マリオ・ペルニオーラ『無機的なもののセックス・アピール』

 アガンベンの『裸性』に続く平凡社「イタリア現代思想」シリーズの2冊目(ジャンニ・ヴァッティモという著者の『透明なる社会』という本が同シリーズの3冊目として先日刊行されてるらしい。そっちも読んでみたい)。名前を聞いたこともなかった著者の本だったけど刺激的でとてもおもしろかった。おもしろかったんだけど、哲学とか思想の本は難しすぎて細かなところでいろいろとついていけない箇所が多いのが残念に思う。カントとかヘーゲルなんかも込みで現代思想にかんする基礎的な素養をひととおり身につけてる人が読むとさらに深くここでの考察に踏みこんでいけるんだろなあ、と羨ましく感じる。なんで、例に漏れず今回もまた読んでいて理解できたような気がした箇所にかぎってそれなりのあやふやな感想を述べることしかできない。(この手の本の感想を書くさいには毎回こんなような腰の引けた前口上を述べてるような気がして、さすがにわれながらうんざりする。仕方ないんだけど。まだ実物を読んでない人がこの文章を読んで概要程度でも内容を掴んだと思ってしまったらそれは大間違いで、現物はもっとずっとおもしろいしビカビカに冴えてますよ。しかしさらに最悪なのは、ここに書いてある文章を読んで実物を手に取る必要なしって判断されてしまう場合だ。それはほんとうにまずい。とにかくいっぺん本屋で実際に自分の目を通してみるか、もっと信頼性の高い書き手によるブログなりサイトなりを覗いてみた上で判断してほしいものです。つまり言いたいのは、わたしの書く言葉を信用するな!ってことです。以上エクスキューズまで)。
 マリオ・ペルニオーラはベンヤミンの『パサージュ論』の一節からパラフレーズして借用された「無機的なもののセックス・アピール」というフレーズによって、人間存在の事実的な「モノ」性を簡潔に再確認しながら、無限に連なるこのモノたちの繋がり(いっそ「交接」といっても構わないかもしれないような繋がり、折り重なり)の諸相において現代世界を荒野的な色調のもとで潤色するさまざまな局面をセクシュアリティの観点から捉えなおしつつ、足早に跋渉するようにしてそれら諸領域を通過していく。人間を端的なモノであるとするようなラディカルな着想は西洋思想史において計り知れない困難をともなうものであるという事実がここでの個別の論考からははっきりとうかがえるようにも思われ、プラトンアリストテレスギリシャ哲学からデカルトやカント、ヘーゲルといった近代哲学の経験を経てハイデガーサルトルらの現代哲学に至るまで、モノはその近傍をぎりぎりにかすめながらそれらの思考の辿る推移のなかで最終的にはつねに抑圧や切除や遮蔽の対象として哲学やセクシュアリティの開く視界から遮られてきたまったくの余計もの、厄介な余剰のようなものとして扱われてきたという傍系的な過程が、ペルニオーラのここでの論考の背景として描かれているようにも思う。(ヘーゲルの感覚論における直接的な意識の対象である即自的なモノの存在様態だったり、ハイデガー哲学において核心部分に据えられた存在のモノ性だったり、カントの実践哲学における物自体のステータスだったり、あるいはサドの描く儀式のなかでの匿名的なエネルギーの発現だったりするものは、そこに巻き込まれてあるものをほとんどモノそのもの境地へと至らしめる重大なきっかけとなりかけながらも、最終的には彼ら論者たち自身によってモノとして破棄されるか忘却されるかされる運命を辿ることになる。ペルニオーラのここでの論述を追えば、おそらくストア派だけが中性的であらゆる人間主義的な利害関心から解放されているモノのセクシュアルな可能性といったものを汲むことができたとみなされているんだろうけど、ともあれ著者は、それら遺棄され切り捨てられたモノの広がりの萌芽のような契機をそれぞれの文脈において逐一丹念に拾い上げてみせる)。
 ペルニオーラのいうモノとは主体に対する客体のことではないし、精神に対する身体でもなく、デカルト的な知性(思考するモノ)に対する機械(運動するモノ)のことでもないし、あるいは生に対する死や死体の存在とも異なるものだ。それはひとまず「感覚するモノ」と呼ばれることになるものだけど、そこからすら、その人間主義的ニュアンスを最大限引き抜いた上ではじめてそうと呼称されるべき暫定的な指示であるようにも思われ、なお人間という語彙を使わなければならないかぎりで、人間がセクシュアリティの形づくる不定形の連関におけるその巻き込まれのなかで「感覚される」べきモノの資格においてはじめて参入しうるような、そのような非主体的、非主観的、非人間的な無機性、ニュートラルな無関心性、欲望の差異も男女の性差も、あるいは美醜、魂と肉、能動と受動、支配や隷属、見ることや見られることといった、それらいっさいの経験主義的で弁別的な特性無しに浮かび上がる、ある仄暗い質料の宇宙的な実質をなすものだとされている。モノとはそのようにして、人間主義的なあらゆる二分法の折り目から、折り畳まれた襞の広がりにおいて現れてくる抽象的普遍性を指示するものだという。稚拙な例えで勘弁してほしいけど、たとえば一枚の紙を二つ折りに畳むと向かい合う二つの紙の面が出来上がるわけで、二項対立や二分法といったものは、この一枚の紙の折り畳まれた重なり合う両面みたいなものであるだろう。それらは人間的な思考の抽象によって形づくられる偽りの対立的フォルムとして現実的には存在しないものだ、とはいえない。むしろ逆で、そのような人間的な手作業的操作の介入によってはじめて、紙の重なり合う二枚の面という明瞭な区分を持つそれぞれのフォルムが生じてくるのだし、人間の宿る内在的区分に話を戻せば、魂と身体、知性と運動や延長、生と死、欲望と欠如、のようなあらゆる対立的領域の区分けが、それぞれに照応する具体的で実質的な参照先を保証されているということになるんじゃないだろうか。ペルニオーラの議論におけるもっとも刺激的で、かつ問題含みであるようにも思われる点はこういうところによく現れているように感じる。ヘーゲルはもちろん、鬼面人をおどろかすような発言が多い気がするジジェクみたいな人ですら、具体的普遍性に対する抽象的普遍性の優位なんてことをかつて一度たりとも主張することなどなかったんじゃないか、とか思う。(……ヘーゲルジジェクに関しても実はまったく事情は分かってないけど、なんとなくそう思うってことで)。紙の谷折りされた折り目、二枚の面に挟まれた窪み、畳み込まれた縁、そのような反存在的で、厳密にはその具体的な実質を名指すことも指差すこともできないような抽象的な襞の織り成す次元が、世界における先在的な事実性としてモノによる人間以前の占拠をすでに完了してしまっている、ということじゃないかと思う(ペルニオーラの叙述の進行の中では、現代のこの「ポスト・ヒューマン」の時代においてこそモノのそのような即物的で全面的な世界への開示が完遂され誰の目にも明白な事態として浮上することになる、という順序を踏んでるわけだけど、権利的な問題の構成としては、モノの宿る宇宙論的な外在性の次元こそが「人間としての人間」の歴史以前にとっての一種の不可能な起源として先行している、という理解で正しいんだと思う。不可能な起源とはここでは、モノを抑圧した上で成立している「人間」にとっての問題であるだけで、「感覚するモノ」としての存在にとってはいかなる意味でも不可能が介入する余地はないものであるようにも思う。そのような訳合いから、基本的にはペルニオーラの議論には否定性が本質的な関わりをもつことがないのだとも思う。個別の箇所によっては曖昧な記述もときどき見られるんだけど、空虚よりは充実、二元論ではなく一元論、欠乏よりも満足以後、不可能性よりも使用可能性、といった肯定性のもろもろの線に沿いながら議論が尽くされているように感じる)。
 畳んだ紙とは自分の関心に引き寄せた卑近で分かり易すぎる例えだったけど、実はペルニオーラのここでの議論に即してあながち見当外れってわけでもないように思っている。つまり、モノとは剥き出しの裸の肉体ではなく衣服である、というようなことをペルニオーラは何度も繰り返し念押ししている。衣服、それも「属するものなき衣服」というフレーズによってペルニオーラがいおうとしているのは、たとえばデカルト的な心身二元論的な思考のスタイルが秘かにそれに拠って立つことになるような人間の生に内在的な諸層における偽りの分割を拒否しつつ、そのような心身を包括する生(/死)そのものからの根底的な離反と、そこからの転回や再開をモノに固有の資格において可能にする中性的なセクシュアリティと哲学との新たな邂逅の次元を指し示すことにあるのだろう。身体をまとう死んだ事物としての衣服ではなく、あくまで「属するものなき衣服」、いかなる主体に属するものでもない衣服、むしろより正確を期するならば「属するものなき衣服」としての恋人たちの身体の重なり合い、海面にひっきりなしに皺を寄せては襞を広げる波間の渦中の終わることのない複数の運動、あるいはその認識不可能な移ろいの連続、折り目や窪みの更新、相互に浸透を繰り返す陥没と挿入の連続、果てることのない、オルガスムなき性的魅了の持続(《性のプラトー》)、そのような原因も目的もそれらを担う主体も対象すらも欠いた、ひたすら質料だけから生成される感覚の入り江、または汽水流域のような地帯で発生している沈黙の運動、そんなような容易には名指し難いものを呼び出すためにこそ一種のアレゴリーとしてここで簡潔に、「属するものなき衣服」というようなフレーズが呟かれているだろう。方向性とも意味の次元とも無縁の本質的に複数のものである非決定的で多孔的な存在たちによる、中性的セクシュアリティという触覚的な磁場における相互浸透的で無機的な混淆状態、そのような何かが「属するものなき衣服」の重なり合いの場において垣間見られることになる。そこにたとえば、先日読んだばかりの同じ叢書のアガンベンによる『裸性』での議論を思い出させるところもある(イタリアでの『裸性』の出版は2009年、『無機的なもののセックス・アピール』は1994年となってる。ちなみに訳者の岡田温司さんのあとがきによれば、《一九六〇年代、二人が比較的親しくしていた》という事実は双方の口から確認されているという)。美やセクシュアリティという主題を哲学的試論の課題に据えているこの両論者がともに、問題に固有の領域で起源とされる場の再現不可能性の質を剥き出しの「裸性」という事態において捉え、同時にその裸の透明的な様態への抗い難い誘引力を認めつつ、しかしその場から決然と身を翻して仮象の輝きへと眼差しを向ける――、そんな具合にいっしょくたに要約することはできるものだろうか? アガンベンにかんしてはそんなふうに言うこともできなくはない、という気がする。美や眼差しの欲望の魅力に十分自覚的な美学者として、あるいは対象の不可能性とアナクロニズム的時間性の不可避性とからなる時間構造の混合に熟知している哲学者として、アガンベンをそんなふうに認めることもできなくはないだろうって気がする。ただし、ペルニオーラにかんしてはおそらくそうは言えない。この人は美とか快というものの影響力をおそらく自身の感受性においてほとんど感じてはいない、という気がするし、欠如から兆すすような欲望の働きにもほとんど無頓着そのものといっていいような態度を取るという気もするし、何よりはっきりと断定できるのは、この本の論述の中では逆説的な時間性なんかはまったくといっていいほどかえりみられることがないという点だ。それはさっきもちょっと触れたように、不可能な何か不在であるような対象といったものがモノの次元にはどこにもないって点にかかわっているからなのかもしれない。弁証法的なものであれ、非弁証法的であれ、否定性の契機が恐ろしいほど希薄であり、時間性にかんしていえば、過去の非在性みたいなものが決定的に欠如している。つまり欠如が欠如している。たとえばヘーゲルに寄り添いながら、「これではないもの」という標題のもとでモノの「非決定性」という特質を説いている一章があるんだけど(13章《ヘーゲルと「これではないもの」としてのモノ》)、そこで「感覚するモノ」としての存在同士の交流において通過していくモノたちは「あれであるか、あるいはこれであるか」という矛盾律による決定に背きながら次々に止むことなく移ろいつづけていくことを強いられるとされるわけだけど、それら通過する対象は過去の層に積み重なっていくということがないものとされている。感覚するモノにおいて感覚されるモノとして受け取られ、あるいは逆に感覚されるモノに対し感覚するモノとして差し出されるモノたちの相互浸透的な授受の移行は時間的な過程を経ることなく、何からも差し引かれず、何かへと積み重ねられることもないまま、ただただひたすら空間を横滑りしながら通過していくだけの無時間的経験の充実として現われている。未だ到来しない未来の時間はもちろん、すでに過ぎ去った過去の時間すらがそこにはない。モノは「さらに」と沈黙のうちに要望を発しながら、「一挙に全体」をつねにすでに実現しているものとしてのみ姿を現わす。たとえば『時間の前で』でのディディ=ユベルマンのように、「あれでもあり、これでもある」という重層決定的な仕方で矛盾律を反故にするという仕方ならよく理解できるけれど、ペルニオーラは「あれでもなく、これでもなく」という非決定によって同じ問題に対処している。それは文法的には間違いなく否定形を用いた言明ではあるんだけど、「あれでもあり、これでもある」が不定の時間の中のある点でその要求を止めることが原理的に可能なような具合には表現されていない。そのような要求を停止する機会をあらかじめ放棄した、この上なく狡猾で陰険な、貪婪そのものの肯定の要望でもあるようにも感じる。そのようにして、「あれでもなく、これでもない」の前にはオルガスムなき無限の移ろいだけが要望されているんじゃないだろうか。もちろんそこには過去が背後に控えることも未来が前途に待機することもないだろう。それは、そんなことを口外するような哲学的存在といったものは、相当に厄介なものなんじゃないだろうか。この人に比べてしまえば、アガンベンはもちろんのこと、個人的にすごく感銘を受けたし途轍もなく偉大な作家だと痛感した『映画を見に行く普通の男』のジャン・ルイシェフェールでさえ、すごくナイーヴで神経質な人間に見えてきてしまうという気がする。哲学的エッセイといった小さな趣きをもつこの本は、しかし、マリオ・ペルニオーラという思想家の一筋縄ではいかない本質が否が応でもうかがえるような、その外観のコンパクトさと内実とがいびつに背馳したある種奇怪な書物であるようにも思う。

