高野文子「病気になったトモコさん」

 80枚を越えたくらいまで進んだところで文章の方はペースダウンした。途中、ドゥルーズの説くセリー技法のおさらいに「意味の論理学」を少しだけ読み直したり、「カフカ」をもう一度頭から読んでみたり。搭載してる頭の中のメモリの容量が低いからか、ひとつのことを始めてしまうと他のことに手が回らなくなってしまうのが悲しい。書くときは書くだけ、読むときは読むだけ、みたいになってしまって並行して物事をうまく処理することができなくなってしまう。考えたことの出力として書くことがあるんじゃなくて、考えながら書く、むしろ考えるために書く、という感じなので、書くごとに直前の自分の知らなかったこと、思いもしなかったことが出てくるというのは個人的にとてもおもしろいんだけど(それを他人もおもしろがってくれるかどうかはちょっとおいとくとしても)、しかしこの書き方じゃどう頑張ってもサクサクペースってわけにはいかない。終わらないかぎりは書き続けてくつもりだけど、いつ終わってしまうかは自分でもわからない。明日とつぜん書けなくなって、そこで終わってしまってもまったく不思議じゃない。この話題に触れなくなったらそれは多分文章がそこで終わってしまった証拠なんで、「あ、こいつ終わったなw」ってそっと微笑んでほしい。わたしのお墓の前で泣かないでほしい。
 ……からっと晴れた日に洗い物の布が風に揺れて乾くのを待っていた。そんな光景を見てしまった瞬間、体中の血がドッと沸騰しそうになった。たまたま文章の方でもそんなことを考えていたところだったから、ここまでブログに挙げた2節分の文章の流れとは順不同になってしまうけど、5節分として書いてあったものを記念としてここに挙げておく。取り上げてる作品は「病気になったトモコさん」。前後して分かりにくいけど、前節からのつづきって感じの流れになってる。

