マリオ・ペルニオーラ『無機的なもののセックス・アピール』

 アガンベンの『裸性』に続く平凡社「イタリア現代思想」シリーズの2冊目(ジャンニ・ヴァッティモという著者の『透明なる社会』という本が同シリーズの3冊目として先日刊行されてるらしい。そっちも読んでみたい)。名前を聞いたこともなかった著者の本だったけど刺激的でとてもおもしろかった。おもしろかったんだけど、哲学とか思想の本は難しすぎて細かなところでいろいろとついていけない箇所が多いのが残念に思う。カントとかヘーゲルなんかも込みで現代思想にかんする基礎的な素養をひととおり身につけてる人が読むとさらに深くここでの考察に踏みこんでいけるんだろなあ、と羨ましく感じる。なんで、例に漏れず今回もまた読んでいて理解できたような気がした箇所にかぎってそれなりのあやふやな感想を述べることしかできない。(この手の本の感想を書くさいには毎回こんなような腰の引けた前口上を述べてるような気がして、さすがにわれながらうんざりする。仕方ないんだけど。まだ実物を読んでない人がこの文章を読んで概要程度でも内容を掴んだと思ってしまったらそれは大間違いで、現物はもっとずっとおもしろいしビカビカに冴えてますよ。しかしさらに最悪なのは、ここに書いてある文章を読んで実物を手に取る必要なしって判断されてしまう場合だ。それはほんとうにまずい。とにかくいっぺん本屋で実際に自分の目を通してみるか、もっと信頼性の高い書き手によるブログなりサイトなりを覗いてみた上で判断してほしいものです。つまり言いたいのは、わたしの書く言葉を信用するな!ってことです。以上エクスキューズまで)。
 マリオ・ペルニオーラはベンヤミンの『パサージュ論』の一節からパラフレーズして借用された「無機的なもののセックス・アピール」というフレーズによって、人間存在の事実的な「モノ」性を簡潔に再確認しながら、無限に連なるこのモノたちの繋がり(いっそ「交接」といっても構わないかもしれないような繋がり、折り重なり)の諸相において現代世界を荒野的な色調のもとで潤色するさまざまな局面をセクシュアリティの観点から捉えなおしつつ、足早に跋渉するようにしてそれら諸領域を通過していく。人間を端的なモノであるとするようなラディカルな着想は西洋思想史において計り知れない困難をともなうものであるという事実がここでの個別の論考からははっきりとうかがえるようにも思われ、プラトンアリストテレスギリシャ哲学からデカルトやカント、ヘーゲルといった近代哲学の経験を経てハイデガーサルトルらの現代哲学に至るまで、モノはその近傍をぎりぎりにかすめながらそれらの思考の辿る推移のなかで最終的にはつねに抑圧や切除や遮蔽の対象として哲学やセクシュアリティの開く視界から遮られてきたまったくの余計もの、厄介な余剰のようなものとして扱われてきたという傍系的な過程が、ペルニオーラのここでの論考の背景として描かれているようにも思う。(ヘーゲルの感覚論における直接的な意識の対象である即自的なモノの存在様態だったり、ハイデガー哲学において核心部分に据えられた存在のモノ性だったり、カントの実践哲学における物自体のステータスだったり、あるいはサドの描く儀式のなかでの匿名的なエネルギーの発現だったりするものは、そこに巻き込まれてあるものをほとんどモノそのもの境地へと至らしめる重大なきっかけとなりかけながらも、最終的には彼ら論者たち自身によってモノとして破棄されるか忘却されるかされる運命を辿ることになる。ペルニオーラのここでの論述を追えば、おそらくストア派だけが中性的であらゆる人間主義的な利害関心から解放されているモノのセクシュアルな可能性といったものを汲むことができたとみなされているんだろうけど、ともあれ著者は、それら遺棄され切り捨てられたモノの広がりの萌芽のような契機をそれぞれの文脈において逐一丹念に拾い上げてみせる)。
 ペルニオーラのいうモノとは主体に対する客体のことではないし、精神に対する身体でもなく、デカルト的な知性(思考するモノ)に対する機械(運動するモノ)のことでもないし、あるいは生に対する死や死体の存在とも異なるものだ。それはひとまず「感覚するモノ」と呼ばれることになるものだけど、そこからすら、その人間主義的ニュアンスを最大限引き抜いた上ではじめてそうと呼称されるべき暫定的な指示であるようにも思われ、なお人間という語彙を使わなければならないかぎりで、人間がセクシュアリティの形づくる不定形の連関におけるその巻き込まれのなかで「感覚される」べきモノの資格においてはじめて参入しうるような、そのような非主体的、非主観的、非人間的な無機性、ニュートラルな無関心性、欲望の差異も男女の性差も、あるいは美醜、魂と肉、能動と受動、支配や隷属、見ることや見られることといった、それらいっさいの経験主義的で弁別的な特性無しに浮かび上がる、ある仄暗い質料の宇宙的な実質をなすものだとされている。