ディディ=ユベルマン『時間の前で』

 半年くらい前に読んだ『イメージの前で』につづいて、二冊目のディディ=ユベルマンの著作(情けないことに『イメージの前で』の細かな内容は、論旨のおおまかなニュアンスを除いてあらかた記憶から消えてなくなった)。しかしこの本もやっぱりとてもおもしろかった。最近読んだばかりのアガンベンの『裸性』が神学的な思考とイメージに対する批判を展開するにあたってまさにそういうスタンスを取ってたんだけど、美術史の現在を問い直していまだ開かれたままの未来へと向けてこれを練り直そうとする美術史家ディディ=ユベルマンのここでの論考もまた、イメージに帯同する認識論的なアナクロニズムの必要性や不可避性といったものを執拗に説く内容になっている。
 収録されたどの論考でも、一貫して歴史と美術のイメージに対するアナクロニズム的視座への強固な要請が急務の課題として問題化されてるわけだけど、対象と主題に応じて次々に介入の角度と深度を変えていくディディ=ユベルマンのここでの多岐にわたる視点をぜんぶ回収することなんてとてもできない。だから気になった一点だけをものすごく乱暴に要約するけれど、ここで述べられていることとは、つまり、実証的な事実として定められるべき起源の標定における、その不可能に怯んで、年代記的歴史記述や標準的な認識が取り繕うようにして仮構してきた贋造や抑圧や隠蔽、不当な抽象化といった人文主義的作業の数々を拒否すること、そこで偽られた歴史における不死や永世といったものを徹底して拒み、その代償として、起源の不可能や踏み越えることのできない隔たりをそれとして見出し、これをイメージや歴史の現在と衝突させることによって、そのような衝突が発生させるいわば事件と力の現場において、今ここで目覚めつつある不可能な起源を運動状態にあるものとして現前化させること、みたいなことじゃないかなと思う(それはだから、必然的に無数の悲惨と不吉をめぐる歴史記述、ドキュメントみたいなものとなる)。不可能なものとそれに対する抑圧や隠蔽といった事態は「否定の否定」(否認)という態度においてフェティシズムの様々な場合の様態を形づくっているものだろうけど、アナクロニズムの戦略はこの「否定の否定」をさらに否定する、弁証法的で力動的な契機として見出されているんだろうとも思う(この捩れた否定的操作により、起源はたんにノスタルジーの対象として理想化され単純化されて見出されるわけじゃなく、必然的に、重層決定や複数の力が折り重ねられる歴史の複合化した現在として、表象を引き裂きながら現われる不可能なものとみなされているだろう)。ディディ=ユベルマンがそれぞれの論考をつうじて取り出してくるそのような(非ヘーゲル的な)弁証法的イメージ展開の不可能な起源となる具体例としては、たとえばそれは、ローマの大プリニウスが法的・道徳的・公共的圏域の致死的な解体のきざしとして喪失の嘆きとともに見据える「原型-イメージ」(象徴化された父祖たちの胸像のひな型)であったり、あるいはカール・アインシュタインという美術史家(はじめて名前を聞いたんだけど)が今世紀初頭に人類学的パースペクティブのもと見出すことになる西洋美術史にとってのまったき「非-認識の対象」にして「認識の非-対象」でもあるようなアフリカ黒人彫刻という先史的不可能の対象であり、またはベンヤミンがその歴史認識おいて範例とした「悪意-イメージ」の現われの、その遠ざかり、落下していきながら稲妻の閃光を放つ根源のアウラの解体であり、そしてまた、バーネット・ニューマン(この人もはじめて名前を聞いた)がその絵画制作をつうじて主体と物質と支持材との関係に導いたと目されているアウラ的「仮定」のもうける幾つかの絶対的隔たり(対象・時間・場・主体といったイメージの構成原理の作動領域となる境位で、そのそれぞれの下部におかれて絵画制作の実践を、根源との衝突の経験と化すことを可能にするような分節機能としての「仮定」=「下に置くもの」)でもあり、こうしてざっと読んでいくと、そのような固有の事例が、めいめいの前に、めいめいのおかれた時代や立場、状況の相違を超えて、対峙すべき起源の不可能としての姿を現わしていることが確認できる。そのようにディディ=ユベルマンは事態の推移を記述していってる。
