煮魚をきれいに食べる保安官(お嫁さん候補)

 今週はなんだろ、振り返ってみると景色いちめんにもやーっと紗がかぶさってるみたいで、あまりこれといった印象もなく無為のままなんとなく過ぎてった気がするな。毎日家に帰っては夜更けにかけて農耕詩を読みつづけてたってことだけは確かなんだけど、ほかにはとりたてて書くようなこともなく何か目ぼしい出来事が起こったというわけでもない。寒い日がつづいて雪なども降ったりしたけれど、その前の晩の天気予報じゃ翌朝は(この辺りでも)5センチほどの積雪になるでしょう外出の際は凍った路面に足を取られないようくれぐれもお足元には気をつけて……みたいな話をしてて、雪? イェーイ!みたいに楽しみにしつつ二階の部屋の窓辺のカーテンを寄せて外のようすを眺めてみると街灯の明かりを背景にひっきりなしに刷毛で斜めに刷いてるみたいな勢いのある無数の流線が確かに目に入って、けど夜の暗闇のなかに浮かんで見えてるその斜線の連なりは雪ってよりも白色灯の光の下を無心に流れてく石のつぶてかあるいは黒い灰のかけらみたいにしか見えなくて、窓の下にある植え込みの葉むらにこの雪、雪というよりみぞれ?というよりあられ?ともかくもっと固形の黒っぽいこの粒子があたって立てている音もまるで砂粒をばらまいてるみたいなパラパラとした乾いた質感を辺りいちめんの闇の中から耳元に届かせてて、翌朝には積雪5センチなんて話どこにいったものか、アスファルト舗装の路面はまんべんなく水分に覆われて真っ黒い湿った地肌を一帯に見せてはいるけど雪のなごりは日陰になった段差や壁際のあたりにわずかに見て取れるばかりで昨晩のあの黒っぽい降灰のような影はほんとに灰になって消えてなくなってしまったかのようで、でも細めに開けた窓から流れこんでくるうっすら湿った朝の空気は確かに真冬の雪の日の冷たさにふさわしいものでもあるように思われ、どうも何かに騙されたというような腑に落ちない感じばっかりが気持ちのなかに残る。……今週はそんな日もあったね確か。あー何も起こらなかった週には何も書くことないぞーこれ。
 
 ストックの文章を投下しよう。第1章の11節分として書いたもの。PWEIの懐かしいナンバーなど聴きながらお読みいただけたらと思います。POP WILL EAT ITSELFで「DEF CON ONE」(トワイライトゾーンもワンチャンポロリあるよ☆)。


紙に描かれた紙(表面の第四の対象)
 
 鏡はある特異なケースにおいて、表面における表面の回復された表面を実現する。マンガの描かれる紙面としてのまったき表面が形象の描かれる水準でフィクションの成分による備給を受けていたところで、ほかならぬその形象の描くイメージの効果により、当の形象自身を、物の裏側といった面をいっさい必要としない純粋な図像の表面として再浮上させる。その場合は、「裏面が無い」という言い方はできないし、「裏面に無がある」という言い方もできないだろう。分量的カテゴリーとしての「隠されたもの」が見えないものにおけるそのポジティブな実効性を発現させるこの場所で、すべてはイメージの現前という肯定性に巻き込まれ、捻じれながら進行する。紙の表と裏、描かれた絵の表と裏との差別にまったく関与しない絶対的な表面の諸層だけがある。こうして紙面において図像の外観がその表面性を取り戻す。すなわちこれによって、紙における紙の回復された紙といったものが姿を現わすことになる。「表面において表面の回復された表面」すべての局面を巡回するものは、同じ一枚の紙においておのずから捻じれる複数の表面の面である。鏡は今や、おのれのすべての力能を紙のもとへと譲り渡すだろう。
