高野文子「絶対安全剃刀」/「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」

 今週は高野文子の作品を二点ほど手に入れた。いっこはおととしの「こどものとも年少版」に掲載された絵本作品で、出た当時手に入れそこなってこれまで現物を見たことがなかった「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」を古書で。もういっこは「母の友」1月号の巻末付録としてついてくる「新春!とんとこ紙相撲」と題されたペーパークラフトの作品。これは今でも書店に流通してると思う。どっちもマンガじゃないんだけど、高野文子の作品を考えるにあたっては少なくない意義をもっているように思う。ふたつの作品を見ることができたおかげで、すでに書き終えた自分の文章も少しだけ手直しを加えることになった。
 「こどものとも」の方はともかく、いま出てる「母の友」に高野文子が新作を書き下ろしてるなんてまったく気づけずにいてあやうく見過ごすところだったんだけど、先日新刊.netというウェブサービスをたまたま見つけて(chromeのアプリをあれこれみつくろってる最中にみっけた)、そこを通じてこれまた偶然にこの情報を得た。これははかどるなあ。著者名を登録しとくとひっかかる新刊情報を勝手に集めてきて通知してくれるというサービスみたいだ。三好銀の新しい単行本がもうすぐ出るってのも事前に知ることができたし、ビュトールの本が去年出てたってのも、今さらだけどはじめて知ったよ。ばんざい。
 あとは、今週読んだ本で、フーコーコレクションに収められてる「これはパイプではない」という文章がすごく刺激的だった。この本自体は一度ざっと目を通してるはずだったんだけど内容の方はすっかり忘れてしまってて、今週自分が文章書いてる最中にそこで考えてることにどうもこころあたりがあるってことに思い至って、本棚からこの文庫を取り出してもう一回読み直してみたらこれが抜群におもしろく、しかしまあフーコーの書くものなんだからおもしろいのは当たり前なんだけど、むしろちょっとヤバイってなった。自分の書いたものと内容的にかぶってるってわけじゃないんだけど(かぶってたらますますヤバイ、ますますみじめ)、読んでいろいろ気づいてしまったからにはもうちょっとこれは無視できない。さすがに書いてる最中の文章にそこらへんの知見をちゃちゃっと折り込むことはできなかったんで註としてかたちばっかり言及はしておいたんだけど、これは一回ちゃんと読んでみる必要があるなと感じた。たぶんこのあとにつづく章のどこかでこれはもう一度、今度は直接触れることになるという予感がする。
 ……しかしそんなこんなで、全体の第一章として書いてた文章を今週取りあえずひととおり書き終えることができた。推敲とかぜんぜんしてないしまだ一度も読み返していないんでこのあと手直しが入るはずだけど、まず約270枚まで達したところでいったん区切りをつけた。当初予想してたよりもずいぶん嵩がふくらんでしまって、全体で500枚くらいになるはずのところの半分以上をこの第一章で費やしてしまった。少なくともあと3章分(できたら4章分)は同じ主題をめぐって書きつづけてみたいんで、これは当初の構想のままの分量で全体をおさめるとなるとかなりいびつな全体像になってしまう。かといって残りの章すべてをこの第一章に見合った分量で書いていくのは無理っぽい。ちょっと時間をとって思案してみるつもりだけど、結局はこれまでどおりの「知ったこっちゃねえ!」方式で再開されるような予感がぷんぷんする。あとは、論述の内容を見やすくするために、ちょっとした図表を作って最後のページあたりに貼っておこうかなとも考えてる。コミスタがウォーミングアップを開始しました。
 文章の方はちょっと休んで、たまってる本を少しでも読み進めておくことにする。
 
 ……以下は第9節分に書いたもの。自分でも書いた内容忘れかけてるけど、ざっと流し読みした感じ、「絶対安全剃刀」について、それから前節からちょっと視点を変えてもう一度「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」について書いてるみたいだね。「みたいだね」? 知ったこっちゃねえ!

