三好銀『三好さんとこの日曜日』

 三好銀が作品の中で繰り返し作り出す「隔たり」といったものがあるように思う。『三好さんとこの日曜日』は作家のデビュー単行本であるけれど、収録されている各回のエピソードは連載当時のエピソードの中から数を限ったうえでより抜きした体裁になっていて、この本から漏れたエピソードを再編集したものが後に『いるのにいない日曜日』として単行本化されることになったみたいだ。あるいはひょっとしたら両単行本からも漏れているエピソードがまだ残されてるのかもしれず、そこらへんはちょっとわからない。だからそれを最後の回と言ってしまって正しいのかどうかは不確かなんだけど、とにかくこの単行本の末尾の回に収められているエピソードは「ものまね小僧」ということになっている。この話は、ある晩の夜更けに池のある大きな公園でボートを漕ぎ出した三好さん夫妻が出くわすことになるちょっと謎めいた出来事の始終を描くもので、しかし例のごとくなんの始末も解明も見出されないまま、出来事が描かれるままそのとおりに語られるという内容になっており、やはりまたいつものように三好銀的としか言えないような感触をもつ掌編だ。タイトルになってる「ものまね小僧」もまた、後の『海辺へ行く道 そしてまた、夏』での「噂鳥」のように、人々の語る噂話や物語の中にしか生息しないような荒唐無稽で怪しげな存在の不確かさのうちにどこまでもとどまるばかりで、一篇の語る出来事に直接その姿を現すことはけっしてない。この結局は何も起こらなかった話で特に注目に値するように思われることとは、真っ暗な真夜中の公園でボートに乗った夫妻の頭上を野球のボールが行き交うという、とても奇妙な味わいをもつ静かな情景の描写にある。蛍光塗料を塗られて暗闇の中で白く浮かび上がる小さなボールが、池の対岸にそれぞれ位置するとおぼしき二人の姿の見えない人物の間でのかけ声とともに(守備練習のノックを行っている様子だけはなんとなくわかる)、池の上の三好さん夫妻の頭上をしきりと行き交うことになる。ここでは、三好銀が作品の説話的な構成においてしばしば作り出す人物相互や物品との間の隔たり、間接性、媒介性といったものが、この場面の一連の描写においてとても見やすい形で絵として差し出されているように思われる。ボールがどこの誰から放たれてどこの誰がそれを受け止めるのか、その様子は暗闇の中に沈みこんでしまってまったくうかがい知ることができない。けれど、かけ声はさかんにこの周囲に響きつづけているし、ボールそれ自体もまた、これを見るだけの人物にはどこまでも謎めいた運動でありつづけるだろうけれど、一向にその動きがやみそうな気配は感じられない。重要に思われるのは、このボールのやり取りの過程の中で隔たりを生むものとは、三好さん夫妻がたまたまその場に居合わせてしまったことによる、「場違いなもの」が引き起こす一種の記号的な錯乱の効果によるものでもあるという点だ。この記号的混信には適切な解釈をほどこすことを可能にする次元があらかじめ見失われてしまっている。野球のノックを行う者たちの必要とする距離的な意味での適切な隔たりとはまったく別に、どこまでも目撃者的な部外者の位置にありつづけるほかない三好さん夫妻の(無能力的な)介入によって、この距離的な隔たりは、その意図も意味もいっさいが不明で謎のままにありつづける混信した記号の間違った隔たりとして、ひたすら眺められるだけの光景となるだろう。描写が作り出す隔たりとは、こうして場違いな人物の行動における無能力や放心、凝視、待ちぼうけ、期待はずれ、あるいは行為の空振り、ためらいや物忘れ等々、それら以上の類似したいっさいの場合を含みうる、不発に終わる行為の数々を産み出すことができるように思う。三好作品にしばしば現れる葉書だとかメッセージの書かれた紙面や書類のたぐい、思わぬタイミングや場所で発見される写真といった小道具はそのような「誤った隔たり」を産み出す説話装置として活用されることになるだろうし、そこにはさらに、身に覚えのない寝言やどこからともなく響いてくる書物の朗読の声、誤配された宅配便の荷物や野晒しにされた冷蔵庫の中で気まぐれと出鱈目に物々交換される食料品のたぐい、もはや声ですらない無言のいたずら電話、または糸が千切れて用をなさない糸電話といったものすら含まれることになるし、より示唆的な例としては、忘却のうちに失った当人自身のある日の言葉といったものまでがそれらと同様の説話的価値を帯びて、隔たりを広げ、維持し、これを無視できないものへと変えることにもなるだろう。ひとつひとつ例を確認することはしないけど、三好銀の描く作品の至るところにそのような間違った隔たりを埋め込む罠のような仕掛けが見出されることになるはずだ。登場人物たちはその仕掛けの中で行動を失って凝固したようになるか、あてどなく彷徨い歩きはじめることになる、という印象がある。
