高野文子「黄色い本」

 amazonのカートの中には欲しくても買えないままでいる品物がけっこうたまってる。300点くらいあるよ。限られた費用のなかでなんとかやりくりして毎月これはと思う品物を何点かずつ厳選して購入することにしてるけど(このかっつかつの算段の過程がかなり楽しかったりする。にやにやしながら1時間くらいあれこれ頭をひねってる。キモいよーw)、そんななかでも、今すぐにでも欲しいんだけどちょっと高価すぎてレジまで進むのに二の足を踏んでしまうようなものだったりカートに突っこんだ時には欲しかったんだけど後回しにしてたらそうでもなくなってたというようなものがあったり。そんなカート内のこやしと化してるようなもんに関してはさっさと削除してすっきりさせちゃえばいいんだけど、そういうんじゃなくって、手持ちに不自由してて近いうちにまちがいなく買うつもりで一時的にカート内に保存してるってのももちろんあって、『農耕詩』なんかはそのパターンでカートにあらかじめ保存してあった。んだけど、先日費用のめどが立ってさっそくこれを購入しようとカートを覗いたら、すでに売り切れてしまってて再入荷待ちの状態になっちゃってた。……しょぼーんってなったよ。好きな作家の本が売れるのは喜ばしいことなんだけど自分の手に入らないとなると別で、それはそれでがっくりきてしまう。高めの本だしそんなに早くなくなってしまうとは予想してなかった。もう来月くらいまで待つしかないかなと覚悟しかけたんだけど、そこでBK1のことを思い出した。あったあった。これが正解だった、在庫残ってたよ。BK1って今まで利用したことなかったけど、けっこう優秀なんじゃないかと思ったよ。ためしにamazonのカートに保存してる商品何点かを両サイトで照らし合わせて在庫状況とか出荷日数なんかを比べてみたんだけど、まずまず遜色ない感じだった。確保してる点数でさすがにamazonには負けそうだけど(出荷待ちの日数にその辺の差が反映してそう)、今回の『農耕詩』みたいな注目されてる品物なんかに関しては割とBK1って穴になってるのかもしんない。そして書籍にポイントがつくって点も大きい。CDなんかはamazonでも10パーつくしそっちを利用するべきかもだが、本に関してはきほんBK1一択って感じじゃなかろうか。一年利用しつづけてたら文庫1、2冊分買えるくらいのポイントつきそうだ。本好きの人にとっては今さらな話なのかもしれんけど、はじめて気づいたって事で。
 てことで今週はちょこちょこと本やCDを購入した。『農耕詩』に加えて三好銀の新刊にビュトールの『ポール・デルヴォーの絵の中の物語』にラカン『二人であることの病い』、岩波文庫から二点、ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』とヘーシオドス『仕事と日』、以上の6冊を。CDの方は東京事変とplug(ドラムンベースの変な人)それぞれの新譜を。東京事変は2枚目までは追っかけてたんだけどそれ以降はなんとなく耳にしなくなって、ただとうとう解散するってはなしなんで久しぶりに聴いてみることに。一曲目の「今夜はから騒ぎ」って曲がとても気持ちいいんで今週はリピートでこればっかり聴いてる(今も文章書きながら聴いてる)。やっぱり椎名林檎の歌声は好きだなってあらためて思った。聴いてない残りのアルバムも集めたくなったよ。