 お菓子など召し上がりつつ、プロディジーの懐かしいナンバーなぞBGMにしつつお読みいただけたらと思います。それでは聴いてください。The prodigyで「hot ride」。


イメージの反射、あるいは鏡(表面の第三の対象)

 作家の商業誌デビュー作にあたる短篇「絶対安全剃刀」(『絶対安全剃刀』所収)にはこれまでに見てきた主題的な諸対象がすでにその時点でほぼ出揃っていることに気づく。すなわち四角形のフォルムをもつ部屋の扉(扉というよりも、正確には収納スペースの引き戸と言うべきだろう)、画面において強いコントラストを際立たせる部屋の濃い(常軌を逸して濃い)影と真っ白な死装束との描画水準での隣接、あるいはこの死装束の来歴を語ることばの中で確認できるその縫製可能な布の物的な性格、そして薄さや軽さを実現する「安全カミソリ」の鋭利な刃といったもろもろの要素が、一篇にまるごと採取可能となっている。デビュー作にはその作家のすべてが詰まっているとはしばしば耳にする俗諺のたぐいであろうが、確かにこの作品はその後の作家の展開するもののうちでもとりわけ重要であるように思われるその無数の萌芽をすでに胚胎して、主題的連関の幼生のごときものとして見ることが可能だろう。(すなわち、当然にも私たちは記述をここから始めることもできた。その場合には、以上の主題群とはまた別に、高野作品における二人組の人物といった重要な連関や物語のレヴェルで語られる死の観念の話柄といった事がらを欠くことのできないきっかけとすることになっただろう。作家その人とともに紛うことなき起点としての処女作から開始されるそこでの記述の展開は、それ自体として漸進的に生長していく堅牢な建物のような確固とした外観をもつことになっただろう。そして私たちはその道は選ばなかった。私たちの記述はその限りにおいて、すでに最初の一行からして巣穴を掘り進めるもぐらの活動のごときものとして決定されている。それは痕跡であると同時に進行中の掘削作業でもあるものとして、作品の投げかける網目をさらに押し広げるような地下における人目を惹かない営み、一種のサブカルチャーとなることを決定づけられている)。
 私たちとしては以上の確認に加えてそこにもうひとつ新たな要素を見出しておきたい。学ラン姿の少年が退屈しのぎに自殺を思い立ち、真っ白な死装束を身にまとって「安全カミソリ」を手にする。手首を切るつもりだ。同じ部屋にいる、やはり学生服姿の彼の友人はそれを止めることもなく、むしろ行為の手伝いを買って出すらする。事態は脱力のあまり浮遊を始めてしまったかのような軽さの雰囲気と饒舌なお喋りの中で進行している。手首を切ってそれなりの見世物となるべく準備されていたこの自殺行為は、少年のおっちょこちょいな振る舞いによって(衣裳の裾にみずから足を取られて転倒してしまい)、彼の真っ白な着衣の腹部にちっぽけな血の染みを滲ませることしかできない。噴出する大量の血によって演出されるはずだった壮麗で瞬間的で劇的でもあったろうこの自殺のショーは、しかし間延びしたみっともない失血死、──その遅延の時間によってもはやそれまでの退屈な日常とそう大差ないであろうものと化し、代わり映えのしない生の過程が依然そこに継続されていくことの再確認の身振りとなる。エピソードの顛末はと言えば、死装束の少年の求めた死が学ラン姿の友人に誤って配分されてしまい、このごっこ遊びにも似た死の擬態の中で、決定的な切断の瞬間のあらかじめ余儀なくされた失敗といった祓いがたい宿運めいたものの確認とこの事態への諦めの溜め息とで結ばれることになる(「おいっ!/おきろっ!」32-5「あーあ/みっともないっ/たらないんだ/から」32-5「おい/おまえねー」32-7「あしたの朝にはおきろよね」33)。紙面における白さ(真っ白な死装束)と黒さ(学ランの黒さ)の対照、および作中の話柄における死という重いものとその話柄を語る口ぶりの余りに無頓着な軽さとがかたちづくるアンバランス、両面が交わらせるその間違った比率の混合が一篇における最大の魅力でありキモとなっているだろう。