マヌエル・プイグ『リタ・ヘイワースの背信』

 マヌエル・プイグは『蜘蛛女のキス』で有名なような気がするけど作品を実際に読んでみたのは今回がはじめて。今週はその彼の『リタ・ヘイワース背信』という小説を読んで一週間すごした。具体的にどこがどうとは言えないんだけど、わりかしおもしろい小説だった。1930年代から40年代にかけてのアルゼンチンの片田舎を舞台に、ある少年の家族と彼らの周辺の人物たちの行状や思念を星座のように緩やかに繋ぎとめながら断章形式で散りばめた挿話群、といった趣きの長篇作品。全2部、13章からなる各回のエピソードは、対話劇や作文、備忘録、日記、手紙、投書といったそれぞれに異なる趣向をもった説話の形態によって仮構されており、小説作品に対する作家の多彩で明瞭な言語意識がよくうかがえるような楽しい作りになっている。その先鋭的な言葉の構築性のもとで、思春期の青年たちを捉える泥臭い性的な感覚だとか貧困な状況にある生活者たちを追い詰める暮らしの窮迫ぶりなんかが孤独のうちに掬い取られていって、それぞれの挿話に描かれる情景をきらきらと小さく瞬かせていく、といった感じ。言語の造形性に対するモダニズム的な作者のセンスとそこに描かれる話柄の地べたを這い回って取り集められたモチーフとのギャップがおもしろい。ちょっと前に読んだコルタサルといい、アルゼンチンの作家にはオーソドックスなリアリズムのようなものからかけ離れた作風の作品が多いのかなあとか思うけど、自分の手に取った数少ない作品がたまたまそうだっただけなのかもしれないし、そのあたりはよくわからない。おもしろきゃなんでもいいんだけど、これからはちょっと意識してアルゼンチンの作家の小説を探してみようかなあと思った。(そういやタイトルになってる「リタ・ヘイワース背信」が何を指してのことなのか、ちょっとはっきりとは理解できなかった。まあ読んでいてなんとなく心当たりのある箇所もあったんだけど)。

 先週から引き続き、今週もdragon houseのダンス動画ばっかり視聴してた。nonstopの人によるソロのパフォーマンスだけどこれまたかっこいいなあ。もれなくかっこいい。

 たとえば人類の体の作りといったもんが現代人のものと同じになってどんくらいの月日が経つのかは知らないけど、仮に2千数百年前のギリシャ人とかと比較してもまったく一緒の神経系や骨格や筋肉の作りをしてるのは確かでしょう。けど紀元前のギリシャ俳優がアテナイの悲劇や喜劇の舞台の上とかでこんなダンスを公衆の前で披露して「イェーイ!」って盛り上がってたとはちょっと考えられない(あるいはひょっとしたら……、ゴクリ)。しかしまた、当時のギリシャ人のなかでとりわけダンスの才能に恵まれてる踊り手を選んで、仮にこのダブステップの音楽とダンスの振り付けをしっかり授けることができるとしたなら、彼らのうちの才能溢れる誰かもまた、この動画内でのnonstopの人に匹敵するようなパフォーマンスを充分演じることができたのだと思うわけです。それが不思議だなと感じる。任意の一人の人間のうちにそれに必要なすべての要素が何もかもすでに揃っていたのに、そのようなパフォーマンスが現実に私たちの前の経験として出現するのに、何十万年とか数百万年とかの途方もない時間がかかったわけでしょ。手足を痙攣させることだったり、体全体を倒れこみそうなくらい傾けることだったり、ゆっくり動いたり、逆に素早く動いたり、直前のしぐさや動作を繰り返したり、訂正するみたいにやり直してみたり、滑るようにステップしてみせるかと思えば、崩れこみそうな勢いで体をがくつかせてみたり。細分化して取り出せば、それぞれのしぐさはすべて人間の日常的な、私たち自身のよく知ってる運動に差し戻して観察できるものであることがはっきりしているわけでしょう。それらの動作は現代人同様、2千年前のギリシャ人たちの身体にだってもちろん可能的に開かれている。物的な基盤として存在しなかったのはダブステップっていう音楽と、ここでの音楽とダンス双方に対して互恵的な関係を導く視覚的なモデルになるような映像加工的な技術のもたらすさまざまな印象だけだし、ダンサーの発想のなかで気づかれていなかったのはそれら既知の運動的な要素を繋げていく身体における独特の連接のリズムだけなんだと思う。過去の時間のなかにとどまっている人たちと現代の人間とのあいだに横たわる違いはそうしてほんのちょっとのものなのかもしれないし、あるいはそのように考えるかぎりで途方もないような隔たりなのかもしれない。どっちかはわからないけど、身体の運動による視覚的効果として、目覚しい、ほとんど前代未聞といっていいような新しさの印象がいま目の前に現れる。身体の運動に普遍的な、ほとんど無時間的な埋没されたような条件の中から、未知のまったく新しい何かが歴史の中から生まれてくる、生まれてくるってより破裂して身体から噴出してくる瞬間みたいなものが感じられるような気もする。その印象はまた、何十万年も人間の身体で眠っていた運動の可能性が現代にようやく目覚める、再現される、とかいうことじゃないのかもしれない。そういう目的論的な思考において感じられるべきものじゃなくて、ここでの映像的印象は歴史の中で身体がこうむった特異な、避けることも可能だった、実現することが必ずしも必然ではなかった、そんなような一種の不慮のアクシデントのようなものとして出現したものなのかもしれない、とも思う。身体の運動において事前に欠けていたものを眠りからの目覚めみたいな具合で補い、そこに予期されていた普遍性を復活させるようなもの、というよりも、時間の中で実現した個別の特異な事実として、その行為の事後にはじめて身体や運動の普遍性に登録され、まったく新たにそこにリストアップされるべきものとして、それ以後に普遍的な条件の眠りを破りつつ、そのような豊かさの感動において「なくてもよかった、でも確かにそこに現れてしまった」という事件か恩寵みたいにして付け加わってくるような出来事であると感じる。そういうものだけが本当に新しいものだと言われるべきだろうし、たくさん動画のあがってる彼らのパフォーマンスのいちいちにちょっとのあいだ目を奪われながら、そのつど、これこそがそういうものだっていう強い感覚を再更新する気持ちがしてならないわけなんです。それは錯覚なのかしら?

