松田青子「スタッキング可能」

 『早稲田文学5号』に掲載されてる松田青子さんの中篇「スタッキング可能」を読んだ。(読んだんだけど、この作品で描かれてるような真っ当ないわゆる「会社勤め」の経験がないために、最初に目を通したときすぐに「これは自分にはまったく関係のない世界のはなしかも」と感じ、そこで読むのをやめてしまおうかとも思ったんだけど、読み進めていくうちにぼんやりと自分に感じられるなりの作品の骨格みたいなものが見えてくるような気もしてきて、あ、この線ならなんとかついてけるかもしれないと思いなおし、そのままいちおう最後まで読み通すことができた。だもんで、正直ここで描かれてる状況や出来事に対する具体的な実感といったものがいまいちともなっておらず、感想はいつも以上に抽象的で自分勝手な解釈にそったものになってしまってる。通常営業といえばまあそれまでのはなしだけど、ともかく何か書き残しておきたいので書けるものを書ける範囲で書いておく。)
 作品のタイトルにある「スタッキング」っていうのは会議室なんかでよく用いられる、あの積み重ねて収納可能な簡易いす(いわゆる「スタッキングチェア」)なんかを指すときの「積み重ね」という意味をもつ英語らしい。作品ではこの「スタッキング可能」なもののもつ、集合のなかでの無個性なものとか画一的な特性のなさ、位置的につねに可動的な諸要素の代替可能なありさまといった幾つかの様態に焦点があてられている。要素の集合とはその場合、それ自体スタッキングされたフロアの集合として見ることのできる会社という組織の建築術的な積み重なりでもあるだろうし、その集合内部での代替可能で規格化された行動のパターンは、この会社的積み重なりに参加した無名の就業者たちによるもろもろの振る舞いの積み重なりとして代表され、演じられることになっている。「スタッキング可能」なものを表現するにあたって作品は、「同じものの際限のない重なり合い」というその特徴(何を要素として、どこまでの限度をもつ活動が、どのような形態のパターンで演じられているのかを示す「積み重なり」の諸特徴)を、類型的な諸人物による活動の断片の走り書き的な(あたかもエレベーターにのってあちこちのフロアを覗きまわっていくみたいな)素描として、断章形式の記述の連なりのなかで組織している(ざっと数えてつごう19の章が描くそれぞれのエピソードから一篇が形づくられている)。
 それぞれの断章が言説の総体のなかでの断片であると同時に連接可能なスタッキング(積み重なり)の形式となるのは、そこで描かれる諸人物の行動や内面に割かれる叙述を通じてであるけれど、叙述の内容が現にそうあるために、叙述の形づくるアスペクト(言説の局面)が特異な眺めをもたらしている。A田、B山、C川といった、この小説に見られるアルファベットと漢字の組み合わせによる人物の表記は相違と同一性の戯れを作品の言語にもたらしているだろう。個々の断章の形成するそれぞれの言説の内部では漢字がその場の同一性を保証すると同時にアルファベットは人物相互の隔たりと相違を説明している(たとえば同じフロアにそのとき居合わせるA山、B山、D山の三名の人称的な相違と場所的な同一性)。それとは反対に、個々の断章の限界をまたいで複数の言説を連接させる働きにおいて、人物を指示する漢字は場の相違を指標するしるしとなり、アルファベットは人物どうしの同一性を示すものになる(別々のフロアで勤務するはずのA田、A山、A村、等々複数の人物の、個々の言表を通じた一貫性、同一性の実現)。つまり名称を構成しているアルファベットと漢字との両成分がスタッキング可能な組みかえのさまざまなパターンを形づくっており、断章形式の叙述の場における相違性と同一性からなる人物の役割演技を可能にしている。そのイメージは積み重ねられる「イス」の光景の描写によって象徴的に表現されているだろう。《『わたし』はイスを重ねる。イスを重ねてビルをつくる。