 私たちが新たに見出すべき対象である「鏡」はこの部屋の大きな姿見として現われている。死装束の腹部に血の染みを作った少年に対して、友人がどこからともなくこの姿見を引っ張り出してきて相手にみずからそれを眺めるよう促す(「ほら、見てごらんよ/白い着物に赤い血の/コントラスト/なかなか/アカデミックな/スタイルでは/ありませんか」30-7a)。この「赤い血」がマンガの描画においては黒さ以外の染みとしては目には映りがたい点を再度確認しておけばよいだろうか。姿見が画面に実現している四角形の形態のうちに「赤い血」の黒さがあらためて視認されようとしている(もっともその黒さはそれ自体としては画面に描画されてはいない。それは鏡面を覗きこむ少年の姿のうちに、彼が見るだろうものとして潜在的に認知されるだけである。四角形のフォルムとその空白部分に描き込まれる黒さの対象の現実的な描画場面は、おそらく、「うらがえしの黒い猫」における例の、風によって窓から吸い出される黒猫のぬいぐるみの描写を待たねばならない)。主題的な諸対象はそこに集合して、めいめいをめいめいとは別の対象に繋げるべくその連関可能な連結部を見出す。四角形の図形、白さと黒さの対照、明暗の表現、絵として描き込まれる形象のイメージ、着衣のイメージ、それらすべての要素が鏡の表面とその外枠の周囲に集まっている。鏡はこれらの要素を糾合し、その既知の働きを引き継ぎ、そこを起点に別のもののもとへと新たに合同させていくことができるものとして現れることになるだろう。
 紙面において対象としての鏡はどのような役割を果たしているのか。それは描かれるところの外形において、画面に四角形の形態を導入することができるだろう。その形態は高野文子の作品にあってイメージが描き込まれるべき偉大な前提をなすものだ。それはそこにイメージが描かれない、あるいは可視化されないものがそこにあるということをも可能にする、イメージの現われにおける最大の条件となる特権的な形態である。本稿のここまでの記述がおもに扉や窓といった形象において見取ってきた働きである。鏡の外形はそれを引き継いでいる。それはまた、その枠の内部に白さの領域を大きく確保することができるものとしてある。鏡の輪郭の内部に何が描かれることになるにせよ、その白さ、余白の存在によってこそ、形象の影像が線や墨の黒さによってそのうちに捉えられることになる。四角形の形態が潜在的に準備していたものを、鏡の表面の白さは可視化されるイメージによってそれをおのれのもとへと捕まえて結ぶ。「光を受け止める布」といった主題に代表させて見てきた表面の働きが鏡においても同様の効果を実現することが可能となっているだろう。
以上のものは鏡が旧知のものから受け取り、引き継ぐことになる既知の連関である。ところで私たちは、描かれた対象としての鏡において別の新たな特質を見ることになるだろう。鏡が紙面における描画の水準に新たにもたらすものは、形象の二重化や複製化、反転、影像や光の反射や投影といった事態として了解することができるはずだ。「絶対安全剃刀」に見られる姿見が果たしているものはこの鏡の通例的で模範的でもある形式での働きである。姿見に映った自分の姿を前にする死装束の少年がこの矩形(平行四辺形)の外形を境にしておのれ自身の模像と見つめ合い、あるいは背を向け合う姿は、イメージの倍化や反転といった鏡の機能をそこで忠実に実現する範例的な場面として見られるだろう。姿見に映る少年たちの影像が互いに会話を交わす様を描いた31頁の3コマでは、フキダシの中のセリフの写植と手描きされたセリフ双方までが裏返しに反転されたかたちで再現されているが、この異化された文字表記に対してはいささか見慣れぬものを感じこそすれ、そこに異様さの印象はまったくないといって差し支えないだろう。鏡に反映する人物像が描かれているからには、そこでの書きことばまでがイメージ同様やはり反転されたかたちで見られることには、むしろ事がらの常態がそこで正しく復旧されているといった印象すらある。ここで採用されている文字の反転表記が個々の文字にのみ適用されているだけで、文字列そのものの左右の反転を免除されていることは(つまり文字の表記に割かれる領域全体の正確な反転にはなっていないことは)、鏡が可能にするこの戯れの、事がらの、そっと行われる告知といった印象を覚えさせる。鏡の果たすものがこのようなものであることがあらためて周知されておけばよい。
