高野文子「うらがえしの黒い猫」

 「スティールボールラン」に登場したヴァレンタイン大統領のスタンドがD4Cって名前で、そういや元ネタになってるAC/DCの楽曲を聴いたことないなって気づいた。そもそもAC/DCってバンドじたいが名前をかろうじて知ってるくらいで演奏を聴いたこともない。むかし買った2 many djsのミックスもののライブ盤の中で一曲彼らの楽曲が使用されてて、その曲はかっこよかったって記憶がある。(今確認したら「You shock me all night long」って曲らしい)。なんでそんなことを突然思ったかというとそろそろ「ジョジョリオン」の単行本が出るってことを聞いたり、西尾維新ジョジョ小説読んでみたいとか考えたことがきっかけだと思う。ちょっと思い立ってYouTubeで検索かけてみたら目当ての「dirty deeds done dirt cheap」がすぐに見つかった。ライブ映像だったんだけど、これがめちゃくちゃかっこよくて楽曲もバンドも一発で大好きになってしまった。すぐにiPodに落として、今週はそればっかり猛烈に聴きまくってた。200回くらいは聴いてる気がするけど(もっとかも)、これぜんぜん飽きない。スルメ曲にもほどがある。ふだんロックなんてまったく聴かないんだけどこれは別格。

  ギターの半ズボンの奴もヴァレンタイン大統領みたいな風貌してて最高に笑えてかっこいいんだけど(この映像だけだとちょっとエレキコミックのボケの方の人相を彷彿とさせる感じ。…ていうか、エレキコミックって名前失念しちゃって今googleで『お笑い 芸人 コンビ 歯ががちゃがちゃ』って適当に検索かけてみたら、一発でコンビ名とボケの「やついいちろう」って人の名前が出てきて震撼した。いろんな意味でひどすぎない? キナコ吹いたわ)、それはまあおいといて、ヴォーカルのボン・スコットって奴がかっこよすぎる。ワイルドなかっこしてるけど、優しさ押しのジョニー・ロットン、みたいな印象がある。はにかんだみたいな笑顔がステキだぜ。オリエンタルラジオのあの眼鏡の方みたいなハスキーな声しててセクシーだぜ。33才で泥酔した挙句自分の吐いた反吐の中で溺れ死んだってwikiにあったけど、そんなみっともない最期も、なんというか、共感せざるをえない感じだ。なんとも言えない。愛さざるをえない。もっと早く、ずっと若い頃にAC/DC聴いてりゃよかったってそこだけが悔やまれる。ライブの演奏じゃなくてアルバム収録されてる曲の方も聴いてみたんだけど、やっぱり躍動感って点で動画の演奏の方がずっとかっこよく感じるね。まだまだしばらくはこの曲聴きつづけると思う。

 ……文章の方はちょうど130枚あたりまで進んだ。パートでいうと第8節まで。分量的に、予定してる第一章の半分以上にまでは(たぶん2/3くらい?)進んでるような気がする。年内に高野文子の章を終えて年明けからは新しい章に移れたらいいなとは思ってる。
 以下、第4節分として書き終えたもの。「うらがえしの黒い猫」をメインに、あと「美しき町」について少しだけ。

光を受け止める布=表面の第二の対象

 四角形のフォルムと布のような膜質の対象との出会いの瞬間を紙面に刻んで、「うらがえしの黒い猫」は私たちの視線の経験にとってとりわけ印象的な作品となる。扉絵(『絶対安全剃刀』101頁)に描かれる少女を捉えた一枚絵にはすでに、ここで問題として見たいほぼすべての要素が出揃っている。カーテンによって閉ざされた部屋、そのカーテンの隙間から僅かに覗く部屋の外の景色、外光がそこを通って到来することになる窓、その窓の前で首をかしげて外の景色を見るともなく見つめるかのような少女の大きな瞳。そして、外から差す光と閉ざされたカーテンによって部屋の内部へとはらまれる黒く濃い影とのコントラスト。