 先日のアガンベンアナクロニズム論との対照でちょっと興味深く思える点もある。起源の不可能という特徴をイメージと思考にかんする批評の核心に据えるにあたって、二人の論者のあいだで、その理解に対する気になる相違があるようにも思う。「裸性」のアガンベンにとって不可能な起源とは、おそらく無垢なもの、罪や腐敗との関わりをいまだもっていないもの、認識の対象として目標にされるものだけどそれ自体は認識とは無関係なものとして設定されており、そこへ歴史的事後に、否定神学や罪障性にまつわるあらゆる論理や欲望が領域化の罪ある目標として巣食いにやってくるものという無時間的な場と同一視されて観想されており、この起源をそれとして見ることが可能ならば、ある充実さや無原罪のうちにイメージされるものというニュアンスにおいて議論の前提にされているもののようにも思われる。イメージに面前する真正のアナクロニズム的操作(「裸にする」こと)は、その起源(裸それ自体という錯覚)に対する態度において、端的に、裸それ自体やそれに類する無のごときものは存在しない、ということを証明する生成の手続きとして、悪しき神学的装置の作動に対し強い批判を突きつけている。それはやむことのない欺瞞的な恩寵の衣装の引き剥がしの作業として時間とイメージに介入しようとしている。否定神学が設定するような「恩寵の衣装の下の腐敗した裸の本性」といったものに対しては、アガンベンアナクロニズムの「裸にすること」は、そのつどの剥離の身振りに即して「これが(求めていた、あるいは隠したがっていた)それだ」という愚鈍な同語反復の叫びを繰り返そうとするように思う。つまり起源における無や不可能、認識の不能、解体の徴候などはないということを証明するためにこそ、そのような無や不可能をあらかじめ設定する思考やイメージのあり方を批判するためにこそ、あるいは「否定の否定を、否定する」というような弁証法的イメージの暴力的力能に訴えるんじゃなくて、そのような「否定の否定」に対しては、端的な肯定の言葉を突きつけるためにこそ、今ここで「裸にすること」の肯定的身振りが裸へと向けて繰り返されることが要請されてるんじゃないかなと感じる(アガンベンは「裸は存在しない」と確かに否定形で語るけど、それは否定神学がまったく同じ形式で語る場合の「裸は存在しない(神なき人間本性の自立などありえない)」という文句の、双方の立つその条件の場所の差異を際立たせ、なおかつ決定的にずらすためにこそそう語るのではないだろうか。否定性の契機をそのまままるごと肯定へと変換する賭けとして、まさしく「裸にする」が問題となってるんじゃないだろういか)。要するに、開かれるイメージには、不可能な起源に向かって根源的な否定性を呼び戻すようなディディ=ユベルマン的な解体とモンタージュとによる弁証法的律動をもつタイプと、アガンベンが(他の著作ではどうだか知らないけど、控えめに見て「裸性」の議論においては確かに見出せるものとして)説いているような、起源の不可能性といったものを歴史認識や時間意識における典型的な偽問題とみなす、愚鈍で獣的なものでもある同語反復による、ある肯定から始まるような起源のまったく別の歴史を現前させようとするタイプがあるんじゃないのかな、とか思った。何書いてるのか自分でもよくわからなくなってきたので、このへんでやめた方がいいんじゃないかな? とも思った。
 ともあれ、いろいろと考えさせてくれる刺激的な論考に溢れてた一冊だった。ディディ=ユベルマンの書くものはこれまで読んだ二冊ともとてもおもしろかったし、個人的にはそこで書かれていることにほぼ全面的に納得してて、親近感もものすごく感じているんだけど、それと同時に、でもなんでこんなに違和感のある結論が引き出されてくるのか?って、なんとも不思議な気分にさせてくれる。諸手を挙げて「そうそう!」って言えない感じがつねにあって、すごく緊張しつつ言葉を追っていきながら、「そうなんだけど、けどきっとそれだけじゃない」って呟きつづけるというような読書を強いられてる感じがする。(まったく触れなかったけど、この本を読んで特にカール・アインシュタインという人の仕事についてもっといろいろ知りたくなった。単純に評伝作者としてのディディ=ユベルマンの文章が優れてるってのもあるんだろうけど、すごく気になる生き方をした人だと感じた)。