喉をすっきりさせてくれ、あるいは、「俺に叫ばせろ!」

 今週は荒木飛呂彦の「ジョジョリオン」の1巻と西尾維新ジョジョ小説を読んだ。来年はジョジョ25周年らしく、いろいろと盛り上がってるみたいだ(小説の方読み終えたらディオ関連のことをちょっと確認したくなって6部をぱらぱらと流し読みしてたら、例のケープ・カナベラルの戦いで宇宙が一巡するのが2012年の3月って設定だったね)。雑誌連載の方は追っかけてないから今回初めて「ジョジョリオン」読んだんだけど、面白さはこれまでの作品といっしょで抜群の安定感だった。今後の展開がたのしみだ。すきっ歯の主人公かっこいいし、新スタンドの「ソフト&ウェット」もかっこいい。人物の頭身がちょっと縮んだ?って印象もある(日本が舞台だからだろか)。小説の方は作者が丁寧に原作を読んでる感じがして好感をもった。ディオ目線に仮託した作品評論、みたいな趣きが強い。これまで読んだジョジョのノベライズと比べちゃうとちょっと物足りない感じもあるけど(スタンドバトル読んでみたかった)、充分おもしろいと思う。強いて注文すれば、表紙のディオが黒地に白抜きのデザインになってて、これめちゃくちゃかっこいいんだけど、絵としてはとても見づらいものになっちゃってるのが残念に思った。もったいない。本文の前のカラー画がよく描けてるだけに、それに負けない水準で再現してもらいたかった。ディオの持ってた黒皮の手帳って感じを再現したデザインの装丁になってるんだろうけど、同じ絵の反転前の線画でいいから本のどっかのページに差し込んどいてくれたらよかったのにね。……そして原作の6部を読み返して再確認したけど、F.F対プッチ神父のくだりは何度読んでも震えるね。泣ける。ジョジョ全篇を通じて個人的にベストマッチだわ。次点でリゾット・ネェロ対ドッピオが続いて、あとはぱっとすぐに出てこない感じなんだけど、ディエゴ対大統領とか重ちー対吉良吉影ブチャラティディアボロ戦なんかが印象深い。こうして挙げてくと、要するに敗れ去ってく者がかっこよく描かれてる感じのスタンドバトルが大好きなんだなってあらためて気づいたよ。完全に敗北者の側に感情移入して読んでる感じがある。こころの病か。敗けて死ね。

 ……今週よく聴いた音楽。AC/DC熱がちょっとおさまったところでこんな動画見っけた。DJ COOLという人の「Let Me Clear My Throat」って原曲のリミックスで、DJ LBRって人の「Let Me Clear My Funk」って曲。どっちも知らん人。

 これはホントくそみたいに元気出る。敗けて死にそうになってる人にうってつけの曲だ。早口でまくしたてるみたいな感じが凄まじい。「レッミークリマットッ!」ってところの発声が震えるほどかっこいい。「スロート」じゃなくて、口の中で音節を極限まで圧縮した「ットッ!」。日本語だろうと英語だろうとどの言語の表記法によっても書記不可能な発声。英語の歌詞わかんないけど聴きながらいっしょに叫んでるとわけのわからん興奮を覚える。次から次へと運ばれる言語を歯で噛みちぎりながらひっきりなしにそこら中にベッて吐き出しつづけるみたいな、言い知れぬ快感が走るね。楽曲全篇つうじて全身の筋肉がリズムといっしょにがくんがくん振動する感じがあるけど、やっぱ歯とか舌とかいった口の筋肉感覚がいちばん刺激される。ドゥルーズルイス・キャロルのひそみにならって口唇的セリーの二つの異質な線を「食用可能なものと語の意義することができるもの」みたいに見事に分節してみせたけど、DJ COOLのこの散弾銃みたいに連発される発声には、そうじゃない例外的なケースがいつでも実現可能なことが証明されてるような気がする。アーティストとか表現者はこんなふうに理論の例外をやすやすと生きて、表現して、現実を、食用可能な言語を盛りだくさんにしたお皿の並ぶ豪勢な食卓に変えてしまうってことじゃないだろうか。噛んで、食いちぎって、舌の上でさんざん転がして、思い切って飲み込むが吐き出されるかする、口いっぱいにほおばられる語のミックス。Make so noiseですよ。メーン。

 ……文章はといえば160枚にすこし届かなかったくらいの進行。10節目に入ったとこまで。年内で第一章を終えるのは無理っぽかった。もうちょっとつづく。もうちょっとつづくんじゃよ。