モノとはそのようにして、人間主義的なあらゆる二分法の折り目から、折り畳まれた襞の広がりにおいて現れてくる抽象的普遍性を指示するものだという。稚拙な例えで勘弁してほしいけど、たとえば一枚の紙を二つ折りに畳むと向かい合う二つの紙の面が出来上がるわけで、二項対立や二分法といったものは、この一枚の紙の折り畳まれた重なり合う両面みたいなものであるだろう。それらは人間的な思考の抽象によって形づくられる偽りの対立的フォルムとして現実的には存在しないものだ、とはいえない。むしろ逆で、そのような人間的な手作業的操作の介入によってはじめて、紙の重なり合う二枚の面という明瞭な区分を持つそれぞれのフォルムが生じてくるのだし、人間の宿る内在的区分に話を戻せば、魂と身体、知性と運動や延長、生と死、欲望と欠如、のようなあらゆる対立的領域の区分けが、それぞれに照応する具体的で実質的な参照先を保証されているということになるんじゃないだろうか。ペルニオーラの議論におけるもっとも刺激的で、かつ問題含みであるようにも思われる点はこういうところによく現れているように感じる。ヘーゲルはもちろん、鬼面人をおどろかすような発言が多い気がするジジェクみたいな人ですら、具体的普遍性に対する抽象的普遍性の優位なんてことをかつて一度たりとも主張することなどなかったんじゃないか、とか思う。(……ヘーゲルジジェクに関しても実はまったく事情は分かってないけど、なんとなくそう思うってことで)。紙の谷折りされた折り目、二枚の面に挟まれた窪み、畳み込まれた縁、そのような反存在的で、厳密にはその具体的な実質を名指すことも指差すこともできないような抽象的な襞の織り成す次元が、世界における先在的な事実性としてモノによる人間以前の占拠をすでに完了してしまっている、ということじゃないかと思う(ペルニオーラの叙述の進行の中では、現代のこの「ポスト・ヒューマン」の時代においてこそモノのそのような即物的で全面的な世界への開示が完遂され誰の目にも明白な事態として浮上することになる、という順序を踏んでるわけだけど、権利的な問題の構成としては、モノの宿る宇宙論的な外在性の次元こそが「人間としての人間」の歴史以前にとっての一種の不可能な起源として先行している、という理解で正しいんだと思う。不可能な起源とはここでは、モノを抑圧した上で成立している「人間」にとっての問題であるだけで、「感覚するモノ」としての存在にとってはいかなる意味でも不可能が介入する余地はないものであるようにも思う。そのような訳合いから、基本的にはペルニオーラの議論には否定性が本質的な関わりをもつことがないのだとも思う。個別の箇所によっては曖昧な記述もときどき見られるんだけど、空虚よりは充実、二元論ではなく一元論、欠乏よりも満足以後、不可能性よりも使用可能性、といった肯定性のもろもろの線に沿いながら議論が尽くされているように感じる)。
 畳んだ紙とは自分の関心に引き寄せた卑近で分かり易すぎる例えだったけど、実はペルニオーラのここでの議論に即してあながち見当外れってわけでもないように思っている。つまり、モノとは剥き出しの裸の肉体ではなく衣服である、というようなことをペルニオーラは何度も繰り返し念押ししている。衣服、それも「属するものなき衣服」というフレーズによってペルニオーラがいおうとしているのは、たとえばデカルト的な心身二元論的な思考のスタイルが秘かにそれに拠って立つことになるような人間の生に内在的な諸層における偽りの分割を拒否しつつ、そのような心身を包括する生(/死)そのものからの根底的な離反と、そこからの転回や再開をモノに固有の資格において可能にする中性的なセクシュアリティと哲学との新たな邂逅の次元を指し示すことにあるのだろう。身体をまとう死んだ事物としての衣服ではなく、あくまで「属するものなき衣服」、いかなる主体に属するものでもない衣服、むしろより正確を期するならば「属するものなき衣服」としての恋人たちの身体の重なり合い、海面にひっきりなしに皺を寄せては襞を広げる波間の渦中の終わることのない複数の運動、あるいはその認識不可能な移ろいの連続、折り目や窪みの更新、相互に浸透を繰り返す陥没と挿入の連続、果てることのない、オルガスムなき性的魅了の持続(《性のプラトー》)、そのような原因も目的もそれらを担う主体も対象すらも欠いた、ひたすら質料だけから生成される感覚の入り江、または汽水流域のような地帯で発生している沈黙の運動、そんなような容易には名指し難いものを呼び出すためにこそ一種のアレゴリーとしてここで簡潔に、「属するものなき衣服」というようなフレーズが呟かれているだろう。方向性とも意味の次元とも無縁の本質的に複数のものである非決定的で多孔的な存在たちによる、中性的セクシュアリティという触覚的な磁場における相互浸透的で無機的な混淆状態、そのような何かが「属するものなき衣服」の重なり合いの場において垣間見られることになる。