高野文子『火打ち箱』

 今週は本とCDを少しずつ購入。前の月までに手に入れた本などまだ消化しきれていないものもあるから、こうして積ん読分がちょっとずつ嵩を増してゆく。やむなし。先週から週刊ジャンプで連載がはじまった古舘春一というひとのマンガがめっぽうおもしろかったので(『ハイキュー!!』というバレーボールを題材にしたマンガ。読んでて何故だかボロボロ泣けてしまったよ)、このひとの前に連載してた『詭弁学派、四ッ谷先輩の怪談。』全三巻を一気買い。連載当時も気になってたんだけど手を伸ばすまでにはいたらなくて、けど新連載の一話目を読んで、このひとは躊躇なく作家買いしてもいいような信頼できるマンガを描く作家だと確信できた。子どもにはこういう質の高いマンガ読んで見る眼を養ってもらいたい気がするんで(なんか発想がお年寄りみたいになってきたぜ)、連載がんばってほしい。マンガはあと二冊、松本大洋の『Sunny』の2巻がもう出たんでそれと、評判は以前から耳にしてて気になってた田中相というひとの『地上はポケットの中の庭』という作品集を購入。どっちも近いうちに読むつもり。マンガは以上5冊。すが秀実の久しぶりの新刊『反原発の思想史』は著者買い。今あれこれつまみ食いみたいにして読んでる本たちとは扱ってる題材からしてだいぶ毛色の異なるタイプの本だからうまく呼吸を整えて読み始めないとこれは落差につまずきそうな感じではある。これはそのうち読もうかな。いっしょに買ったフーコーの講演集『マネの絵画』、こっちを優先して読んでいきたい。帯の紹介にある≪20世紀最大の思想家ミシェル・フーコーは、『黒と色彩』と題するマネに関する著作を準備し、……≫ってところにすごく気を惹かれる。読まねばなるまい。読んで叩きのめされねばなるまい。あとは岩波文庫を二冊、ボルヘスの文芸評論『続審問』と『失われた時を求めて』の二冊目。正直プルーストなんかは今すぐに読むつもりはなくて、ぶっちゃけbk1の限度以上まとめて購入でつく特典1000ポイントが欲しくて帳尻あわせで目につくとこからカートにほおりこんだってのが真相だったりする。よこしまだぜ。書籍はそんな感じ。CDはAC/DCのhighway to hellの輸入盤とハシェンダアシッドハウスラシックスって二枚組みのミックスものを、こっちはいずれもamazonで。これからは本とCD、DVDを購入するさいは、BK1amazonをうまいこと考えながら使い分けることにする。てことで今週のお買い物は以上の感じ。そしてあとは特に書きたいこともない。ビュトールの『ポール・デルヴォーの絵の中の物語』を読み終えて、ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』を今読んでる最中だけど、記事にするほどの感想はない感じだなあ。ストック分の文章を投下してお茶を濁そう。CJ BollandのCamargueなぞ聴きながらどうぞ。



真っ平らな兵隊さん
 私たちはある水準での一巡をすでに終えてしまっていることを確認しなければならない。私たちのかたちづくってきた観点からここまで踏査されてきたものは、主題としての「紙」を見た前節までですでにその一周目の巡行を終えてしまっている。「扉」と「窓」のかたちづくる四角形の枠をくぐり「布」のはためくところへ、そこから「鏡」が反映させる影像の前を滑り抜け「紙」のもとへと至るこの主題論的に限界づけられた道行きが、ほかならぬ「紙」をその終着点に見出したことには必然的な理由がある。「紙」は終着点ではないからだ。「紙」は終着させるのではなく、むしろ別の、新たなイメージの展開が開始される始発点でもあるからだ。