 「紙」もまた、これまで見てきた主題と同様、高野文子の作品にあって少なくない頻度でその姿を確認することができるものとして紙面に現われている。文字を書く行為の目標としてまったくの白紙であるか、あるいはすでになにがしかの文字が書かれた書面として作品に現われるかする紙がある(「美しき町」のガリ版を切るために用意されて床の上に並べられる紙の連なりや「デイビスの計画」の誘拐された姉から送られてくる一通の手紙、または「黄色い本」で一篇を通じて主人公がそれを読みつづける姿勢を示すことになる小説=書物の指でめくられるページの重なり)。あるいは、その表面に被写体のイメージが描かれる写真紙がある(「アネサとオジ」の扉絵に描かれるピンナップ)。ハサミを入れて紙面から切り取られることを想定された切り抜き絵の類や(「田辺のつる」の扉絵)、すでに切り抜かれて人の形をした紙片として現われている形象がある(「マッチ売りの少女」や「ウェイクフィールド」といった作品に見られる人型の紙片に象られた人物の造形描写)。マンガの紙面に描かれた紙たちであるこの主題としての紙はそこで単純な対象の地位に留まっているだけではない。文字やイメージといったものがそこに書かれ、描かれる、その条件としての地位にある姿においても、紙は紙の上で描かれることになるだろう。単なる描写の内容なのではなく、描写を基礎づける表現のフォルムそのものとして描写される、内容としての紙がある。(「鳥取のふとん」における作図を規定する、罫線を引かれて枡目に区切られた原稿用紙の外観の再現)。
 ひとまず表面としての紙がイメージとの関わりにおいておのれ自身を分節する三つの自己言及的な仕方を区別しておかなければならない。すなわち、(1)紙の上のイメージに描かれる「紙」(たとえば白紙や書面として)、(2)紙の上のイメージに描かれる「紙の上」(たとえば作図の場所である原稿用紙として)、(3)紙の上のイメージに描かれる「紙の上のイメージ」(たとえば切り抜き絵や人型の紙片として)。基礎的でエレメンタルなこれら三つの紙の実現形態は識別を求めるものとして私たちに経験される点を確認しておこう(つまり、すでに一枚の紙の描写においてこれらすべての水準が同一の場所に混じりあって現われることが可能である。それらは紙の実現するもののエレメント、構成要素なのだ。イメージの表面で混合したこれら諸要素の成分比を識別することは私たち読み手の課題となる)。作品の基礎であり素材である物、作品の現われを条件づけるもの、作品において条件づけられ現れているもの──、すべてはこの一枚の同じ紙の表面の異なる面で展開を見せ、捻転し、そして滞留しつづける。同じものの異なる顔をした反復、イメージの大掛かりなトートロジーといったものがそこにはあるかのようだ。紙がおのれの表面において演じるこの同語反復的な戯れは、その紙に接する他者の態度如何を決定づけるものとしてある。
 紙に描かれる「紙」。たとえば「黄色い本」に見られる読書する主人公を捉える描写場面には事がらの道理として当然にも、その人物のかたわらに紙の束としての書物が描かれているが、この書物のページが人物の指先によって繰られるさまが情景の前面において描かれることになる。蝶か、あるいは小さな蠅の仲間の震わせる翅のごとく展開可能なそのページの紙面は、書物の厚みのうちに手でしっかりと握られる存在感の充実にあって、軽やかな展開と開閉による反復的運動を一篇を通じて繰り広げていくだろう*1。紙はその薄さと軽やかさの属性のうちに事物の本性を秘めている。あるいは、「美しき町」の夫婦が住居の部屋の床いっぱいに敷きつめるガリ版刷りのための白紙の連なり(あたかもマンガのコマ割りを模したかのような観を呈する四角形の形態の連なり)は、その表面にインクによる印字を受け止めることのできる物質的な所与として現われているだろう(『棒がいっぽん』38頁)。そこでの紙の役割は、事物として印刷によるローラーの圧力をしっかりと受け止め、表面にこの痕跡を刻みうる物として規定されている。マンガの紙面に描かれる「紙」はそのような内容のフォルムをもっているだろう。