 あとがきの文章で三好銀は、《(……)自分にとってささいで私的な日常的な出来事は、割と大切なんだと、それだけをこの作品の中で自分は言いたかったんだとリアルに思い出した》とそう語っているけれど、しかしその《ささいで私的な日常的な出来事》のもつ異様さといったものが確かにここにはあるし、そこには何かただごとではない気配が漂っていることも疑いえない。ふつう、人はこんなふうな間違った隔たりの連続の中で《日常》を送ったりはしないし、こんなふうに連発する行為の失錯の中では《日常》を維持することなど到底不可能なように思える。三好銀の《日常》は常ならぬ過誤のようなもの、不意の失調か行動の正しいリズムの喪失のようなものとして、人がふだん、出来るだけ避けてまわろうと努力するものであるように思われるし、とはつまり、それを《日常》と呼べることは認めるとしても、それはいわゆる日常の日の目の下に潜んで蓋をされなければならない、日常の暗部としての《日常》のようなものだろうと思う。でも同時に、その《日常》は三好銀にとってはほんとうに、《ささいで私的な日常的な出来事》をもたらす生活における実感の基礎なんだろうなとも思う。その感覚は確かに作者とともに共有することのできる感覚だと、これは彼の作品をこれまで読んできて、確かにそのように信じることができるものでもある。
 「望遠鏡」と題されたエピソードでは三好さん夫妻の《日常》に導入された「おもちゃの望遠鏡」が、文字どおりの「誤った隔たり」を、人物が見ているものとそこで見られる眺めとの間に作り出すことになるけれど、これは『いるのにいない日曜日』での「北風番地」のエピソードと同工異曲をなすような出来事の成り行きを示している。「北風番地」において夫妻を急いで走らせることになる豆腐屋さんの到来を告げる「赤い紙ヒコーキ」や風に乗って遠くから届くラッパの音色、子どもたちの遊ぶ様子を伝える喚声の響きなんかと同種の信号的イメージが、本作の「望遠鏡」においては、アパートの部屋から遠く離れた高架線を走る夜の電車の望遠鏡を通した視覚的イメージとして変奏されて現れているといえるだろう。見ることのできるもの、聴くことのできるものが、見えたり聴かれたりする錐状の先端のまさにその点に存在するとき、見る者または聴く者は、この対象との間の隔たりの中で行動を失い、埋め合わせ不可能な遅れの時間の中で無為の彷徨を余儀なくされる。見ることや聴くことがその能力に固有の範囲内でいよいよ強力に対象を掴んでいるように思われるその分だけ、懸隔は埋めようもなく広がって、人物は行動における自身の無能力をますます強く自覚するにいたるかのようだ。その意味で、三好銀的な隔たりを生きる人とたとえば幻視者のような存在とはまったく別種のあり方においておのおのの生を進んでゆくものなのかもしれない。たぶん見霊者や幻視者たちが自分の知覚を通じておのれを見えるように見せているもの、聴こえるように聴かせているものの厳然たる存在を確信するようには、誤った隔たりを生きる人は、自分の見ているもの、聴いているものの存在を信じることはできないんじゃないだろうか。この覚束なさ、「いるのにいない」ものの不確かな現前に立ち会うことの不明瞭さといったものこそが、つねに誤った隔たりに挟まれて生きている人を強いている存在の様態なのではないかなと思う。彼らの行動は知覚されたイメージと断ち切られしまっているだろう。その運動イメージの断裂において見ることや聴くことは文字どおりの夢や幻、あるいは嘘としか思われないような容易には信じがたい何かの到来する怪しげな経験の場と化し、行動は本源的な彷徨いのニュアンスを帯びて、喪心の具体的で身体的なものでもある表現となるんじゃないだろうか。
 「おもちゃの望遠鏡」から覗かれた遠くの眺めの中で、さながら高架橋の向こう側に降る星々の煌めきのようにして、一瞬だけ、夢のような、作り物のような光景が現れる。《一瞬だった……/望遠鏡の中の風景が作り物のようだった》。作品の読み手である私たちもまた、三好さんたちのその場での主観的で視覚的な眺めに自分を重ね合わせるようにして、望遠鏡の真円を描くレンズのフレームを通じ、彼らと同じ景色をマンガの紙面の上に眺めることになる(中野シズカの「刺星」での、ピンホールを穿たれて黒い紙に星座を描く眺めの到来なんかを思い出す)。真四角のコマが変化も動きの印象にも乏しい配置で律儀に静かに連ねられていく三好銀の作品にあって、コマ内部でのことであれ、円形のフレームが形づくられることはとても珍しいことだと感じるけれど、私たちはもう一点、そのような常態的なフレームをもつ形態にとっての例外となるような場合をすでに知っていたはずだ。『海辺へ行く道 冬』でのエピソード「どこかに穴でもできたのかい」には床の上に偽の穴を開ける、紙に描かれた丸い穴の絵といったものが現れていたことを、三好銀の後の作品での出来事として、私たちはこの作家の処女作に触れる以前に、すでに知っている。