ドゥルーズ『シネマ2』(第6章「偽なるものの力能」)

 『シネマ2』をぼんやり読みながらマンガに絡めて考えたことをまとまらないまま。(第6章「偽なるものの力能」のあたり)。
 ドゥルーズはこの本でそこまで展開してきた論述をさらに先へと延ばしていくにあたって、運動イメージと時間イメージとの両体制の対立するポイントを一つひとつ洗い出していく。対立のポイントは映画のイメージ全体を一般的に構成する「描写」、「説話」、「物語」という放射的な包摂関係を形づくるような諸契機の描く扇型の線にそって見出されていってるみたいだ。相変わらず難しすぎてよく内容を理解できていないからさっそく適当なことを書くけど、たとえばイメージの「描写」という水準において、映画は運動的体制(「有機的体制」)と時間的体制(「結晶的体制」)との間で対立するポイントを作り出すことになるということなんだけど、この対立は当然、描写の対象と描写の遂行との関係において弁別的な対照点をもつということになる。簡単に要点を絞って言えば、というか簡単にしか理解できていないからそう言いっ放すしかないわけだけど、つまり対象が現実的で現働的でもあるような所与の前提的で客観的なステータスにある場合、描写は感覚運動的で有機的な法則にしたがうものになるし、そうでない場合、対象が対象それ自体としては見出されずに描写が純粋に描写そのものだけを対象とするような特異なケースにおいては、この描写はすぐれて結晶的で自己生成的であるような時間的本性をあらわにすることになる、ということらしい。この関係は相互に相手を排除するものであるというよりも、従属と解放との非対称な関係を形づくるみたいだ。つまり運動的体制において時間イメージを支配して自分の領分の法則にしたがわせていた運動イメージは、時間的体制においてこの権利を失って、時間イメージをそれ固有の野放図さへと解放するための断たれた鎖のような契機へと転身する。イメージが辿る運命のうちにはどっちかしかないってことじゃなくて、この両体制が捻れた連携をしてる。
 ここからどうマンガの話と繋がるものか、自分でもまったく理解できてないんだけど直感にしたがってさらに飛躍して話を進めると、たとえばそこでマンガに描かれる人物の図像に関して何か考えることができるんじゃないだろうか。四方田犬彦は『漫画原論』の中でマンガのキャラクターの同一性についてのおもしろい定式を提出してた。《二度と同じ顔が描かれることはない》。しかし同時に、《漫画家は同一の顔を、望む限り際限なく描き続けることができる》。マンガのキャラクター(特に「顔」として先鋭的に局所化される)における非連続性と連続性との総合的な統一が、どんな具合にその下部に潜む《リゾーム》的な《氾濫する分身》の図像の戯れによって本質的に規定されたものかを、そこで説いている。四方田犬彦がこのくだりでおもに参照している作品は手塚治虫の『〇マン』とか白土三平の『忍者武芸帳』だけど、そこでの分析はコマの内部に描かれる同一の顔の増殖的な氾濫か、または説話的な物語の信憑性にそってコマとかページを大きくまたいで見出されるキャラクターの反復的な登場みたいな次元で行われているように見える。《氾濫する分身》の増殖性の発見を保証するものは、マンガのコマという空間的な表象的性質、その枠線のもつ領域性の周辺に寄宿的に散布されたものに沿うような具合にこれに依拠しつつ、見出されているようにも思われる。これはなんとなく、上述のドゥルーズのイメージ概念から見ると、運動感覚的な空間イメージの内部(人物の形象やコマのもつ属領的性格)からそれらを侵食するものとしてキャラクターの同一性の下の非連続性を見出そうとするものであるようにも見える。(《リゾーム》というドゥルーズ=ガタリ的な概念の援用がちょっとそんな印象を強くするような気もする)。