 再び「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」に戻ってそこにおける鏡の描写の実例を見てみよう。作品冒頭のシークェンスは顔の見えない二人の人物が交わしているらしい会話の声と、その部屋内部の空間に当てどなく漂い出したかのように移動する対物描写──「奥村さんのお茄子」におけるあの連接する描写をどこか彷彿とさせる、徘徊するような視点の移動──の場面によって開始されている。コマの画面が次々に捉えていくものは仕立て途中らしき取りどりのドレス類やアイロン台、ミシンといった縫製作業にまつわる物品たちであり、このくだりが早くも共示的に告げているものとは、その服飾や仕立てに深く関わるであろう部屋が「黄色い本」にまで連なるきわめて高野文子的な作品風土にすでにすっかりと染め上げられているという、主題的な所与におけるその規矩の余りに厳密な作動ぶりでもあるだろう。私たちはそこで、すでに始まっていた高野文子的なるものの開示を嘆息して追認することしかできない。またしても布であり、着衣であり、部屋の窓のかたちづくる四角形である。……何やら仔細ありげな会話を交わす二人の人物──二人の男性である──が何者であるのかは、このくだりでは明らかにされない。ただし前節で作品を少しく見てきた私たちにはこの二人の人物が誰であるかはすでに分かっている。すなわち一方は、亡国の王子という身分を隠してこの部屋のあるデパートのドレス売り場で販売員を担当するタンチー=オルタンスその人であり、いま一人はデパートの支配人という表向きの立場にあって王子に忠実に仕える老いた侍従の男性その人である。二人の交わす会話の詳細に関してはここでは割愛してもよいだろう。この場面で目を向けるべきものは場の一画を占めている鏡の存在である。5頁目最後の7コマ目は、その直前のコマの流れを継いで、キャスターの付いた姿見へと向かってクローズアップするような視点の移動の過程のうちに捉えられている。ページをめくって次の6頁目1コマ目では、前頁のコマではよく見取れなかったこの姿見に映る反映が何を描くものなのかがはっきりと認知される。紙面のおよそ半分の面積を割いて描かれるこのコマには、壁際の床に立てられた鏡の下半分の部分が描かれており、この鏡面には膝を突き合わせるようにして椅子に腰掛けているタンチーと侍従、二人の足元の様子が映りこんでいる。鏡面は部屋内部に満たされた昼の光を受けてそれを反射する様子が表現されており、平行する数本の斜線とそのあいだの空白、線数・濃度を違えたスクリーントーンによって描画がほどこされている。このコマに次ぐ6頁2コマ目は紙面の残り下半分を占めており、姿見を捉える視点はぐっと上昇してまるで部屋の天上にまで達したかのような位置からの、鋭い角度のついた見下ろす眺めとなる。姿見の全体像がはっきりと画面内に捉えられ、壁際にそって立てられたその鏡が、隣りあって並ぶ二枚の上げ下げ式の窓のすぐ前に位置していることが今やよく確認できる。建物(デパート)の上階のどこかにあるその部屋の窓からは、真下に走る往来の景色がよく見て取れ、歩行者や車が行き来している様が見下ろされている。映画のナレーションか挿入歌を思わせる調子で、このコマの地に覆いかぶさるようにして新たな(先ほどまでの二人の男性の会話とは異質な)声が響き始めているだろう(「デパートはすてき/デパートはすてき/一丁目のリッチデパートはすてき」)。窓の外の通りには「キッ」という音を立てて、ちょうど今しがたバスが停車したところだ。歌声の主は、このバスから降り立って次のページ以降展開されるくだりで顔を見せることになる物語の主人公ラッキーであるだろう。それより先の展開はここでは追わない。私たちの注目するものは、この窓と鏡との配置が空間の中に作り出しているイメージの現われと分節、その配分に関する点に限られる。
