高野文子「春ノ波止場デ生マレタ鳥ハ」

 今週はマンガと本を何冊かずつ購入した。『第七女子会彷徨』の3巻と『よつばと!』の新しいやつ、それから、松本大洋の新しい連載が始まってたのぜんぜん知らなかったんだけどその『Sunny』ってやつの1巻、マンガはこの3冊を。松本大洋の作品、これまで読んだかぎりのものにかんしては全部けっこう好きで、この作品も1巻の時点ですでにおもしろいとは思うんだけど、好きっておおっぴらには言えない感じが困る。人物の造形とかそうとうヤバイ感じがする。ヤバイ、危うい、ギリギリの線っていうよりも、たぶんこれアウトくさい。もうどこがどうとかは言いたくないんだけど、「人離れした〜が故に、しかしかえって、ますます人に抜きん出て……」みたいな人物設定がきびしい。「が故に、かえって」っていうこの逆接的な蝶番になる部分がつないでる、人物の性質とか性情とその彼の隠されたほんとうの能力、みたいなギャップの作りかたがファンタジーといえばファンタジーなんだろうけど、これに心底ウンザリしたり、あるいはことによったら本気で唾棄したり怒る人がいてもまったくおかしくない。たんなるファンタジーを踏み越えちゃってて、作品の外の現実にとつぜん襲いかかられてもぜんぜんおかしくないと思う。そんくらいヤバイ感じがする。そんでもって、そういうヤバイ要素がぷんぷんする作品が、マンガとしてこんなにも魅力的なんだからますます困ってしまう。画力とか表現力とか引かれてる一本いっぽんの線とか、ふつうに神レベルなんでほんと困る。そんでもって、この捻じくれた松本大洋の作品の魅力そのものの在り方が、すでに作品内で作者が使用してる「が故に、かえって」っていう困った図式の、作品外での完璧な反復になっちゃってる。……どうしようかって考えると、まあ続巻をたのしみに待つしかないよねって結論になる。誰かが松本大洋の作品を批判したとする。その時彼は、たぶん、「まったくその通りだよね」って頷くしかないことを言うね。でも、やっぱり松本大洋の描くマンガどうしても嫌いにはなれないし、忘れることもできないし、読み続けたいって気持ちも消えない。厄介だよほんと。
 買った本のほうは、ドゥルーズの「シネマI」と四方田犬彦の「漫画原論」の二冊。イメージについて勉強してみたくて遅まきながら手をのばしてみたんだけど、目次をパラパラめくったらどっちの本にも「光と闇」とか「黒と白」って見出しが見えて、これはヤバイってなった。四方田犬彦の方の「黒と白」って章のタイトルは、自分のいま書いてる文章の仮のタイトル『「黒と白」(原宿)』と一緒なんで特に気になる。どんなことが書いてあるのかまだわからんけど、きゅっと身が引き締まる感じがする。遅くならないうちに、どっちもそのうち読んでみることにしよう。読んでへこもう。
  
 ……文章のほうは今週でようやく100枚こえた感じの進行。週20枚くらいのペースみたいだ。自分で書いてるだけじゃなくて他に読みたい小説とか本もたくさんあるんだけど、書いてる最中はなかなか読むモードに変えられない。困ったよほんと。