 以下、第6節分。前に順不同で上げておいた5節からつづく文章で、特に注目して取り上げてる作品はない文章。この直後の節も少しだけ同様の主旨の記述がつづいて、その後8節以降の論述の準備といった感じの体裁になってる。


見えないものの四つのステータス

 ここまで私たちは、マンガという目に見えるものの境位において経験される作品のその実在の可能性が紙面に広がる目には見えないものの余白によりその確固とした根拠を喪失するかにも見える瞬間を高野文子の描く諸作から場面を選んで取り上げてきたが、目に見えるものの充実の内部に穿たれるこの見えないものの真っさらな広がりを、ある不可能なものの(反)実現のごとき事態として了解することはしない。逆にそれを、作品において見えるものを可能にする欠くことのできないポジティブな条件であると考える。見えないものがまさにその故に見えないものとなっている、その理由を、表現の外見上の否定辞(見え「ない」)をいっさい考慮に入れずに考えることが出来るし、出来なければならない。見えないものの四種の身分といったものを考えてみよう。
 1)描かれていないから見えないのではなく、見えないものとして、見えないものにおいて、それだけにいっそう、描かれるもの。絵の支持材としての紙の表面の露呈。ここに至る記述の過程で少しく見てきた扉や窓、弁当箱の底やカーテン、シーツ類といった四角形の形態を有する諸対象が私たちに向けるその側面において白紙の広がりを示してきたところのもの。原稿用紙に引かれる線はこの余白を表現の成果として産出するが、より正確に言うならば、一本の線はこの余白とともに描写を遂行するために、婚姻的な関係をそこに形成するために、それを目指して輪郭線を描く。未着手の余白の白さは白さとしてすでに、線の連なりや重なりが行使する描写による何らかの対象の指示の一部をなしている。ここでは「見えないもの」とは「見ることが出来ないもの」という不可能性において了解されるのではなく、紙の白さという物質的な所与と描写によるイメージの実現という現実態との混成としてあり、その双対的な言明の形式は「見ることの出来ないもの」に対する「見ることの可能なもの」ではなく、「見ずに済ますことの出来ないもの」に対する「見ずにおくことの可能なもの」となるだろう。「見えないもの」とは可能や不可能といった様相的な観点から照明されるものではまったくなく、あるいはそれを必然性と偶然性との関係から付随的、二次的に把握することも可能ではあるが、本質的には「見えないもの」=「見ずにおくことの出来ないもの」とは、それがすでに見られてしまっているがために「見ることも見ないことも出来た」という自由な裁量や選択の可能性そのものの蒸発してしまった場に煙のように立ちこめる充実さの霊気のようなものとしてすでに現われており、そのような理解から、私たちはこの「見えないもの」の外観的な言明方式を定義しなおすにあたって、行為の可能的な「見る」+否定辞「ない」により不可能性において把握するよりも、むしろその可能性と不可能性とのあいだの癒合関係そのものを分離するより大きな分岐において捉えなおすことになる。「見えないもの」における否定辞「ない」の機能とは、そこで見ることが出来たり出来なかったりすることを問題とするのではなく、そのような様相的な言明の様式そのものを分離の対象とする。「見えないもの」の圏域をかたちづくるものは二項対立的な反対項どうしの組み合わせではない。つまり、紙の現実において「見えないもの」とは、可能的に「見えるもの」に対して反立するのではないし、あるいは逆に、現実的に「見えないもの」は可能的に「見えないもの」と(少なくとも二次的には)矛盾なく重なり合い、同じ姿のものとしてこれと合同することもできる。「見えないもの」の行使する分離は可能態に対してはいっさい無関与でありつづけるが、より上位からの分割を可能態そのものに対して投げかけてつづけてもいる。私たちには、「見えないもの」がイメージの平面に向けて放つこの効果こそが作品の経験においてもっとも重要なものであるように思われた。イメージにおいて紙の上に描かれる個別の形象を超えて、それは紙そのものの経験とじかに接続するように思われた。