風に揺れる布
 白さと黒さのコントラストを紙面に現実化し可視化するという布状の対象のこの第一の役割は作品における描画という表現の水準にその固有の活動領域をもつものであるが、同じ対象の物語内部における内容としての形態の水準には、これとは別のものとして数え上げねばならない新たな性質が見出されることになるだろう。この布の第二の特性として私たちがここに見出すものとは、たとえば風に揺れることができるもの、飛翔や落下といった運動において物的なものとしての軌跡を描くことができるもの、握ることができ、あるいは切り刻まれ、折り畳まれるといった圧力による痕跡を表面に刻まれうるもの等々として特徴づけられる。それは、ここまで四角形の表面や光を反射して暗闇の中にイメージを浮かび上がらせる布として広がりや表面的性格において見られていたところのものとは明確に異なり、それらの対象が概念における同一性をその対象のまま保っているところに(布一般が、ともあれ布一般として、そこに存置され概念的に認められるままに)、ある空間を背景にしてその範囲内に動き、留まり、あるいは委ねられた任意の役割を演じつつ、私たちの瞳を否応なくそれへと集中させるような具体的な事物としての形象や軌跡をかたどるものであるだろう。ペンによる輪郭線によって限界づけられ、その表現されるものとしての特定の形態において捉えられる空間の中の図、形象、物的な対象は、ここでは紙の上の広がりとしてなんらかのイメージを迎え入れるというよりも、それ自体が視線の対象として存在しつつ個物のイメージにおいて視界の中に現われることになる。広がりとして紙面に現われる表現を担う布と広がりを背景に現われる対象としての内容における布とを区別しておかなければならない。すでに見た「うらがえしの黒い猫」におけるあの風にあおられる白いカーテンが、黒い影に包まれた部屋で光とイメージによる加護を少女に与えていた場所で、このカーテンがまさに、重ねられた曲線によって他ならぬカーテンとしての輪郭を描いていたことを私たちは当然認めておかねばならない。カーテンは余白の白さや輝きにおいて見えるものと見えないものとの交代やイメージの出入りが演じられる描写の場所であると同時に、それ自体が描写の対象としてもあり、この物語の内容の水準に現われる物としてのカーテンはそこで見られるとおり、風を孕んで大きくたゆたい、または母親の手によって掴まれ、引き寄せることの出来るものとして描かれる。同じ作品で少女が頭からかぶる例のシーツに関しても同じことだろう。あるいは、中身の綿をすっかり抜かれて襤褸切れも同然に床の上に晒されるあの黒猫のぬいぐるみの残骸も、布の第二の特性としての運動や停止がそこにおいて担われる対象的な性格をもつものとして見られることになる。見えるものと見えないものとの分節を司っていたところのものが、ここではもっぱら、見えるものの判然とした姿において捉えられることになる。
 布状の見えるものとしてマンガの図の水準で描かれながら、しかし布そのものとはもはや明らかに異なる膜質の対象として、たとえばここに「病気になったトモコさん」における「オブラート」を見出すことが出来るだろう(高野文子『棒がいっぽん』)。一篇のほぼ全体を通じて小児病棟の病室に入院中の少女の視点から眺められた光景を彼女のモノローグを響かせながら描くこの作品にあって、視点人物である「トモコさん」の移動範囲が自分のベッドのある大部屋か、あるいは病院内にほぼ限られているという点はまず銘記されておいてよいだろう。「トモコさん」の現在ににおいて眺められている光景とその流れの中で散発的に挿入される健康だった頃の「トモコさん」の日常の一コマを外から眺めた描写とからなる一篇にあって、見る人物としての「トモコさん」の身体の移動可能性はおそらくかなりの制限を受けてしまっている。読み手はその事実を物語のもうける所与の描写場面から読み取ることになるが、この次元における信憑としての正しさにはこだわらないでおこう。私たちとしては、ここで信憑されている物語のもうけているもの(入院中の患者の移動制限)が、「見ること」の拘束にも似た事態としてそこでの描写を規定しており、それとトレードされるかのようにして、見えるものの側にある対象の運動や活動を反比例的に活気づけることを可能にしている点をだけ強調しておけばよいだろう。「奥村さんのお茄子」のあの最後の6ページに見られた非人称の移動する視点からのめざましい描写の連接における闊達さ、浮遊するかのような軽さとは極度の対照を際立たせる遅さや制限、受動性といったものが、見ることを可能にするその身体の場所において見取られておけばよい*1。動きを示すものは人物の視点を通じて見られることになる対象の方である(そこに、「春ノ波止場デ生マレタ鳥ハ」における、走る乗用車の窓から眺められるホテルの窓明かりとの対照を認めることも出来るだろう)。私たちはそこに再び窓を見出すだろう。薬が飲み下しやすいよう病気の子どものために用意されたオブラートがそこから吹き込んだ風に乗って空へと舞うことになるこの開け放たれた病室の窓は、それ自体としては絵には描かれていない。コマの四角い外形がその代わりを務めているだろう。病院の中庭を真下に臨み、外に広がる街の景色を一望のもとに見渡せるこの眺めのよい窓からは、少女の眼前に舞い降りる鳩や中庭の患者たちの動向、デパートのアドバルーンや遠くに走る電車の様子といった様々な事物や出来事の展開が眺望される。突然の風に吹き飛ばされて無数の「空飛ぶ円盤」のごとき滑空を演じることにより、病室の少女に贅沢で快活な笑いを不意にもたらすこのオブラートの束に充分目を注いでおこう(『棒がいっぽん』56頁、57頁)。半透明の膜質の対象としてあるこの円形のオブラートは、光を透すものであることと薄さの両属性において布状の対象の系列に合同するはずのものであるが、カーテンやシーツがそうであったようにはもはや四角形の形態を保持してはおらず、私たちがここで描きつつある見取り図からは、従前の主題的圏域を脱け出してそこに新たな弁別を可能にする充分な変移を経たものと見ることが出来る*2。円形の対象とは高野文子のかたちづくる作品群にあってそれだけで希少な価値を示す興味深い眺めではあるが、それはそれとして、ともかく、この円形の形態が布の変種の一つのサンプルでありうるという点だけは見逃さずにおこう。
 私たちはここで、重さや軽さといった物のもつ属性とは本質的に無関係であった表面そのものの広がりの場所から、それが(一枚のオブラートのように)ごく微量で、秤によっても容易に計測しがたいものだとしても、ともかくはある質量をそなえた物としての特性を示す対象が見られるべき場所へと移動している。「早道節用守」(『絶対安全剃刀』)において登場人物に空を飛ぶことを可能にする小さな魔法のお守りはそのような対象のひとつであろうし、また、「絶対安全剃刀」(同上)の死装束が黒塗りされた背景に浮かび上がらせる白さの印象や剃刀の薄い刃もこの布の第二の特性としての軽さや重さの属性と係わるものであるだろう。再び「美しき町」を参照すれば、そこには前節で見た表面に光を受けるカーテンとともに、風に揺れる布の一種もが現われていることに気づくだろう。若い夫婦の住む部屋のベランダに面した窓を垂直に通過する、階上の住人の落としたマクラとショーツがそれである。場面は夜であり、引き寄せられた障子の片面に覗くガラス戸の向こうはスクリーントーンによって闇の暗さを表現されてある。落下する対象はこのスクリーントーンを削った残余の紙の白さにおいて描写されている。またしても、四角形の空間、闇、白さ。新たに合流しているものは余白の白さにおいて表現される、内容のフォルムとしてのこのマクラ=ショーツという物的な対象の演じる布の落下という事態である。おそらく高野文子の諸作にあって落下という垂直の運動性の描出は稀有な事例をかたちづくるだろう。対象や視点の移動・運動といった効果をともなう様々な移行の事例は、その大部分が水平方向を主軸にしての傾きや奥行きへの漸進において演出されているはずだ。物の落下における稀少性は、ここではそのまま、若い夫婦の平穏な生活に降りかかる不意の凶兆の逆奇貨=奇禍のような役割を果たす。
 私たちは次節に移るにあたってこの布の第二の特性としての物的な対象性に付け加えて、「美しき町」の落下する布が果たしているこの告知するという働きに注目をし、それをいっそう展開したいと思う。見えるものと見えないものとの関係を問うてきたここまでの記述の過程を、見えるものと語られるものという対比が描く線にそって延ばしていく。そのためには、新たな布がここに呼び出されなければならない。たとえば、「羽根飾りのついた帽子」といった奇妙な物品が、ここに別して見出されなければならない。
 この新たな対象としての布=帽子を具体的に見る前に、少し寄り道をして、以下に理論的な見取り図を簡単に作成しておこう。その作業は私たちの今後の道行きに少なからず役に立つことになるはずだ。

