見出されるだろう。イメージの見えるものにおける実現を可能にし条件づけている、それ自体としては「見えないもの」が確かにある。それは白紙の上にはけっして描かれることがなかった、紙に描かれなかった紙の余白である。「紙に描かれた紙」としての「紙」の主題をすでに見終えたのちに、この終わりのさらに先に現われたものこそが、余白としてのこの「見えないもの」であった。それは章を始めるにあたって私たちが真っ先に見ておいたあの「扉」の主題が、潜在的におのれがそうあるものとして無言の様態のもとに語っていたところのものでもある。マンガというひとつの表象行為を支持するまったき物としての素材=紙は、マンガという行為を根底から条件づけるものであるだろう。それなくしてはイメージは何ひとつかたちづくられることはない。しかし、それなくしては何ひとつ始まることができないという資格で、この紙に剰余をつけたすものがある。それがここまで余白と呼ばれてきたイメージの反-実在的な要素であるはずだ。イメージにおける身分において物的な支持材としての紙(空白でありうるような紙)の実在に反するものであり、イメージがかたちづくる順列的な秩序において線の黒さの実在とも反する、そのようなものとしての紙=反-紙、線=反-描線、つまり余白。準マンガ的作品、あるいは下マンガ的作品が、マンガとともに、マンガがなくとも、実現するものとは、この余白のこよなくポジティブな力能にこそよる、紙面における作品という出来事の現働化であった。ここにおいてついに私たちはその働きの全局面を、足早に駆け抜けながらも確かに見おおせたと信じてよいだろう。

 ──高野文子の「マッチ売りの少女」をこうして見取ることで、私たちは私たちがここで見るべきものとして想定した事がらをひととおりすべて見納めたことになる。作品を見る瞳をあらがいがたい力で捉えた四つの主題、それらがかたちづくっている循環的な連関、紙が条件づけ、余白の名のもとに始まっていた出来事が、各主題を中継点にしてカテゴリー的な様相のもとに運搬していくイメージの変移を経て、ふたたび紙のもとに辿り着き、そこに余白における見えないものの不在の現われを再度確認するにいたる。こうして私たちの記述も一巡した。章を終えるにあたって、最後に、私たちの記述がここまで踏査したイメージのもろもろの局面を図表化した模式図、あるいはむしろ、生成途上にある地図といったものを掲げて次の章へと移ることにしよう。

*1:ミシェル・フーコー「これはパイプではない」(『フーコー・コレクション3』ちくま学芸文庫)参照。……ただし私たちは、マグリットフーコーが不在のイメージを不在である身分のまま絵画の画面に現前させるために必要とした、テクストの言語記号の水準に打ち込む命題による極小のくさび、タブローに書き/描き込まれると同時に煙となって揮発し、絵画の画面全体に万遍なくうっすらと蒸着していくことになる影のカリグラムの否定的なしるし(これはパイプでは「ない」)といったものを直接求めるのではなく、それとは別の様態のもとに、イメージとテクストの交錯、およびその不可視の現前を見取ることになるだろう。たとえば「マッチ売りの少女」の表象関係が静かに開く鬼ごっこかリレーのためにもうけられる競技場のような具合に。「描くことは断言することではない」というフーコーの言明の口ぶりは、すなわちまさにそのようなものとして、ある無視しがたい戸惑いの開けとして了承されなければならない。私たちはフーコーのこのことばを、「描くことは断言することのかたわらにあって、そのうえで、この断言をを破裂させるようにして生じている」という意味において注解的に了解するだろう。