 紙に描かれる「紙の上」とはどのようなものだろうか。「鳥取のふとん」(『モンキービジネスvol.13』収録)の画面全体を構成する原稿用紙状のグリッドは、そこで展開される物語の言説化可能なものと、絵と表意文字アマルガムとして描画可能なもの、そのすべてを規定する、作図の完璧な規矩として機能している。私たちはそこ、個々の明確な形象や、あるいはカリグラム状の文字=形象の混淆体が描かれるその場所に、それらの図示されたなにがしかの形象の現われを見ると同時に、作文用の原稿用紙に擬態する格子状の四角形の連続を見る。あるいは正確に言えば、原稿用紙の下地をなすはずの罫線は罫線としてのその資格において、イメージの描かれる場の外に本来は見えていないものとして沈みこんでいなければならないという可能的な抹消処分をこうむりうる限りで、私たちはそこに、見えていないものを見る、ないし、見ずに済ますことができたものの、にもかかわらず見ずにおくことができなかった、という、この(可能性や偶然性としての)見ることそのものを(現実態において)見ることになるだろう。紙に描かれる「紙の上」とは、見ることそのものを見るという経験を準備するこの条件である表面の前に立つこと、表面をまさに目の前に待機状態におく、見えてはいないはずのものをまさに見る、そのことの条件の場である。私たちはそこでイメージの前に立つ、あるいはむしろ、イメージの前に立つ私たちをイメージする。紙面に現われうる限りの内容のフォルムとしてのあらゆる紙の形象は可能的にそのような場をもうけうる資格をもっているが、表現のフォルムとしての紙のイメージを内容のフォルムに折り畳んだこの紙の具体例がもっとも見やすいかたちで現われている作品は、この「鳥取のふとん」という掌編をもって代表としうるだろう。
 最後に、紙に描かれる「紙に描かれるもの」。言述の方式は中心軸を必要とせずに折れ曲がる、折れ曲がるというよりも反射する、表現の条件としての主部の紙と述部に姿を見せる内容のフォルムとしての紙とが、反転して重なり合う。紙の上に描かれるイメージとしての紙には、その表現するフォルムとして描かれる内容のフォルム面において様々な形象や図像、文字といったものが現われ、あるいは形象のない(表現の内容をまったく欠いた)白紙としてすら描かれることが可能であるが、たとえばここで「人型に切り抜かれた紙片」といった対象がとくに注目に値する理由は、そのような対象がつまるところ、おのれただ一身の身分のみにおいて紙の内容と表現というふたつの境位を、まったく同じ輪郭、まったく同じ形象、まったく同じイメージのうちに完全に、同時に、一挙に実現することができるからである。「田辺のつる」の扉絵における切り抜き絵や「ウェイクフィールド」の紙片で作成された芝居用の人形が秘かに告知しているものこそが、そのような裏と表の差別や奥行きの信憑から解放された人物の形象の表面性といったものであり、あるいは、「マッチ売りの少女」(『モンキービジネスvol.11』収録)の作図全体に展開される六角形の眺めが実現しているものも、そのような紙の内容と表現との完璧な一致の実例であるだろう。紙に描かれた「紙に描かれたイメージ」において、私たちは表現をになうフォルムのイメージと内容を盛り込まれたフォルムのイメージとの厚みのない寸分違わぬ重なりをまさしく目視することになる*2
 紙の上に描かれる紙のイメージといったものが表面の配分においておのずから実現する三つの形態は、以上のような具合で述べられたことになるだろう。それは、作者や私たち作品の受け取り手の前で展開可能な「紙」として表現を支持する物と、この「紙の上」ではじめて表現が可能となる作品の条件としての水準の表面、そしてこの紙の上で現実に可視化されるイメージの表現された表面の水準──、この最小限三つのエレメントから組み立てられる平面の自律的で自己言及的な三つの循環の経路をかたちづくっているが、表現を行使する紙とその表現の内容が盛りこまれる紙とで形成されるイメージの回路は、最後にもうひとつ、巡回の四番目の分枝を必然的に産み落とす。「紙の上に描かれるイメージとしての紙」から「紙の上に描かれるイメージとしての「紙の上に描かれるイメージ」」へと至った平面の増殖的な循環は、そこでおのれの巡行の最終到達地点を見出すことになるが、その場所はしかし、最初の一歩が踏み出された光景と寸分違わぬまったく同じ光景が眺められる場所でもあるだろう。「紙の上に描かれるイメージである紙の上に描かれるイメージ、である紙の上に描かれるイメージ、であるような紙の上に描かれる……」。底が抜けたのだ。イメージの循環の制止を命じるものは、もはや原理的にはどこにも存在しない。循環の到達地点であり最後の光景であったはずの場所は、彷徨いだしたイメージのあてどない移送にも似たこの行進の、まったく同じ眺めをした最初の(しかし数え切れないほどに繰り返されうる「無数の」最初の)場所となるかのようだ。
