三好銀と「絵葉書」に開いた穴/三好銀『海辺へ行く道 冬』

海辺へ行く道 冬 (ビームコミックス)
 去年読んだ三好銀の連作短篇集の続篇。相変わらずおもしろすぎて困る。ブログみたいな場所でこうして感想のことばを綴ることには、作品をつうじて思考のこうむった圧力を幾分かでも(日常の生活に差しさわりのない程度にまで)下げてやるという自助的な浄化っぽい側面があるようにも思うけど、過度におもしろすぎる作品にあっては、そういうことばによる圧抜きというか手入れみたいなこころみがまったく通じない(カフカルーセルの小説がいつまでたってもそういうものでありつづけるみたいに)。思考は未整理で未解決のまま、ずっとその吊るし上げみたいな状態の維持を強いられることになるという感じがある。おもしろすぎは困る。
 四つの短篇からなるこの連作集の最後に収められてる作品には「どこかに穴でもできたのかい」というタイトルがつけられてる。エピソードの主要な登場人物の一人は前作から引き続き、中学の美術部で活動している例の「奏介くん」であるけれど、話の焦点となるのは不動産屋に勤めていて今は失業中の若い女性「リサちゃん」と、以前に彼女に紹介された賃貸のマンションらしき一部屋に住む「ケンくん」と呼ばれる身元不詳の男の二人だ。今では恋仲となっているらしいその二人の身辺に起こるできごとに、「リサちゃん」の元同級生で現在は健康器具の営業マンだと称する(実際は、興信所の探偵である)「トオルくん」が筋に絡んできて、一篇の物語をかたちづくっていく。その正体に関して「ヤバイ系」とも「金持ちのドラ息子」とも噂されている「ケンくん」が「リサちゃん」の協力のもと、「トオルくん」の追跡から身をかわすため、「奏介くん」たち(同じ美術部の後輩「タチバナ」と同級生の女の子の妹で小学生の「サヤちゃん」を含めた三人)に、風変わりな偽装工作の依頼をする、というのが物語の主筋となっている。「リサちゃん」の発案からなるその偽装の仕掛けとは、絵の心得のある美術部の学生を計画に引き入れ、彼らにフローリングの床にぽっかり開いた「穴」の絵を描かせ、その様子を写した部屋の写真を偽の証拠にして、「ケンくん」が「トオルくん」の件とは別ののっぴきならぬ事情から、この「穴」をくぐって、すでに追跡者の目の前から逃走してしまっているということを「トオルくん」に誤信させようという、まったく嘘のようにしか聞こえない、その実まさに正真正銘の嘘の企みだ。一枚の紙に描かれたこの「穴」の絵は奏介くんら三人の共同制作からなる一個の芸術作品と言ってもよさそうだし、それは「本物そっくりの嘘」というより、むしろ、いかがわしさをまったく隠そうとしない嘘にそっくりの嘘そのものを作品のなかに生みだす。しかし、リサちゃんが奏介たちを騙ることばのとおり、この嘘にそっくりの嘘の穴をくぐって実在しない重病の子どものためにほんとうに「サンタクロース」は出入りすることになるかもしれないし、ケンくんもこの偽の、嘘の穴をほんとうにくぐって、作品の最後にはリサちゃんの前から姿を消すことになるのかもしれない。紙に描かれたこの嘘の「穴」の特異な在り方とその効果とをほんとうに信じること、それこそが、マンガの実在のための条件となっているのかもしれない。
 だから「どこかに穴でもできたのかい」というこのエピソードの問いかけは、嘘として生みだされる作品のその効果如何をうらなうことばとして読み手に聴き取られることになるだろう。作品は穴をくぐって姿を現わし、同時に穴そのものとして姿を現わすわけだから、この紙の上に描かれた穴が「何も無い」ということの現われであることは不可能だろう。それはある充実さのうちに混入される無や空虚さの開口であるというわけではなさそうだし、人がその底無しの無に向かってすべり落ちてしまう致死的な罠みたいなものとしてあるわけでもなさそうだ(この前読んだジュネの「バルコン」における、ロジェと衣裳の中身=死との関係のような結びつき、それとよく似ているけれども明らかに異なるものとして、この「穴」は実在する)。