 関係的なカテゴリーのもとに照らし出された主題としての「紙」は漸進的に実現される三本の選言肢をもっていた。この選言肢のそれぞれは、既知の三つの主題と見えないもののカテゴリーを、作品の紙面に表現されるべき内容のフォルムとしてイメージのうちに捉えている。これら配分された選言肢が描く諸イメージの余白ないし裏面には、それらすべての実現を可能にしつつも、しかしそれらすべてとまったく資格を異にする別のあるものが不動の姿勢にも似た様態で現存しているだろう。紙の上に描かれるイメージとしての「紙」であり、同時に「紙の上」でもあり、また同時に「紙の上に描かれるイメージ」でもあるもの、それらいっさいを含意し、一挙にイメージを実現するもの、そのようなものとは、もはや作品を可能にする「紙」以外には考えられまい。イメージに現われない限りでの「紙」。しかし内容のフォルムとしての「紙」と完全に混じり合った表現のフォルムとしての「紙」、裁断され誰かの手に握られ、引かれる線や形象の周囲に余白を生み、その余白のうちに造形可能なものと言表可能なものとのイメージの混合が描かれることになる作品と呼ばれる「紙」、まったき物質的所与であり、同時に作品として結実しており、イメージの組織化をすでにこうむったものでもあるその紙面の広がりこそが、ここで新たな反省の対象とされなければならない。「紙に描かれる紙」、「紙が描く紙」ではなく、「紙を描く紙」を見なければならない。つまり、これまで、線に寄りそう余白、事物の形象を浮かび上がらせる背景、奥行きの広がりに貼りつく平面といったイメージのかたわらの影の対蹠物が見られてきたからには、見えるものとしての「紙」の諸イメージに対しても同じ資格を有するものが見出されなければならない。主題として見られる「紙」はそのようなものとして、新たなイメージの場への移行を始発させることになるだろう。つまりここで、高野文子による絵本作品「火打ち箱」を見なければならない。
 「火打ち箱」を見るにあたっては、ふたつの例外的事情をあらかじめ考慮しておかなければならないだろう。まず「火打ち箱」の物語がそのテクストの作者として原作のアンデルセンや訳文を手がけた赤木かん子といった著者をもつものであり、高野文子その人はそこにペーパークラフト作者という共著者の資格においてのみ名を連ねているという作品への関与の例外は、私たちのここでの記述にとっていかなる留保を必要とするものでもない。むしろそのような事実は、作家のイメージの組み立て方やそこでのイメージが他の作品におけるそれとどのような連携を結んでいるのかということを直截的に、きわめて本質的なかたちで告げてくれる、一個の恰好のお手本として見ることを許すだろう。この例外は私たちにとって、それとしては何の問題も喚起しない(同じ評価が、文芸誌『モンキービジネス』に連載され、現在までのところ単行本化はされていない四本の掌編、イラストレーションであると同時に判じ絵でもあるような、準マンガ的作品群に対しても当てはまるだろう)。同様にもうひとつの例外としてその作品がこれまで見てきたマンガというジャンルとはまったく別の作品形態をもつものであることもいかなる問題でもない、とは、こちらにかんしては言えない。私たちの作品批評にとって、それがマンガではなくペーパークラフトによる作品(絵本)であるという事実は、ここまでの記述の流れのなかできわめて本質的な意味をもっている。それは作成されたペーパークラフト作品を作家本人の撮影により写真の被写体として収め、これを一枚の絵として仕立てあげ、そうしてできる23枚の絵を、物語の個別の場面が語るテクストに対応する図示可能なものとして作品全体のページに差し出す。紙はペーパークラフトのための素材となることによって、マンガの紙面であったおのれの外皮を脱ぎ捨て、まったく新たな場に現われ、かつまた、イメージを描く場そのものとして現われる。
