ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

 ドゥルーズの『シネマ(時間イメージ)』のなかで何度か言及されていて気になっていた著者の本の、丹谷生貴志による翻訳。これは本当に素晴らしい本だった。なにか、今ここで一冊の完璧な書物を読んでしまったというような読後のこの感覚がものすごい。完璧な書物なんてものが存在するわけないし途方もない錯覚には違いないんだろうけど、いろんな意味で「もういいや」という気分になってしまうような言葉がここには書き連ねられていて、夢中で読んでいる最中はそれらの言葉の連なりに陶然としながらもわけもなく嫉妬してしまうというような感じだったのが(この文章書いてるのがなんで自分じゃないのか?みたいな純然たる妄想にもとづく歯がゆさ、歯噛みするような感覚)、しかし読み終える頃にはなんだかもう感動で胸がいっぱいになるような気持ちになってしまった。映画なんて一度たりともまともに見たことはないし、文化的な背景だったり生きている時代や状況だってなにひとつ自分とシェフェールって人とで重なるところはないんだけど、こういう人が遠い世界の向こうに確かに生きていて、こんな途轍もない言葉を残していてくれてたってだけで、なにか無根拠に勇気みたいな感情が底のほうからふつふつと湧いてくる気持ちがしている。この場でなにかひとつだけ言えるとするなら、「この本をまだ読んでないなら読まなきゃ駄目だよ!絶対だよ!ムックとの約束だよ!」ってことに尽きる。それ以外に本当に言いたいことはないし、それだけ言ってしまえばもはや、言わなければならないこともすべて言い切ってしまっている。つまりこの瞬間にブラウザ閉じて今すぐにでも本屋に駆け込むべきだ。というわけで、以下は蛇足として。(先週今週といろいろ疲弊することが多くて、何もかも投げ出したくなったりもしたんだけど、ぎりぎりのところでこういう本の言葉に救われたという気持ちがある。そうでなければ、あやうく旅とかに出てしまうところだった。塩麹をつかった美味しい創作料理を出すお店とかを探しに、どこか遠くへ旅に出てしまうところだった。オカリナ片手に旅に出るところだった。危うかった。世界にはまだこんなに美しい本があるし、それを読むことができるかもしれないし、うまくタイミングに恵まれればその感想をこうして書き残すことだってできる。もうそれだけで充分だ。ありがとうシェフェール。ありがとう丹生谷貴志。そして、ありがとうガチャピン)。
 ジャン・ルイシェフェールにとって映画のフィルム体験とは、時間性のなかでの、ある不可能なものから息吹くイマージュの出現と消失、その撹乱的な継続による未完遂の経験の全体のようなものとして現われている。映画理論や批評的な分析とはおよそ縁のない場所で「共犯的-応答的」に経験される「映画を見に行く普通の男」の身体と視覚性と欲望とが編み上げる映画とのアフェクティブなかかわりの全領域にわたり、フィルムという母胎に着床した不可能性の核のような何かが観客である「僕」の実存を震えさせつづけており、「映画の夜」においてはじめて経験されるそこでのイマージュと思考の固有の経験を記述していくシェフェールの筆の運びもまた、不可能なものから世界の闇夜へと射しこんでくるかのようなこの光の振動のような捉え難さを前にして、それ自体がすでに捉え難さによる筆記のようなものと化している(ドゥルーズは「理論が一種の偉大な詩となっている本」というふうにこの本を称えていたけど、確かにある種の散文作品がそこで綴られているかのような言葉の質感がみなぎっている)。
 最近読んできたアガンベンやディディ=ユベルマンの本のなかでも表象や起源の不可能性にかんする議論がつくづくと論述されていたわけだけれど、シェフェールの試論にあってこの不可能性は人間的な諸能力が溶解していく臨界のような経験の場においてかろうじて遠望されるものとして叙述による肉薄の目標になっているようにも思える(「裸性」のアガンベンにとっての美だったり、ディディ=ユベルマンにとっての歴史だったりの場合と比べて、不可能性を探るアナクロニズム的手つきや支点となる道具の水準においていろいろかすってるし共有するところも多いんだけど、作用点の位置が明らかに異なっているし、なにより力点としてのエクリチュールに求められている質の部分でまったく異なっている)。それはフィルムの喚起するイマージュに解きほぐしがたく絡みついた無数の繊維からなる不定形の組織を形づくっているようにも見え、対象を見ることと想像すること、見えているもののかたわらで起動する思考の様態、追憶の対象に淵源をもつ欲望や道徳感情等々、人間的諸能力の構成する領域を渦巻き状に巻き込みながら、その中心にある「重力点」のような失われた世界への閾となる特異点へと映画の観客(「僕」=シェフェール)もろとも、回転式のなだれの過程に飲み込んでいくもののようにも見える。