重病の子どものためにひょっとしたらほんとうに現われるのかもしれない作り話の中の「サンタクロース」は、その穴を使って部屋の外と内とを出入りすることになるわけだし、リサちゃんの前から姿を消すことになるケンくんにしても、彼が最後的に虚無へと挺身するとかいう話じゃなくて、≪あの穴から≫本当に≪何処にでも行けそうだ≫というふうにはっきりと口にしている。穴は空虚さや無と外観上よく似ているとは言えても、それとは効果としてまったく別の本性をもつ、通路や秘密の通り道のようなものとして把握したほうがよさそうだ。作品が穴を保有しており、または穴や通路をくぐって姿を現わし、別の時には姿をくらますものなのだとしたら、その穴=通路は作品のどこに開いているのか。
 大雑把に言えば、作品としてのマンガは、「紙」と「絵」と「物語」の三つの層の重なり合いから組み立てられているように見える。「紙」とは物質的な素材のレヴェルでそれ以外の二つの次元を下支えする基底として実在するものだろう。かんたんに、触れることのできるものと言っていい。「絵」は、その「紙」の表面に描かれてイメージをかたちづくる線や墨の黒さとして実在する。これは見ることのできるものと言っていいだろう。「物語」は、話やことば、象徴性なんかの水準に関わっていて、前二者の重なりの上においてその実在を展開していくはずだ。それは語ることのできるものと要約されてもいい。この「紙」と「絵」と「物語」の三つの層の重なり合いをかんたんに指示するために、それらを仮に、「絵/葉/書」(「イメージ/紙/ことば」)と呼んでおく。作品とは、大きな枠組みではこの「絵/葉/書」の本性の異なる三つの実在から形成されるように見えるけど、これらの水準は階層的な従属関係を構成するというよりは、相互に連絡可能な、それぞれがまさに互いにとっての通路として向かい合うような関係を結んでいると言ってよさそうだ。ただし、作品以前のそれら三つの実在は、従属とも相補的なものとも言えず、それらは即自的にそれらのまま、個別にばらばらのままで、分離されたものとして抽象することができるだろう。「紙」に描かれた「絵」による「物語」としてのマンガの、その「絵/葉/書」としての作品性は、無為や無償の産物なんかじゃなく、従属や交流を生みだし編成する、ある方向性をもった圧力やその調整の繊細な営みの過程から到来することになる。
 「絵/葉/書」、触知可能なものと可視的なものと言表可能なものとの関係として作品を見るかぎりで、穴としての作品、ないし作品の穴は、この三つの可能性の領分に通路として使用可能な潜在的な開口部やほころびを作り出すことができるように思える。1)一枚の物的な対象としての「紙」の水準に開く穴は、それが作品をかたちづくるかぎりにおいてネガティブな規定のもとに表現されるのではなく(たとえば、触ることのできるものに対する「触れないもの」という全面的な否定性においてではなく)、感覚や物質的な手応えにおける変調だとか違和感なんかとして経験できるものとして、通念における一枚の紙が担っている標準的な平滑さの姿形・有り様に介入してくるものかもしれない。そのような観点から見ると、たとえば高野文子が『火打ち箱』で行っていることとは、この一枚の「紙」のもつ「穴」の次元を、折り目や切り込み、襞の折りたたみや紙の両面の利用といったさまざまな方法で、作品としてこれを実現させようとするこころみであったと捉え直すことができる。作品はその「紙」の物質的な水準では、潜在的に、形態のそのような変化を「穴」としてこうむり、またそこからやって来ることができるものとしてある。