 マンガの紙面が「火打ち箱」のペーパークラフトの紙面へと引き渡す諸連関。それらは内容のフォルムとして「紙の上に描かれるイメージ」の3+1個の変状をそれぞれにかたちづくっていた。(1) イメージとしての「紙」、事物に固有の形象を見えるものの姿において描くもの、あるいは表現のフォルムとしての「紙」に固有の循環の働きにおいて主題である「布」を内容面に呼び出し、図と地、対象とその背景、または風に揺れるものと光を受け止めるものとの両相関項を形成するもの。(1+1) イメージとしての「紙の上」、形象の輪郭を描くことを可能にする線そのものの水準、おのれ自身は語らずに黙したままおのれが可能にする諸イメージに語らせるもの、あるいは、表現のフォルムである「紙」が内容のフォルム面を循環させることにより、そこに「扉」や「窓」の主題的形象として再召喚させるもの。線と余白、四角形のフレームとその閉領域、または見えるものと見えないものとの全般的な対照をかたちづくる条件であるもの。(1+1+1) イメージとしての「紙の上のイメージ」。線と事物のイメージからなる対象性の水準を奥行きの信憑のうちに宿らせる地平的な所与、あるいは表現のフォルムである「紙」がその内容面に対して「鏡」の主題のもと循環的に呼び寄せるもの、空間性と平面性、連続的なものと単数的なもの、または顔つきと顔無き顔との対照としてイメージの水準に相補的な対立を呼び込むもの。(3+1) 最後に、イメージとしての「紙が描く紙」一般。おのれの内容として抱え込むものたちを循環させるのではなく、おのれ自身をおのれの外へと、ただしおのれの外のおのれの場へ、という再帰的なイメージの移行を実現するもの。古い装いを脱ぎ捨てることと新たな装いを身にまとうことの同時的な実現。表現のフォルムとしての「紙」はこの水準に至って、ついに内容のフォルムとしての「紙」に憑依され、乗っ取られ、循環的に回帰するおのれ自身によって別のものへと転生可能となる。それは循環する運動と滞留しつづける不動との両側面によって特徴づけられ、あるいは選言肢の配分と含意におけるそれらの全回収、または見ることを見ること(見ることのいわば覚悟的な振る舞い)と単に見ること(惰性的な見流すこと)との鋭い対比を、同じひとつの「見る」ことのうちに実現することができる。「紙が描く紙」一般は今や、「紙を描く紙」のもとへと移行する。白紙の表面に展開されたイメージの表面が、もう一度、今度はそのイメージの表面における内容と表現の両フォルムの重なり合う表面にそってこよなく薄く切開され、慎重に剥離されたうえで、新たな対象の表面を産み出すことになる。……こうして「火打ち箱」が可能となる。
 「紙に描かれる紙」から「紙を描く紙」への移行の局面を紙面に刻んで、「火打ち箱」のペーパークラフトに現われるイメージの実現化はすぐれて重要なものとなるだろう。マンガの紙面で実現されたイメージの諸側面は、すべてこれらを「火打ち箱」に持ち込むことができる。ただし今度は、すべてが表現のフォルムとしての「紙」の明瞭で厳然たる領導のもとにおいてだ。同じイメージの異なる経路を辿る循環、異なる水準での分節化が開かれる。再び、3+1個のエレメントからなる分節化・循環・総合の反復である。
 (1) イメージを描く紙となる「紙」。「うす緑」の一枚の画用紙──私たちは紙面に色合いを与えるこの色に、どこかですでに一度出会っているのではないか?──から切り出されて紙面から文字どおりに立ち上がる、事物や人物たちの造形済みの形象。切り抜かれ、折り曲げられ、紙の上の紙そのものとして直立するこの真っ平らな兵隊さんや背景をなす様々な景物の形象において、以前の水準でイメージとして描かれる「紙」が合同していた「主題であるかぎりの布」のもつ特性を、再度ここに見出す。ペーパークラフトによる紙の細工は、物理的な圧力を受け止めてそこに痕跡を刻まれうるものとしての紙と、ライティングによって演出される写真撮影の場、光と影とが戯れるその劇場としての紙の表面を、再び見出すことになるだろう。「布」は帰ってきた。
 (1+1) イメージを描く紙となる「紙の上」。形象を描く輪郭線にそって紙面に切り抜かれる開口部。紙面に立ち上がった目に見える形象と完全にその外縁を共有しながら、それ自体としてはけっして目に捉えることのできない紙の上の陥没、穴、あるいはイメージの通行路そのものでもあるような表面の影法師。描かれる形象とこの反実在的な余白の開口部とは秘密の紐帯を保ちつづけているだろう。すなわち、目にはけっして見えない陥没によってこそ現に見えるものとして紙の上に立ち上がることが可能となるあれやこれやの形象たちは、紙の山折り谷折りの目安として指示可能な輪郭の最外縁部の線で、この紙の開口部への臍帯=蝶番*1を手放さずにいる。内容のフォルムにおける「主題であるかぎりの扉」は、こうして表現のフォルムと表現そのものの条件の水準に回帰する。それは紙の上の切り取り線とそこに開いた形象の空虚な輪郭とにおいて、イメージの現われ全般を条件づけるおのれの余白的身分を二度目に開示することになる。