 境を接して画面の上下で隣接する窓と鏡との組み合わせが描かれる6頁2コマ目のこの場面において、並びあう両者の機能的な相違が明瞭に見て取れるはずだ。窓が果たしている役割に関しては、ここまでの記述の中で再三繰り返してきたことが再確認できるだろう。それは、そこを通じて外光や吹き込む風がこちらへと辿り着くことになるイメージの閾の特権的な形象である。そこからは部屋の外に広がる様々な情景や景色が眺められることにもなるだろう。あるいはそこは、その向こうの眺めがそれによって遮られることになる、閾の喪失をすら実現する場所となるだろう(「春ノ波止場デ生マレタ鳥ハ」におけるホテルの窓を想起すること)。そこではもろもろのイメージや光や風が通過するだけではなく、外から届く歌声といったものをこちら側へと響かせることができる(窓と「田辺のつる」で複数の声を浴びるように受け止めていたあの扉との類縁性を考慮すること)。デパートの作業部屋に開いた窓がコマの上半分を占めて画面に実現するものは、往来に行き来する乗り物や人々といったイメージの対象への、どこかしら覗き見にも似た(あたかも顕微鏡を覗くでもしているかのような)印象を持つ眺めの展開であるだろう。イメージを描くここでの窓の働きはごく慎ましやかに抑制されてありながらも、おのれの果たしうるものをそこに過たず引き出すべく、窓としての一般的な効果をそれとして紙面にそっと波及させている。
 この窓の描く台形の外形──上方から見下ろす視点で、上底から下底に向かってすぼまるような透視図法によって描かれる台形の外枠──の左右の辺をそのまま消失点へと延長するような恰好で、画面下半分、窓の下縁にその上縁をぴったりと接して、姿見の描く四角形が紙面を占める。鏡面に反映する像に関しては先ほど説明したとおりだ。二人の男性の肩から下、両足にかけての部位がこの台形が囲う領域に収まっている。コマの下辺には、板張りの床に椅子を据えている両人の体の一部が──鏡像ではなく実像の方のそれが──僅かに見切れており、その曲線の膨らみをコマ内部に覗かせている。コマの枠内には描かれなかった人物が確かにそこにおり(……しかし「そこ」とはこの場合、厳密にいったいどこを指すというのか? 場所そのものの宿るべき場所を指定するコマの外形の完全な外部にあって、その「そこ」とはいったいどこに存在するというのか?)、その体のごく僅かな一部を示しつつ、鏡面に向かってはその反映のうちにおおむね確定された所在の信憑が確保されてあり、そしてこの影像のイメージの現前において、彼ら両人の存在そのものと部屋内部での位置取りや距離関係がこの画面内に把握可能なものとなっているだろう。このコマには都合7人の人物が描かれているが(部屋内の二名に加えて、窓の外の通りに現われる5人)、視点に対して余りに遠すぎるか近すぎるかするため、どの人物の顔もそこに詳らかに見て取ることはできない。確かに目には見えているのに、肝心な部分が目に隠されてしまっているかのようだ。コマの上部から窓を通過して到来するイメージとコマの下部(あるいはコマの枠の外)に存在する対象の反映したイメージとが、この画面内の中央付近で互いの面を接しあう。面を接しあうというより、正反対の方向からやって来た二つの異質なイメージがそこで衝突しあい、その厚みをもたない両面の生起において、めいめいのイメージをめいめいの流儀で、めいめいの広がりに送り返し、分け合っているかのようだ。顔をもたない人物たちはこの配分され画定された広がりにおいて彼らの立つべき位置を定められているだろう。
 「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」に見られるもう一つの小部屋──窓と扉、あるいは二つの窓(上げ下げ式の窓と扉の覗き窓)とに挟まれて中央にぴんと張ったロープが走る、前節で見たあの奇妙な小部屋の光景が告げるものとの異同を確認しておくべきだろう。窓を通過することになるイメージはそれが何であろうと(異質性の程度の如何を問わず)、いずれの向きをもつものであれ(外と内とのベクトルに関わることなく)、この窓の働きによって紙面の上で連接可能なものとして取りまとめられることになる。語りうる対象としての布=ストッキング=ロープが窓から窓へと場を貫通しつつ線状の形態において縫合する言説的価値の諸段階や物語の説話的な総合の過程があるように、紙の上で目に映るイメージはこの窓そのものの描写において、此方と彼処、見ることと見られること、見る者と見られる物等々をそれぞれに繋げ合わせる。窓から外の様子をうかがう少女の眼前に突如飛来する鳩はそこに軽やかさや運動性をこれ見よがしに体現しつつ療養中の少女の不自由や不如意との対比を描き、この相反する異質な要素どうしを交互的なテンポのもとに接合しているだろう。窓に吹き込む突風もまた、抜け殻となった黒猫のぬいぐるみを外へと吸い出すように運び去って、同様の交代を別様の要素どうしにおいて実現している。