 本に関してはラカンのは後回しになりそうだけど、残りは順次読んでいきたい。『仕事と日』は今週読んだウェルギリウスの『牧歌/農耕詩』からの流れで。流れっていうか、本来逆で、ヘシオドスの詩がウェルギリウスの農耕詩の参照元のひとつらしいんでこれは文学史をちょっとさかのぼるかたちになる。ウェルギリウスクロード・シモンの『農耕詩』を読む前の予習がてらに読んでみたものだったんだけど、じっさいどんな関連があったもんだろう。まだそこらへんがよく判断できないんだけど、たとえばウェルギリウスの「農耕詩」には牛の腐敗した遺骸から蜜蜂がいかにして自然発生するかみたいなくだりが読めて、たとえばそのあたりなんかには『フランドルへの道』に見られる死馬の描写場面なんかと間接的なつながりみたいなものが見出せるのかもしんない(『フランドルへの道』も『ファルサロスの戦い』も一度読んだきり読み返してないからあやふやにしか言えないけど)。「農耕詩」もそうなんだけど、とくに「牧歌」の方に如実に反映されてる作家の詩作と政治や戦争とののっぴきならんかたちでの絡まりあいといった面なんかも、クロード・シモンのどの著作にも共鳴するところがありそうな気もする。ウェルギリウス詩篇「農耕詩」ってのは要するにある特殊な側面においてより良い生を営むうえでの管理術の教えみたいなところがあって(前20年代ライフハックですよ)、一方でクロード・シモンの小説はといえば、そういう規矩にのっとった理想的なウェルギリウス的世界の器の縁からからからに干乾びた砂が刻一刻と溢れつづけてしまってるかのようで、もはやそのなだれのような世界の出血のような解体とか崩落の過程はどうあってもとどめる術がない、管理は無駄だ!、みたいな感じだろう。そんな感じで、あまりにも両者の筆の描くところが異なるものだから、かえって双方のひそかな繋がりみたいなものを強く感じさせるような具合になってはいないだろうか? 頼るべき保護者なく農地を全没収されて荒れ野に彷徨い出る詩人、内乱の戦火の真っ只中に巻き込まれるひとりの牧歌詩人、みたいな、現実にはありえなかった作家ウェルギリウスの姿を想像することは確かにできる。クロード・シモンって作家はそんなようなありえなかったローマ詩人の、その二千年後の現実の分身を、スペインやらどこやらの戦場で確かに、ほんとうに少しだけ生きたってことなんじゃなかろうか、とか思った。
 さてシモンの『農耕詩』はこれからぽつぽつ読んでみることにする。なんせ分厚い本だから、亀みたいな自分の文章読む速度じゃ来週いっぱいかかってもたぶん読み終えることはできないと思う。ドゥルーズの『シネマ』とか、後にたくさん読みたい本がひかえてるんであんまりのんびりもしてらんないけどなー。

 ためてあった文章を投下。第1章の第10節分として書いたもの。去年書いてたもので以後読み返してもいないんで内容はすっかり忘れてしまってる。「黄色い本」についてごちゃごちゃ書いてるね。電気のPVなぞ聴きながらお読みいただけらと思います。電気グルーヴで「弾けないギターを弾くんだぜ」。

 しかり、書けない文章を書くんだぜ。

顔無き顔としての鏡

 しかし私たちは、表現のフォルムにおけるこのような鏡の通例の使用とは異なる例外的な場合を高野文子の作品に探り当てることができる。その異例的な使用法において鏡は空間の奥行きやそこに集まる事物どうしの位置関係を測る尺度として機能するのではなく、イメージの表面としてのおのれの身分をのみ告げ報せる不埒な現存を示すことになる。鏡はおのれの持ち込む表面に他者のものである諸事物の顔を映し出すというよりも、むしろそこにおのれ自身の顔をこそ映し出そうとする。あるいは正確には、反映をまったく映し出さない無垢の鏡の表面といったものが、それをイメージしようとする思考にとって何か途方もなく重篤な混乱をもたらすものであることを認める限りで、鏡はその不在の顔を映し出すというよりも、むしろいっそ顔の不在、背けられた顔としての顔、顔の隠された顔といったものをこそ映し出すと、そう表現する方がより適切であろう。「黄色い本」に見られるひとつの場面を取り上げよう。
