パスカル・ラバテ『イビクス ネヴゾーロフの数奇な運命』

イビクス――ネヴローゾフの数奇な運命 (BDコレクション)
 絵はめちゃくちゃ上手いし話もめっぽうおもしろくて、作者についても作品についてもほぼなんの予備知識もなく読み始めたもんだから、とてもびっくりした(すでに国際的な賞も受賞している作品で、パスカル・ラバテって人もバンドデシネの方面ではとても高い評価を受けている作家らしい)。ペンをいっさい使わずにほぼ筆塗りだけで表現される光と影のコントラストを最大限にいかした描画が圧倒的にすばらしい。着色原稿をモノクロに落としてグレースケールの複雑な濃淡を表現しているような気がするんだけど、ページ全体がうっすら水を含んでいるかのような揺らぎとムラのある絵の表面がとてもおもしろい。見ていてぜんぜん飽きない。インクにしろ水彩絵の具を使っているにしろ、筆に含ませた水分がそれらの目に見える色の部分を原稿の上に定着させているわけだから、つまりページの画面に描かれたこれらの絵を眺める人は、作家の筆の先から溢れていった水の流れの痕跡を目にしていることになるのかもしれない(というより、その水の流れと一緒に、あるいはそれに逆らって、視線もまたいまここでその筆の流れに乗っかっていくのかもしれない)。ベタ塗りによる墨の黒色と筆のまったく入っていない真っ白で空白の(光のハイライトにあたる)部分が強いコントラストをかたちづくり、揺らぎがちな画面をメリハリよく分節しているようにも思う。パスカル・ラバテって人は窓ガラスだとか鏡や水面に映る人や物の影像の表現に長けた作家で、作品の随所で見ることができるその種の場面でその手腕を確認することができる。窓の外の景色を背にしてガラスに映る自分の顔を視野に捉える人物の主観視点による画面なんかは、影にあたる黒の部分と光の白さとの両極のあいだのグレーな濃度の階調の変化が、この作品にあってとてもゆたかな表現の可能性の地帯であることをよく示してくれている。そのような場面では、染料の黒さと原稿用紙の物質的な白さとが設ける中間的な条件のもとで、半透明でおぼろげな姿をした光の形象が水面に映る影のようにして画面に現れている。高野文子とか中野シズカのマンガに現れる半透明で幽霊のような姿をした形象とはまたちょっと違った幽霊が、パスカル・ラバテの作品のここでも姿を現わしているはずだ(163頁の室内描写とかかなり見ごたえのある場面だと思う)。
 タイトルの「イビクス」っていうのはこの物語の主人公であるシメオン・ネヴゾーロフに取りつく不吉な運命の象徴みたいなもので、作品はロシア革命を時代背景にしてこのネヴゾーロフが一匹のゴキブリみたいに追い立てられながら、なおしぶとく生き延びていくさまを、彼の受難と逃走の行路にそって追いかけていく(ペトログラードからモスクワ、ウクライナへ、オデッサからイスタンブールへ)。一介の会計士にすぎない青年ネヴゾーロフは思想的にも政治的にも固有のものを何ももたないごくありふれた市井の一人物として描かれている(その平凡な市民の一人が時と場合によっては犯罪にも手を染めるし、拷問から逃れるために平気で当局に知人を売ったりもするけれど、平凡な人物の罪っていうのはそういうように場当たり的でなしくずし的にしかなされないものだろう)。状況はつねに革命と内戦の緊急事態の真っ只中にあって、祖国の無政府状態のどさくさに紛れてネヴゾーロフも一財産を当てもするけれど、同じ事態が彼をひとつの居場所に留まることをけっして許さず、赤軍アナキスト、予想もつかない動乱の突発が男を寝ぐらから炙り出すようにして追い立てていく。さらにその彼を追い討ちするように、何かの間違いとしかいえない偶然によってアナーキストの重要人物との関係が疑われ、反ボリシェビキの組織に身元をつけ狙われることになる。プラトンプラトノヴィッチと名乗る白軍の諜報部員に身柄を拘束され、ネヴゾーロフは生命の保証と引き換えにやむを得ず組織の密偵の役割を引き受ける。人が人を化け物のような姿と振る舞いで容赦なく蹂躙していく暴力的な状況の中で、追い立てる者も追い立てられる者もともに、ひっきょう「ゴキブリの競争」に出走する無数のゴキブリの一匹に過ぎないものであるという大きな眺めを得て、ネヴゾーロフにあらかじめ結審された「イビクス」の運命はついに彼に追いつくことになる。