整備工場の窓外の光景を捉えるテレビのモニタはそこに果てしなくつづくかのような異質な事物の連なりを映し出して、絵描き歌の告げる定式を歌声のテンポとともに可視化し、現実のものにしていく。窓の本来的な役割は、何らか異質なもの相互をおのれの閾の表面において交互的なリズムにそって双方向的に通過させることができるときに、そのもっとも典型的な働きを示すと言ってよいだろう(同質的なものどうしの単純な結合が問題になる場合には、窓はそこでそれならではの固有の本務を遂行しているとは言えない。窓はこの結合の場合にとってはあってもなくてもよい贅沢品の地位に留まっているだろう)。窓は出来事を一挙にではなく、バーター的に実現する。それは言うならば、特定のタイムテーブルに則って時限制で進入経路を切り替える一方通行路のようなものだ。何が、いつ、どのタイミングとリズムで交代を行うのかは、個々の具体例によって様々な場合が見出されることになるだろう。運動とその制限、光と影、風に揺れるものと風そのもの、見ることにおける条件と条件づけられたもの、見る者と見られる眺め等々が、窓の空白を介して交流を行う。もとよりその交流の瞬間が一枚の絵として描かれなければならなかったからには、このテンポを伴う交換がひとまず無時間的な静止画像として見られることは不可避であるにしても、事がらの理念的な姿においてそれらは必ず、あるリズムにしたがってはじめて生起するすぐれて時間的な出来事として了解されねばならない。
一方で鏡はと言えば、あるいは反射するものとしての窓ガラスは、イメージの実現を紙面に一挙にもたらす。今度は反対に、一枚の動かない絵として描かれるものが私たちの視線の運動においては必ずアプリオリな時間的順序にしたがって見取られているのだとしても、鏡の行使するイメージの双方向的な交流はその理念において、事がらを一挙に、完全に同時に生起させるだろう。コマの中央に描かれる姿見の中の影像とコマの下辺にそって現われているその実像である人物の身体の部位は、床板を表現する描画をそのあいだに挟んで、双方の像を一挙にイメージ化する。同じ画面の中で鏡を挟んで鏡像とその本体をなす対象とが同時に描かれてイメージを倍化する、そのような場合だけがこの複製化の同時実現をもたらしているというわけではない。倍化した同じものが二重化したイメージを一度で実現するという鏡のこの効果は、鏡面に反映した反転像しかコマ内には描かれておらず本体の方はと言えばそのコマの枠外で完全に消え去っている、そのような場合にも、同じ働きをイメージにもたらすことができるだろう。白装束の少年と学生服姿の友人とが反転した自身の像の前でお喋りを展開するとき、画面に捉えられている彼らの姿は鏡像であるというそれだけの資格において(前後の文脈や絵の表面に引かれる鏡の反映を表現する光の斜線によってのみこれらが鏡像と認知される、その限りにおいて)、その現にひとつにしか見えないイメージの絵が、すでに二重化と複製化の効果をこうむった倍化済みのものとして以外了解されることはないだろう。コマの手前、画面が捉えている対象や光景のこちら側には、その眺めを眺めている(それを眺めうる位置に立つ)視線の主体の所在が強く信憑されている。見ることと見られること、あるいは見ることと見られるものとしてのおのれを見ること、ないし、行為の対象としての見ることを行為の主体として見ること──、どのような言い回しを用いようが、鏡を前にしてイメージの場から奥まった場所に消去されたこの見る主体はそのような再帰的な(潜在的に)無限反射の経験において見ることの合わせ鏡的な複製化をイメージの場に送り届けることになるだろう。一挙に、一目で、同時的に実現される隔たりの設定とその廃棄がある。鏡がイメージにもたらす見ることに必然的に伴う両面が、その表裏一体の異なる方向を向いた顔どうしが、見ることによって引かれる距離の線とその撤廃という同時的出来事の中で、お互いをお互いに対して差し出し、捉えあい、繋ぎ合わせ、共存させることになる。イメージの二重化、複製化した対象、測度の設定とその廃棄、同じものの異なる側面の同時的決定──扉や窓、あるいは布とも別の主題的要素としての鏡が紙面にもたらす通例的で模範的な事態とは、確かにそのようなものであるだろう。