 ↓の動画も愉快ですよ。先週貼った動画にも登場していた赤いパーカーのiGlideの人(左)と、4人目にダンスを披露したグレーのシャツのbluprintって人によるユニット。

 2人ともとても正確な動きをしててうっとりしてしまう。iGrideの人は滑らかな動作が得意らしく、対照的にbluprintの人はハサミみたいなかっちりした支点のある動作が巧みで見ていて小気味いい。見事だなあ。

ブノワ・ペータース=作/フランソワ・スクイテン=画『闇の国々II』

闇の国々II (ShoPro Books)

闇の国々II (ShoPro Books)

 今週は、ブノワ・ペータースとフランソワ・スクイテンの『闇の国々II』を楽しんだり、三、四日かけてそれを読み終えると、今度は福田和也の新書(『病気と日本文学』)を読み始めてみたり。寒さが堪える季節になってきたけど、家に帰ってあったかい湯船に浸かって外で冷えきった体を温めなおし、その後寝る前までの短い時間を、すでに兆し始めた眠気にうつらうつらしながらベッドの中で好きなマンガや本を読みんでのんびり過ごすのがなんともいえず嬉しい。たとえば、賑やかな場所の近くでその賑やかさを傍目で眺めながら、しかし一人でそこにおける場違いな気分、居場所のない気分にひたってるというような、この相反する感覚の一挙両取りみたいな感じ、どうにも抜きがたい根っこからの部外者気質みたいな感じが何故だか知らないけど昔からなんとなく好きで(好きというより身に染みついた止みがたい習癖か、あるいは生まれながらの本性みたいなもので)、それと同じように、身震いするような寒さを感じながらあったかさに身をくるみつつホクホクガクガクするっていう、この季節ならではの重ね着されたややこしい喜びみたいなものがある。
 『闇の国々』は全四巻でのシリーズ出版がとうとう決定したみたいでこれもまた喜ばしい。巻末の作品リストにタイトルのあがっている本編12作のエピソードすべては順次これを翻訳してもらえるものだと勝手に判断して、気がかりは残りの番外編だけど、これらも少なくともDVDとかCD以外の書籍形態の作品にかんしてはラインナップしてもらえることになるんだろうか。そこらへんは是非とも期待したい。
 この巻ではその番外編のひとつとして『古文書官』という作品が掲載されていて、これは「闇の国々」の世界に存在する建造物や景勝を描くイラスト集をかねた劇物語っぽい作りの作品になっている。物語の体裁として、作品の読者である私たちが住む世界のどこかにあるらしいとある資料館に所属する一人の研究員が、そこで都市伝説めいたうわさになっている「闇の国々」にまつわる資料を収集しまとめあげて、この研究成果の抜粋という形でいちいちの図版を紹介しつつ、同時に、傍らで彼の身辺で進行する事態の推移を背景的に描いていく、というような構成になっている。カラーで再現された一枚絵のイラストはどれもきれいで見ていてとても楽しい気分になるし、脚注とあわせて「闇の国々」の地図を参照しながらあれこれ想像するのも楽しい(「中つ国の地図とか眺めるの好きなひとー」「ハーイ!」みたいな感じ、わかるかしら? この気持ち、伝わるかしら?)。
 『古文書官』を読んでいてちょっと面白いと思ったのは、この「作品の現実」と「物語の虚構」の関係のなかでの語りの構成と、その語りと「図版」との関係のあり方といったもので、現実にこうして描かれて読まれているペータースとスクイテンによるBD作品『闇の国々』のなかに、「闇の国々」という虚構によって現実として築かれた場所が描かれており、その世界のリアリティをぐらつかせるような語りの介入、作品の現実性(『闇の国々』)と虚構の世界(「闇の国々」)の現実性とのはざまで虚構性がじんわり滲み出て広がってゆくかのような語りの操作的な介入、そういうようなものとして、この番外編的作品『古文書官』は、シリーズ『闇の国々』の全体像に差し挟まれているという感覚がある。……上手く説明できなくていまいち伝わらないような気がするな。読んでもらえれば一発で了解してもらえるはずなんだけど、直感的には、一冊の書物とそのページの余白に書き込まれた誰かの注釈とか、あるいは差し挟まれた別紙による無数のメモなんかが込みで、一冊の書物がその書物それ自体の物理的な外延を超えてるものとして書物の全体を構成している、というような感じがある。つねに一冊の書物としての統一性に対する余剰が発生しながら全体が嵩張っていく書物、というような感じ(たとえば、ミシェル・ビュトールの『時間割』が語りの構造のなかでせっせと産み出していたような、例の進行形で嵩張り続ける日記の紙片の束にも似たような感じ、というとわかりやすいかも。どうだろ?)。その感覚はいわゆるベタなメタフィクションという感じともちょっと違っている。放射的な方向で伸縮するような同心円状の範囲内で、語りや語られる登場人物の活動が越境的に演じられるという感じなのでもなくて、物語のなかで語られる虚構の世界「闇の国々」と作品『闇の国々』との隙間をどんどん縮めていく、紙一枚の厚みをその半分に、そのまた一枚をさらに半分に、というような縮減的な方向で、物語と現実との明確な境をしだいに剥がしていく、活動や運動の余地をどんどん削り取っていく、というような無時間的なものへの接近みたいな感覚が際立っているようにも感じる。その無時間的な場所なき場所のような広がりこそが、作品の現実性と物語の虚構性とのあいだの閾のようなイメージの発生と消失の場になっていて、その運動と空間のほとんどゼロ度に近いかのようにも思える極薄の場を境に、そこをくぐって、出来事やそれを語りうるものとして語ることがはじめて可能になる、というような感じもする。おそらくそのような訳合いで、紙一枚分の厚み以下の理念的空白における閾の場みたいなものが『古文書官』の最後に現れてくることになるし、人物はそこ(肖像画として一枚の紙切れに描かれた自分自身の似姿、あるいは通路の先に描かれる、物的な存在の通行に限ってこれを拒絶するかに見えるトロンプルイユによる扉、絶対的な、表象の内容をもたない表象性そのものの現われの場のような限界線)、そのそこに、イメージの生成と消滅との通気の瞬間を見出すことになる、という気もする。そんな感じで、『古文書官』という短い作品は『闇の国々』全篇にとっての理念的な縮図みたいなものとして読むことができるんじゃないかなあと思った。(この巻の目玉は表紙絵にもなってる『ブリュゼル』であるはずで、そっちももちろん面白い。現実のブリュッセルにおける近代都市計画の破綻の歴史をモデルにした空想的作品で、不思議な景色や建物がたくさん出てきてとても興味深く読めた。巻頭の『サマリスの壁』も、ポーの「群集の人」とかカフカの「掟の門」、あるいは『城』みたいな筋立てが面白い作品だし、もう一作、『パーリの秘密』は、『ブリュゼル』でのブリュッセル同様、架空化されたパリの真下、真裏に貼りつくもうひとつのパリを描こうとする野心的な「失敗作」で、残念ながらそれはいくつかの断片のまま作家によって放置されたままになってしまってるけど、完成してればきっと面白いものに仕上がってたはずだと惜しまれるような作品になってる。ともあれ、1巻に続いてこの2巻も外れなしの秀作傑作ぞろいといっていい)。

 
 先週今週とyoutubeで毎晩視聴していた動画。はてなのホットエントリーにあがってきていて、それきっかけで知ることのできたDragon houseというダンスチームの映像。これはかっこよすぎた。最近は彼らの映像をいろいろ漁ってるけど軒並みかっこいいし楽しい。

 選曲も抜群にすぐれてる。ダブステップって音楽ははじめて聴いたんだけどこれはめちゃくちゃかっこいいなあ。震える。音楽もいいし、最初に踊る青いトレーナーの人はnonstopってニックネームの人で、この人がやっぱり一番かっこいい。次の赤いパーカーの人も楽しそうに踊ってて好感がもてる(iGrideって呼び名らしい)。ダンス知らないけど全員うまいなあ。ほれぼれする。