そこにたとえば、先日読んだばかりの同じ叢書のアガンベンによる『裸性』での議論を思い出させるところもある(イタリアでの『裸性』の出版は2009年、『無機的なもののセックス・アピール』は1994年となってる。ちなみに訳者の岡田温司さんのあとがきによれば、《一九六〇年代、二人が比較的親しくしていた》という事実は双方の口から確認されているという)。美やセクシュアリティという主題を哲学的試論の課題に据えているこの両論者がともに、問題に固有の領域で起源とされる場の再現不可能性の質を剥き出しの「裸性」という事態において捉え、同時にその裸の透明的な様態への抗い難い誘引力を認めつつ、しかしその場から決然と身を翻して仮象の輝きへと眼差しを向ける――、そんな具合にいっしょくたに要約することはできるものだろうか? アガンベンにかんしてはそんなふうに言うこともできなくはない、という気がする。美や眼差しの欲望の魅力に十分自覚的な美学者として、あるいは対象の不可能性とアナクロニズム的時間性の不可避性とからなる時間構造の混合に熟知している哲学者として、アガンベンをそんなふうに認めることもできなくはないだろうって気がする。ただし、ペルニオーラにかんしてはおそらくそうは言えない。この人は美とか快というものの影響力をおそらく自身の感受性においてほとんど感じてはいない、という気がするし、欠如から兆すすような欲望の働きにもほとんど無頓着そのものといっていいような態度を取るという気もするし、何よりはっきりと断定できるのは、この本の論述の中では逆説的な時間性なんかはまったくといっていいほどかえりみられることがないという点だ。それはさっきもちょっと触れたように、不可能な何か不在であるような対象といったものがモノの次元にはどこにもないって点にかかわっているからなのかもしれない。弁証法的なものであれ、非弁証法的であれ、否定性の契機が恐ろしいほど希薄であり、時間性にかんしていえば、過去の非在性みたいなものが決定的に欠如している。つまり欠如が欠如している。たとえばヘーゲルに寄り添いながら、「これではないもの」という標題のもとでモノの「非決定性」という特質を説いている一章があるんだけど(13章《ヘーゲルと「これではないもの」としてのモノ》)、そこで「感覚するモノ」としての存在同士の交流において通過していくモノたちは「あれであるか、あるいはこれであるか」という矛盾律による決定に背きながら次々に止むことなく移ろいつづけていくことを強いられるとされるわけだけど、それら通過する対象は過去の層に積み重なっていくということがないものとされている。感覚するモノにおいて感覚されるモノとして受け取られ、あるいは逆に感覚されるモノに対し感覚するモノとして差し出されるモノたちの相互浸透的な授受の移行は時間的な過程を経ることなく、何からも差し引かれず、何かへと積み重ねられることもないまま、ただただひたすら空間を横滑りしながら通過していくだけの無時間的経験の充実として現われている。未だ到来しない未来の時間はもちろん、すでに過ぎ去った過去の時間すらがそこにはない。モノは「さらに」と沈黙のうちに要望を発しながら、「一挙に全体」をつねにすでに実現しているものとしてのみ姿を現わす。たとえば『時間の前で』でのディディ=ユベルマンのように、「あれでもあり、これでもある」という重層決定的な仕方で矛盾律を反故にするという仕方ならよく理解できるけれど、ペルニオーラは「あれでもなく、これでもなく」という非決定によって同じ問題に対処している。それは文法的には間違いなく否定形を用いた言明ではあるんだけど、「あれでもあり、これでもある」が不定の時間の中のある点でその要求を止めることが原理的に可能なような具合には表現されていない。そのような要求を停止する機会をあらかじめ放棄した、この上なく狡猾で陰険な、貪婪そのものの肯定の要望でもあるようにも感じる。そのようにして、「あれでもなく、これでもない」の前にはオルガスムなき無限の移ろいだけが要望されているんじゃないだろうか。もちろんそこには過去が背後に控えることも未来が前途に待機することもないだろう。それは、そんなことを口外するような哲学的存在といったものは、相当に厄介なものなんじゃないだろうか。この人に比べてしまえば、アガンベンはもちろんのこと、個人的にすごく感銘を受けたし途轍もなく偉大な作家だと痛感した『映画を見に行く普通の男』のジャン・ルイシェフェールでさえ、すごくナイーヴで神経質な人間に見えてきてしまうという気がする。哲学的エッセイといった小さな趣きをもつこの本は、しかし、マリオ・ペルニオーラという思想家の一筋縄ではいかない本質が否が応でもうかがえるような、その外観のコンパクトさと内実とがいびつに背馳したある種奇怪な書物であるようにも思う。