あっ!やせいのほんだなが とびだしてきた!


 せっかく大晦日に更新することだし、今年を振り返って『わたしの読んだ今年の本ベスト10』とか『わたしを喜ばせた今年の音盤トップ10』みたいな記事を書いてみたかったんだけど、そういうのっていうのは一年通してちゃんと本とかマンガ読んでCD聴いてた人じゃないと無理なんだなってすぐに分かった。人がやってるからって、かたちばっか真似るのはいただけない。ベスト10を選べるくらいに分量的な意味で充実したブックライフを一年過ごしてきたわけじゃないし、そもそもおもしろかった作品についてはブログでぜんぶ感想書いちゃってて、そのブログの記事じたいも更新頻度的にすっかすかだから、ページ何回かクリックしたらすぐに通年分すべて確認できてしまうよ。大量の記事、たくさんの紹介した作品のなかから今年は選りに選ってこれが!みたいな楽しみ方は皆無だよね。
 本なんかもさみしい懐事情を勘案しつつ、その時ほんとに読みたいってものに関しては買うには買ってるんだけど、生来的に読むのがすごく遅いってのがあって結局はどれもさばききれずに積ん読分がどんどん溜まっていくという状況がある。積ん読のために割いてる本棚がじわじわ埋まっていく。……この隅っこの奥にささってる文庫はいったい何年前に買ったもんだったかしら? 恐ろしいぜ。貴腐ってやがるぜ(ジュル…、ときて、そうだ、じゃあベスト10的なものの紹介のかわりに、買ったきりまだ手をつけてない本のたな晒しをしてみようじゃないかって思い立ったわけです。
 



文庫本・新書が67冊。内訳は小説とか詩論も含めた文学系が28、それ以外の思想書とか評論なんかが39。
 


単行本が28冊。しめて95冊。これ、間違いなく来年いっぱいかけても読み終わらんよ。



どじャアァ〜〜〜ン『いともたやすく晒されるえげつない本棚』


 ……文章の方は200枚にすこし届かずといったところ、11節の途中まで。正月休みに入って時間に余裕ができたのでペースは気持ち上がったけど、やっぱり本年中に第1章は終わらなかった。月に平均で150枚くらいは書けるのかなあ、くらいに予想してたんだけど、ぜんぜん甘かったね。自分の能力をちょっと過大評価してた。まだあと2節分くらいつづきそうな気配だ。いま書いてる章はそんな具合でなんとなく着地点が見えてきた感じだけど、さてそっからあとどうなるのかというと、書き始めた2ヶ月前とおんなじで、やっぱり自分でもよくわからない。先が見えないって点では書きはじめといっしょなんだけど、今度はすでに自分が書いた先行する文章との関係が全体の構成においてかかわってくるはずだから、最初とはまた違った難しさがでてくるんだろうとも思う。……しかし控えめに言っても、これはすごく楽しいよね。マンガを描いてたときもそうだったけど、自分には不可能っぽいことになんの目処も立たないままえいやって勢いだけで着手してしまうってのがとてもおもしろい。まだまだ折り返し地点にも達していないはずだから、これまで以上にさらにぼちぼちやってく。
 以下は第7節分として書いたもの。内容的に前節から直接つづく感じの短い文章で、次の節での論述の踏み台みたいなニュアンスの内容になってる。