 2)作品の「絵」の水準に開く穴は、イメージとして目に見えるものと見えないものとの明確な分節化をほころばせる曖昧な境界線として表象されることになるだろう。描線が紙の表面にうがつ穴と言っていい。再び高野文子の作品から例を引けば、「マッチ売りの少女」における額縁の内部に描かれた形象とその外側の余白との関係においてあの厚みのない描線が果たしていた役割を思い出してもいい。あるいは、「スクリーントーン技法」の作家としての中野シズカが作品に導入するトーンの(網点の)潜在的な「絵」の効果について考えてみるとき、この「絵」の水準に開いた黒さと白さとの反転だとか半透明さの特質について、あらためて思い出すことができることがあるかもしれない。作品の「絵」はイメージと見えるものがそこに限界づけられることになる境界線の両岸に余白としての「穴」をもっていて、イメージはこの穴と同時にしか姿を現わすことはできないはずだけど、その条件を自覚的に問い求めることが作品にとって必然的な条件かどうかはまったく別の問題だ。ある作家における幾つかの作品だけが、この「絵」の水準での穴の実在を作品全体にとっての実在の条件とするような仕方で組み込んでいるのだろう。
 3)作品の「物語」の水準に開く「穴」は、ことばの継起性を範例的なモデルとするような線状の連なりの中で、意味の連関を追う場におけるある種のつまずきだとか象徴のはたらきの乱調みたいなものとして、その語ることのできるものの場に、広い意味でのことばの無能力全般による通路をもうけるだろう。言表可能なものに対しては、そこにおける活動のある種のしくじりだとか言い間違い、聞き間違いのさまざまな様態なんかが対置される。この連作集に収められている最初のエピソードである「冬眠しない蛇」という話では、ことば(寝言)はそれが意味作用であるというより赤裸な欲望のはしたなさを感染させるものとしてのみ人物間の経路を次々に降っていくものとしてあって、そのほとんど無意味と踵を接した欲望のことばが何を意味し、正確に、どこの誰から誰へと発せられ、けっきょくそれがどこへと物語を帰着させようとするものなのか、もはや皆目見当のつかない状態を作品の中に作り出している。蛇の口伝えによって感染するというその淫らな呪いの寝言*1の出所が、天上に開いた羽目板の隙間、ちょうど「穴」となったところから現われる蛇によって、寝ている者の耳元に吹き込まれることになるという一篇の描く場景は、作品の「話」の次元に開いたこの「穴」の様子をごく手早く読み手に伝えてくれているだろう。その天井裏に開いた穴からは「いるのにいない」例の黒猫も現われたり姿を消したりを繰り返しているのかもしれない(「バカ猫」に関しては、それが作品の目に見える水準でベタ塗りされた墨の黒さの量塊を紙の上に滲ませるという特別な資格において、それの「絵」の次元での「穴」の実在を、「物語」の象徴性において連絡し、表現するものとして機能しているかもしれない。そして、紙の白さとベタの黒さとをいつでも反転可能なものとしてアイドリングの状態におくこの「バカ猫」の特別な在り方は、三好銀さんの描く諸作品にあって印象的な、登場人物たちの例の後ろ姿のショットとも深く関係するものではないか?という予感がある)。
 原因も目的も欠いたまま、「話」のかたちづくる連鎖の過程で「穴」から吹き寄せてくる欲望の息吹を追い風みたいに背中に受け止めて作品が姿を現わすという「冬眠しない蛇」の一面をかたどるこのような作品の在り方は、「工場船と冬のきのこ」というエピソードにも同様に顕著だろう。詳細は省くけど、そこでも「物語」の因果関係には無数の「穴」が開いてしまっており、出来事における幾つかの錯誤だとか、行方不明、身元不明とかいった語彙のもとで語られるべき事態の推移があり、そこに、≪氷詰めされる巨大な人≫の彫刻というような魅力的で謎めいた作品の産出のモチーフも密接にからんで、一篇から受ける作品と「穴」との不可分な感触をとても印象深いものにしている。それが何によって開始されたものなのか、何のために開始されたものなのか、という始まりと目的における広い意味での原因性の迷路とでもいってよさそうな作品のこのような巡回的な在り方は、たとえば前作に収められていた「回文横丁」でのあのおまじない(回文)を、作品そのものの実在の象徴的なエンブレムのようなものとして見ることを可能にしているかもしれない。