 しかし、いったい何がこのような災い──災いと言って言い過ぎであるならば、あるいは、イメージと思考の反復を強いるサーキットの厳然たる浮上とでも言うべきか、ともかくそのようなもの、不自由とは明らかに異なるが、かといって自由を謳歌することの長閑さや晴れやかさなどとも同程度に無縁の何か──にも似た事態をもたらしたというのだろうか。二つの異なる要素としての紙に囲繞されたこの境位で、いったい何が起こったというのか。……私たちとしては、そこに紙を見たからだ、という答えをしか用意できない。イメージを可能にする紙とイメージに現われる紙とのあいだでこそ、このサーキットが条件づけられ、可能となり、または不可避の事態として経験されることになるのではないか。
 主題としての紙の語る上述の定式(「紙の上に描かれるイメージとしての或るもの」)が、前節で語られた鏡の主題の提起した言述(「表面において表面の回復した表面」)から派生していたことを思い出しておこう。それとはまた別に、私たちはまず、ここまでの記述で足早ながらそのひととおりをすでに踏査しえたと信じる四つの主題群(「扉」ないし「窓」、「布」、「鏡」、およびここで記述中の「紙」)と、同じく記述の過程で概観的に算出しておいた見えないものの四つのカテゴリーとが大まかな照応関係にあることをあらためて指摘しておこう。
 四角形のフォルムを紙面に判然と実現する「扉」あるいは「窓」の形象は、白紙の空白に描線が引かれることで余白を産出し、この表面における可視性と不可視性との分節を大域的に司って、それにより見えないものの四つのカテゴリー中あらゆる意味で第一位の位格にある「見えないもの」の本義における現われをイメージに実現する。
 「布」は光を受け止めるものとしてはその形象のうちに「扉」や「窓」のものであった余白の表面性を引き継ぐものであるが、風に揺れることが可能な事物としての性格においては、表面に物質的な対象性の水準をもたらして、それにより見えないもののカテゴリーにおける「見間違われるもの」の実在性をイメージの経験にもたらすことになる。
四角形のフォルムであることを「扉」から、事物の対象性の実現を「布」からそれぞれ引き継いだ「鏡」は、その表面に新たに、空間性の信憑、およびその奥行きと対置されるイメージの平面性といった水準を付け加えて、カテゴリーにおける「隠されたもの」を両水準の連続性の戯れのうちに導きいれる。
 では、「紙」はこの照応的な組み合わせに対してどのように合同するのか。図式に語らせるべきだろう。主体における見ることの行使と見られる対象との結びつきにあって「見るに見かねるもの」をその指標とするカテゴリーの関係性の項目は、ここで主題としての「紙」とのあいだで紐帯を結ぶにあたって、必要かつ充分な条件を充たしているだろうか。まずは、「見るに見かねるもの」あるいは「見たくないもの」はその反立事項として「見たいもの」ないし「目に心地よいもの」をもっているのではない、という既に述べた要点を再度確認しておこう。「見るに堪えないもの」とそれに反対するものとを分かつ反立の線はそこには走っていない。「目を背けさせるもの」と「目を惹きつけずにはおかないもの」は、対象とそれを見ること、および見ないこととのイメージの関係性にあって、見ることの主体を遷移可能な振動の様々な波長、欲望のアクセントの差異がもうける場に巻き込んで、しかしイメージの関係性そのものはと言えばこれを護持していく、度量の対照的な強調符のごときものとして機能している。それは同じ関係性の中でプンクトがどこに打たれているのか?、というだけの、程度(強度)における差異を示すものであるだろう。「目を背けさせるもの」が反立の線を書き込む場所はそこではなく、そのようなものとしての「見えないもの」と見ることの放心した有り様、あるいは無関心、または、見えているにも関わらず見ていないもの、「あたかも見えないもの」、そのような惰性的な見ることの様態とのあいだに、これを真に刻み入れることになる。