 (1+1+1) イメージを描く紙となる「紙の上のイメージ」。ペーパークラフトにおける紙面の操作はそこに最小限紙一枚分からなる奥行きの空間を描くことができる。フィクションとしての奥行きの信憑(遠近法の仮構するそれ)を、ではなく、字義どおりに実現される空間性の堅固な構築である。紙面に描かれるイメージは紙に展開可能なかぎりの高さ・幅・奥行きの範囲にその身を宿すことになり、描かれる形象それ自体もこの空間性を紙の身分において共有している。イメージの可視的な質料と紙の物的な質料はまったく同じものから組成される。しかし同時に、その紙はおのれの身元が奥行きとは無縁の、平面性それ以外のどこにも根拠づけられないという事実をも語っているだろう。紙面はその水準において、イメージの描出に対するおのれの表と裏の差別を撤廃する(カバンの表側とその中身の金貨とが、ひと連なりの表面で一挙に、まったく障害なく同時に、イメージに現われることができなければならないし、またそれは、現にできている)。紙のあらゆる面は、今やひと連なりの同じ面が見せる、異なる顔たちに向けられる顔そのものの場所となる。あるいはそこに、顔無き顔とでもいった、空間性とも方向性ともいっさい無関与の、いわば無貌の場所が現われる。イメージを描く紙はこのような眺めの実現において「主題であるかぎりの鏡」を呼び戻すだろう。
 (3+1) 最後に、あるいは再び、イメージを描く紙となる「紙」全般。……だが、そのようなものがいったいどこに? それとは果たしていったい何なのか……?

 ……内容のフォルムとしての紙の諸変状すべてを受け取り、その働きを引き継ぐ表現のフォルムとしての紙をペーパークラフトの作品に見たからには、イメージとして描かれる内容のフォルムとしての「紙」がそうであったように、イメージを描く表現のフォルムである「紙」においてもまた、前者と同様の結節的働き(循環的な主題的変奏とその回収、および新たなイメージの水位への移動)を最後に見出すことができる、そう信じるに足る根拠があるようにも思われる。しかし実際には、私たちにはその所在のおおよその位置を覗き見ることはおろか、厳密にはそのような作品の在り方を考えることすらできない。(あるいはひょっとしたらそれは可能なのかもしれない。ひとつの憶測、たとえば紙が平面的な次元から空間を描くものへとやって来たからには、それは今度の循環で物理的な時間の中で持続を描くものへと変成していくのかもしれず、──あるいは、少なくともそのような可能性において紙は潜在的にはおのれを開くことができ、そして高野文子の諸作に見られるあの無数の運動としぐさによるイメージの展開図もまた……。ひとつのまったき憶測。ともあれ、私たちの記述が途絶する場所、それがここ、紙の循環がいったんの終息をみるこの場所であること、それだけは確かだ)。*2
 整理しよう。マンガの紙面に描かれる内容のフォルムとしての主題系が、その系自身に含まれる「紙」に巻き込まれるようにして、別の水準へと送り出される。その内容である「紙」は表現のフォルムとしての「紙」に送付されたうえで、今度は絵本=ペーパークラフトにおいてその固有のフォルムを受け取る。同じ循環、ただしここでのイメージに特有の描出法にしたがって、異なる相貌のもとでの循環の反復。分節化されたイメージの諸側面を経巡るこの循環は、しかし最後の「紙」そのものの場所に至って、いったんそこでの展開を停止するように見える。紙を描く紙によって描かれる紙そのものの姿形。循環の停止はこのトートロジーにその原因をもつだろう。私たちには結局、そこに紙をしか認めることができないからだ。