 「ノンストップ」と「iグライド」に、もう一人「チビ(chibi)」という人が参加して「リモートコントロール」というユニットをやってる。

 「チビ」の人(ブライアン・ゲイナーって本名らしい)を見てからは、この人を気にしながら動画を探すようになった。インタビュー映像もどこかにあるんだけどそれを見ると、哲学者みたいな聡明な顔立ちをしている、とても落ち着いた人だってことがわかるよ。笑顔が素敵だ(個人的におすすめは「dragon house vs animation」みたいな検索で出てくる別のチームとのバトルの映像で、そこでの「チビ」の、挑発してきた相手との応酬の場面はほんと震えた。是非検索してみてください。chibi guns down!!!)。

 とてもゆっくりと体をコントロールしていて、そこがいい。素早くダンスする人はたくさんいるだろうけど、こんなふうにゆっくり的確に身体と向き合いながら体を運んでいく方が素人目には見ごたえがある感じがする。遅く動けば遅いほど時間そのものが彼らの身体に宿っているようにまざまざと感じられる。不思議だ。踊っている人間の筋肉の動きだとか神経の張りつめみたいなものより先に、眼に映る可視的な表面でしぐさや姿勢にたくわえられた時間があたかも物質化されてるようにも感じられる。
 あとここには、ダンスする身体によって空間を背景にして音楽からこうむる影響を表現へと解釈するような、ある種の意味作用的な効果が、振動する象形文字みたいな謎めいた記号の連続としてもたらす感動があるようにも思われるんだけど(各人で異なるその身体固有の限界が各人で異なる言語的質感みたいな視覚的記号をもたらすだろうけど)、音楽とともにある身体とか、あるいは別のものといっしょにある他の或るもの、みたいに捉えなおすとき、これほど豊かな協働性はちょっとなかなかお目にかかれないなと痛感する。たとえば小説やマンガといった作品とともにある感想の言葉なんかも、こんなふうに相手と対話しながら何かを引き出しつつ、新しい別の何かを傍らに産み出すことが出来るとするなら嬉しいだろうなと感じる。恋する表現者たちによる、相互にバラバラのままでいることのできる連帯、みたいなもの。

ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

 ドゥルーズの『シネマ(時間イメージ)』のなかで何度か言及されていて気になっていた著者の本の、丹谷生貴志による翻訳。これは本当に素晴らしい本だった。なにか、今ここで一冊の完璧な書物を読んでしまったというような読後のこの感覚がものすごい。完璧な書物なんてものが存在するわけないし途方もない錯覚には違いないんだろうけど、いろんな意味で「もういいや」という気分になってしまうような言葉がここには書き連ねられていて、夢中で読んでいる最中はそれらの言葉の連なりに陶然としながらもわけもなく嫉妬してしまうというような感じだったのが(この文章書いてるのがなんで自分じゃないのか?みたいな純然たる妄想にもとづく歯がゆさ、歯噛みするような感覚)、しかし読み終える頃にはなんだかもう感動で胸がいっぱいになるような気持ちになってしまった。映画なんて一度たりともまともに見たことはないし、文化的な背景だったり生きている時代や状況だってなにひとつ自分とシェフェールって人とで重なるところはないんだけど、こういう人が遠い世界の向こうに確かに生きていて、こんな途轍もない言葉を残していてくれてたってだけで、なにか無根拠に勇気みたいな感情が底のほうからふつふつと湧いてくる気持ちがしている。この場でなにかひとつだけ言えるとするなら、「この本をまだ読んでないなら読まなきゃ駄目だよ!絶対だよ!ムックとの約束だよ!」ってことに尽きる。それ以外に本当に言いたいことはないし、それだけ言ってしまえばもはや、言わなければならないこともすべて言い切ってしまっている。つまりこの瞬間にブラウザ閉じて今すぐにでも本屋に駆け込むべきだ。というわけで、以下は蛇足として。(先週今週といろいろ疲弊することが多くて、何もかも投げ出したくなったりもしたんだけど、ぎりぎりのところでこういう本の言葉に救われたという気持ちがある。そうでなければ、あやうく旅とかに出てしまうところだった。塩麹をつかった美味しい創作料理を出すお店とかを探しに、どこか遠くへ旅に出てしまうところだった。オカリナ片手に旅に出るところだった。危うかった。世界にはまだこんなに美しい本があるし、それを読むことができるかもしれないし、うまくタイミングに恵まれればその感想をこうして書き残すことだってできる。もうそれだけで充分だ。ありがとうシェフェール。ありがとう丹生谷貴志。そして、ありがとうガチャピン)。
 ジャン・ルイシェフェールにとって映画のフィルム体験とは、時間性のなかでの、ある不可能なものから息吹くイマージュの出現と消失、その撹乱的な継続による未完遂の経験の全体のようなものとして現われている。映画理論や批評的な分析とはおよそ縁のない場所で「共犯的-応答的」に経験される「映画を見に行く普通の男」の身体と視覚性と欲望とが編み上げる映画とのアフェクティブなかかわりの全領域にわたり、フィルムという母胎に着床した不可能性の核のような何かが観客である「僕」の実存を震えさせつづけており、「映画の夜」においてはじめて経験されるそこでのイマージュと思考の固有の経験を記述していくシェフェールの筆の運びもまた、不可能なものから世界の闇夜へと射しこんでくるかのようなこの光の振動のような捉え難さを前にして、それ自体がすでに捉え難さによる筆記のようなものと化している(ドゥルーズは「理論が一種の偉大な詩となっている本」というふうにこの本を称えていたけど、確かにある種の散文作品がそこで綴られているかのような言葉の質感がみなぎっている)。
 最近読んできたアガンベンやディディ=ユベルマンの本のなかでも表象や起源の不可能性にかんする議論がつくづくと論述されていたわけだけれど、シェフェールの試論にあってこの不可能性は人間的な諸能力が溶解していく臨界のような経験の場においてかろうじて遠望されるものとして叙述による肉薄の目標になっているようにも思える(「裸性」のアガンベンにとっての美だったり、ディディ=ユベルマンにとっての歴史だったりの場合と比べて、不可能性を探るアナクロニズム的手つきや支点となる道具の水準においていろいろかすってるし共有するところも多いんだけど、作用点の位置が明らかに異なっているし、なにより力点としてのエクリチュールに求められている質の部分でまったく異なっている)。それはフィルムの喚起するイマージュに解きほぐしがたく絡みついた無数の繊維からなる不定形の組織を形づくっているようにも見え、対象を見ることと想像すること、見えているもののかたわらで起動する思考の様態、追憶の対象に淵源をもつ欲望や道徳感情等々、人間的諸能力の構成する領域を渦巻き状に巻き込みながら、その中心にある「重力点」のような失われた世界への閾となる特異点へと映画の観客(「僕」=シェフェール)もろとも、回転式のなだれの過程に飲み込んでいくもののようにも見える。
 映画館の闇のなかに投げかけられる光の帯と粒子状の塵の散乱においてイマージュは、そこに収められたなにがしかの被写体のシルエットや線状に展開するアクションの忠実な再現であることを放心したように放棄してしまう瞬間の連続に貫かれており、舞い散る塵や埃、スクリーンの表面に瞬間、走っては消え去る引っかき傷や黒点や斑点の終わりなきフラッシュバックの断続のようなものと化す(そのような視線のあり方において否応なく散乱-イマージュに捕らわれる「僕」がいる)。見えるものの確固とした輪郭をもつ形象が代表していたはずのドラマの局面やそれらが軌跡として描く運動イメージがになっていた間接的な時間表象の次元は破れさってしまい、あるいは、具象的な何かに(誰かに)似ているというかぎりで映画の物語のつつがない運行を支えていた人間的形象といったものがよってたつ、その類似を直観する能力自体が、そこではばらばらに解けはじめてしまっており、しかしながらそのような形象の消滅、イマージュの過ぎ行きのなかで次から次へと現われては消えていく可視的刺激の臨界的経験において、類似性を見取ることはあれやこれやのそのつどの個別の具体的事象の同一性の認識であることから、「何かに似ているもの」の受納、それが何に似ているのかはついに判明することはないけれど、それが「僕」にとって何かの大掛かりな反復であることだけは確かなように思われる、そのような純粋状態の類似による可視的な経験へと変成していくことになる(フーコーの「これはパイプではない」における絶対的な類似者についての議論なんかが、ひょっとしたらこのあたりのシェフェールの論述に対する格好のサブテキストになるかもしれない)。闇に閉ざされた深海にしきりと降り積もるプランクトンの死骸や海底の砂埃のような、映画のもたらすその視覚的印象の異質性の連続のなか、たとえばシェフェールはそこに、遊弋する光の身体をもつ一人の幼子のごとき存在の不動化へと向かう宙吊りのイマージュを見ている。上昇と沈降、存在と無、天上と現世、過去と現在等々、あれかこれかの択一的な対照が形づくる截然としたもろもろの区分の渦中に、文字どおりにそれら判然と色分けされたコントラストの分明さを中有の仄暗さ、回転する渦の求心的な流れに巻き込むようにして、「原初の失われた身体」そのものの痕跡である熟睡の眠りを眠る幼子のようなもののイマージュが現われている。議論の内実の詳細は本文を直接あたってもらうよりほかないけど(丹生谷貴志による欄外の註解が念入りですごく役に立つ)、そのようなイマージュこそは、かつてそれを見ていたはずなのに見えてはいなかったという、可視性の逆接的に回折された視線においてのみ見られることの可能なある特異なイマージュの対象であるはずのものの現われだろう。それはまた、可視化され復元された不可能な起源の代替的身体であり、現在へと化肉した過去の身体の(ドゥルーズの言う)結晶イメージのようなものでもあるだろう。見ることはそのとき、眼前に存在する現実的な知覚の対象とそのような対象の単なる不在とのあいだの中空に、おのれの保有する表象機能の綻びを表象することしかできないものとなる。視覚性や構想力の健全で通則的な働きのすべてはこのような不可能なものの眼前における不在、崇高の現前する非在、不可視なものの疎隔と接近との両実現といった事態を前にして、臨界する人間の形象の残余へと乗り上げることになる。何かに似ているけれど、何にも似ていないもの、それ自体のうちで類似性の内攻を被った、純粋な「のようなもの」、「…に類似しているもの、それ自体」、そのような何かが、イマージュのうちに出来と消失を反復させていく。
 この崇高で不可視なものでもあるイマージュ群の眼前での現われと消え去りに臨んで、一方で思考の能力はといえば、スクリーン上で描かれるあれやこれやの対象や運動や出来事を主体として把握するというそれ固有の能力をすでに喪失してしまったものとしてフィルムの経験に参入することを強いられているかのようでもあり、観客の思考の操作能力における「知(サヴォワール)」のそのような決定的な欠如が、しかしなおある逆接的で特異な方式での知の残存、「何も知らない」のではなくむしろ「僕の知らない何かを知っているはずのものが、どこかにいることを知っている」という形でのみ言明できるような特異な知の余剰、そのような「先行する知」の暗号的な意味作用の通達といった事態を招くことになる。個別のイマージュの現われやそれらの運動論的連接に接して事後に付加されるような思考が問題になっているのではなく、シェフェールがそこで説く知の特異なありさまとは、可視的なイマージュの類似性の場を貫通しながら「僕」の瞳へと達している不可視の記憶の非類似なものでもある仮象的反映、いわば想起の不可能から発する不可知の思考に掴まれた知の絶対的な先行性、解消不能のままとどまる「僕」の知の決定的な遅れといった事態であるだろう。「(まだ)知らない」と「(すでに)知っている」とによって知を区分し囲いこんでいる単調な両極のあいだには、「(すでに)知らないということを(まだ)知っている=それを忘れていることだけは覚えている」、ないし、「(まだ)知っていることを(すでに)知らずにいる=それに覚えがあることを思い出せずにいる」というような、「まだ」と「すでに」がアナクロニズム的な時間性の照明のもとに交差的な骨組みとして明るみに出す、ジャメビュとデジャビュとが混淆的に形づくる逆接的知の特異な様態みたいなものがあるはずだ。思考はそのような「先行する知」の介入によって主体の場を、反りを加えられて折り曲げられたイマージュと時間性とのあいだの折り目、非実在の縁、不可能な場としての閾へと変質させるかのようにも思える。そのような思考にとっての縁において、思考は対象なき思考(『シネマ』のドゥルーズの口ぶりによれば「思考なき思考」)と呼ぶにふさわしい限界的な形態をまとうにいたり、あるいは不確定の意味作用をになう解読不可能な暗号を過去の「重力点」から発信しつづける、イマージュにおける思考の強度そのものと化し、フィルムに面前する観客の存在を寄る辺ない待機状態に据えつづける力ともなる。世界は何か知れない知の介入が通り過ぎていくだけの場所となり、その過ぎ行きの起こす震えのような感触に乗り移られて、思考は「共犯的-応答的」に、生成し消滅していくこの世界の運動性そのものの放つ振動と化していく。あるいはフィルムの上で踊りつづけるイマージュの塵の運動=マチエールそのものとして可視化される思考の姿が視線のなかに現れる。
 そして、イマージュとのかかわりのなかで思考は、形体をもたない「情動-変状」(アフェクション)を可視性において解消するために、この形体化の契機となる依り代か形代のようなイマージュを待つもの、何かの再帰として現れるイマージュを総合なき散布の状態のままに待ち望むものとなる。映画のイマージュに本質的に内包される情動や感覚は、そのような待機や渇望として現勢化される観客のアフェクションのもとで、人間の欲望する能力や道徳感情の縁へと突出してくることになる。欲望の縁、外への(外の)欲望、不可能へと差し向けられる欲望といったものがシェフェールのここでの映画論を不穏に活気づけており、フィルムに描かれる確固とした輪郭にかたどられた人間的形象の、ある種のジャンル規定的に典型化された登場人物たちの水準でシェフェールの瞳を否応なく奪うことになるものとは、それがバーレスクのキャラクターであったり恐怖映画におなじみの神話的怪物たちであったり、あるいは欠損や過剰によってさまざまな姿態のもとでスクリーンに映し出される「フリークス」たちであったりもするけれど、それらの人物像は彼ら一身の不具性や極度に醜悪な容貌のうちに「僕」の恐怖を取り集めるものとして凝視の対象となる。人物たち個々別々に見られるさまざまな醜悪さ、その奇形性の具体例は世界の不具性そのもののしるしとして承認されるものとなり、あるいは不可知の起源において何か知れぬまま犯された原罪的罪といったものに対する根拠ある罰の痕跡として、「僕」=少年シェフェールにより受納されることになる(「結晶イメージ」として過去の時間の物質化された化石としての痕跡=怪物性といったもの)。罰を負った形象はそのような具合に情動と欲望に巻き込まれてイマージュのなかに現れており、恐怖や焦慮、切迫感や愉楽といった感情の動きのすべてはこの欲望と道徳感情の情動-変状として「僕」を捕捉している。そのとき有罪性とは何を意味するものであったのか。それは無知であること、未生の眠りを眠っていたこと、何に対しても責務を負わず(負いようがなく)、どのような結果に対してもいっさい責任がなかったこと、具体的ないかなる犯罪的行動にも加担しなかったこと、あるいはその起源として仮定されるような罪のあった場に「ほとんど」存在さえしなかったこと、つまり完全に無垢なものとしてそこに臨んでいたこと、そしてしかし、そのようなまったき無辜のものだけが贖罪をになうために有罪性を必然的にみずから任じなければならないということ。そのような欲望の逆接的で捻じれた論理が原初の場における不可能な罪障性をアナクロニズムの眼差しのもとに事後に、眼前のイマージュの開けのなかに、不可避的に見出している。フィルムを上映する映画館の暗闇はそのとき、縮尺の狂った世界における巨人たちの不可解な活動が連続する場となり、その活動を大写しにするスクリーンの前に臨席して何かを待ち望むかのように座席にその身を縛りつけ、イマージュの散乱を食い入るように見つめつづける観客=「僕」は、そこに「幼子のようなもの」の再来を待ちつつ、自身巨人たちに囲まれて身動きを奪われたかのようなしどけなさのうちに放心し、その目覚めと昏睡のはざまで、この「僕」=シェフェール=少年シェフェール(その時間的複合体)の背後から射してくる「一つ目の巨人」の眼光のごとき映写機からの光線は「僕」の後頭部を開口してその脳髄に残されている未開封のかつての記憶の写真の転写のようなものとなるかにも思われ、そして今や、イマージュの展開は「僕」における映画館の、あるいはいつとも画定できない別の時間の、別の場所での、そこに「僕」が存在したとも存在しなかったとも言い難い中有の場での「僕」のしぐさと情動とを正確に呼び戻しながら、不可能なこの経験、この無為における愉楽とこの無為による有罪性とを、「映画の夜」における視線のなかの光の散乱に回転させ巻き込んでいくことになる。
 無垢なものの有罪性はその無垢さ故にいっそう否認しがたいものとなる。語るべき言葉をもたず、負うべき責任からも免れて、いかなる行動からもいっさいの責務からも放免されてあった幼少期の時間が、映画のイマージュのなかで散り散りになって再開される。それは青年期(アドレッサンス)の時間構造のなかでアナクロニズムの眼差しのもとにおいてのみ再構成されうる、不可能な表象における出来と消失とが互いに分かちがたく組み合った、不可能そのものの時間的結晶であるだろう。アナクロニズムの罠に注意せよ、とシェフェールは警告している。時間のなかでの不可避の遅れを取り戻そうとするあまり、苦悶し焦慮に取り憑かれ、実体化された過去の時間にみずからはまりこんでしまったある映画に登場する殺人者の最悪な運命《犯罪的人生》を私たちの教訓としなければならない、と語る。《彼の生はその達成の不可能という唯一の苦悶を執拗に否認してしまうが故に、逆に最悪の彷徨になるのです。つまり、〔達成の不可能を否認する時、逆に〕彼の生は文字通り理由のない終わりなき犯罪的人生になってしまうのです。》 無辜の時間、起源における裸の無垢が不可能な取り戻しの目標として設定され、現在から分離された過去が実体化される、あるいは意味作用が唯一の線に削られて現在がこの意味作用の否定性の力に屈服し、それが故に不可能なものがますます不可能として強大化しつつ君臨しつづけ、遅れがともなう苦悶と焦りはそのとおりの障害として情動を苛みつづける。無垢な何かの予感を帯びて、そこに突破は不可能であるし、居直りに応じることはさらに不可能であるし、今や熟睡の眠りに戻っていくことも不可能であることははっきりしている。しかし、その事態を徹底的に受け入れたとき、イマージュの現われと消失に瞳を奪われつつある者に、あるいはひょっとしたら、不意に彼に鎮静をもたらす何か静穏そのものとして出現するイマージュといったもの、その恩寵のような何かの再来が出来することもあるのかもしれない。ジャン・ルイシェフェールは、いつか彼の視線のもとでそのような錯乱の中に訪れたある静けさの正体といったものを知っていたのかもしれない。

