本秀康『たのしい人生 完全版』

 本秀康が短篇作品で切り取る時間は、現在の情況だとかそこでの登場人物の行動を決定的に規定するようなある刻印的な過去の出来事の時間にすでに早くも押し出されており、しかしまた、その情況に対する自分の無力を何ひとつ自覚できないまま物語の語る行動の連なりの中をあてどなく流されてゆくだけのキャラクターたちにとって、この現在を劇的に転回させることを可能にする、そんなような新たな将来の出来事の時間からも過去の時間に対するものと同じ程度の隔たりによってキャラクターたちを引き剥がしつづけるものとして抽き出されているように感じる。過去は漠然とした悔恨の観念の中ですでにどうあっても取り返しがつかないものになっているか(『ワイルドマウンテン』の菅スガ彦の現在を強いているような情況みたいなものとして)、あるいは自分にはあずかり知ることも責任の取りようもないところから登場人物たちにひたすら希薄な自失を押しつけるような訳のわからないものとして(「ヒコの旅立ち」におけるヒコの親父さんの明示されない「過失」みたいなものとして)、短篇作品の描く現在の行動の背景一面にひろがっている。そしてそのような情況を変化させるために必要な未来の時間に備えるべきもろもろの行動もまた、あまりにも取り留めなく散らかってしまっているためになんの効力ももたないか、または夢の中みたいな放心状態に登場人物を置き去りにするばかりで、短篇作品の開く地平にとっては、いずれにしろどのような期待も抱かせることはない。過去と未来とがそれぞれに逆向きに加える強い張力のあいだで黄金のように光り輝く午睡の時間(「ゴールデンスランバー」)、休眠状態にある無為の時間が展性的に伸び広げられてゆくみたいだし、それだけにいっそう、もはや行動の生きた地平を形づくることのなくなったこの解任された時間の中で、登場人物たちはいよいよ希薄に、ますます取り留めなく、何からも見放された猶予状態を無邪気に、でも一種の徒刑のようなものとして味わうことになる、という感じがする。
 言い過ぎを承知で、それをたとえば無垢な者たちの原罪とか言ってしまいたくもなるんだけれど、それはまあそれとしておいといて、けれど人はたぶん、働いたり義務や約束を履行したり他者のために少しの犠牲や贈与を捧げたりとかいったもろもろの人生のテンプレみたいなものに「縛られる」ことはできないというのは身も蓋もない事実ではないかな、とは思うし、生きていくということすらそれが人を縛るということはけっしてない、とも思う。つまりそれが現に人を縛るものなのだとしたら、それらの人生の約束事が人を否が応でも縛るよう、そのように人が、自らにおいて確かに承認したからに他ならないわけだろうし、この約束した人為の作り事はその約束の結ばれた条件さえ変化してしまえば、たやすく解除されてしまうことになるだろうとも思う。生きていくことの全体がその人の前史においてある時そう結ばれた約束とか、あるいは単なる思い込みと言っても過言ではない無自覚な存念の上に築かれたとても脆い構築物なんだろうから、無垢な者たちを希薄に引き伸ばす本秀康の描く短篇作品に現れているこの自由刑にも似た感触を放つ時間こそは、生そのものの土台の実質に触れかけているものなんじゃないかな、とも思う(むかし丹生谷貴志が口にした「人生の日曜日」という見方にとても近いものとして、本秀康の作品に漂うこの感じをそう認めたくなる)。無垢な者たちの原罪とはそんなような生きることのリミットに触れかけていることのざっくりとした指標程度の言い条だけど、たぶんこのようなものは義務やら何やらといった他者と自分との間で交わした約束事を毎日きちんと果たして気を張って生きているつもりになっている人たちがいちばん見たくないものだろうし、そんなものが存在する事実を忘れたままでいたいと無自覚に願っているものでもあるだろうと思う。本秀康の描く世界はその程度には人を恐れさせるものなんじゃないかなと思う。