 44頁に描かれる主人公「実ッコちゃん」(田家実地子)と彼女の幼い従妹「留ーちゃん」の部屋でのやり取りを描く場面には鏡は鏡そのものとしてこそ現われてはいないものの、実ッコちゃんの家の居間らしきその部屋にもうけられるガラス戸の反映のうちに、鏡ならではのイメージを反射するという働きがよく示されている(『黄色い本』)。一連のくだりは留ーちゃんのことばから始まる。幼い従妹は四角い座卓の前にちょこんと正座して実ッコちゃんに声をかける。場面はまたしても夜だ。「実ッコちゃん」(44-1)「電気つけると/暗いねえ」(44-2a)。留ーちゃんから見て右手、部屋の隅に据えられた火の点っていない石油ストーブの天板にセーラー服姿の実ッコちゃんは腰かけているが、従妹のこのことばの真意を掴みかねている。「ええ?」(44-2b)「明(あか)れよう/電気は」(44-3)。座卓から離れて左手にある大きなガラス戸の前に向かっていこうとする留ーちゃんが話を継ぐ。「電気つけると/夜んなったねえ」(44-4)。そこでようやく留ーちゃんの発言の意味するところを知った実ッコちゃんがこれに同意のことばを示す。「ああ」(44-5)「夜んなったねえ」(44-6)「外は」(44-7)。……以上が作品44頁に読まれる二人の短いやり取りのすべてである。四角い部屋の中央に四角い座卓があり、ガラス戸のある部屋の面と正対する面には、明り取りのための小窓のついた障子が閉じられてある。舞台装置は私たちにはすでに馴染みのあるあの「窓と窓とに挟まれた部屋」として構成されているだろう。障子のある部屋の面には実ッコちゃんが腰かけている。すなわち、部屋の中央に向かって腰かけている実ッコちゃんの真正面には、座卓を挟んで表の景色に臨むガラス戸がある。実ッコちゃんから見て左手の面の座卓の前に座っていた留ーちゃんは、今やガラス戸の真ん前にまで移動しており、そこでガラス面に顔を摺り寄せるようにして再び正座をし、外の暗闇を覗き込んでいる、もしくは、外の暗さと部屋の明かりとがガラス戸の表面で可能にする鏡面的な反映のうちに自身の顔を見取ってでもいるかする。その瞳がそのとき何を捉えているのか、彼女の後ろ姿からはこれをいっさい判断することができない。そこに顔が描かれていないから、というよりも、むしろそこには「顔の隠された顔」といったものがあるからだ。
 ……先を急ぎすぎずに場面の描く状況をもう少しだけ詳しく見ておこう。部屋のガラス戸=鏡面がその表面の反映に捉える人物や事物の配置といったものがどのような関係性のうちにあるのかを告げることは、前節までに確認しておいた鏡の通例的な使用の範疇に収まるものだろう。中央に四角い座卓の据えられた四角い部屋が、平行する二つの面をガラス戸と障子とに囲われて描かれ、二人の人物の位置を結ぶ線がその空間を斜めに区切るかのように走る。人物を見据える視点はコマ毎に距離を伸縮させつつ、この四角形の部屋の四つすべての辺を巡って、あたかも十字の軌跡を描くかのように次々にポジションを変えていく。視点のこの十字形の巡回の中で居場所を変える(運動を示す)のは留ーちゃんだけで、実ッコちゃんは場面を通して部屋の四隅の一角に留まりつづける。留ーちゃんのいる(いた)座卓の上には「ラーラちゃん」と名づけられた西洋風の人形が仰向けに横たえられており、スカートをまとったその足は、座卓の前の留ーちゃんから見て左、ガラス戸の面に対して垂直に向けられている。44頁で描かれるこの場面全体、都合7コマの中で、「ラーラちゃん」は計4コマに現われている。これを多いと見るか少ないと見るか。実ッコちゃんの6コマに対してはそれは相対的に少ないものの、留ーちゃんの3コマに対しては相対的に多いとも言え、つまり見方によっていずれに評価することもできるだろうが、しかし、そもそも7コマで描写されるこの場面全体に対して半分以上の画面に現われる小道具の存在が、たんなる小道具以上の実在ぶりを示し始めてしまうことも事がらの性質上必然であると言えよう。場面を通して不動の小道具として存在するこの人形は、同じく最初の場所から動かずにいる実ッコちゃんと結ぶ位置関係の中で、コマにおける視点や空間を占める事物の配置といったものを把握可能にする、一種の座標軸の役割を果たしているだろう。