四角形が内容としての個別の諸形象を描く特権的なフォルムとして見られると同時に、紙そのものの表現的なエンブレムとしても読み取られねばならない理由はそこにあった。また、見えないものが紙の上に広げるその四角形の余白が、見えないものの諸状態すべてに関する理想的な範例でなければならない理由もここにある。見えないものの個別のタイプもまた、四つのタイプのひとつとしてここに数え上げた、このもっとも「見えないもの」としての「見えないもの」にすべての可能的な振る舞いを依拠することになるだろう。その意味で、見えないものの第一のタイプとしてまずここに挙げた「見えないもの」は、併置される同グループにあって、グループそのものを代表し、条件づけるものとして見られねばならない。すべてはこの「見えないもの」の加護のもとにあって見られることになるだろう。それは紙の上で展開するイメージである限りの、作品の経験の、アルファでありオメガである。
 2)隠されているもの、あるいは、見ることを阻害するもの。見えるものとしてありながら見えることがそこで制止されていることを描くもの。イメージの対象の裏側に見えるものであり、同じ対象のこちら側によって隠されているもの。「見えないもの」の第二のカテゴリーはこのような「隠されているもの」のタイプとして挙げることができるだろう。もっとも見えないものとしての第一の「見えないもの」が紙とイメージとのあいだを分節する境界線上に視線の条件を設立するとするならば、「隠されたもの」はこの紙-イメージ、余白-線、背景-図像の混合に対して従属的な地位にあって、イメージと線と形象における描写対象の側におのれに固有の経験を享受することになる。対象として見えるもののイメージにおける現われが眼目となるこの水準では、「見えないもの」の紙の上での配分において無差別的であった描写可能なものと不可能なものとの差別が、この「隠されたもの」の提示においてはじめて顕在化されることが出来るだろう。「見えないもの」が「見ずにおくことのないもの」として読み替えられたように、「隠されたもの」は単純に「見えない」のではなく、「部分を現わしたもの」または「片面において見られるもの」として定義しなおされることになる。それは本質的には、見ることの不可能というネガティブな規定に関わるのではなく、部分と全体、諸要素と全貌、側面と別の側面、等々といった連続性および分量的なカテゴリーのもとにおいて了解されるべきものであるように思われる。私たちはこの後に高野文子三好銀の作品に現われる「鏡」の主題を取り上げることになるはずであるが、そこで反省されることになるものこそが、この「隠されているもの」としての見えないものの様態となるだろう。
 3)錯視、見かけのもの、不可避的に見誤られるもの。まったく見えるものの充実のうちに描かれながら、見えるもののその姿においてまさに見えていないものとして描かれるもの。見えないものの第三のタイプとして特徴づけられるこの「見誤られるもの」は対象における実在性の肯定と否定の配分に関わるものであるように思われる。上記の「隠されるもの」が部分の外の部分との関係性においてひとつの形象とその複数のイメージの側面を配慮しているところに、「見誤られるもの」は、端的に複数の対象のイメージを配慮すべきものとして、自身の作る水準に、暗黙裡に、描写の指示の次元での真偽のテストを導入するだろう。そこからは、模倣や分身、幽霊や双生児、本物と偽ものといった増殖する対象のかたちづくる一群のテーマが派生することになるはずだ。そこでは、複数化し、分身を産み出す対象の中から肯定されるべき正しいイメージを選び、排除されるべき誤ったイメージを否定すること、適切なイメージの分節を行うことが、想像力に課される主要な務めとなる。「見えないもの」としての「見誤られるもの」は、『正しい対象が見え「ない」』という不可能性の水準を通過すると同時に、しかしその機能の本分はそこで留まることでなく、「摸造されたものをも見ること」、「対象を複数のもののもとに見ること」という積極的な見る可能性にこそあるだろう。その意味で、「見誤られるもの」に反対するものは「正しく見抜くこと」ないし「真実を見ること」ではない。