マルク=アントワーヌ・マチュー『3秒』

 マルク=アントワーヌ・マチューというBD作家の『3秒』という作品を読んだ。それぞれが正方形をした3×3の9コマがページ単位でさらに大きな一個の正方形を形づくって1頁を構成している。確かとり・みきがこんなコマ構成の1頁マンガをむかし描いていたって記憶がある。総頁数70弱の作品なんだけどタイトルどおり「3秒」の間に起こった出来事がいっさいセリフもないまま淡々と描写されてゆく。描写の切り取る一コマごとの画面は連続するカメラ撮影のズームアップのショットを繋げたもののようにして進展していき、顕微鏡を覗くような具合にしだいに極大化してゆく細部の中に、次のシーンへと移行するきっかけとなる新たな鏡面状の対象を見出し、今度はこの鏡像のシーンの中でさらにもうひとつの新たな鏡面を見出すまで同様の漸進的で接近する対象描写が繰り返されることになる(高野文子の「棒がいっぽん」の最後の場面をちょっと思い出す)。だから、人物の瞳に映りこむ周囲の眺めの反映への接近から始まるこの描写の連続は、すべて無限に反復する鏡像の戯れとして、景色の左右反転を正確なテンポで繰り返しながらシーンを繋げている。その手法は映画用語でいう「ワンシーン・ワンショット」という撮影スタイルに近いもののような気もするけれど、70頁をかけて描写されるすべてのシーンは最初に描かれた一人の登場人物の瞳に映る反映の中に折り畳まれたわずか3秒間分の光景なんだから、これら描写のいっさいはクローズアップで描かれたただひとつのショットに還元される、ともいえるのかもしれない。
 たとえばこれと同じことを映画やアニメーションで行おうとしても、このコミックと同じ視覚的効果は得られないだろうとも思う。動画として現実的に時間を飲み込みながらでしかシーンが展開しない他のジャンルでは、この「3秒」の出来事の持続を維持することは難しいような気がする。つまり、それをコミックとは別の形式で映像化して成功させるには、この「3秒」は余りにも長すぎるだろう。逆の言い方をすれば、映画やアニメーションはこの「3秒」にとって余りにも早く時間の中を進むために、それの再現が仮に実現した場合でも、作品という出来事が必要とするような経験における実質の充分な開示にいたることはできないだろう、と思う。この「3秒」は作品に対する私たち読み手の最低でも数時間分に匹敵する読みの時間と必要としているように思えるし、この私たちの費やす数時間の読みの時間だけが、ここにおける「3秒」を支えることができるんじゃないかと思う。作品のそもそもの発想が映画のカメラ撮影やCGによる特殊撮影からもたらされてることは確かなんだとしても、これはやはり、書籍やコミックという本質的に静態的で、いわば時間の中で固まっているメディアだけが可能にした経験の実質的感触だと感じる。
 そこでの描写のリズムは近づくことと遠ざかることの単調な交替関係に基づいている。対象が描き出されるとそこに任意の細部が見出されて画面はこの鏡像(瞳、窓ガラス、レンズや鏡面の反射等々)にしだいに近づいてゆく。対象が直前のものからすっかり切り替わったと言えるまでに充分接近が達成されると、すでにそこには、別の小さな鏡像をはらんだ新しい対象が遠くに現れている。近づくことと遠くに現れることはこうして一体化して描写の連続を可能にしているだろう。出来事の舞台となる空間はホテルの一室から街路を越え、広大なサッカー場や飛行中の旅客機の中にまで移ることができると思いきや、それだけにとどまらずさらにそこから、月を間近に臨んで宇宙空間に浮かぶ人工衛星にまで達し、再びホテルのある街の一画へと戻って広大な連続的軌跡を描く。「3秒」の光景はそこまでの規模で空間的に広がることができるけれど、でもそこに現実の生きた運動の印象といったものはとても希薄なままにとどまっている。描写の連なりは大きな運動を描くというよりも、スライド写真による行動の死んだ標本のようなものか、あるいは顕微鏡の倍率の上昇による眺めの変化のようなものに見える。そこでは描写の運動は時間イメージをしたがえることがなく、かといって、時間イメージもまた何かはかばかしい成果を達成しているというわけでもなさそうだ。ただしそこに出来事の変化がないというわけではまったくなく、ちょうど「だるまさんが転んだ」の遊びのように、鬼役の子どもが断続的に目を向けるたびに少しだけ何かがさっきまでとは異なる姿勢に変わっていて、その微かな差分は容易には指摘できないという感じだ。まるで人間の似姿をもった石像が身体を軋ませながら少しずつ動いているというような、とても異質で違和感に満ちた変化がここにはみなぎっていて、その奇妙な感触がとてもおもしろい。日本のマンガに見慣れた視覚にはこのような静態的な感覚は運動の自然な有り様やその真実らしさといったものの再現における単なる失敗か欠点にしか見えないだろうけど、そもそも紙に描かれた一枚の絵が動くという感覚自体が紛れもない錯覚にほかならないんだから、この錯覚を削ぎ落とした剥き出しの紙の上で、しかしなおかつ何かの変化のイメージを描こうとするその愚直なまでに誠実な要求には、ちょっと感動すら覚える。
 この作品に登場する人物はセリフをいっさい口にすることはないんだけど、物語として作品を秘かに支持する言説の水準そのものが存在しないというわけではない。「3秒」の間にあちこちで散発するもろもろの出来事にはミクロスコピックな細部がむしろ雄弁過ぎるほどに語る無言の説話が満ちみちており、これを補完するべき読み手による絵解きの言説を、共謀者として手ぐすねを引いて待っているとすらいえるだろう。その無言の言説はクライムミステリーのようなジャンルを秘かに形成するもので、おそらくは、たとえばロブ=グリエのある種の小説に慣れ親しんだ人などは、作品の細部の読み取りとともに、この隠されつつ剥き出された言説の、何とも言えずあだっぽい感じの虜になる資質があるんじゃないかなと思う。説話と描写の連続を支えてきた鏡面=コンパクトの鏡が割れる瞬間、その鏡の背後に、最後にどんな言葉が現れることになるのか。それは自分の目でじかに確認していただきたい。ここには書かないよ。
 マルク=アントワーヌ・マチューにはもう一冊邦訳された作品があるみたいなんで、いずれ是非そっちも読んでみたいと感じた。ごちゃごちゃと書いたけど、要するにまず何より先に、彼の描く線と絵がいいんだよね。端正なモノクロの紙面が見ているだけでめちゃくちゃ気持ちいい。そこを見るだけでもこの本を手に取る価値はある。