 ここから事がらを逆に見れば、主題としての「紙」を前にして、私たちはそれを、「あたかも見えないもの」として見過ごすこともありえたものをまさに「見えないもの」として見たと、そう言明し、表現しなおすことができるだろう。「見るに堪えないもの」としての「見るに堪えないもの」を負量における(一方の極での)最高度の「見えないもの」とするならば、「見るに堪えないもの」としては限界まで逓減された内包量をもつ「見る」、「単に見た」、あるいは「既にそう見た」といった態度におけるこの「紙」のイメージもまた、それが少なくとも強度の零度付近での経験ではあったにしても確かに実現され可視化された「見るに堪えないもの」の一環として了解することができるのではないだろうか。「紙の上に描かれるイメージであるかぎりの、紙の上に描かれるイメージ」という言述の方式の内部で、表現するものとしての紙と内容として描かれる紙とのあいだの侵犯的な交流をそこで固くロックしていた「である限りの」という限定辞、一個の錠前が、ここでまさに開錠されようとしている。紙の面が紙の面にゆっくりと覆いかぶさり、いかなる厚みももたないこの重なりにおいて、私たちはそこに、確かに「紙」を見る、紙をだけ見る。
 ともかくこうして、カテゴリーのもうける四つの枠組みと高野作品に見られる四つの大きな主題とが一応の照応関係を結んだものと信じよう。再度整理しなおせば、「見えないもの」がそのもっとも深い不可能性と「扉」の形象とのあいだで結ぶ可視性-不可視性の実現、「隠されたもの」が分量的な延長と「鏡」とのあいだに結ぶ空間的連続性-平面性の実現、「見誤られるもの」が正誤の判定を可能にする性質と「布」とのあいだに交わす実在性-虚偽性の実現、「見るに見かねるもの」が主体と対象とがかたちづくる関係性と「紙」とのあいだに結ぶ循環性-不動性の実現──、それぞれのカテゴリーと主題とのカップリングがイメージにおける相補的で対立的なもう一組のカップリングを、両者の婚姻の成果として生産しているだろう。それぞれの局面で、一組の配偶関係が、親子関係において一組の双生児を産み出しているといってよい。
 もう一度だけ「紙」が無言の様態で語る言述の内容を聴き取っておこう。「紙」は見えないもののカテゴリー(「見かねるもの」)とペアを組んで、そこに二者の合作の効果としてのある固有のものをイメージに実現しているが、事がらの語るところはそれだけに留まるものではないという事実を確認しておこう。見ることの特殊的な一様態としてカテゴリーが規定するところのものと高野作品に特徴的な「紙」という主題との偶有的な出会いがイメージの実現の水準に産出する対照的な双生児の二つの顔──すなわち、循環することと同じものでありつづけることとの同時的な実現といった特徴を、ここに再度銘記するべきだろう。表現された内容である「紙」がおのずから語る言表(「紙の上に描かれたイメージとして、そのようなものである私……」)は、漸進的に実現していく三つのエレメントを巡っておのれのうちに反復を行使していた。巡回の経路はこの三つのイメージの要素を道程の目印にしているし、同じもののの滞留もまた、同じくこの三つの要素によって連ねられた線にそってその投錨地点と定めた。紙の上に描かれるイメージとしての「紙」、紙の上に描かれるイメージとしての「紙の上」、紙の上に描かれるイメージとしての「紙の上に描かれるイメージ」。紙はそのようにしておのれの表面を経巡り、また同時に、おのれ自身のもとに終始変わらぬままありつづける。内容のフォルムを満たす全要素であるこの三つの「紙」の境位は、実は、それぞれに(「紙」以外の)既知の三つの高野文子的主題をすでに反復し終えているだろう。「紙の上に描かれるイメージとしての紙」、すなわちその表面で展開可能な薄さやおのれの表皮に痕跡を刻みうるという特性が事物の本性において実現される、「布」としてもあるような「紙」。