重ねて重ねて上の方がぐらぐらしてきたら、もう限界だなと思ったら、新しい列を横につくる。新しい列を積み重ねる。ここから見える世界も見えない世界も等しく同じであるように願いながら積み重ねる。それを繰り返す。そうやって縦への積み重ねと横への積み重ねを積み重ねる。》 名称の特異な表記は、イスを縦横に積み重ねるような具合でアルファベットと漢字の交差的な組み合わせの表現となり、同様に、断章形式の言説の諸ブロックを相違性と同一性との絡まり合う複合的なアスペクト(眺め)へと組織する。そのようにしてスタッキング可能なものは、「同じものの際限のない重なり合い」を実現すると同時に、それとは対立的な「異なるものどうしで相互に限度を設けあう分離」のような状態をも表現しているだろう。スタッキング可能なもののそのようなふたつのアスペクトは、類型(タイプ)と事例(ケース)の関係のなかで、そこで起こる出来事や状況、諸人物の活動や彼かのじょらの内面で起こっている想念の推移といったもろもろの要素的な相関物の配分と再配分の働きをになっており、そのようにして、作品の物語内容の水準におけるモチーフやテーマといったものを読みとらせ、洞察をうながすものになっているはずだ。
 作品の言説は対称的な角度で交差するふたつの眺めを同時に形づくっている。収束する類型が「同じものの際限のない重なり合い」として物語の内容の面で見えるようにするものとは、たとえば仕事明けの飲み会の席での男性社員どうしの(多分にホモソーシャルな)会話といったものや、あるいは昼食どきの女性社員どうしによる恋愛にかんする果てしないお喋りといった、平凡なひとたちが見せる日々のありふれた光景の数々であり、そして発散する個別の事例が「異なるものどうしで相互に限度を設けあう分離」として前者と同じ物語の内容面で見せるものとは、前者で描かれた同じひとたちが同じ類型的場面で同じ役割を演じているその演技の演技性であり、そのような社会的演劇が強いる仮面と扮装を通じなければ相互にかかわりを(没干渉という形でのかかわりをも)築くことのできない離散的な光景の数々だろう。いずれにしろ眺められているのは同じひとつの(会社という積み重ねらた)世界を満たしている光景の数々であり、ふたつの対照的なアスペクトは同じひとつの結論、つまり世界を前にしての、おのれの徹底的な無力を表明せざるをえないという結論を導き出してくるかのようにも見える。「同じものの際限のない重なり合い」においてスタッキング可能な世界は『わたし』の存在を不在のものとして算定し、そこでほとんど自動的に進行していくようにも見える。「異なるものどうしで相互に限度を設けあう分離」として世界は、『わたし』がそれに対して了解することもなんらの影響を与えることもできない無関心そのものが支配する真空として現われる。「スタッキング可能」な世界とは『わたし』の無力や不在が無理やりに明るみにされる場所であり、そのとき作品の「スタッキング可能」な言説形成の企図とは、そのような世界の前に不在の『わたし』をネガとして浮かび上がらせる文学に固有の営みとなるってことなんじゃないかな、と思う(書き方も描かれてる出来事も直接的な関心や狙いすらもまったく異なるはずだけど、世界に対するそのような了解を共有しているように見えるかぎりで、先週「abさんご」を読んだ黒田夏子さんと松田さんとはとても似たような小説に対するスタンスをとっているようにも思える)。