窓がかたちづくるであろう矩形の形象(扉絵においては「奥村さんのお茄子」の弁当箱の場合と同様、カーテンの縁が描く斜線によって短冊状に区切られており、そこでの四角形は、潜在的にそうあるべきものとして概念において把握されるだろう)、外光によって紙の無地の白さを広げるそれ自体として表現のフォルムをもたない空白の領域と墨のベタやスクリーントーンによって表現のフォルムをおのれとは別のものとしての白紙の上に限界づけるよう描かれる部屋内部の黒さの領域、窓を通じて到来するイメージを迎え入れるかのように開かれる瞳、瞳のイメージ──、これらのものは四角形の諸形態を瞥見してきた前節までに、すでに私たちにも確認することのできたものだろう。私たちの視線の前に新たなものとして現れているものとは、画面において窓の四角形を遮って人物の瞳の前に下がる、このカーテン=布の存在である。
 扉絵からつづく作品の本編1ページ目には早くも、カーテンとは別のもう一枚の布=シーツが現われる。扉絵に描かれた小さな少女が演じる「ごっこ遊び」の場面から始まる物語の冒頭で、悪い「魔女」に立ち向かう「お姫さま」に自身をなぞらえる少女が変装のために身にまとう白いシーツがそれである(物語の設定の上では、厳密にはそれが「白い」シーツであるのかはどうかは私たちには判断出来ない。白と黒との二値の描画色によって表現されるマンガの紙面にあって、仮にそれが作家の思惑の中で白か黒以外の色として観念されているのだとしても、そのような決定を指示する断わりがないかぎり(あるいは、それがあったとしても)、私たちの愚直な瞳にはこの二値以外の色がそれ自体として目に映ることはない)。この白いシーツを頭からすっぽりと被ってイメージの中のお姫さまを演じる少女が、やはり彼女のイメージの中でたった今面前している魔女──少女の目をごまかすために変装をしているらしい魔女──に向け高々とハサミを振り上げ、それを振り下ろした直後、少女の叫び声につづくページ最後のコマ(102-7)に、「バタン」という擬音の書き文字とともに突然開かれる部屋のドアが描写されていることも私たちには示唆的であるだろう。窓とカーテン、扉とシーツとが、ページの上の絵として見られる水準において近々しく重なり合い、隣接しあう。窓とカーテンとの重なり合いというそれ自体としては何らの疑問も生じさせないこのごくありふれた対象の併置は全16ページのこの作品の終盤付近でもう一度絵の中に描かれるが、この描写が含まれるくだりは、ここでの私たちの考案にとって重要なものに思われる。場面は物語の冒頭で演じられていたごっこ遊びの中で少女のイメージがどのような光景を目の前で描いていたものかを、少女自身による前日のできごとの回想という形式のもとに解き明かしている。彼女の空想のシナリオの中では、魔女はみずからに、少女のお気に入りの「トウベ」という名の黒猫のぬいぐるみになりすます変装をほどこしている。冒頭で掲げられた少女=お姫さまの手にするハサミが振り下ろされるのはこの「トウベ」=魔女の上に対してであり、耳を切り落とされて中身の綿が頭の部分から「もくもくと/煙を出して」(112-5)こぼれ落ち、しだいに縮んでいき、ついに薄っぺらな「黒い影ぼうし」となって床に張りついてしまったかのように無残な姿を晒すこのぬいぐるみが、開け放たれた窓から不意に吹き込んできた強風によって窓の外へと飛んでいく。少女の叫び声はこの黒猫の突然の消失という強い衝撃に打たれての反応であり、母親が音を立てて扉を開けた時には、床の上に失神する少女の姿を見出す。