イメージの複数性とその選択の結果の判定(正しいイメージを選ぶこと)は、まさにそのことが問題となっている時ですら、それ自体としては、「見誤られるもの」のもつ固有の課題にとって二次的である。「見誤られるもの」に真に反立するものとは、ひとつのイメージしか見ないこと、イメージの限定によって瞳の運動を封鎖すること、複数性を排除すること、つまり、偽のイメージや分身するイメージに出会う可能性を視線からあらかじめ抹消すること、それに尽きるだろう。「田辺のつる」において見られた扉の背後の複数化するイメージや、「奥村さんのお茄子」における弁当箱の影の茄子漬けの実在の判定といった事例を思い出してみるべきだ。「見誤ること」とは見えないもののポジティブな一様態であることを銘記しておかなければならない。
 4)見ることの放棄、目を背けること、瞳と対象との斥力における関係。襲いかかる表象。見えないものの第四のタイプとして最後に見出されるものは、そのような「見るに堪えないもの」、「見るに見かねるもの」、「見てはいけないもの」としてイメージの場に現われるだろう。それは対象の描くイメージと見る主体との関係性の水準をこの場にもたらすように思われる。対象が表象可能なものである時、瞳はその表象を拒む。同じ対象が表象不可能なものとして認知される時、瞳はそこに表象の空白をのみ見出す、あるいは、拒まれた表象を見る。イメージはこの不可能の場所を通過する。通過する、留まることではなく、通過し、不可能性とはまったく異質の場所へと至る。重要なのは、この不可能性へのデタッチメントを刻む移行の局面である。もっぱら対象のイメージにかかっていた上記二種の「見えないもの」(「隠されたもの」、「見間違えられるもの」)の比重は、ここで、見ることの行使の側面にも等分の重量を加えるように見える。「見かねるもの」の性格は遇有的な場の状況や見る主体の側の付随的でアフェクティブな状態に大きく依拠する。それは相関項としての主体の状態を欠くことの出来ないものとしている。見ることを可能にする愛や憎悪、恐怖や快楽、快適さ、無関心から強い執着といった様々な遷移可能な主体の状態を考えることが出来るだろう。同じ可能性が何かを見ないということをも規定している。つまり、「見かねるもの」の反対は「見入ること」や「そこに目が惹かれるもの」ではない。両者は同じものの別の側に向けられた双対的なひとつの顔である。「見かねるもの」の正体をイメージにおいて炙り出す分割は、主体の様々なアフェクションによって潤色されてある見ることの欲望としての「見かねるもの」と、見えているにもかかわらず見えている事実を喚起しない見ることの惰性態としての在り方、いわば「見くびる」ことや「見ずに済ます」こと、「流し見る」こととのあいだに反立の線を書き込むだろう。「見るに見かねるもの」は見ることの不可能性を通過する以前に、(それが潜在的なものであれ)すでにあらかじめ遂行された見ることの帰結が、行為の事後に反動して視線を斥けるという、「見たくないもの」としての性格をかたちづくる。この「見たくないもの」の効果が、単純に「見えないもの」の不可能性とはまったく無縁なものとしてあり、欲望における任意の威力としてポジティブな実効性のうちに視線を規定していることは言うまでもないだろう。見えないものの第四のタイプとしての「見かねるもの」は、イメージの充実のうちに主体の瞳を対象との力学的な関係性のうち引き入れることになる。

 ──以上の概観によって見えないものが対象と見ることとの関係によってかたちづくる諸カテゴリーをひととおり網羅したと信じよう。見えないものとしての「隠されたもの」が対象の表面でおのれ自身の側面や部分を分割することにより産み出す分量的なイメージの可視性。「見誤られたもの」が対象の実在における真偽の判定を通じて見出すことになる性質的なイメージの指示。同様に、見えないものとしての「見るに見かねるもの」が主体の側における状態を配慮することによって分割する関係的なイメージの連絡性。私たちは見えないもののイメージにおける分量、性質、関係のそれぞれから構成されるカテゴリー表をこうして作成することが出来るが、可能性や現実性といった様相的な項目が埋めるべき欄には、第一のタイプとして真っ先に挙げておいた「見えないもの」を置くべきなのであろうか。