……以上が第5節分。この後には少し抽象的な記述がつづく。というか、そこを今書いてる。ボチボチやってく。

*1:「病気になったトモコさん」59頁参照。夜の街を走り抜けていく電車を注視する病室の病人の視点に仮託された眺め。ベタ塗りされた黒い夜の闇を背景にして、水平に長く伸びる電車の車窓から洩れる明かりの白抜きされた四角い連なりという、高野作品の理想的範例の一点として挙げることも出来るこの描写場面の主題的関連性において、特筆すべきひとつの反転を見ることが出来るだろう。視界を右から左へと貫通するように走り去っていく電車の車窓に、この運動する対象の光景を今まさに病室から眺めている病人その人の正確な鏡像と言ってよい子どもの姿が浮かび上がる。両手を双眼鏡を構えているかのような恰好にして病室の病人を鏡の中から見返すような仕種を示すこの車窓の明かりの中の子どもが見ているものとは、消灯されて真っ暗になった病室の四角形であるだろう。無論この病室の窓が光の中でなら描くことになるであろう四角形の輝きは、もはやその時、すっかりと暗闇の黒さの中に埋没してしまって潜在的なままでありつづけるものでしかない。高野文子的イメージの形成を促す諸条件は未組織のままだ。つまり、車窓に浮かび上がる子どもはおそらく何ひとつ形をなすものを見出すことはない。「病気になったトモコさん」がこの時その電車の車窓の明かりの中に見ているものとは、「見ること」を可能にする主体の身体それ自身のイメージ、反転し、自身へと反り返ったこの「見ること」そのものを可能にする諸条件であるだろう。

*2:半透明の対象と円形の形態との関係については、中野シズカの各作品を取り上げる別の章で、幽霊と象徴の関係を見ることになる際にあらためて触れることができるはずだ。