 まずはこの場面においても窓とカーテンとの隣接性を確認することが出来る点を強調しておこう。113ページの1コマ目が描くシーンは、窓の矩形の前に立つ少女めがけて吹き込んだ強風がカーテンを大きくはためかせつつ、黒猫のぬいぐるみの方はこれを窓の外へと吸い出す、いわば双方向的な通過の瞬間を捉えている。風をはらんで大きく揺れるこの白くごく薄い(光を透すほどに薄い)カーテンの描写において、私たちは作品におけるこの布の特性を、ひとまず軽さの属性として捉えておくことにしよう。その点についてはおいおい見ていくことになるはずだ。次に目を惹かれるものとしては、このカーテン=布の白さと部屋の内部の影とが対照させる明暗のコントラストといったものだ。両者のあいだのこの対照性は、描画の水準における少女の際立った白さの印象と黒猫のぬいぐるみのベタ塗りのほどこされた黒さとの対比としても強調されているだろう。少女の回想は場面に先立つ110ページから始まっている。就寝のためにベッドに横たわろうとする少女が部屋から出て行く母親に声をかける(「あ、ママ/ドアはしっかり/しめてね/外の明かりが/入んないように」109-7a)。この「閉ざされた部屋の扉」という私たちの記述がここまでにかたちづくってきた主題的な関係性を描く光景からは、即座に「田辺のつる」のあの余白の扉が想起されるだろう。つづく110ページから111ページの過半は暗闇に包まれた部屋の中での少女を描いて、紙面もそれに相応しく黒さの領域が前面に強調される。このベタ塗りされた黒さの広がりの中でベッドの上に座り直す少女が、またしてもシーツを頭から被った姿で、そこにおける回想と空想のイメージを繰り広げることになる点こそが再確認されておかねばならない。シーツは少女のごっこ遊びにおけるお姫さまへの扮装を可能にしている小道具であると同時に、それ以上に、作品において回想や空想といったかたちで上演されるイメージそのものの水準を支持する物的な内容のフォルムとしてもあり、また曲線によって囲われるその輪郭の内部に白さの領域を確保して黒さとの対置の関係を紙面にもうけることにより、描画の水準での形式のフォルムとして現われるものでもあるだろう。暗闇の中でその表面に月明かりを受け止めてぼんやりと紙面に浮かび上がるかのようなこのシーツの描写とほぼ同じ光景が、すでに「春ノ波止場デ生マレタ鳥ハ」にも現われていたことを思い出すべきであるし(『おともだち』47〜51頁)、主人公の少女が暗闇の中に描くこの空想の光の劇が「陽にやけた/黒いカアテン」(46-5)の背後で、その生地の「ほこりのにほい」が嗅ぎ取れるほどの間近さにおいて演じられる点についてもあらためて留意しておくべきだろう。あるいは、「春ノ波止場デ生マレタ鳥ハ」の物語でクライマックスをなす少女歌劇そのものが、そもそも緞帳=巨大な布地と近接した場所で演じられるものであったことを思い出してもよい。
 「うらがえしの黒い猫」の物語について一言しておけば、私たちのここでの見方によるならば、それは、布の表面を舞台に演じられる白さと黒さとの競演=共演として把握することができるだろう。白いシーツをすっぽりと被る少女の前に開くガラス窓から、綿を抜かれて今やすっかりぺしゃんこになってしまった黒猫のぬいぐるみの「ガワ」が吸い込まれるように消えていく。ぬいぐるみの残骸はまさに襤褸切れ=布の廃棄可能な対象そのものとして家のゴミ捨て場に捨て去られる。物語の最後に描かれるこのくだりが告げるものは曖昧なままでありつづけるだろう。黒さの背景において描かれるべき光のもとでのイメージの空想劇がそれを支持するところの基底=黒猫を失ってしまったことにより、少女の空想はそこでついに終息してしまうことになるのか。あるいは、黒猫のぬいぐるみがそれによって飾り立てられていた「ピカピカ光る」(116-2)ボタンの首飾りが、再び少女によって作られようとしているからには、イメージもまた再度白さと黒さの加護のもと上演されることになるのか。いずれにせよ、それらの帰趨はまたしても、布とイメージとの関係の中で決定されることは確かなのではなかろうか。私たちにはそうとしか思われない。