 (……)ですから、今や、映画において思考が可視的なものとなるということ、そのことだけが重要なのではないです。重要なのは、そこにおいて起動する可視性が、不可避的に、生成の瞬間の思考の滅裂な定在のなさに浸潤され汚染されてあるしかないという事態なのです(それ故にそこに起動する可視性は、世界の生成と同時にその崩壊、消滅を愉しむという倒錯を帯び、その質(カリテ)は、本来高貴さと人間性へと開かれると期待されもしよう思考の中に、それとまったく背反する倒錯を開くのです)。或いは、そこにおいて、その定在のない滅裂という思考の起動は、その思考と同じ始原の錯乱した混濁に損壊された可視性を稼動させ、だからその倒錯は可視性-思考の中に、あたかも生来の錯乱の刻印であるかのように打ち込まれることになるということ、そして、そうしたものとしての思考-可視性はともに、ともあれそれが生を受けた場であるだろう世界、そして起動するやそれが差し向けられる世界を、愛憎に発する否認において突き抜けてしまうことも廃棄してしまうことも決してないだろうにしても、そこを安住の場とせよという強制に似た要請に対しては拒否を示しつつ、〔愛憎と罪業感において〕絶え間なく、来るべき人間の目覚めと成ろうとし、そして或いはむしろ、拒絶の錯乱ではないにしても、(その半睡の累積において、人間であること、その世界の構成分子であることの外へと脱落して行くかのような、仮死の昏睡に落ち込むことを渇望するかのように)否認の大いなる不可能な眠りとなろうとする、そうした事態こそが重要なのです。

ディディ=ユベルマン『時間の前で』

 半年くらい前に読んだ『イメージの前で』につづいて、二冊目のディディ=ユベルマンの著作(情けないことに『イメージの前で』の細かな内容は、論旨のおおまかなニュアンスを除いてあらかた記憶から消えてなくなった)。しかしこの本もやっぱりとてもおもしろかった。最近読んだばかりのアガンベンの『裸性』が神学的な思考とイメージに対する批判を展開するにあたってまさにそういうスタンスを取ってたんだけど、美術史の現在を問い直していまだ開かれたままの未来へと向けてこれを練り直そうとする美術史家ディディ=ユベルマンのここでの論考もまた、イメージに帯同する認識論的なアナクロニズムの必要性や不可避性といったものを執拗に説く内容になっている。
 収録されたどの論考でも、一貫して歴史と美術のイメージに対するアナクロニズム的視座への強固な要請が急務の課題として問題化されてるわけだけど、対象と主題に応じて次々に介入の角度と深度を変えていくディディ=ユベルマンのここでの多岐にわたる視点をぜんぶ回収することなんてとてもできない。だから気になった一点だけをものすごく乱暴に要約するけれど、ここで述べられていることとは、つまり、実証的な事実として定められるべき起源の標定における、その不可能に怯んで、年代記的歴史記述や標準的な認識が取り繕うようにして仮構してきた贋造や抑圧や隠蔽、不当な抽象化といった人文主義的作業の数々を拒否すること、そこで偽られた歴史における不死や永世といったものを徹底して拒み、その代償として、起源の不可能や踏み越えることのできない隔たりをそれとして見出し、これをイメージや歴史の現在と衝突させることによって、そのような衝突が発生させるいわば事件と力の現場において、今ここで目覚めつつある不可能な起源を運動状態にあるものとして現前化させること、みたいなことじゃないかなと思う(それはだから、必然的に無数の悲惨と不吉をめぐる歴史記述、ドキュメントみたいなものとなる)。不可能なものとそれに対する抑圧や隠蔽といった事態は「否定の否定」(否認)という態度においてフェティシズムの様々な場合の様態を形づくっているものだろうけど、アナクロニズムの戦略はこの「否定の否定」をさらに否定する、弁証法的で力動的な契機として見出されているんだろうとも思う(この捩れた否定的操作により、起源はたんにノスタルジーの対象として理想化され単純化されて見出されるわけじゃなく、必然的に、重層決定や複数の力が折り重ねられる歴史の複合化した現在として、表象を引き裂きながら現われる不可能なものとみなされているだろう)。ディディ=ユベルマンがそれぞれの論考をつうじて取り出してくるそのような(非ヘーゲル的な)弁証法的イメージ展開の不可能な起源となる具体例としては、たとえばそれは、ローマの大プリニウスが法的・道徳的・公共的圏域の致死的な解体のきざしとして喪失の嘆きとともに見据える「原型-イメージ」(象徴化された父祖たちの胸像のひな型)であったり、あるいはカール・アインシュタインという美術史家(はじめて名前を聞いたんだけど)が今世紀初頭に人類学的パースペクティブのもと見出すことになる西洋美術史にとってのまったき「非-認識の対象」にして「認識の非-対象」でもあるようなアフリカ黒人彫刻という先史的不可能の対象であり、またはベンヤミンがその歴史認識おいて範例とした「悪意-イメージ」の現われの、その遠ざかり、落下していきながら稲妻の閃光を放つ根源のアウラの解体であり、そしてまた、バーネット・ニューマン(この人もはじめて名前を聞いた)がその絵画制作をつうじて主体と物質と支持材との関係に導いたと目されているアウラ的「仮定」のもうける幾つかの絶対的隔たり(対象・時間・場・主体といったイメージの構成原理の作動領域となる境位で、そのそれぞれの下部におかれて絵画制作の実践を、根源との衝突の経験と化すことを可能にするような分節機能としての「仮定」=「下に置くもの」)でもあり、こうしてざっと読んでいくと、そのような固有の事例が、めいめいの前に、めいめいのおかれた時代や立場、状況の相違を超えて、対峙すべき起源の不可能としての姿を現わしていることが確認できる。そのようにディディ=ユベルマンは事態の推移を記述していってる。
 先日のアガンベンアナクロニズム論との対照でちょっと興味深く思える点もある。起源の不可能という特徴をイメージと思考にかんする批評の核心に据えるにあたって、二人の論者のあいだで、その理解に対する気になる相違があるようにも思う。「裸性」のアガンベンにとって不可能な起源とは、おそらく無垢なもの、罪や腐敗との関わりをいまだもっていないもの、認識の対象として目標にされるものだけどそれ自体は認識とは無関係なものとして設定されており、そこへ歴史的事後に、否定神学や罪障性にまつわるあらゆる論理や欲望が領域化の罪ある目標として巣食いにやってくるものという無時間的な場と同一視されて観想されており、この起源をそれとして見ることが可能ならば、ある充実さや無原罪のうちにイメージされるものというニュアンスにおいて議論の前提にされているもののようにも思われる。イメージに面前する真正のアナクロニズム的操作(「裸にする」こと)は、その起源(裸それ自体という錯覚)に対する態度において、端的に、裸それ自体やそれに類する無のごときものは存在しない、ということを証明する生成の手続きとして、悪しき神学的装置の作動に対し強い批判を突きつけている。それはやむことのない欺瞞的な恩寵の衣装の引き剥がしの作業として時間とイメージに介入しようとしている。否定神学が設定するような「恩寵の衣装の下の腐敗した裸の本性」といったものに対しては、アガンベンアナクロニズムの「裸にすること」は、そのつどの剥離の身振りに即して「これが(求めていた、あるいは隠したがっていた)それだ」という愚鈍な同語反復の叫びを繰り返そうとするように思う。つまり起源における無や不可能、認識の不能、解体の徴候などはないということを証明するためにこそ、そのような無や不可能をあらかじめ設定する思考やイメージのあり方を批判するためにこそ、あるいは「否定の否定を、否定する」というような弁証法的イメージの暴力的力能に訴えるんじゃなくて、そのような「否定の否定」に対しては、端的な肯定の言葉を突きつけるためにこそ、今ここで「裸にすること」の肯定的身振りが裸へと向けて繰り返されることが要請されてるんじゃないかなと感じる(アガンベンは「裸は存在しない」と確かに否定形で語るけど、それは否定神学がまったく同じ形式で語る場合の「裸は存在しない(神なき人間本性の自立などありえない)」という文句の、双方の立つその条件の場所の差異を際立たせ、なおかつ決定的にずらすためにこそそう語るのではないだろうか。否定性の契機をそのまままるごと肯定へと変換する賭けとして、まさしく「裸にする」が問題となってるんじゃないだろういか)。要するに、開かれるイメージには、不可能な起源に向かって根源的な否定性を呼び戻すようなディディ=ユベルマン的な解体とモンタージュとによる弁証法的律動をもつタイプと、アガンベンが(他の著作ではどうだか知らないけど、控えめに見て「裸性」の議論においては確かに見出せるものとして)説いているような、起源の不可能性といったものを歴史認識や時間意識における典型的な偽問題とみなす、愚鈍で獣的なものでもある同語反復による、ある肯定から始まるような起源のまったく別の歴史を現前させようとするタイプがあるんじゃないのかな、とか思った。何書いてるのか自分でもよくわからなくなってきたので、このへんでやめた方がいいんじゃないかな? とも思った。
 ともあれ、いろいろと考えさせてくれる刺激的な論考に溢れてた一冊だった。ディディ=ユベルマンの書くものはこれまで読んだ二冊ともとてもおもしろかったし、個人的にはそこで書かれていることにほぼ全面的に納得してて、親近感もものすごく感じているんだけど、それと同時に、でもなんでこんなに違和感のある結論が引き出されてくるのか?って、なんとも不思議な気分にさせてくれる。諸手を挙げて「そうそう!」って言えない感じがつねにあって、すごく緊張しつつ言葉を追っていきながら、「そうなんだけど、けどきっとそれだけじゃない」って呟きつづけるというような読書を強いられてる感じがする。(まったく触れなかったけど、この本を読んで特にカール・アインシュタインという人の仕事についてもっといろいろ知りたくなった。単純に評伝作者としてのディディ=ユベルマンの文章が優れてるってのもあるんだろうけど、すごく気になる生き方をした人だと感じた)。