ガラス戸と障子とに挟まれる部屋の線を縦軸と仮定するならば、留ーちゃんの移動が描く動線と窓が可能にするイメージの出来とがこの縦軸の線にそって生起しており、この動線と直交して部屋を左右に横断する線は「ラーラちゃん」と実ッコちゃんとが相互の位置の中で結ぶ不動の横軸として機能しているはずだ。……44頁5コマ目は縦三段組で構成されるこのページのコマの配置にあって二段目、ページの紙面の中央左側に位置しており、その真下7コマ目とは描かれる構図における正確な照応関係にある。すなわち、5コマ目で障子のある部屋の面に位置してガラス戸の外の様子を眺める実ッコちゃんを画面左に据えて正面から捉えるショットが、7コマ目、部屋の縦軸にそって5コマ目とちょうど正対する位置(先ほどの視点が中央に捉えていたであろう位置)へと切り替えられて、今度は、障子のある面からガラス戸が眺められる視点を取ることになる。鏡面が反映する部屋の様子を捉えるこのコマの中で、実ッコちゃん(の影像)は当然にも画面右端に映し出されており、座卓の上の人形もまた5コマ目とは反対の左端に見られることになる。実像と鏡面に映った反映との対称する構図の反復にあって、事物の左右が正確に反転して描かれる。ガラス戸は、その表面の反映において描かれる空間の奥行きやその場に配置される人物や事物相互の隔たりと位置関係を認知可能にするまったき測器として機能しているだろう。ガラス戸の反映は私たちの構想力におけるこの空間の再構成を補完してくれるものとして描かれている。……では、ガラス戸に映る反映そのものはどうなっているのか。そこにもまた、鏡の通則的な使用の具体例を確認することができる。この場合は、鏡は表面において諸事物やその影像を取り集めて、イメージの見えるもののうちにそれらを一挙に、同時的に開示するものとしてある。この場面(44頁7コマ目)で鏡の表面に取りまとめられることになるものは、画面の奥行き方向にそって延びる事物や人物、景色の描く輪郭や形象、部屋内に溢れる電灯の明かりと外に広がる夜の闇といったものである。ひとまずはそう言っておくことができる。半透明のレイヤー状の層をなすこの表面の重なりにおいて、窓の外の夜の闇に浮かび上がる家並みや電柱の影、部屋内の障子のある面に腰かける実ッコちゃんの姿、そして彼女の前にあるラーラちゃんを載せた座卓といったものが同一の平面に同居し、それぞれの層に固有の形象を描きつつ、その上で、この複数のレイヤー全層を同居させる鏡=ガラス戸そのものの格子状の桟が(それは、四角形の窓枠に嵌まりこんだ無数の小さな四角形だが)額縁の役を果たすものとして描かれているだろう。鏡はこれらのものどもの目に見える面を画面内に一挙に示している。しかし、鏡がイメージにおいて一挙に提示するものはそれだけに尽きるだろうか。そうではない。最前一度は示しかけたものの、ここまでは言い落としてきたもの、鏡が提示する様々なものの合同における、これまでは語られていなかった残余の要素がある。鏡=ガラス戸の前に座って私たちにその後ろ姿をのみ見せている留ーちゃんについて、ここであらためて語り直さなければならない。鏡の異例的な使用と呼んでこれまで示唆するに留めておいたものが、そこで働きの内実を占めすだろう。
 鏡の前に佇んで、私たちの視線、ないし、コマの描く画面に対して、後ろ姿を示す人物──、このような構図を描く図像には、そこにどこかしら人目を惹かずにはおかない、いわく言いがたい気がかりな印象がわだかまっているように感じられる。鏡の表面はおのれの反映のうちに達しうる限りの影像という影像をすべて取り集めて、そこに隣り合い、重なり合うこれらもろもろの形象を枠の内部に囲い込み、ひと連なりのタブローとして構成されるおのれのその広がりの資格において任意のイメージを可視化する。