 ……こうして布に目を惹き寄せられつつある私たちの瞳は、今そこに、イメージの投影されるスクリーンそのものと言ってよい薄膜の対象を見出している。その布が揺れる場所には、窓や扉といった四角形の形象が合同していることも注目に値する。そして、窓や扉、弁当箱といったこれまでに見てきたイメージを描く場所そのものである四角形の諸対象と異なるものを、カーテンやシーツといった布状の対象は、白さと黒さ、光の中で描かれるものとその背景となる暗闇とのかたちづくるコントラストとして、新たに、明瞭に顕在化して作品の中に自己の姿を現わすことになるだろう。それは私たちがこれまで、弁当箱の影の部分や扉の裏側の小暗い廊下といった作品の内容のフォルムが潜在的にそう語るものとして了解していたところのものが、描画の表現における明示的な事態として紙面に現実的に可視化するところのものである。主題的な対象として見られる布=表面の第一の特性はこのようなものとして了解される。
 同じ性質をもつ対象は作家の別の作品にも見出すことができるだろう。たとえば「美しき町」の主人公夫婦が住む社宅の一室に吊り下げられる「うす緑のベンベル」のカーテン(『棒がいっぽん』22頁1コマ目)が私たちの感性を通じて訴えかけるものとは確かにそのようなものであるはずだ。組合の会合のために提供した夫妻のアパートの部屋にあって、妻の居場所を確保するために間仕切りの用を果たすよう吊られたこの間に合わせのカーテン越しに、会議に参加する人々の声や場のざわめき、拍手の音といった様々の混雑の気配が妻の耳朶を打つ。直接には目に映ることのない情景をそこに見ることが可能ででもあるかのように、妻はカーテンの裏で膝をかかえ、部屋の明かりを一杯にはらむ目の前の茫漠とした表面の広がりを注視しつづけるだろう(24-3)。「うす緑」として色指定されているこのカーテンの描写がスクリーントーンとそれを貼り残したハイライトの空白部分とによって表現されるかぎりで、私たちの感性において直接的には、この「うす緑」が白さの広がり以外のものとしては感受されないことは言うまでもない。遮断幕として機能しながら同時にイメージのスクリーンとしてもあるこの「うす緑のベンベル」でできたカーテンが、四角形の形態として、作品末尾のページ絵が描く夜の闇の中に浮かび上がる団地のその四角形をした外観とイメージを共にしている事実も指摘できるだろう。もう一例挙げておこう。「黄色い本」からは、主人公の田家実地子が家人の寝静まった夜更けに一人でテレビ映画を観賞する場面がここで挙げるべき実例の好適をなすはずだ。照明を落とした部屋の中で唯一の光源となっているテレビから洩れる光が、主人公の眼前に吊られた蚊帳の表面で四角く輝きを受け止める(『黄色い本』27頁3コマ目)。直後につづく田家実地子の部屋を描く場面では、卓上スタンドの明かりに照らされた小暗い空間を区切るかに見えるカーテンの隙間から、彼女の読む小説の主人公がひょっこりと姿を現わすことになる。読書が育むイメージが紙面で可視化されるその場面でも、カーテンが背景としての重要な役割を果たしている点は私たちの観点からは見逃せないものとなるだろう。付け加えれば、洋裁を特技とする田家実地子が近いうちにメリヤス会社に勤めることになるという、物語の描く主人公のこの処遇の在り方も充分に示唆的であるはずである(「衣服に/関する」72-3a 「仕事をします」72-3b「……たぶん」72-3c)。私たちの追ってきている文脈から言えば、それは「……たぶん」どころの話ではなく、必ずそうでなければならないという必然をすら伴った主人公の将来であるだろう。