 三番目のエピソードである「あるアーティストの帰郷」では、この因果関係の鎖はうまく「穴」の所在を隠しおおせているようにも見える。「奏介くん」の先輩の「テルオくん」の芸術活動は、それが誰かに対する復讐としてあるにせよ、または善意の結果としてあるにせよ、ともかくはそれらの活動によって生みだされた作品が、何のために、何に動機づけられてあるものなのかを、ちゃんとことばと「話」の中に定義することのできるものとして示している。その意味で、そこでの「穴」の在り方は「冬眠しない蛇」や「工場船」のエピソードとは様態としてすこし異なっていて、それが本質的には何であるのか? という説明や解釈のことばに混乱をもたらすものとしての生産物(芸術の対象)の顔を、前面に強調するように思える。そこで結果される目的として町に出没する「逃亡猿」を追い払うためか、それとも、初発の動機として「逃亡猿」に困惑する町の人々への無償の善意の故にか、どちらかとははっきりと言えないし、またそのどちらでもあるとも言えるけれど、ともかく、「テルオくん」が奏介と協力して制作する≪八頭身のマネキンに日本猿の特殊メイクをした≫奇怪なオブジェは、モデルとしての本物の日本猿には模倣性のレヴェルでまったく似ていない偽物の猿を、いわば「偽物にしか見えない偽物」として差し出していて、その嘘のもたらす効果として、しかし確かに、町からの「日本猿撃退」という一事においてひとつの成果を実現してしまう。それは「どこかに穴でもできたのかい」におけるあの紙に描かれた穴の絵の場合と同様の効果を「物語」の水準にもたらしているだろう。それが何であるのか?ということばの本質に開いた答えることのできない「穴」が、ことばの成果としての作品において何かを通過させ、実現させている、と言っていい。
 「絵/葉/書」のかたちづくる作品の組み込みには、こんなふうにして幾つもの「穴」が開いているようにも思う。もう一度整理しておけば、「絵(イメージ」)には線や点としての目に見える形象のかたわらに、それじたいとしては目に映らない領分が描かれている。「葉(紙)」は、触ることのできる同じ物質的な実在のうちに、切れ目や折れ目の可能的な感触を宿している。「書(ことば)」には、語ることのできる因果関係の編み目に語り損ねることの不一致の点が織りこまれている。それらの「穴」が空虚や欠如として想像されるとしたら、たぶんそこで作品の経験が不当に抽象化されてしまっているからで(あるいは、抽象化が「抽象作用を捨象する」ところまで行き着く以前に停滞してしまっているからで)、もぐらの巣穴のような通路としてのこの「穴」の特異な実在が、底の無い、死にも酷似した落とし穴みたいなものとして意識が了解してしまっているからだろう。もう一度確認すれば、それらはいかにそれが特異な方法であろうと、確かに描かれているし、触れることができるし、読まれることができる作品としてあるはずだ。(たとえば『いるのにいない日曜日』という作品は、この「穴」と作品の実在との取り結ぶさまざまな関係の小さな展覧会のような観を呈しているとすら言えそうだ)。