望遠鏡のレンズを通じて描かれる光景(《あの夢みたいな一瞬の光景》)と、床に穴を開けてそこを通じて知らぬ間に人物が現われたり消えたりする、魔術師のシルクハットにもよく似た働きをする絵に描かれたその穴とは、眺めの中に誤った隔たりをもたらしてその場に居合わせた者から行動を奪い去るという、偽なるものに固有のその力能において、それぞれ別々の作品においてまったく同じ成果をもたらしているものだといえるだろう。フレームとして絵が切り取られているのだろうか。それともフレームが絵として切り取られているのだろうか。結局すべては紙の上に描かれた紙としての出来事に帰着するしかないようなこのような場合にあって、表象することの条件と表象されたものとが形づくる何もかもが、それを見るだけの私たちにとって、不可解で、隔たりを閉じることなく広げたまま、とても曖昧なものとしてありつづけることになるように感じる。そのような事態はまた、三好銀の作品に固有のものであるけれど、ある意味ではすぐれて高野文子的な作品のあり方だと言うこともできるのかもしれない。『海辺へ行く道 そしてまた、夏』での「真夏の気象予報士」に描かれる写真の中の男、正確には「写真の上に貼りつけられた男の写真」、そのような対象の形態を象る輪郭と対象それ自体が一体化してしまっている紙の上の形象、紙の上自体としてすらある形象は、高野文子が好んで描くところのものでもあったはずだ。繰り返しになるだけだからそこらへんのことはここではもう詳しくは述べることができない。
 ともあれ、誤った隔たりの広がりは、こうして三好銀の作品の読み手である私たちの経験に対しても迫り出すようにしてその曖昧さを視覚的に差し出すように思われる。そこからまたたとえば、『海辺へ行く道』のシリーズの特に最初の頃の挿話にしばしば描かれた、例の縮尺の狂った事物や人物のサイズの混乱的な描写といった事態が導かれるのかもしれない。描写はすべてマンガの紙の上で行われる営みであり、描かれる対象が場違いなほど大きくなったり小さすぎたりするのは、絵として表象されるものの宿る相対的に調整されたもろもろの適切さへのこの紙の上の配慮の地平でのことであり、描写という行為の遂行の水準では、この表象の条件への配慮はいつでも裏切ることができるものとしてあるだろう。その裏切りが作品に誤った隔たりを導入することが充分に見越せるかぎりで(その実効性が充分に期待できるかぎりで)、作家はいつでも絵の上にこうした偽者だらけの混乱状態を作り出すことができるはずだ。
 また、この隔たりの拡張において、三好作品全篇を通じて進行したかのように見える「猫」のゆるやかな離反といったものも見直すことができるのかもしれない。すでに『三好さんとこの日曜日』が描かれていた時点で、作家は、最終的には野生として馴致されない動物としての猫と我が家の飼い猫である「梅」と呼ばれる猫との、それぞれ存在のきわめて異なる二つのあり方において、その溝の埋めることのできそうにない齟齬を表明している。《猫との関係が重く感じられる時がある/猫を擬人化し過ぎるからだと思う/そんな雰囲気を猫のほうが壊してくれる事がある/雀など小動物をいたぶる時だ/獣の目つき/近づき過ぎた関係をものの見事に引き離してくれる》。「鳩」と題された回では、その実感どおりの「梅」の隠すもうひとつの非日常的な姿がユーモラスに描かれている。とはいうものの、そこでは猫は「梅」として擬人化と言ってもよい親しげな姿で造形されており、三好さん夫妻の良き家人にして大切な友人のように終始変わらず愛着的に描かれている。『海辺へ行く道』が描く猫にはもはや名前は与えられておらず(あるいは「バカ猫」と呼ばれるだけで名前は明かされず)、擬人化された造形や描写もそこから消え失せて、その後ろ姿でのみ、真っ黒にベタ塗りされて紙面の上でかろうじて猫の存在を想起させる純粋な形態のパターンのごときものとしてのみ姿を現わすことになり、そして作品の回が進行するにつれて、姿自体を現わす頻度自体も低減していく。猫はもはや到底飼い猫とは呼べそうにはない関わりにおいてのみ姿を現わし、その説話的な役割といえば、これにけっして出会うことのできない存在がそこにいるということを告げるものであり、そのような負量的な存在のあり方において物語の中に組み込まれることになる。決定的な隔たりやすれ違いの連続、出会い損ねることの現われ、といった事態が、こうして猫との関わりによっても作品に導かれているように感じる。
 ……間違った隔たりの設定、埋めることのできない齟齬といったものは、それが目を背けようもなくはっきりと描かれるだけにいっそう、三好銀の描くこの作品世界の《日常》をいよいよ魅力的に、不穏に、活気づけることになるんじゃないかな、と思った。