松田青子「スタッキング可能」

 『早稲田文学5号』に掲載されてる松田青子さんの中篇「スタッキング可能」を読んだ。(読んだんだけど、この作品で描かれてるような真っ当ないわゆる「会社勤め」の経験がないために、最初に目を通したときすぐに「これは自分にはまったく関係のない世界のはなしかも」と感じ、そこで読むのをやめてしまおうかとも思ったんだけど、読み進めていくうちにぼんやりと自分に感じられるなりの作品の骨格みたいなものが見えてくるような気もしてきて、あ、この線ならなんとかついてけるかもしれないと思いなおし、そのままいちおう最後まで読み通すことができた。だもんで、正直ここで描かれてる状況や出来事に対する具体的な実感といったものがいまいちともなっておらず、感想はいつも以上に抽象的で自分勝手な解釈にそったものになってしまってる。通常営業といえばまあそれまでのはなしだけど、ともかく何か書き残しておきたいので書けるものを書ける範囲で書いておく。)
 作品のタイトルにある「スタッキング」っていうのは会議室なんかでよく用いられる、あの積み重ねて収納可能な簡易いす(いわゆる「スタッキングチェア」)なんかを指すときの「積み重ね」という意味をもつ英語らしい。作品ではこの「スタッキング可能」なもののもつ、集合のなかでの無個性なものとか画一的な特性のなさ、位置的につねに可動的な諸要素の代替可能なありさまといった幾つかの様態に焦点があてられている。要素の集合とはその場合、それ自体スタッキングされたフロアの集合として見ることのできる会社という組織の建築術的な積み重なりでもあるだろうし、その集合内部での代替可能で規格化された行動のパターンは、この会社的積み重なりに参加した無名の就業者たちによるもろもろの振る舞いの積み重なりとして代表され、演じられることになっている。「スタッキング可能」なものを表現するにあたって作品は、「同じものの際限のない重なり合い」というその特徴(何を要素として、どこまでの限度をもつ活動が、どのような形態のパターンで演じられているのかを示す「積み重なり」の諸特徴)を、類型的な諸人物による活動の断片の走り書き的な(あたかもエレベーターにのってあちこちのフロアを覗きまわっていくみたいな)素描として、断章形式の記述の連なりのなかで組織している(ざっと数えてつごう19の章が描くそれぞれのエピソードから一篇が形づくられている)。
 それぞれの断章が言説の総体のなかでの断片であると同時に連接可能なスタッキング(積み重なり)の形式となるのは、そこで描かれる諸人物の行動や内面に割かれる叙述を通じてであるけれど、叙述の内容が現にそうあるために、叙述の形づくるアスペクト(言説の局面)が特異な眺めをもたらしている。A田、B山、C川といった、この小説に見られるアルファベットと漢字の組み合わせによる人物の表記は相違と同一性の戯れを作品の言語にもたらしているだろう。個々の断章の形成するそれぞれの言説の内部では漢字がその場の同一性を保証すると同時にアルファベットは人物相互の隔たりと相違を説明している(たとえば同じフロアにそのとき居合わせるA山、B山、D山の三名の人称的な相違と場所的な同一性)。それとは反対に、個々の断章の限界をまたいで複数の言説を連接させる働きにおいて、人物を指示する漢字は場の相違を指標するしるしとなり、アルファベットは人物どうしの同一性を示すものになる(別々のフロアで勤務するはずのA田、A山、A村、等々複数の人物の、個々の言表を通じた一貫性、同一性の実現)。つまり名称を構成しているアルファベットと漢字との両成分がスタッキング可能な組みかえのさまざまなパターンを形づくっており、断章形式の叙述の場における相違性と同一性からなる人物の役割演技を可能にしている。そのイメージは積み重ねられる「イス」の光景の描写によって象徴的に表現されているだろう。《『わたし』はイスを重ねる。イスを重ねてビルをつくる。重ねて重ねて上の方がぐらぐらしてきたら、もう限界だなと思ったら、新しい列を横につくる。新しい列を積み重ねる。ここから見える世界も見えない世界も等しく同じであるように願いながら積み重ねる。それを繰り返す。そうやって縦への積み重ねと横への積み重ねを積み重ねる。》 名称の特異な表記は、イスを縦横に積み重ねるような具合でアルファベットと漢字の交差的な組み合わせの表現となり、同様に、断章形式の言説の諸ブロックを相違性と同一性との絡まり合う複合的なアスペクト(眺め)へと組織する。そのようにしてスタッキング可能なものは、「同じものの際限のない重なり合い」を実現すると同時に、それとは対立的な「異なるものどうしで相互に限度を設けあう分離」のような状態をも表現しているだろう。スタッキング可能なもののそのようなふたつのアスペクトは、類型(タイプ)と事例(ケース)の関係のなかで、そこで起こる出来事や状況、諸人物の活動や彼かのじょらの内面で起こっている想念の推移といったもろもろの要素的な相関物の配分と再配分の働きをになっており、そのようにして、作品の物語内容の水準におけるモチーフやテーマといったものを読みとらせ、洞察をうながすものになっているはずだ。
 作品の言説は対称的な角度で交差するふたつの眺めを同時に形づくっている。収束する類型が「同じものの際限のない重なり合い」として物語の内容の面で見えるようにするものとは、たとえば仕事明けの飲み会の席での男性社員どうしの(多分にホモソーシャルな)会話といったものや、あるいは昼食どきの女性社員どうしによる恋愛にかんする果てしないお喋りといった、平凡なひとたちが見せる日々のありふれた光景の数々であり、そして発散する個別の事例が「異なるものどうしで相互に限度を設けあう分離」として前者と同じ物語の内容面で見せるものとは、前者で描かれた同じひとたちが同じ類型的場面で同じ役割を演じているその演技の演技性であり、そのような社会的演劇が強いる仮面と扮装を通じなければ相互にかかわりを(没干渉という形でのかかわりをも)築くことのできない離散的な光景の数々だろう。いずれにしろ眺められているのは同じひとつの(会社という積み重ねらた)世界を満たしている光景の数々であり、ふたつの対照的なアスペクトは同じひとつの結論、つまり世界を前にしての、おのれの徹底的な無力を表明せざるをえないという結論を導き出してくるかのようにも見える。「同じものの際限のない重なり合い」においてスタッキング可能な世界は『わたし』の存在を不在のものとして算定し、そこでほとんど自動的に進行していくようにも見える。「異なるものどうしで相互に限度を設けあう分離」として世界は、『わたし』がそれに対して了解することもなんらの影響を与えることもできない無関心そのものが支配する真空として現われる。「スタッキング可能」な世界とは『わたし』の無力や不在が無理やりに明るみにされる場所であり、そのとき作品の「スタッキング可能」な言説形成の企図とは、そのような世界の前に不在の『わたし』をネガとして浮かび上がらせる文学に固有の営みとなるってことなんじゃないかな、と思う(書き方も描かれてる出来事も直接的な関心や狙いすらもまったく異なるはずだけど、世界に対するそのような了解を共有しているように見えるかぎりで、先週「abさんご」を読んだ黒田夏子さんと松田さんとはとても似たような小説に対するスタンスをとっているようにも思える)。
 他方でまた、「スタッキング可能」な世界の存在性がそれに対する『わたし』の無力の前に、たんに自動性や無関心であるより以上の、なにか途轍もなく理不尽な詰屈や忍従を強制する脅威的な働きかけの世界として現われる場合が問題となっている。会社や社会のなかで、性差についての偏見や幻想にもとづく見えない圧力として現働化する恫喝や威嚇や懐柔の数々を、スタッキング可能な世界は放任し容認するものとみなされている。類型や個別の事例を通じて表現される世界の自動性と無関心はそのとき、舞台の上でのあるがままの役割と演技をあるがままに固定し、あるがままの俳優としてひとを縛る、不変不動の死んだ書き割りのような背景になっているようにも思われる。そこから、この作品における、世界に対する無名の『わたし』による闘争のニュアンスが立ち上がることになる。《(……)『わたし』は絶対おもねらない。だまってずっと、おかしいって、馬鹿じゃねえのおまえらって心の中でくさし続けてみせる。頭の中にあるデスノートに名前を書き続けてみせる。だって誰かがおかしいと思ったから、いろんな所でいろんな人が同じように思ったから、声に出した人だけじゃなくて、声に出せなかったとしても思い続けた人がいたから、たった二十年くらいでこんなに違うんでしょ。だから思い続ける。》 作品の最後の章に読まれる『わたし』の激情が噴き出したこのくだりにより、ここまで読まれてきた断章の数々が、『わたし』の「頭の中にあるデスノート」に書かれたのかもしれない言葉の連なりでもあったという読みが可能になる。その語りは「スタッキング可能」な世界の存在性をできるだけ正確に、明瞭に語ろうとするかぎりでそれ自体「スタッキング可能」な記述の眺めを編成するものになり、そしてその匿名の群れの戯れのなかに、自身の絶対的な無名性を影の刻印のようにして秘かにしるしづけることを目指すものだろう。それがここでの無名の『わたし』による、いわば墓標としての断章群とでもよびたいこの作品の言説の連なりが形づくる眺めになってるんじゃないだろうか。

(……)ここから見える世界も見えない世界も等しく同じであるように願いながら積み重ねる。それを繰り返す。そうやって縦への積み重ねと横への積み重ねを積み重ねる。そうやって窓の外のビル群みたいな街をつくる。『わたし』の中につくる。『わたし』の街をつくる。そうやって歳をとりたい。そうやって死に近づいていきたい。そうやって『わたし』も積み重なりたい。どうかなあ、こういう戦い方は地味かなあ、少しも意味がないのかなあ?