 
四角形のフォルム
 高野文子の諸作において見出される扉や窓といった四角形の形態がイメージと取り結ぶ関係を幾つかの具体例に即して見てきた私たちの視線は、その上でさらに、この関係を証明することが可能な別の実例を彼女の作品において探り当てここに列挙していくこともできるだろう。作品集『絶対安全剃刀』にはすでに触れた「田辺のつる」と「方南町経由新宿駅西口京王百貨店前行」の他にも、たとえば「1+1+1=0」における男の子の目の前で開かれる両親の寝室の扉を見出すことが出来るだろう(42頁1コマ目)。目の前で開いてゆき、その奥に見られることになる両親のキスシーンが男の子に新たな啓示をもたらすイメージとは、扉の余白に現われる「田辺つる」の複数のものとして以外はありえないあの姿形や「奥村さんのお茄子」の最後の6ページの描写と同様の、矛盾や否定性をかえりみない場所においてはじめて開かれるポジティブなイメージの、小さくて、しかし決定的な萌芽であるだろう(「そーかあ/キスはぼくの/ひとつっきりしか/ないわけじゃない/んだもんね」42-3)。「ふとん」においては作品冒頭から私たちの前に立つ襖と障子の横長に伸びた四角形が、影絵じみた様相で、そこでのイメージの展開を開始させることを可能にしている(48頁、49頁)。あるいは、「あぜみちロードにセクシーねえちゃん」の少女の部屋から家の前に広がる田園の光景を望むガラス窓(94頁)。
 作家の第二作品集『おともだち』では、「春ノ波止場デ生マレタ鳥ハ」が四角形の形態とイメージとの紐帯を示して説得的であるだろう。今やその施設としての本来の役割をほとんど果たせずにおり、夜ともなれば、「ガス燈のつきはじめた/明るい街角に/ただひとつところだけ/群青色の影を/こしらへる/四角い建物に/なつてしまつて」(筑摩書房版『おともだち』25-6)いるという、主人公である少女の学友が暮らすホテルの四角い外観が、一年ぶりに煌々と明かりを灯し、夜景の中に無数の窓明かりを漏らすことになるまさにその時、学友である少女の姿は、以降主人公の前からふっつりと消えてしまうことになる。ここには、明るいものと暗いもの、白さと黒さという対比にあって、前者が絵として描かれる水準でのイメージや形象を蔽い隠し、あるいは、それらを潜在的な背景の次元に秘めながら、後者においてはじめて、形象の輪郭や肉付きにおける量塊が具象的に照らし出されるという、高野文子的な描画の範例とも思われるものが示されているだろう。それは「田辺のつる」における扉の空白と暗い廊下に佇立する人物との明暗の対比に示されていたところのものでもある。あるいは、同じ「春ノ波止場デ生マレタ鳥ハ」が、物語のクライマックスで少女たちによる歌劇の上演としても示すものであるだろう。客電の落とされた暗闇の講堂にもうけられた舞台は、額縁に収まったかのような長方形の形状によって私たちのこの観劇の場に捉えられている(77頁6コマ目)。この観劇の現場に、題辞を象るかのようにして、歌の歌詞という目には本来映らないものが楽譜と読まれることばによって飾り立てられていることにも注目をしておいてよい。しかしここでは、舞台上で演じられる「青い鳥」の劇が客席の暗闇とスポットライトによる光との戯れの効果を最大限引き出すべく演出されている、そのきわめて高野文子的な描写を確認することが出来るだけで充分なはずだ。
 主題的な形態の同型性とその機能との関係を求めてこの渉猟をさらに続けていくことも出来るが、ここで一旦試みを止めよう。屋上屋を架すたぐいに似てもはや煩瑣に流れることは避けるべきだ(おそらく、上で列挙した窓や扉といった対象に加えて、さらに鏡やシーツ、写真や書物といった高野文子的対象を見出すことが出来るだろうが、それらは別の流れの中で後にあらためて見ることにしよう)。
 ここでひとまず、窓や扉、あるいは弁当箱やホテルの外観といった個別の諸対象がかたちづくる四角形の形象が、作品へと、あるいは作品を読む私たちの経験へと、一体何をもたらしているのか、そのことが確認されておかねばなるまい。輪郭に引かれる線によって四角形の形象がその内側に抱え込む白さの領域が、イメージのスクリーンないし遮蔽幕としての役割を果たしている点については、ここまで幾つかの場面を挙げて必要なだけ見取ってきたと信じる。この点につき、ありうべき疑いを反措定してみよう。弁当箱やホテルの外観はこの際おいておくにしても、ことに窓や扉、劇の舞台といった対象は、そもそもそれ自体が外と内とを隔てながら繋げもする交流の通路として以外ありえないものであるならば、対象のこの即物的で現実的でごく常識的なものでしかない作品での役割を、私たちは不当に、恣意的に、過剰に、ことごとしく言い立て、それをあたかも作品を読む意識が経る不可避の階梯のごときものへと不法に膨張させていはしまいか。扉があるところにはその向こう側とこちら側とを行き来する何者かの存在がつねに予期されているだろうし、窓の向こうの眺めはそれを眺めうるこの場所とは異なる光景をその視界の先にかならず広げているだろう。劇の舞台の上で展開されることを期待されるのは観客席の暗闇では現われることの出来ないイメージの光に包まれた現れであることは当然の事情である。また、テレビのモニタはイメージを映し出すことを機能的な本務とすることも当然のことであるし、特筆してホテルの窓の眺めが描かれるからには、そこに誰かがいるか、いないか、そのいずれかの状況を語るためにもっぱらこれが注目されることになる、そのことも物語における説話的な必然と言ってよいだろう。それらのイメージにおける交流や通行といった事態がたまたま四角形のフォルムとともに現われることになっているのだとしても、そこにはおそらく、現実の窓や扉、弁当箱やテレビのブラウン管といった対象がそのような形状においてあるべきものとしてかたちづくられるに至った歴史的で特殊的な発明や改良の技術史的な背景といったものが見出されるばかりで、それ自体としては高野文子の作品を読む私たちの意識の経験とはまるで別の問題であることも確かだろう。