 映画館の闇のなかに投げかけられる光の帯と粒子状の塵の散乱においてイマージュは、そこに収められたなにがしかの被写体のシルエットや線状に展開するアクションの忠実な再現であることを放心したように放棄してしまう瞬間の連続に貫かれており、舞い散る塵や埃、スクリーンの表面に瞬間、走っては消え去る引っかき傷や黒点や斑点の終わりなきフラッシュバックの断続のようなものと化す(そのような視線のあり方において否応なく散乱-イマージュに捕らわれる「僕」がいる)。見えるものの確固とした輪郭をもつ形象が代表していたはずのドラマの局面やそれらが軌跡として描く運動イメージがになっていた間接的な時間表象の次元は破れさってしまい、あるいは、具象的な何かに(誰かに)似ているというかぎりで映画の物語のつつがない運行を支えていた人間的形象といったものがよってたつ、その類似を直観する能力自体が、そこではばらばらに解けはじめてしまっており、しかしながらそのような形象の消滅、イマージュの過ぎ行きのなかで次から次へと現われては消えていく可視的刺激の臨界的経験において、類似性を見取ることはあれやこれやのそのつどの個別の具体的事象の同一性の認識であることから、「何かに似ているもの」の受納、それが何に似ているのかはついに判明することはないけれど、それが「僕」にとって何かの大掛かりな反復であることだけは確かなように思われる、そのような純粋状態の類似による可視的な経験へと変成していくことになる(フーコーの「これはパイプではない」における絶対的な類似者についての議論なんかが、ひょっとしたらこのあたりのシェフェールの論述に対する格好のサブテキストになるかもしれない)。闇に閉ざされた深海にしきりと降り積もるプランクトンの死骸や海底の砂埃のような、映画のもたらすその視覚的印象の異質性の連続のなか、たとえばシェフェールはそこに、遊弋する光の身体をもつ一人の幼子のごとき存在の不動化へと向かう宙吊りのイマージュを見ている。上昇と沈降、存在と無、天上と現世、過去と現在等々、あれかこれかの択一的な対照が形づくる截然としたもろもろの区分の渦中に、文字どおりにそれら判然と色分けされたコントラストの分明さを中有の仄暗さ、回転する渦の求心的な流れに巻き込むようにして、「原初の失われた身体」そのものの痕跡である熟睡の眠りを眠る幼子のようなもののイマージュが現われている。議論の内実の詳細は本文を直接あたってもらうよりほかないけど(丹生谷貴志による欄外の註解が念入りですごく役に立つ)、そのようなイマージュこそは、かつてそれを見ていたはずなのに見えてはいなかったという、可視性の逆接的に回折された視線においてのみ見られることの可能なある特異なイマージュの対象であるはずのものの現われだろう。それはまた、可視化され復元された不可能な起源の代替的身体であり、現在へと化肉した過去の身体の(ドゥルーズの言う)結晶イメージのようなものでもあるだろう。見ることはそのとき、眼前に存在する現実的な知覚の対象とそのような対象の単なる不在とのあいだの中空に、おのれの保有する表象機能の綻びを表象することしかできないものとなる。視覚性や構想力の健全で通則的な働きのすべてはこのような不可能なものの眼前における不在、崇高の現前する非在、不可視なものの疎隔と接近との両実現といった事態を前にして、臨界する人間の形象の残余へと乗り上げることになる。何かに似ているけれど、何にも似ていないもの、それ自体のうちで類似性の内攻を被った、純粋な「のようなもの」、「…に類似しているもの、それ自体」、そのような何かが、イマージュのうちに出来と消失を反復させていく。
 この崇高で不可視なものでもあるイマージュ群の眼前での現われと消え去りに臨んで、一方で思考の能力はといえば、スクリーン上で描かれるあれやこれやの対象や運動や出来事を主体として把握するというそれ固有の能力をすでに喪失してしまったものとしてフィルムの経験に参入することを強いられているかのようでもあり、観客の思考の操作能力における「知(サヴォワール)」のそのような決定的な欠如が、しかしなおある逆接的で特異な方式での知の残存、「何も知らない」のではなくむしろ「僕の知らない何かを知っているはずのものが、どこかにいることを知っている」という形でのみ言明できるような特異な知の余剰、そのような「先行する知」の暗号的な意味作用の通達といった事態を招くことになる。