 では、「どこかに穴でもできたのかい」という問いかけに対してはどのように答えるべきだろうか。それは上で数少ない何本かの脈絡を追って見てきたように、ひとまず「絵/葉/書」の「ことば」の次元に開いた「穴」だと言うことはできるだろう。その「穴」の効果は「物語」の地平を循環的な軌跡で駆け巡って、登場人物を言表による特定のできない場所へと送り出し、あるいは同時に召還し、作品のこの場所を終わりのない継起性の空間、一本の直線からなる迷路のようなものへと変えている。ただしその「穴」は、「絵」の水準に描かれたイメージとして表象されていることも忘れてはいけない。また同時に、その「絵」が「ケンくん」の部屋のフローリングの床という物質的なレヴェルに定位されるべき開口部であることも念頭に置いておいたほうがよさそうだ。
 「絵/葉/書」の重なり合いの中には従属関係があるというより、むしろ潜在的な相互の交通があることを思い出しておこう。マンガという作品の存立条件にあって、「紙」がなければ「絵」は描かれず、「絵」がなければ「物語」は紡がれない。逆に言えば、「絵」のあるところにはすでに「紙」があり、「物語」のあるところにはやはりすでに、「紙」と「絵」とがある。マンガという作品の成果の水準から見れば順序は正反対のものになる。「絵」がないところでは「紙」はなにものでもないし、「物語」がないところでは「紙」も「絵」も何一つことばを語りえない。これも逆に言えば、「絵」のあるところではすでに「物語」が語っているし、「紙」のあるところではすでに「絵」が見られ、「物語」が語っているだろう。そこには条件と成果のレヴェルでの相互に逆行する階層的な順序があるようにも思えるけれど、これらの秩序は(「絵/葉/書」の「穴」の水準を考慮に入れない限りでは)覆らない。この「絵/葉/書」の標準的で常識的な秩序が逆流を起こし、そこに相互の自由な交流が発生するのは、裏面としての「穴」の実在の積極的な関与によるものなんじゃないか。「穴」とは定義からして、すでにそれじたいとして異質なものどうしの二重性や曖昧さをはらんでいるものだろう。それは襞の表面で離れたものどうしを接触させることができるし、内側と外側をひと連なりの行程で連絡可能なものにもするし、こことここではない場所とに同時に開くことによって、何かを二重に肯定することができるものとしてあるだろう。「紙」はその周囲で、作品としての「紙」の以前以後になり、「絵」もまた「絵」以前以後、「ことば」も「ことば」以前以後の二重の姿を同時に実現することができる。「紙」の無、「イメージ」の無、「ことば」の無ではなく、それらの「穴」としての特質(折り畳まれること、錯視されること、言い間違えられること、等々)の周囲において、「絵/葉/書」の条件と成果の階層的な両秩序の従属関係は撹乱されることになる。「紙」が切り抜かれ折り畳まれたところにも「絵」や「ことば」はありうる(「絵/葉/書」の条件のレヴェルでの存在の転覆)。また、「絵」が余白としてしか現われず、「ことば」が間違った意味でしか伝達されないところにも、「紙」における作品は成立しうる(「絵/葉/書」の成果のレヴェルでの転倒的効果)。その具体的な作例が、高野文子中野シズカ三好銀らの貴重な諸作品において指摘できる点は、簡単にだけど以前に触れることができたと信じてる。
 「どこかに穴でもできたのかい」という問いに対しては、だから、「どこもかしこも穴だらけだ」というかたちでしかそれに答えようがないようにも思う。「絵/葉/書」のどこかに開いた「穴」というよりはむしろ、いたるところにできた「穴」こそが三好銀の「絵/葉/書」を作り上げているのだ、とでも答えておくよりほか今は返答のしようがないとも思う。問いをそのように無責任に開いたままにしていったん終わる。おもしろすぎる作品は、やっぱり困る。

*1:カップルのあいだでの親密で明け透けな睦言が再現される寝言のなかで対話調をよそおい語られるその発言の内容とは、ある種の「穴」を滑らかに通過するために必要な「挿入」の際の理想的な角度の不足と、その「穴」の側での「分泌量」の不足との確認であるという点も指摘しておいたほうがいいかもしれない。