「紙の上に描かれるイメージとしての紙の上」、つまり、表面に描かれたもうひとつの表面、表現のフォルムである紙をその内部に折り重ねた内容のフォルムとしての紙、それはまた、一個の「扉」や「窓」としてもあるような「紙」である。最後に、「紙の上に描かれるイメージとしての紙の上に描かれるイメージ」、私たちはそこに内容のフォルムと表現のフォルムとの完全な圧着を見る。実現されるイメージとイメージを実現する条件とが同じひとつのイメージにおいて描かれ、この合作され実現されたイメージはまた、表現するマンガの紙面とのあいだに秘密の連累を伸ばし、これとイメージを照らし合う。表と裏との差別に関わらない絶対的な表面の可視化された姿として、それは「鏡」としてある「紙」の相貌をあらわにしている。
 作品のイメージを実現する物質的な所与であるような紙のものの場所、そこに描かれたイメージとしての「紙」において、イメージを条件づけるすべての要素が循環を描いて現われることができる。……そして、では、「紙」の主題の働きはおのれの他者である三つの主題を内容のフォルムの面で循環させることに尽きるのか?という上述の問いが、ふたたび繰り返される。問いかけはよりシンプルに、「紙」の主題はおのれ自身を内容のフォルムに含むことができるのか?と言い換えることができるだろう。「紙」はおのれ自身を動かすことができるのか。「紙の上に描かれるイメージである、そのようなものとしての私……」ではなく、「紙であるままの私、つまり紙、つまり私……」というような、同語反復的なかたちでしか言明されない「紙」の呟きをそこから引き出すことができるだろうか。循環が描く線のさらに先にありその軌跡を終止させ、しかしそこから新たな別の循環を開始させる、そのような「紙」の分岐と転轍のポイントをどこかに見出すことができるだろうか。「紙に描かれる紙」の選言肢的な諸様態ではなく、あるいはそれら分離の諸様態をひとつの総合のうちに含む、「紙が描いた紙」それ自体として見出されるようなものがどこかにあるのか?

*1:読書する人物を見守り、彼女の営みに加護を与えるかのようなこの小さな虫たち翅の振動は、一篇にあって印象深い細部の眺めをもたらしているだろう。(『黄色い本』30頁、70頁、および作品末尾73頁から75頁にかけての一連の描写)。翅の展開と開閉の反復は書物のページを繰る人物の反復的動作を喚起して、それを見る私たちの換喩的感性を刺激するものとなるだろう。書物の展開という動作の反復を描くこの主題は、作家の現在までつづく関心の中心にありつづけるものであるようにも思われる。「ウェイクフィールド」(『モンキービジネスvol.15』収録)、あるいは「謎」(『モンキービジネスvol.9』収録)といった作品をも参照。

*2:「黄色い本」における書物のページの描写は以上のような意味合いから私たちの目を強く惹くものとなる。眺めは二重化されている。一方には、書物のページに書かれたことば(小説の言説)を読む主人公の視点に仮託された主観的な色合いの濃い眺めがあり、他方では、この読まれることばが主人公の読書の時間に寄り沿いながら、しかしマンガの紙面に描かれるイメージに嵌め込まれた無垢のことばとして、私たち読み手にこそそれがまさにいま読まれているものであることを告げている。しかし、二重化の働きそれ自体がすでに複数化をこうむっているだろう。純粋な視点の二重化、読まれる記号としての書字と描かれたイメージの水準において現われ紙面の一画を占める形象であるような文字、そして、この二重化を同時にもたらしているマンガの紙面と、その紙面に書物のページとして描かれている内容のフォルムとしての紙面との二重化。これら複数の二重化のもたらした偏差の重なりにあって、異なる水準にある厚みのないイメージとイメージとが隣り合い、食い込み合い、重なり合う。二重化は、イメージを縛りこの表面の諸層のあいだで無限反射を行わせる合わせ鏡の役を果たしているだろう。……ともあれ、紙に描かれる「紙に描かれるもの」は、このようなイメージの関係性としても現われることができる。本文で見たように、それは「人型の紙片」に限られた特権的な実現形態というわけではない点が確認されておかなければならない。