紙面に描かれるこの鏡の形象それ自体において、事物の存在や空間におけるそれら相互の位置や配置の相関的な在り方が規定されており、この空間の奥行きにおけるイメージの規定は遠近法というフィクショナルな信憑を補強するよう役を務めている。しかし、マンガの紙面に描かれるこの形象の表面は、他ならぬおのれが、おのれ自身の効力において図示し可能にし実現している当のそのものが語ること(それは座卓である、それは座卓の上の人形である、それはこの座卓の向かって右奥に座る人物である、それは……等々)とは別のものであるということをも語っているだろう。表現のフォルムとしての鏡がその表面性において語るものは、まさにその表面性によって語られ、描かれるところの諸事物やその空間の奥行きといった対象性の水準をフィクションとしての層に折り畳んでいる。紙の表面に鏡の表面が描かれる。鏡の表面はおのれの描く層の上に奥行きにおける対象性の重なり合いや隣接性を分泌して定着させる。これら分泌物としての形象のイメージが語り出し、相互に対話を交わし始めるところにおいて、鏡の磨き上げられこよなく平滑な、無垢に輝き、見えない場所であったはずのその表面は、多彩な光と影との戯れる空間性の占める場所へと席を譲り、おのれの無言であった呟きを無言のまま飲み込む。鏡が占める紙の表面は、今や諸事物が互いの手を互いに差し出しあい、会話を交わす、豊かで、ときに喧騒にも満ちた、人間にとてもよく似た顔つきをこちら側の面に向けているだろう。……しかしながら、この鏡、表面を湛える限りでの黙する鏡は、あてどなくおのれ自身に向けてのみ呟かれていた執拗な呟きをもはやすっかりと終えてしまっているというわけではない。あるいは、事物と奥行きとが互いの交換の中でかたちづくる人間のものに酷似したその表情とは別の、裏側の、隠された顔といったものが、そこにいまだ、おのれの化石化してしまった表情をそっと示しつづけている。この隠された顔、顔の不在ではなく不在をかたどる顔としての後ろ姿の描写において、鏡の表面は表面の第三の対象として、私たちがここまで描いてきた記述に合流することになる。
 44頁7コマ目のガラス戸の描写に見える、留ーちゃんの後頭部をこちら側に示した後ろ姿は、鏡が可能にするイメージの例外的な実現にかかって、作家の描くもろもろの鏡の描写にあっても同様に例外的な事例をかたちづくっている。おそらく、「鏡の前に立つ人物の後ろ姿」というこの特異な事例は三点だけ見出されるだろう。「黄色い本」でのこの場面に加えて、「いこいの宿」の扉絵に描かれる主人公の少女の、姿見の前でおめかししてポーズを取る姿(『絶対安全剃刀』143頁)、それから、「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」の「お嬢さま」が鏡台の前の椅子に腰かけてラッキーへの怒りを露わにする場面(『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』27頁2コマ目)。「いこいの宿」、「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」にそれぞれ見られる鏡は、おそらく物語が描くところの世界観や人物像といったものに対する純粋に修辞的で装飾的な利用にとどまっているだろう。それらは物語の内容面における鏡の二次的で従属的な姿を描くものだ。鏡が別のものに対して貢献するところのものではなく、鏡がおのれ自身において実現するものを見るためには、「黄色い本」のガラス戸の描写に期待しなければならない。ただし、その描写は稀少性のゆえに例外的なものとなるわけではなく、働きそのものの内実において例外的で特異な異例性を得るということも銘記しておかなければならない。