ちょっと忘れてしまってるんだけど、『テヅカイズデッド』の伊藤剛はこの四方田犬彦の提示したテーゼを「コマ割り」とか「コマ構造」とかいった、自身念入りに、すごく慎重に再整理した概念のもとで、さらに発展させていたような気がする。そこではマンガが生成して練り上げる時間の流れに着目をしつつ、描写の対象のもつ形象的で空間的な実質と同時に、でもそれ以上に、その描写がそれより以下の水準に移行すると純粋な描写と化す恐れのあるそのような瀬戸際に見出される、コマの配置とキャラクターとの合作的な効果の解明といったものが試みられていたような気がする。(記憶があやふやなんで非常に怪しい理解だけど)。感覚的な運動イメージの成立を条件づけるレベルにあるコマの構成を時間イメージとともに明瞭に見出そうとしていたかぎりで、伊藤剛の仕事は四方田犬彦のもたらした成果をさらに発展させているものだといえそうだ。それはマンガが産み出す通常の流れの時間感覚の発生を解明するものであり、つまりその共通の理解を一歩外したところには、無定形の時間イメージがそれそのもとして、《氾濫する分身》まさにそのものの、馴致されない道端の落書き状の混乱的な様相、そういった図像的増殖が存在することを逆説的に照らし出すような成果でもあるような気がする。コマの配分(空間性の配慮)が時間の進行観念をそのようにしたがわせるものとして見出されているとしても、『テヅカイズデッド』の功績はけっして覆らないだろう。そしてむしろ、伊藤剛のマンガ分析における時間イメージの発見の功績は《偽造者》の集団として以外ありえないことが今やはっきりしている、その「キャラ」概念の新たな創設として、ドゥルーズのいう「説話」や「物語」の水準にこそ指摘されるべきだろうとも思う。
 ……何が言いたかったんだっけ? そうだ、つまりコマの枠線という領域性、運動性、それに従属的な時間イメージ、そのすべてを領導する法則であるコマの構成というものをとっぱらってしまうと、そこに文字どおりの《氾濫する分身》である人物の無数の群れが図像として現われるだろうってことが言いたかった。これはモブシーン以上の混乱をページの上にもたらすことによって、モブシーンのさらに以下、さらに下部に現われるものだろう。つまり恣意的な操作だとか作品のメッセージ(たとえば民衆の匿名性の顕示とか)やテーマ(忍者という存在に特有の、その忍術の不思議さ、奇怪さとか)にそった図像やシーンの描写をさらに下回るその場所で、単独ではけっして現われることのないマンガのキャラクターの本質的な多数性、分身的身分、同時的で共存的、根底的に身元不明で行方不明である反表象的な視覚性が、時間イメージの顕現として紙面に横溢して炸裂することになるんじゃなかろうか、ってことだ。それはまた、このジャンルで揶揄とか侮辱のためによく用いられる「ハンコ絵」とか言われるものとも異なるだろう。つまり、作画の技術の巧拙や習熟の程度なんかが問題となってるわけじゃまったくないからだ。それはこれまで懸案だったものがあるときすっかり解消されるというような消去可能な問題の中にあるものじゃなくて、マンガが人物の形象を描き続けるかぎりは必然的な与件として受け入れなきゃいけないものだろう。枠線の下には結晶が様々な断面を見せてその一つひとつの輝点を示している。描写だけがはっきりと示すことのできるこの無数の輝点が説話の水準で描くことになるものこそが、たとえば《偽なるものの力能》と呼ばれるものでもあるだろう。ドゥルーズによればそれこそは芸術の創造性の生産点でもあるものらしい。芸術家=《偽造者》という等式がそこらへんから導き出されることになるわけだけど、そこにたとえば、三好銀の描くマンガの問題を新たに再問題化することができるんじゃないだろうか。三好銀の描く人物たち、奥行きを欠いて不自然なまでにのっぺりとした顔をもった、あの容易にはそれぞれの識別の難しい人物たち、芸術家や詐欺師たち、死体にそっくりな生者たち、といったものたちを、そこらへんから新たに見直すことができるんじゃないだろうか?とかぼんやりと考えている。