私たちはそこに紙の紙を見た。おそらく、ここでの展開の停止は原理的な理由をもつものではなく、ある特殊的で偶有的な事情によるものに過ぎないのであろう。しかしこの事情は、私たちにはついにうかがいしれないままでありつづけるであろうし、また、それにしたがって私たちの道行きもここで停止する以外に方途がない。よって、イメージの描く巡回と転換の諸側面をきわめて貧困化したかたちではあれ、おおよそすべて図式的にこれを見納めたと信じる私たちの記述もまた、ここでいったん停止することになる。……いや、おそらくこれは「停止」なのではない。とはつまり、そこに何か、天から降ってくるような具合でまったく新たな開始を告げるものを待つものなのでもなく、事のはじまりからそこにありつづけていたある宙吊りにも似た事態をあらためてここに呼び寄せるような、そのような何かであるはずのものだ。

 ──章を結ぶにあたって最後に、以降もはや記述の余白ともなったその場所で、「停止」のあとに見えてくるもの、事のはじめからそのようなものであり、今にいたるまでそのようなものでもある、作品のイメージのそのような現存を浮上させてみることにつとめよう。「紙に描かれた紙」ではなく、「紙を描く紙」なのでもなく、「紙に描かれなかった紙」、そのようなイメージの余白的在り方を高野文子の作品に見届けて、この章をいったん締めくくることとする。

*1:高野文子作画・構成「謎」参照(『モンキービジネスvol.9』収録)。箱の蓋の開閉と人物の(あたかも紙でできているかのような)身体が空間に描く同様のしぐさがイメージにおいて響応するさまを描いて、掌編「謎」は私たちのここまでの論述にとって示唆的な姿を示すだろう。蝶番の図像が印象的なかたちでしばしば前景化されるこの作品にあって、イメージは開閉の運動を司るこのジョイント部によって、箱や扉といった閾の場所への出入りを繰り返すことになる。そのような開閉のしぐさはこの「謎」に見られるだけではない。たとえば「黄色い本」の主人公の指先によってめくられる小説のページの描写として画面に描かれていたものも、「謎」における蝶番と同じ資格で、そこでのイメージの現われやもろもろの振る舞いといったものを加護している同種のしぐさとみなしてよいだろう。同じ趣向として、「ウェイクフィールド」における書物のページを舞台にした人形芝居も参照可能であるはずだ。あるいはまた、「トムキンスさん、ケーキをありがとう。」(『真夜中No.12』収録)といった作品はどうであろうか。可視的な眺めが光の屈折の奇妙な振る舞いによって日常的な姿を失ってしまうという「ふしぎ」な部屋のなかで、その場所に出入りするイメージの対象=はいはいする赤ちゃんがくぐり抜けることになるのが、やはり部屋の端に開いた扉を通じてであるという点。付言すれば、この不思議な部屋はまた、そのうなぎの寝床のように細長く伸びる間取りにあってドアとカーテンとによって両端を挟まれた恰好で描かれている。「扉」と「布」との近接性、および両者の主題としての直接的連関をすでにここまでに見てきた私たちにとって、それは別途示唆的なものとして了解されることになるだろう。

*2:作家の現在までの最新の仕事のひとつとして、私たちのここでの記述にとっても有意義と思われる実例を挙げておこう。雑誌『母の友』(2012年1月号)の巻末付録として掲載されている非マンガ的作品がそれである。それは「紙相撲」の素材として提供されているペーパークラフトの一種である。注目に値するのは、それが「火打ち箱」で描かれたような紙細工による作品の写真を用いた紙面への再現(転写)なのではなく、そこでひたすら見て読まれることを目指して作られていた作品は、「紙相撲」を提供するここでは、想定された遊び手自身の手によって紙面から文字どおりハサミで切り抜かれ、力士の姿をしたこの人型の紙片の動きを舞台の上で現実に吟味されることが目指されているという点にある。作家による「紙」への誘いは、紙面の目に見えるイメージの水準を超えていまや私たち自身の手元にまで達し、これを巻き込もうとしているだろう。