 鏡がその表面にもうけるイメージの多層的な場に対して、その前に静かに佇む留ーちゃんの存在(実像)は、画面の構成する奥行き方向の重なりに剰余を付け足しているだろう。同じ画面で、鏡面に反映する実ッコちゃんの影像が場の描くイメージの全体に対して過不足なく配置を得ているように、留ーちゃんの影像もまた、ガラス戸の内に顔の正面をのみこちらに向けて描かれることが可能だった。画面の切り取る面に対して奥行き方向に進みすぎているがために、ガラス戸の真ん前で鏡面に膝を突き合わせるようにしている留ーちゃんの顔は描かれることがなく、その代わりにと言ってよいのだろうか、後頭部の側をのみ示すことになっている。私たちは人物のここでのこの配置を偶然とはみなさない。あるいは、それを偶然とは別の様態において了解することに定める。……留ーちゃんの後ろ姿が描く実像においてイメージの過剰ないし余分をもうけているものは、同じ事情にあって、留ーちゃんの鏡像を描く水準で目に映るべき顔の不在というイメージの不足を引き起こしているだろう。顔をもち、当然後ろ姿をもつという、人物の描画がそれによって立つ立体としての信憑は、その本質において部分の外の部分へと進む連続的な量の線にそった描写の過程に捉えられているはずであるが、同じひとつのイメージの極度に対照的なふたつの面(虚像と実像での人物の二重化、ないし、イメージの不足分と過剰分の同時的供給)がまったく同時に実現されているこのガラス戸の描写において、通例的なイメージの連続量をもたらすこのフィクショナルな信憑は、そこで、この後ろ姿の不埒なまでの現前において、小さく躓くような恰好になっているだろう。あるいはこう言ってよければ、きれいに磨かれた鏡の平滑な面に、反映の異常をもたらすかすかな亀裂というか歪みのようなものが生じている。
 私たちは見えないものの四つの諸状態をカテゴリーとして組んだ際に、見えないものの中の一義的でもっとも有力な「見えないもの」を紙面における瞳と対象の分節を司るものとして真っ先に挙げておいたはずであるが、そこでそのイメージに向かっての働きを、余分と不足とを同時に実現する不可能な要素の原生的な発生という水準において捉えておいた。「黄色い本」のガラス戸の反映が鏡面と化した表面に付け足す人物の後ろ姿もまた、余分と不足とで相反する方向へと同時に逸れてゆくイメージの、その不可能な境位を示す結節と分離の転轍的形象として見られるだろう。ただしこの形象は、それがすでに紙面に描かれているなにがしかの図どうしのあいだで紐帯を延ばしあっているからには「見えないもの」の一義的な優先度にくらべてタイプにおいてより下位にあるものとして見られなければならないし、とはつまり、これより上位の位格にある不可能性との連携を取りもつ別の主題、別の連関とのあいだに移行しうる、途上のものとして見られなければならないだろう。移行しつつあるものとしてのこの鏡が何に向かって連関の経路を開いていくかは次節以降に見ることにして、私たちは最後に、この(高野作品にあって)例外的性格を誇る鏡=ガラス戸の(表面的対象としての)異例的性格を「隠されたもの」という既知の図式のもとにいまいちど念押しして確認しておくことにしよう。
 紙面に描かれる表現のフォルムとしての鏡は、その表面に走査線のように走る無数の線の束を取り集めて空間というフィクションの信憑をかたちづくる。人物や事物はこの仮構された空間の内部に居を定めて、形象としてのおのずからなる外皮をまとい、見えるものののその場所に自身のヴォリュームをともなったイメージを反映させる。他方で、表面の表面という資格において現われた鏡の面は、おのれが可能にしたその空間の雄弁で多層的な重なり合いから身を退けて緘黙のうちに引きこもる。……ところでしかし、事態はもう一度捻転を描くかのようだ。退隠した表面における空間の建設、あるいは空間の侵攻における表面の陥没、表現はどうとでも選べるであろうが、ともあれ一旦見えないものの境位にすっかりと退き、図示する声と顔つきとをそこに失ったはずのその表面が、再び、見えるもののイメージの場所に浮上する。