答えは、そうであるとも言えるし、そうではないとも言える。見えないものの四種の身分をカテゴリーとして組むにあたっては、「見えないもの」はそれ以外の三つのタイプと同じ位格にある別の資格のものとして相互に並び立つことが出来る。「隠されるもの」が分量を、「見間違えられるもの」が品質を、「見かねるもの」が関係性を、それぞれに固有の資格において示すところで、同様に「見えないもの」は、様相的な関係を可能や不可能、現実性や必然性といったもろもろの振る舞いの中に逐一可視化していくことが出来る。その資格において「見えないもの」はカテゴリー表の空欄を埋める欠くことのできない一要素として図表の全体を補い、完成させる。しかし、「見えないもの」がそうして構成要素のひとつの地位にうまく収まってしまうとき、逆説的ながら、この企ての全体図はうまく収まらないことになる。見ることが突き当たる可能性や不可能性としての見えないものをカテゴリーの一要素としてのこの「見えないもの」のもとに集約させてしまえば、自余の三つのカテゴリーそのものの設置がまったくの不要のものとなるだろう。「見えないものの四つのスタータス」としてわざわざ言挙げしているように、私たちの観点からは、見えるものにおける可能なものと不可能なものとの分割を刻む線は集められたカテゴリーのすべてを貫く一種のスティグマのごときものとして機能しており、それを基準に、ここにおける収集と識別と分類と測定のすべてが行われている。確かに、「隠されたもの」は半面を現わしながら、同時に残りの半面を見せない不可能なイメージであり、「見誤られたもの」も見えているその姿において人目を欺く不可能なイメージであり、「見るに見かねるもの」もまた、瞳を斥けて対象との出会いを阻む不可能なイメージである。不可能性はすべての要素の算出のためのデータであり、通行所のパスであり、またそれぞれをそれぞれのあるべき場所へと割り当てるために利用可能な抽送のチューブである。見えないものの諸状態のひとつとしての様態における「見えないもの」が可能性や不可能性をおのれのもとにことごとく吸着しきってしまえば、カテゴリー全体の骨組みが流産してしまう。何もかもが同じひとつの「見えないもの」に巻き込まれてしまい、イメージの識別そのものが不可能になるだろう。問題は構成物の全体とその要素の関係に関わっており、条件の循環的な移動に関わっている。それが存在しなければ構成の条件が満たされず、と同時に、それが存在するからには条件の付加が致命的に余計なものとなる、そのような「それ」が存在するか。不足と余分とを同時に実現する不可能な要素は存在するのか。存在すると答えることが可能であるし、問題も回避可能なものであるはずだ。それを回避するためには(あるいはそのような事態が現実には生じていないからにはそれは回避されているが)、「見えないもの」は様相性の欄を埋めるべき一項目として存在しながら、それは同時に、カテゴリーの枠組みそのものの設立を可能にする条件の位格に実在していなければならない。すべて不可能なものは、その小さな差異を証する個別の不可能のしるしを、この大差異としての「見えないもの」に譲渡しなければならない。そして、帰還し、戴冠したものとしてのこの「見えないもの」が秘密に行使する全力能が、今や不可能なものではなく完全にポジティブなものとなった白紙の全効力を、四つのカテゴリーすべてにわたって余白の広がりに示現することになるだろう。個別の見えないものたちが見えるものをそれぞれの局面で可能にするように、見えないものの中の「見えないもの」は、それら個別の見えないものたち自体の可能を条件づけ、紙の上に現われるものの全局面をも可能にするもっとも広大かつ微細、もっとも軽捷かつ不動、もっとも隠されていると同時にもっとも露わにされてもいる、条件の中の条件である。「見えないもの」とは、イメージの現われと消失とに深く関与する「パラドックス的な審級」*1として機能するものと言えるだろう。

*1:ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』参照。