個別のイマージュの現われやそれらの運動論的連接に接して事後に付加されるような思考が問題になっているのではなく、シェフェールがそこで説く知の特異なありさまとは、可視的なイマージュの類似性の場を貫通しながら「僕」の瞳へと達している不可視の記憶の非類似なものでもある仮象的反映、いわば想起の不可能から発する不可知の思考に掴まれた知の絶対的な先行性、解消不能のままとどまる「僕」の知の決定的な遅れといった事態であるだろう。「(まだ)知らない」と「(すでに)知っている」とによって知を区分し囲いこんでいる単調な両極のあいだには、「(すでに)知らないということを(まだ)知っている=それを忘れていることだけは覚えている」、ないし、「(まだ)知っていることを(すでに)知らずにいる=それに覚えがあることを思い出せずにいる」というような、「まだ」と「すでに」がアナクロニズム的な時間性の照明のもとに交差的な骨組みとして明るみに出す、ジャメビュとデジャビュとが混淆的に形づくる逆接的知の特異な様態みたいなものがあるはずだ。思考はそのような「先行する知」の介入によって主体の場を、反りを加えられて折り曲げられたイマージュと時間性とのあいだの折り目、非実在の縁、不可能な場としての閾へと変質させるかのようにも思える。そのような思考にとっての縁において、思考は対象なき思考(『シネマ』のドゥルーズの口ぶりによれば「思考なき思考」)と呼ぶにふさわしい限界的な形態をまとうにいたり、あるいは不確定の意味作用をになう解読不可能な暗号を過去の「重力点」から発信しつづける、イマージュにおける思考の強度そのものと化し、フィルムに面前する観客の存在を寄る辺ない待機状態に据えつづける力ともなる。世界は何か知れない知の介入が通り過ぎていくだけの場所となり、その過ぎ行きの起こす震えのような感触に乗り移られて、思考は「共犯的-応答的」に、生成し消滅していくこの世界の運動性そのものの放つ振動と化していく。あるいはフィルムの上で踊りつづけるイマージュの塵の運動=マチエールそのものとして可視化される思考の姿が視線のなかに現れる。
 そして、イマージュとのかかわりのなかで思考は、形体をもたない「情動-変状」(アフェクション)を可視性において解消するために、この形体化の契機となる依り代か形代のようなイマージュを待つもの、何かの再帰として現れるイマージュを総合なき散布の状態のままに待ち望むものとなる。映画のイマージュに本質的に内包される情動や感覚は、そのような待機や渇望として現勢化される観客のアフェクションのもとで、人間の欲望する能力や道徳感情の縁へと突出してくることになる。欲望の縁、外への(外の)欲望、不可能へと差し向けられる欲望といったものがシェフェールのここでの映画論を不穏に活気づけており、フィルムに描かれる確固とした輪郭にかたどられた人間的形象の、ある種のジャンル規定的に典型化された登場人物たちの水準でシェフェールの瞳を否応なく奪うことになるものとは、それがバーレスクのキャラクターであったり恐怖映画におなじみの神話的怪物たちであったり、あるいは欠損や過剰によってさまざまな姿態のもとでスクリーンに映し出される「フリークス」たちであったりもするけれど、それらの人物像は彼ら一身の不具性や極度に醜悪な容貌のうちに「僕」の恐怖を取り集めるものとして凝視の対象となる。人物たち個々別々に見られるさまざまな醜悪さ、その奇形性の具体例は世界の不具性そのもののしるしとして承認されるものとなり、あるいは不可知の起源において何か知れぬまま犯された原罪的罪といったものに対する根拠ある罰の痕跡として、「僕」=少年シェフェールにより受納されることになる(「結晶イメージ」として過去の時間の物質化された化石としての痕跡=怪物性といったもの)。罰を負った形象はそのような具合に情動と欲望に巻き込まれてイマージュのなかに現れており、恐怖や焦慮、切迫感や愉楽といった感情の動きのすべてはこの欲望と道徳感情の情動-変状として「僕」を捕捉している。そのとき有罪性とは何を意味するものであったのか。それは無知であること、未生の眠りを眠っていたこと、何に対しても責務を負わず(負いようがなく)、どのような結果に対してもいっさい責任がなかったこと、具体的ないかなる犯罪的行動にも加担しなかったこと、あるいはその起源として仮定されるような罪のあった場に「ほとんど」存在さえしなかったこと、つまり完全に無垢なものとしてそこに臨んでいたこと、そしてしかし、そのようなまったき無辜のものだけが贖罪をになうために有罪性を必然的にみずから任じなければならないということ。そのような欲望の逆接的で捻じれた論理が原初の場における不可能な罪障性をアナクロニズムの眼差しのもとに事後に、眼前のイマージュの開けのなかに、不可避的に見出している。