 世界の存在を前にして無力や無名性を自身の力として引き受ける文芸の「戦い方」の「意味」とは、疑う余地なく、そのような言葉の「積み重ね」の継続によってそのつどの眺めとして生成的に引き出される以外に見出すことはできないはずだと思う。そういうことを思った。
(……ここから先は作品の感想とは関係のない余談だけど、今日の新聞をパラパラ眺めてたら、最近ノーベル賞を受賞したという中国の作家の身辺にかんするほんのりと思想調査的な記事があって、その文章の一部で、これは嘘かほんとか知るよしもないんだけど、この最近のノーベル賞受賞作家が、《文芸を「敵を壊滅させる有力な武器」と規定》する、そのような政治的信条を掲げる体制側に親和的な文芸サークルの一員である、という旨の記載があった。「有力な武器」ってところで、まあ苦笑いするしかないんだけど、苦笑いどころじゃすまないひとたちが現にたくさんいることもよくわかる。松田さんといい先週の黒田さんといい、文学の無力から、あるいは文学の無力にこそ、そのポジティブな力の源泉を汲み出してるように思われる作家の作品をつづけて読んできたので、ちょっと印象に残る記事だった。文学は無力である、そう規定する場合、文学が壁に向かって投げつけられる一握りの卵のように「無力な武器」であり、そのかぎりでなおも文学の側につく、なんてことが祈念されてるわけじゃない。壁に向かって卵を投げなければならない場合は、卵投げろよ、悠長に本読んだり、本書いたりしてないで、目いっぱい卵投げつけろよって思う。何をつぶれる卵に感情移入してんのか。文芸にとりつく無力とはそんなメタファーごっこなんか許さないくらいに、もっとずっとリテラルなもので徹底してるものだろう。それは文字どおりに役立たずの何かであるはずだろう。いろいろ作品はあるけれど、小説を読むうえでそこの条件だけは外すことができないものだと思ってる。)

黒田夏子「abさんご」

 早稲田文学新人賞を受賞した黒田夏子さんの短篇「abさんご」がとてもおもしろかった。描かれているのは語り手の私的な回想に属する過去の出来事やそこで感じられたり考えられたりしたさまざまな観想なんだけど、しかしこの過去の世界が、語り手や語り手自身の属する現在の時間を寄せ付けないようなかたちで振り返られているように感じた。過去が想起の時間のなかで現われることになるんだけど、語り手はそこに不在であるというような感じが強い。過去の時間のなかで、世界も、かつてその世界に属していた自分自身もそこにまざまざと現前するけれど、語り手である者はそこにいない。世界にはじかれているというよりは、かつて感じられた匂いや音の懐かしいさざめきみたいな感触は確かに語り手に届いており、しかしそこでそれに対してそれ以上の何かが求められてるわけでもなくて、そんな贅沢なのか吝嗇なのかちょっと判断のつきかねる態度において、ある無力さを刻む取り返しのつかなさ、どうしようもなさ、あきらめや気後れやためらいなんかといったもろもろの情態が濃密に立ちこめるって感じがする。欧文形式にのっとった横書きの行文のなかでは、漢字が稀少化され、それに反比例して平仮名が多用される(片仮名の表記は綴られる言葉に対してなんの貢献も求められずにすっかり消えてしまっている)。あるいは、当然そこに表記されてしかるべき普通名詞が採用されずに婉曲的で遠回りの記述がほどこされる。同じように、人物を指示する固有名や人称代名詞が消えてしまっており、誰かの横顔はそのつどの状況に応じて彼ないし彼女の示す属性の断面で切り取られ、そのたびごとに一からあらためて名づけなおされる。そうして固有名を失っている人物たちの行動や内面の記述にはしばしば受動形による客観描写のような構文が際立っていて、彼かのじょらをさながら自然にさらされた事物のような姿としてイメージさせるような効果もある。そのようにして、賞の選考委員をつとめた蓮實重彦が選評で簡潔に的確に述べている「きわめつけの貧しさ」という評言にふさわしい言語の状況が作り出されているわけだけれど、世界に対して小説の張りめぐらしたこのような言説の表面は、無力さや受動性、所有を断念することや現在の状況への諦念、選択肢を前にしての放心といったもろもろの態度(または態度のやりすごしという態度)の局面を形づくるものになっている。世界に対する無力を肯定する力のようなものがここにはあるようにも感じられるけど、それはシニシズムによく似てはいても、たとえば自分の無力さによって世界へと復讐におもむく力を得るというような(阿Qの「精神勝利法」のような)ものとはぜんぜん別のもので、この無力をそのままのものとして絶対的な無力さの肯定へと変成させるような力なんじゃないかなとも思う。飢えた子どもを前にして文学は何ができるか?みたいな脅迫そのものにしか聞こえない醜悪な設問があるけれど、そういう欺瞞的な問答が仮に何かの役に立つ場合があるとするなら、それは、文学には飢えた子どもの前で自身の無力を肯定する力があることを示すことができる場合だけなんじゃないかなとも思う。文学は飢えた子どもを前にして(文学の言語が世界へと投げかける表象の表面にはそれが確かに可能だし、またそれしかできないだろう)、飢えた子どものその無力さをまさに自身のものとして、ともに引き受け、ともにその死を死んでいくという力がある。そうする用意がないのなら政治なりビジネスなり実際的な実践の方面に進んでいけばいいだけのはなしで、極限的には、文学には無力や窮乏や喪失や失敗や剥奪といったような空無のもろもろの様態をそれとして引き受けてこれを身におびてたずさえていくことだけが固有の務めとして残るんじゃないだろうかなと思う。aとbと、ふたつの道が分岐する場所に立ったとして、そのどちらの道を選ぶか、どちらの道に進まざるを得ないのか、そして結局どちらの道に進んだのか、それらはすべて現在の時間における生きた判断と選択にかかわる行動の問題で、そこでは相対的な能力やその能力の相対的な不能さだけがすべてを左右しているだろう。成功した選択と決断はより良い結果をもたらすことになり、誤った選択だった場合は可能性としてありえたもう一方の選択にくらべてより悪しくある結果をもたらす。生きた現在のなかでは選択というひとつの行動はその選択をする者の有能さを証すものだし、選択に失敗した場合であっても、そこから帰結するその無能さと悪い結果はそれらと相関的な有能さと良い結果とから逆算してはかられなおして、なお救い出されることが可能だろう。文学の言語がおびる無力や無能はそのようなものではなくて、ことに過去の世界や出来事が問題となっているような場合にはあからさまに、それらに面前している自身の絶対的な不在と無力さを強調するようにも思われる。ある選択といったものがそこで得られるものとは別のものの排除や喪失や剥奪と表裏一体となって迫ってくるときには、選択の猶予や判断の訂正や結果の取り消しが未来の時間において請い求められている場合であっても、それは過去にそそぐ眼差しのなかで眺められることになるんじゃないだろうか。それは選択において強制される現在の行動をキャンセルしうる、選択それ自体の選択という行動の未決の場としての世界を現前させる眼差しであり、そのようなものとしての言語の編成を強く要請するものなんじゃないだろうか。強いられた選択と行動の場における相対的な能力と無力とが形づくる現在の結果なのではなくて、この行動と一体化した選択それ自体を問いにかけなおして、私たちにとっての絶対的な無力と無行動に働きかけることの可能な過去の世界の潜勢力といったものにうったえることが問題になっているんじゃないだろうか。ある現在の選択の結果をキャンセルするために現在に紐づけられた未来が請われているわけではないし、現在にとっての未来の視点から選択のなされた未来にとっての過去としての現在が再帰的に回顧され逆算されて、ありえたかもしれないもうひとつの選択の結果が望遠されているのでもない。喪失したものが取り返されようとしているのでもないし、するべきだったのにすることのなかった判断や行動が後悔の対象になっているのでもない(たとえばアカーキイ・アカーキエウィッチの亡霊を逆向きに誤読する準備が必要なんじゃないだろうか。外套への妄執からすっかり解放されて無為のまま華やぎはじめる亡霊の倒錯的で無責任な足どりの軽さみたいなものを造形しなおすべきなんじゃないだろうか)。すくなくとも回想や空想のなかでだけは帳消しにすることもできよう、そんなはかない影像のようなものとして想起の時間のなかでたゆたいながら映えるおのれの無力が眺められているのでさえなくて、「きわめつけの貧しさ」によってここで言語が形づくろうとしているものとは、私たちの絶対的な無力と不在とが陰画のように刻印されている過去の時間の全形態であるようにも思う。文学に唯一責任といったものが課されるとするなら、それは窮状を自身窮状そのものと化して引き受ける、この無力を肯定する力の顕現以外に求めるところはないのではないか、とも思う。そんなことを漠然と考えながら「abさんご」を読んだ。