黒田夏子「abさんご」

 早稲田文学新人賞を受賞した黒田夏子さんの短篇「abさんご」がとてもおもしろかった。描かれているのは語り手の私的な回想に属する過去の出来事やそこで感じられたり考えられたりしたさまざまな観想なんだけど、しかしこの過去の世界が、語り手や語り手自身の属する現在の時間を寄せ付けないようなかたちで振り返られているように感じた。過去が想起の時間のなかで現われることになるんだけど、語り手はそこに不在であるというような感じが強い。過去の時間のなかで、世界も、かつてその世界に属していた自分自身もそこにまざまざと現前するけれど、語り手である者はそこにいない。世界にはじかれているというよりは、かつて感じられた匂いや音の懐かしいさざめきみたいな感触は確かに語り手に届いており、しかしそこでそれに対してそれ以上の何かが求められてるわけでもなくて、そんな贅沢なのか吝嗇なのかちょっと判断のつきかねる態度において、ある無力さを刻む取り返しのつかなさ、どうしようもなさ、あきらめや気後れやためらいなんかといったもろもろの情態が濃密に立ちこめるって感じがする。欧文形式にのっとった横書きの行文のなかでは、漢字が稀少化され、それに反比例して平仮名が多用される(片仮名の表記は綴られる言葉に対してなんの貢献も求められずにすっかり消えてしまっている)。あるいは、当然そこに表記されてしかるべき普通名詞が採用されずに婉曲的で遠回りの記述がほどこされる。同じように、人物を指示する固有名や人称代名詞が消えてしまっており、誰かの横顔はそのつどの状況に応じて彼ないし彼女の示す属性の断面で切り取られ、そのたびごとに一からあらためて名づけなおされる。そうして固有名を失っている人物たちの行動や内面の記述にはしばしば受動形による客観描写のような構文が際立っていて、彼かのじょらをさながら自然にさらされた事物のような姿としてイメージさせるような効果もある。そのようにして、賞の選考委員をつとめた蓮實重彦が選評で簡潔に的確に述べている「きわめつけの貧しさ」という評言にふさわしい言語の状況が作り出されているわけだけれど、世界に対して小説の張りめぐらしたこのような言説の表面は、無力さや受動性、所有を断念することや現在の状況への諦念、選択肢を前にしての放心といったもろもろの態度(または態度のやりすごしという態度)の局面を形づくるものになっている。世界に対する無力を肯定する力のようなものがここにはあるようにも感じられるけど、それはシニシズムによく似てはいても、たとえば自分の無力さによって世界へと復讐におもむく力を得るというような(阿Qの「精神勝利法」のような)ものとはぜんぜん別のもので、この無力をそのままのものとして絶対的な無力さの肯定へと変成させるような力なんじゃないかなとも思う。飢えた子どもを前にして文学は何ができるか?みたいな脅迫そのものにしか聞こえない醜悪な設問があるけれど、そういう欺瞞的な問答が仮に何かの役に立つ場合があるとするなら、それは、文学には飢えた子どもの前で自身の無力を肯定する力があることを示すことができる場合だけなんじゃないかなとも思う。文学は飢えた子どもを前にして(文学の言語が世界へと投げかける表象の表面にはそれが確かに可能だし、またそれしかできないだろう)、飢えた子どものその無力さをまさに自身のものとして、ともに引き受け、ともにその死を死んでいくという力がある。そうする用意がないのなら政治なりビジネスなり実際的な実践の方面に進んでいけばいいだけのはなしで、極限的には、文学には無力や窮乏や喪失や失敗や剥奪といったような空無のもろもろの様態をそれとして引き受けてこれを身におびてたずさえていくことだけが固有の務めとして残るんじゃないだろうかなと思う。aとbと、ふたつの道が分岐する場所に立ったとして、そのどちらの道を選ぶか、どちらの道に進まざるを得ないのか、そして結局どちらの道に進んだのか、それらはすべて現在の時間における生きた判断と選択にかかわる行動の問題で、そこでは相対的な能力やその能力の相対的な不能さだけがすべてを左右しているだろう。成功した選択と決断はより良い結果をもたらすことになり、誤った選択だった場合は可能性としてありえたもう一方の選択にくらべてより悪しくある結果をもたらす。生きた現在のなかでは選択というひとつの行動はその選択をする者の有能さを証すものだし、選択に失敗した場合であっても、そこから帰結するその無能さと悪い結果はそれらと相関的な有能さと良い結果とから逆算してはかられなおして、なお救い出されることが可能だろう。文学の言語がおびる無力や無能はそのようなものではなくて、ことに過去の世界や出来事が問題となっているような場合にはあからさまに、それらに面前している自身の絶対的な不在と無力さを強調するようにも思われる。ある選択といったものがそこで得られるものとは別のものの排除や喪失や剥奪と表裏一体となって迫ってくるときには、選択の猶予や判断の訂正や結果の取り消しが未来の時間において請い求められている場合であっても、それは過去にそそぐ眼差しのなかで眺められることになるんじゃないだろうか。それは選択において強制される現在の行動をキャンセルしうる、選択それ自体の選択という行動の未決の場としての世界を現前させる眼差しであり、そのようなものとしての言語の編成を強く要請するものなんじゃないだろうか。強いられた選択と行動の場における相対的な能力と無力とが形づくる現在の結果なのではなくて、この行動と一体化した選択それ自体を問いにかけなおして、私たちにとっての絶対的な無力と無行動に働きかけることの可能な過去の世界の潜勢力といったものにうったえることが問題になっているんじゃないだろうか。ある現在の選択の結果をキャンセルするために現在に紐づけられた未来が請われているわけではないし、現在にとっての未来の視点から選択のなされた未来にとっての過去としての現在が再帰的に回顧され逆算されて、ありえたかもしれないもうひとつの選択の結果が望遠されているのでもない。喪失したものが取り返されようとしているのでもないし、するべきだったのにすることのなかった判断や行動が後悔の対象になっているのでもない(たとえばアカーキイ・アカーキエウィッチの亡霊を逆向きに誤読する準備が必要なんじゃないだろうか。外套への妄執からすっかり解放されて無為のまま華やぎはじめる亡霊の倒錯的で無責任な足どりの軽さみたいなものを造形しなおすべきなんじゃないだろうか)。すくなくとも回想や空想のなかでだけは帳消しにすることもできよう、そんなはかない影像のようなものとして想起の時間のなかでたゆたいながら映えるおのれの無力が眺められているのでさえなくて、「きわめつけの貧しさ」によってここで言語が形づくろうとしているものとは、私たちの絶対的な無力と不在とが陰画のように刻印されている過去の時間の全形態であるようにも思う。文学に唯一責任といったものが課されるとするなら、それは窮状を自身窮状そのものと化して引き受ける、この無力を肯定する力の顕現以外に求めるところはないのではないか、とも思う。そんなことを漠然と考えながら「abさんご」を読んだ。