 物語にかんしては一種の亡命劇ということもあるし、セリーヌの小説とかを読んでいたら何かもう少し考えることがあったかもしれない(パスカル・ラバテのこの『イビクス』は原作にアレクセイ・トルストイという作家の同名の小説をもっている。だもんで、小説作品を引き合いにしてこのマンガについて考えることはあながち的外れなものではないと思う。原作はもちろん未読だけど)。
 まるで折れた煙草か枯れ枝みたいな痩身のシルエットをもつこのシメオン・ネヴゾーロフという男は逃走の先々で幾つもの偽名を名乗ることになる。作品冒頭ペトログラードに現れたときは会計士シメオン・ネヴゾーロフ、モスクワでは爵位を購入しネヴゾーロフ伯爵を名乗り、ウクライナのハリコフではフランス風にシモン・ド・ネイゾール伯爵、オデッサでは目利きの貿易商として名を売るセミラピッド・ナヴザラキとして人々の中に現れることになる。イスタンブールの入国管理所では髪を剃り上げてトルコ人になりすましてもいる。いずれもプラトノヴィッチや諜報機関から身をくらます必要に迫られての選択だけど、身に迫る何かから逃げながら名前を変えつづけるという偽装の身振りの前例として、ここで唐突に『パルムの僧院』のファブリスのことを思い出したりもする。殺人の罪を負って官憲から逃れ続けるために名前を偽るファブリス・デル・ドンゴの場合は、何で名前を偽るのか?ではなくて、その結果、偽名の身振りが何を結実させたか?というふうに見方を変えると、(これはあまり根拠もなく直感的に言ってしまえば)名前(家族の名前、この場合デル・ドンゴ家)とそれが生み出し指示するはずの内容(ファブリスが侯爵夫人クレリアとの密通の結果もうけた息子サンドリーノ)とが必ず一致しない、という事態なんじゃないかと思う。そこにスタンダールの小説のモダニティというか、むしろ近代という時代の散文性が試されているようにも思う。作中でネヴゾーロフは、友人から「いっそ皇帝(ツァーリ)を名乗ったらどうです?」とからかわれたり、プラトノヴィッチ(プリルコフ)からは「ここではオグル・ネヴザラクとでも呼んだほうがいいかな?」などと嘲られたりしている。『イビクス』の描く壊乱的で悪夢的な世界では、もっとも偉大であり象徴的な交換過程の全体を取りまとめるはずの名の中の名(「皇帝」)とゴキブリ同然の零落した男の名(ネヴザラクとかその他なにがし)とが可能的に等価に並列してしまうことになる。もちろん、白軍という権力の機関としてネヴゾーロフを執拗に痛めつけるプラトノヴィッチ以下諜報組織の組員たちもこの「ゴキブリのレース」の観客席にとどまることはできない。ファブリスの追っ手である憲兵たちが公国やオーストリアの権威のもとに対等以上の威儀で堂々とデル・ドンゴ侯爵の一子弟を捕縛することができるようには、プラトノヴィッチはネヴゾーロフに相対することはできない。彼もまたネヴゾーロフ同様、名前を変え姿を偽り、所も転々と、ゴキブリ同然の暗躍と競争に身をやつさなければならない一人であることが明らかだからだ。ナポレオンという絶対的な英雄もその崇拝者もいない壊乱したいわば不妊症的世界で演じられる亡命劇では、主人公ネヴゾーロフは家名を残すどころか、(たとえばジュリアン・ソレルがそれに成功したように)その名が斜めに(秘かに)指示すべき対象すらもちえない。これはすでにスタンダール的というより、(いまパッと思い出せるかぎりでは)チェスタトンの『木曜日だった男』なんかにきわめて近い世界だろうと思う。そこでもまた、危機的な時代背景において偽名と変装の終わりの見えない夢魔的な遊戯が登場人物たちよって命がけで演じられていたはずだった。