 そこらへんの事情から、この作家の描く、見ているとちょっと具合が悪くなるくらいに異様な愛くるしさをまとった造形のキャラクターたち、動物たちや不思議な生き物、宇宙人や奇妙な合成生物たちといった存在に特有の現実感が湧いてくるような気がするし、とりわけ幼児や学生たちといったモラトリアムを現にそれそのものとしてこれと一体化して生きる存在の説得力が汲まれているようにも感じるし、また特に初期の作品に頻繁に見出される夢オチや循環的な形式をもつ説話的な形態への強い執着なんかが際立った言質を得ることになるんじゃないかなとか思う。あえて精度と解像度を落とした筆致で描かれることになるこれら可愛らしいキャラクターたちは、それだけにますます、寄る辺なく生の時間の無軌道さの方に投げ出される者の強く明瞭な形象を形づくることになるだろうし、夢オチ形式は休眠的な時間の中でだけ体現される現実的な行動の決定的な失調と同時に、生きた現在時といったものの人物からの剥落、みたいな事態をたくみに表現する説話手段になるだろう。
 (特に成功しているように思われる)短篇作品は引き伸ばされた現在の時間の中での行動をピックアップして抽出し、この行動を描写されるままにあてどなく漂わせる。過去のどこかの時点に起因するだろう行為のパターンや出来事の帰結を引き継ぐことになるものの、その人物の行動は他者との間で相互に現実的に働きかける力や作用点をすっかり失ってしまっているように見えるし、おそらく未来のヴィジョンといったものも、どこか遠くに揺曳する暗がりの先の小さな光点以上に膨らむことはない(「ゴールデンスランバー」とか「THE FAMILY WAY」のラストシーンが描くような、とても覚束ないものが現れる。あるいは、「ヒコの旅立ち」とか「岡田幸介と50人の息子たち」のラストみたいな、閉ざされつつある現在がもはや見通しのきかない時間へと溶暗する瞬間が描かれる)。
 ただしそこで出来事が何ひとつ起こらなかったというわけじゃない。道端の糞塊に刺さる4枚の500円硬貨が一連の展開の中で最後には「スゴイ物」へと変化を遂げるように(「お金を見つけた」)、情況の中で何かが少しだけ変化をし、眺めを、ともあれそれまでにはなかった新しいものへと変えることになる。夢から覚めて元の通りの現実へと戻るだけではなく、現実に対していかに無力でその実効性が覚束ないものではあれ、変容の兆しとなるサインが浮かび上がる場合がつねに想定されるし期待することができる(長編作品『ワイルドマウンテン』が後に大きなスパンで展開することになるように、巨大な存在の夢見た長い夢物語として最後にすべてが回収されることになったとしても、変化のサインは信号の発信を止めることはないし、サインがそこに存在することのサインもまた、痕跡としてではあれその発信が堰き止められることはない。私たちの意識の影となるとても嘘くさい領域で眺めに変化をもたらす何かが知らぬ間に少しだけ変わっている)。この変化をもたらすものそれ自体を呼び出すものとは、性的な欲求だとか突然噴出する悪意や殺意といったブラックユーモアの形でキャラクター自身に意識化される、小さな瘤の存在のような気がかりな形態を取って導かれるように思われるけれど、それは図像とか造形的に無垢な者をこうして罪をこうむりうる存在として罪障性の方へと引き渡すようにして、これらに傷を与えつつ描かれるようにも思える。約束や果たすべき務めから見放されているかぎりにおいて無垢であった者たちに、いかにネガティブな形でではあろうと無為の持続のうちに変化をもたらすきっかけが装填されることによってその無垢が破れ、「人生の日曜日」の連続であった時間が波打つように少しだけざわめき始める。そのざわめきは観想以上のものであるけれど行動未満のものであり、たぶん予兆とか予感とかいった言葉以外にそれをうまく名指すことはできそうにないものである。「恋の連絡網」の最後で少しだけショートカットすることになる信号の進む順序や「恋のホワンホワン」における少年と少女二人だけの秘密の合図のやり取り、「夢の人」における主人公の少女の恋心の芽生えや「かわいい仲間」の主人公に突如兆す強烈な殺意といったものは、明日以降ひょっとしたら起こるかもしれない出来事の、しかし永遠に予兆でありつづけるものの未来からのサインであるだろう。無垢な者たちに宿る罪に下される罰とは結局そのようなものなのかもしれない。「罰」などと言ってしまうには作品自体も描かれる絵の水準でも余りにも楽しいものなのでとても違和感があるけれど、本秀康の描くマンガはどれもこれも、最終的になんとなく落ち着かない不穏な気分にさせてくれるな、とは読んでいていつも感じる。

たのしい人生完全版

たのしい人生完全版