 ……このもっともな言い分に聞こえる申し立てに対しては二つの仕方で答えることが出来るはずだ。一つの方途は、私たちのここでのイメージに対する選別的な態度の恣意性への批判に対応して、私たちは今まさに正しいイメージを掴みつつある、と主張するだろう。恣意性への嫌疑に対しては、試みの真正さをもって答えなければならない。後に具体的に見ることになるはずだが、イメージがそこを通じて/おいて現われるか消えるかする閾の領域を四角形の形態として一般化し限定することが不可能なことは、たとえば、中野シズカの作品における同種の役割を果たす別種の形態を見ればはっきりと了解することができるだろう。先取り的に触れておけば、そこでのイメージの現われを可能にする特権的な形象は円形の図形として見出されることになるはずである。中野シズカの作品において円の形態のもつ役割が、高野文子においては四角形として働いている。四角形のフォルムがイメージとのあいだで取り結ぶ関係とは、今のところ、高野文子的としか呼びようのない固有の特徴として作品の内部に見出されるはずのものなのだ。何が選ばれ、何において表現のフォルムをもつことになるのかは或る自由の領域で決定されることになるが、というより、私たち読み手にはその決定が下される瞬間もその現場を見ることもけっして出来ないという意味合いにおいて、自由というよりも不可知の暗闇にも似た領域がそこには存在するが、見えないはずのものが見えるものの場所の明るみへと現われ出るその時、作品の紙面と呼ばれる表面の閾を踏み越えて私たちの視線の下へと到達するその時、それは閾のものとは別の、フォルムというもう一つの外皮をまとって、あるいはそのフォルムの外皮を破りさえし、素材そのものとして、この目に見えるものの場所でイメージをかたちづくることになるだろう。高野文子の作品にあってこのイメージそのものの閾、見えるものと見えないものとを連結し、あるいは分離する「イメージの扉」が、「扉のイメージ」として紙面に結実されていることには意味がなければならないのだ。それこそが私たちが作品における真正さと呼ぶものであり、この真正さにおいては、読み手が随意にそこに見たいものだけを見るという恣意的な次元などは欠片も経験されてはおらず、どころかそこでは、不自由さにも酷似した或る受動性や瞳を拘束する暴戻にも似た振る舞いが経験されることになるだろう。
 もろもろの四角形のフォルム群にあってとりわけ特権的な対象をなすように思われた扉の形象は、作品へと誘われる私たちの視線を真っ先に受け止める、一つの閾の役割を果たす。そしてその誘いにしたがい私たちの文章も確かにそこから始まったわけだが、それに対する異議へのもう一つの答えもまたここにおいて見出されるだろう。一つ目の嫌疑が試みに対する恣意性を問うていたならば、二つ目のそれは同じ試みに対する過剰や行き過ぎ、収集される主題的な案件における不法やそのフェティッシュじみて膨張した対象へと注がれる私たちの眼差しそのものに向けられるだろう。その疑いに対しては、私たちはいまだ作品における真正さを掴みつつあるだけである、と答えることになる。文字通り、私たちの歩みは今ようやく四角形の扉の前へと至ったばかりなのだ。そこにおいて試みの過剰や行き過ぎを見て取ることは、その者がいまだなお、事態が導く道程の描く網目状の模様の一端をしか見て取れてはいないことを証立てる逆証言となるだろう。私たちは扉や窓といったかたちで高野作品の内部で様々に姿を変えながら現われている四角形の形象を一般化し、それに適切な意味を与え、いつでも同定可能な位置に据え置き、そこに統合的な解釈をほどこそうとしているわけではない。私たちが狙うものはそれとは正反対のことだ。一般的な了解可能性に対しては作家の不敵な創意を、意味に対してはもはや厄払い不可能な執着を、測定を可能にする同定作業に対してはそれ自体が波打ち際の破線として動揺しつづける不埒な島嶼の地図を、解釈に対してはそれから逸れていく移動と信号の多方向的なやりとりを、それぞれに充てる。私たちの前には、いずれに進むことになるにしても、すでに複数の扉しかなかった。私たちの追うすべてイメージはこの四角形の影をくぐった先に見えることになるだろう。ここが扉だ、ここをくぐれ。

 ……これまでの記述によって次に進むべき幾つかの道筋がすでにおぼろげに見え始めているだろう。四角形の形態を見つめてきた瞳はそこに新たに見つめるべき対象の幾つかを見出しつつある。それとは異なる水準では、イメージに対する新たな反省が生じるべき余地も見出されつつある。ここで私たちの目を惹く新たな対象の一つとは作品において衣類の形象として現われているところのものである。布ないし着衣といった物品に目を向けるにあたって、まずは作品内でこの対象がここまで見てきた四角形の図形と交わる場面を見ておき、以後布が次の連関へと赴いていくその起点となる場所を確認しておくことにしよう。

 ……以上、第3節分に書いたもの。次の節は高野作品における布の主題を実作にそって見取るために、おもに「うらがえしの黒い猫」を読んでいくという流れになってる。