復帰するその表面は鏡の表面それ自体ではないし、鏡が可能にする反映の表面における戯れでもない。その鏡が鏡であるからというトートロジーによってのみ鏡がそれを捕らえ、それの側でも同じトートロジーによってのみ鏡を捕らえることになる、そのそれ、鏡の前の後ろ姿、向かい合うめいめいの顔によって互いの顔を隠しあっている、「顔の不在」ではなく「不在である限りの顔」をかたどる形象*1。虚像と実像とのカップリングにおいてイメージの不足と余分を同時に実現するこの不在の顔こそが、鏡それ自体と鏡の反映をもろとも閑却して、イメージが描かれるこの紙面に再浮上を果たす。見えないものの四つのカテゴリーにあって「隠されるもの」が占める欄は、この「鏡の前の人物の後ろ姿」の形象によって、そこを埋めるべき具体例のひとつを見出されることになるだろう。繰り返しになるが、この「隠されるもの」は見出されるべき顔のまったき消失や不在といった欠如的な事例においてイメージに経験されているのではない。イメージの対象が造形的な表象の水準で描くところのものは、この人物の後ろ姿において明瞭に表わされている。それは聴き間違えようのない程度には充分な声量で、「これは何某かの人物の後ろ姿である」と語っている。このイメージの対象性の水準での形象の充実という点において、見えないものとしての「隠されるもの」と「見えないもの」との差異があるだろう。「隠されるもの」としての後ろ姿は語り、かつ顔を示す。ただしその語りは、おのれ自身は語らず黙したままただおのれとは別のものに語らせるだけのものがそこにあること、それが隠されているということをこそ語っているだろうし、顔もまた、おのれに固有の表情をもたないまったくの無貌のものが表面を覆いつくしており、その上において、はじめて顔なき顔としてのひとつの顔、この後ろ姿の形象が可能となっていることを図示しているだろう。「隠されたもの」は、イメージの不足と余分とのあいだのこの相容れない連結と断ち切りがたい分離をこのような顔無き顔の造形において実現する。また、その造形的表象のまとう連続面を鏡の二重化の作用によって側面の別の側面として裂きつつ、同じ働きのもと再縫合する。そこには、表面において表面の回復された表面といったものがあるだろう。あるいはそれを一足飛びに、紙において紙の回復された紙と言い換えることもできる。鏡の異例的な効果は、確かにそのような事態へとイメージを導くように思われる。私たちは、高野作品に現われる主題としての「紙」へと目を向ける必要がある。

*1:「不在を象る顔」の形象といったものに関しては市川春子の「25時のバカンス」をも併せて参照(『25時のバカンス』20頁)。この「不在を象る顔」というキャプションめかした文句で指示されるところの図内部の関係性を「黄色い本」のガラス戸の前の眺めと確かに共有しながら、しかしじっさいの趣向と志向においてそれとはきわめて対蹠的な光景をかたちづくるものとして、「25時のバカンス」の、この題字通りに見られるべき顔の描写がある。「黄色い本」の留ーちゃんの後ろ姿が描写の表現の水準で実現しているはずのものが、「25時のバカンス」では、描写が具体的に捉える内容の指示の次元で実現されているだろう。「不在を象る顔」はそこでは、「顔に開いた空洞に蓋をする顔」としていかなる修辞もぬきに文字通りの姿を示している。そこに作家の、「黄色い本」の作者との浅からぬ類縁性とともにある、しかしそれとの決定的な異質さの手ごたえを看取するべきであろう。市川春子高野文子とは絶対に「似ていない」。そのことが、何よりもまず先に確認されなければならないだろう。同様の傾向を示す事例は「虫と歌」の、鏡面の反映に映る二人の人物を描く場面にも見て取ることができる。その描写においても私たちは、一見した類似のもとにあるこの両者の差異をこそ見なければならない(『虫と歌』193頁)。