フィルムを上映する映画館の暗闇はそのとき、縮尺の狂った世界における巨人たちの不可解な活動が連続する場となり、その活動を大写しにするスクリーンの前に臨席して何かを待ち望むかのように座席にその身を縛りつけ、イマージュの散乱を食い入るように見つめつづける観客=「僕」は、そこに「幼子のようなもの」の再来を待ちつつ、自身巨人たちに囲まれて身動きを奪われたかのようなしどけなさのうちに放心し、その目覚めと昏睡のはざまで、この「僕」=シェフェール=少年シェフェール(その時間的複合体)の背後から射してくる「一つ目の巨人」の眼光のごとき映写機からの光線は「僕」の後頭部を開口してその脳髄に残されている未開封のかつての記憶の写真の転写のようなものとなるかにも思われ、そして今や、イマージュの展開は「僕」における映画館の、あるいはいつとも画定できない別の時間の、別の場所での、そこに「僕」が存在したとも存在しなかったとも言い難い中有の場での「僕」のしぐさと情動とを正確に呼び戻しながら、不可能なこの経験、この無為における愉楽とこの無為による有罪性とを、「映画の夜」における視線のなかの光の散乱に回転させ巻き込んでいくことになる。
 無垢なものの有罪性はその無垢さ故にいっそう否認しがたいものとなる。語るべき言葉をもたず、負うべき責任からも免れて、いかなる行動からもいっさいの責務からも放免されてあった幼少期の時間が、映画のイマージュのなかで散り散りになって再開される。それは青年期(アドレッサンス)の時間構造のなかでアナクロニズムの眼差しのもとにおいてのみ再構成されうる、不可能な表象における出来と消失とが互いに分かちがたく組み合った、不可能そのものの時間的結晶であるだろう。アナクロニズムの罠に注意せよ、とシェフェールは警告している。時間のなかでの不可避の遅れを取り戻そうとするあまり、苦悶し焦慮に取り憑かれ、実体化された過去の時間にみずからはまりこんでしまったある映画に登場する殺人者の最悪な運命《犯罪的人生》を私たちの教訓としなければならない、と語る。《彼の生はその達成の不可能という唯一の苦悶を執拗に否認してしまうが故に、逆に最悪の彷徨になるのです。つまり、〔達成の不可能を否認する時、逆に〕彼の生は文字通り理由のない終わりなき犯罪的人生になってしまうのです。》 無辜の時間、起源における裸の無垢が不可能な取り戻しの目標として設定され、現在から分離された過去が実体化される、あるいは意味作用が唯一の線に削られて現在がこの意味作用の否定性の力に屈服し、それが故に不可能なものがますます不可能として強大化しつつ君臨しつづけ、遅れがともなう苦悶と焦りはそのとおりの障害として情動を苛みつづける。無垢な何かの予感を帯びて、そこに突破は不可能であるし、居直りに応じることはさらに不可能であるし、今や熟睡の眠りに戻っていくことも不可能であることははっきりしている。しかし、その事態を徹底的に受け入れたとき、イマージュの現われと消失に瞳を奪われつつある者に、あるいはひょっとしたら、不意に彼に鎮静をもたらす何か静穏そのものとして出現するイマージュといったもの、その恩寵のような何かの再来が出来することもあるのかもしれない。ジャン・ルイシェフェールは、いつか彼の視線のもとでそのような錯乱の中に訪れたある静けさの正体といったものを知っていたのかもしれない。

 (……)ですから、今や、映画において思考が可視的なものとなるということ、そのことだけが重要なのではないです。重要なのは、そこにおいて起動する可視性が、不可避的に、生成の瞬間の思考の滅裂な定在のなさに浸潤され汚染されてあるしかないという事態なのです(それ故にそこに起動する可視性は、世界の生成と同時にその崩壊、消滅を愉しむという倒錯を帯び、その質(カリテ)は、本来高貴さと人間性へと開かれると期待されもしよう思考の中に、それとまったく背反する倒錯を開くのです)。或いは、そこにおいて、その定在のない滅裂という思考の起動は、その思考と同じ始原の錯乱した混濁に損壊された可視性を稼動させ、だからその倒錯は可視性-思考の中に、あたかも生来の錯乱の刻印であるかのように打ち込まれることになるということ、そして、そうしたものとしての思考-可視性はともに、ともあれそれが生を受けた場であるだろう世界、そして起動するやそれが差し向けられる世界を、愛憎に発する否認において突き抜けてしまうことも廃棄してしまうことも決してないだろうにしても、そこを安住の場とせよという強制に似た要請に対しては拒否を示しつつ、〔愛憎と罪業感において〕絶え間なく、来るべき人間の目覚めと成ろうとし、そして或いはむしろ、拒絶の錯乱ではないにしても、(その半睡の累積において、人間であること、その世界の構成分子であることの外へと脱落して行くかのような、仮死の昏睡に落ち込むことを渇望するかのように)否認の大いなる不可能な眠りとなろうとする、そうした事態こそが重要なのです。