 他方でまた、「スタッキング可能」な世界の存在性がそれに対する『わたし』の無力の前に、たんに自動性や無関心であるより以上の、なにか途轍もなく理不尽な詰屈や忍従を強制する脅威的な働きかけの世界として現われる場合が問題となっている。会社や社会のなかで、性差についての偏見や幻想にもとづく見えない圧力として現働化する恫喝や威嚇や懐柔の数々を、スタッキング可能な世界は放任し容認するものとみなされている。類型や個別の事例を通じて表現される世界の自動性と無関心はそのとき、舞台の上でのあるがままの役割と演技をあるがままに固定し、あるがままの俳優としてひとを縛る、不変不動の死んだ書き割りのような背景になっているようにも思われる。そこから、この作品における、世界に対する無名の『わたし』による闘争のニュアンスが立ち上がることになる。《(……)『わたし』は絶対おもねらない。だまってずっと、おかしいって、馬鹿じゃねえのおまえらって心の中でくさし続けてみせる。頭の中にあるデスノートに名前を書き続けてみせる。だって誰かがおかしいと思ったから、いろんな所でいろんな人が同じように思ったから、声に出した人だけじゃなくて、声に出せなかったとしても思い続けた人がいたから、たった二十年くらいでこんなに違うんでしょ。だから思い続ける。》 作品の最後の章に読まれる『わたし』の激情が噴き出したこのくだりにより、ここまで読まれてきた断章の数々が、『わたし』の「頭の中にあるデスノート」に書かれたのかもしれない言葉の連なりでもあったという読みが可能になる。その語りは「スタッキング可能」な世界の存在性をできるだけ正確に、明瞭に語ろうとするかぎりでそれ自体「スタッキング可能」な記述の眺めを編成するものになり、そしてその匿名の群れの戯れのなかに、自身の絶対的な無名性を影の刻印のようにして秘かにしるしづけることを目指すものだろう。それがここでの無名の『わたし』による、いわば墓標としての断章群とでもよびたいこの作品の言説の連なりが形づくる眺めになってるんじゃないだろうか。

(……)ここから見える世界も見えない世界も等しく同じであるように願いながら積み重ねる。それを繰り返す。そうやって縦への積み重ねと横への積み重ねを積み重ねる。そうやって窓の外のビル群みたいな街をつくる。『わたし』の中につくる。『わたし』の街をつくる。そうやって歳をとりたい。そうやって死に近づいていきたい。そうやって『わたし』も積み重なりたい。どうかなあ、こういう戦い方は地味かなあ、少しも意味がないのかなあ?

 世界の存在を前にして無力や無名性を自身の力として引き受ける文芸の「戦い方」の「意味」とは、疑う余地なく、そのような言葉の「積み重ね」の継続によってそのつどの眺めとして生成的に引き出される以外に見出すことはできないはずだと思う。そういうことを思った。
(……ここから先は作品の感想とは関係のない余談だけど、今日の新聞をパラパラ眺めてたら、最近ノーベル賞を受賞したという中国の作家の身辺にかんするほんのりと思想調査的な記事があって、その文章の一部で、これは嘘かほんとか知るよしもないんだけど、この最近のノーベル賞受賞作家が、《文芸を「敵を壊滅させる有力な武器」と規定》する、そのような政治的信条を掲げる体制側に親和的な文芸サークルの一員である、という旨の記載があった。「有力な武器」ってところで、まあ苦笑いするしかないんだけど、苦笑いどころじゃすまないひとたちが現にたくさんいることもよくわかる。松田さんといい先週の黒田さんといい、文学の無力から、あるいは文学の無力にこそ、そのポジティブな力の源泉を汲み出してるように思われる作家の作品をつづけて読んできたので、ちょっと印象に残る記事だった。文学は無力である、そう規定する場合、文学が壁に向かって投げつけられる一握りの卵のように「無力な武器」であり、そのかぎりでなおも文学の側につく、なんてことが祈念されてるわけじゃない。壁に向かって卵を投げなければならない場合は、卵投げろよ、悠長に本読んだり、本書いたりしてないで、目いっぱい卵投げつけろよって思う。何をつぶれる卵に感情移入してんのか。文芸にとりつく無力とはそんなメタファーごっこなんか許さないくらいに、もっとずっとリテラルなもので徹底してるものだろう。それは文字どおりに役立たずの何かであるはずだろう。いろいろ作品はあるけれど、小説を読むうえでそこの条件だけは外すことができないものだと思ってる。)