 それではよいお年を。


「見えないもの」をどのように語るのか?
 紙の上に描かれる見えるものとしてのイメージはその存在の条件と限界とを見えないものによって規定されている。イメージの存在ではなく、紙の上でのそのイメージの発生といった問題を考えてみよう。白紙の表面に一本の線が引かれ、延びてゆき、別の線がそれに交わり、接し、また別の線が、無数の線が、これらの線へと合流してゆき、形象を描く輪郭線が次第にかたちづくられていく。現象するイメージの成り立ちは現実的にはそのような経過のもとで進行していくであろうが、イメージが現われるにあたって、見えるものとしての線がまず生じ、その加算的な絡まりあいによって結果的にひとつのイメージが紙の上に結ばれる──、理念的な出来事として見た場合は、事がらの発生過程をそのように行為や現象するものの積み重ねの側面のみを見ることによって把握することは出来ない。いかなるイメージであれ、線の足し引きや積み重なりだけで実在することは出来ないからだ。線が引かれるそのたびごとに、線以下の何かあるものが見えない仕方でつねに発生しており、同時に、その線以上の何かあるものが、現われつつある形象の線の周囲に広がっていなければ、最終的なイメージの描出といった事態は不可能なままに流れ去っていってしまうだろう。引かれつつある線の周囲に広がるこの線以下で、かつ線以上の何かが、原稿用紙、あるいは端的に白紙と呼ばれる場である。物質的な基底として実在するこの白紙の原稿用紙のもうける場は、ではイメージがそこにおいておのれを展開することになる零度の開始点として唯物的な基礎をなすのであろうか。
 ここまでは混用していたが、紙における「空白」と「余白」の相違をはっきりさせておかねばならない。引かれていく線がそこに定めておのれを限定する広がりであり、この線の運動がそこで終始することになる紙のその面が、ここで空白と呼ぶところの場所である。この空白が現象としてのイメージの現われの舞台であり、それに対する物質的な基底として一次的な条件の場所となる。その機能はおのれの表面に描かれる線を現わすことにあり、現わすと同時に、おのれ自身の方はと言えば、その現われと完全に相即して消えていくことにある。現象するイメージの観点から見た場合、紙のこの空白はまったき可能性の場所として理解される。空白の可能性と現実化される線の現われとは、それそのものとして見る場合(絵のもつ様々な剰余的効果をいっさい抜きに見る場合)、単純なツーペイの関係をかたちづくっている。無垢の丸太とそこから彫り出される仏像との関係にも似て、紙の上の白さの領域が消えると、ちょうどその分だけの黒さが現われる。余白もまた、この観点からは、単に未着手の空白、未だ当面可能性の状態に留まっている残余の空白、未決済の待機状態にあるものとして、一次の空白に対する二次的でネガティブなものとしての姿を現わしている。この可能性としての紙の空白は使い切ることの出来るものとしてもあるだろう。紙面が線なり墨なりで真っ黒に塗りつぶされてしまえば、空白の可能性はそこですっかり尽きてしまう。空白が消去されるとき、それに準じる地位としての余白もまたともに消える。ここでは、空白とともに余白もまた、不可能と可能、可能性と現実性との両極がもうける排中律の領導のもとにその相貌を露わにする。
 私たちは、空白の内部に副次的に産み落とされる上記の余白とは異なる資格をもつ、余白の別の顔を考えることが出来る。あるいはむしろ、見えるものと見えないものとの関係を追ってきたここまでの記述は、その一次的なものとして見られるべき「余白」をこそ巡ってひたすら書き継がれてきたとあらためて言うことが出来る。余白を一次的で絶対的な条件とみなすこの観点からは、奇態と言えば奇態であり、思考しがたくもある、ひとつの必然的な帰結が導き出されることになるだろう。現象においては間違いなく一本の線が引かれることによって始まるイメージの描出の運動は、しかしこれを理念の水準において眺めるならば、その発生の根拠が線なき余白といった次元にあることが導き出されるだろう。線なき余白、輪郭なき量塊、形象なき背景、肉なき表面、仏像なき木の洞……といったイメージを描くことが可能でなければならない。空白の紙に描き込まれる線の周囲に生じる余白ではなく、すでにあらかじめ存在する余白としての「余白」の隙間に発生する線といった転倒した事態が考えられなければならない。海洋を真っ二つに裂く断裂面に生じた海溝-線、そのような何かに似たものが思考の対象となる。線以下の何かであるとともに線以上の何かでもあるものとしてすでにある「余白」が、イメージの実在的な構成要素としての線の存在に対し絶対的に先行し、そのいっさいを条件づけていなければならない。観測は絶対に不可能だが、それなしにはいっさいの思考も途絶するほかないという意味で、ある不可避の反-実在が思考されなければならない。理念において思考に課される責務といったものが、そこには確かにある。イメージがそこを限って現われることになる空白の白紙は、現象する運動の観点からは零度の開始点とみなされるだろう。引かれていく線の一本いっぽんはその空白の上に積み重ねられていき徐々にイメージを現出させる。しかし、理念的な出来事の水準からは、事態はけっしてそうはみなされない。線は最初の一本が引かれる時点ですでに最初の一本以下の水準を通過してやって来たものとして現われており、最初の一本とみなされる線がそこに引かれ終わった時、すでにその一本以上の水準へと移行し終えている。現象の中を通過する運動と理念の内部を動くものとを正しく峻別するべきだ。理念の描く運動は現象の描くものに対して、つねに余分と不足を同時に付け足しながら軌跡を描いているだろう。始まりがあり終わりのある空白の中での運動と、すべてが宙吊りにも似た過程にある余白の中での運動との差異をしっかりと識別しておかなければならない。前節で「見えないもの」として素描しておいたイメージの特異なありさまは、この「余白」の理念的な宙吊りの記述に向けて差し出されていた。私たちが見ようとするものは、紙の上の見えるものに対してそれを見ることを可能にしている理念的な条件としての「見えないもの」のこの「余白」における広がりであり、私たちが語ろうと欲していることも、同じ広がりの中に見出されることになる。私たちが見ようと欲するとき、「見えないもの」を見ることになる。それにしたがい、私たちが語ろうと欲するときは、「見えないもの」の様々な振る舞いが語るべき事がらとして選ばれなければならない。「見えないもの」の四つの振る舞いが大まかに粗描されなくてはならなかった理由である。
 イメージにおける「見えないもの」を見る準備のために、私たちはカテゴリーによるフィルターを重ねたうえで、それら「見えないもの」たちの取りうる対象的な振る舞いの幾つかをそこに摘出した。語ることの出来るものとして「見えないもの」を対象とすることは、「見えないもの」として見られるものたちの平面を、ある交雑する線的な次元において掘削・浚渫し、延長させ、別の経路との連絡をつけながら通行可能な通路として延伸させていく試みとなるだろう。そこでの問題は、もはや「見えないもの」のイメージそのものに直接関わるのではなく、「見えないもの」がイメージの表面において広げているこのものを、別の表面の形態において連絡し延ばしていくことにある。語られるものの形態として延長可能なこの水準には、言語的なモデルを特権的な範例として、様々な姿形をともなう様態が考えられ、また実際に見られることになるだろう。私たちはもはやそれを逐一網羅することはしまい。私たちはここで、イメージにおける「見えないもの」がそれによって「見えないもの」とみなされたその余白的特性の言表可能な局面、不可能と可能とを同時に存立可能にする条件としての或るポジティブな言説的要素、あるいは、語られるものにおける「パラドックス的な審級」の特異な振る舞いといったものをだけ語ることにしよう。すなわちここで、高野文子の「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」を見ることにしよう。