マヌエル・プイグ『リタ・ヘイワースの背信』

 マヌエル・プイグは『蜘蛛女のキス』で有名なような気がするけど作品を実際に読んでみたのは今回がはじめて。今週はその彼の『リタ・ヘイワース背信』という小説を読んで一週間すごした。具体的にどこがどうとは言えないんだけど、わりかしおもしろい小説だった。1930年代から40年代にかけてのアルゼンチンの片田舎を舞台に、ある少年の家族と彼らの周辺の人物たちの行状や思念を星座のように緩やかに繋ぎとめながら断章形式で散りばめた挿話群、といった趣きの長篇作品。全2部、13章からなる各回のエピソードは、対話劇や作文、備忘録、日記、手紙、投書といったそれぞれに異なる趣向をもった説話の形態によって仮構されており、小説作品に対する作家の多彩で明瞭な言語意識がよくうかがえるような楽しい作りになっている。その先鋭的な言葉の構築性のもとで、思春期の青年たちを捉える泥臭い性的な感覚だとか貧困な状況にある生活者たちを追い詰める暮らしの窮迫ぶりなんかが孤独のうちに掬い取られていって、それぞれの挿話に描かれる情景をきらきらと小さく瞬かせていく、といった感じ。言語の造形性に対するモダニズム的な作者のセンスとそこに描かれる話柄の地べたを這い回って取り集められたモチーフとのギャップがおもしろい。ちょっと前に読んだコルタサルといい、アルゼンチンの作家にはオーソドックスなリアリズムのようなものからかけ離れた作風の作品が多いのかなあとか思うけど、自分の手に取った数少ない作品がたまたまそうだっただけなのかもしれないし、そのあたりはよくわからない。おもしろきゃなんでもいいんだけど、これからはちょっと意識してアルゼンチンの作家の小説を探してみようかなあと思った。(そういやタイトルになってる「リタ・ヘイワース背信」が何を指してのことなのか、ちょっとはっきりとは理解できなかった。まあ読んでいてなんとなく心当たりのある箇所もあったんだけど)。

 先週から引き続き、今週もdragon houseのダンス動画ばっかり視聴してた。nonstopの人によるソロのパフォーマンスだけどこれまたかっこいいなあ。もれなくかっこいい。

 たとえば人類の体の作りといったもんが現代人のものと同じになってどんくらいの月日が経つのかは知らないけど、仮に2千数百年前のギリシャ人とかと比較してもまったく一緒の神経系や骨格や筋肉の作りをしてるのは確かでしょう。けど紀元前のギリシャ俳優がアテナイの悲劇や喜劇の舞台の上とかでこんなダンスを公衆の前で披露して「イェーイ!」って盛り上がってたとはちょっと考えられない(あるいはひょっとしたら……、ゴクリ)。しかしまた、当時のギリシャ人のなかでとりわけダンスの才能に恵まれてる踊り手を選んで、仮にこのダブステップの音楽とダンスの振り付けをしっかり授けることができるとしたなら、彼らのうちの才能溢れる誰かもまた、この動画内でのnonstopの人に匹敵するようなパフォーマンスを充分演じることができたのだと思うわけです。それが不思議だなと感じる。任意の一人の人間のうちにそれに必要なすべての要素が何もかもすでに揃っていたのに、そのようなパフォーマンスが現実に私たちの前の経験として出現するのに、何十万年とか数百万年とかの途方もない時間がかかったわけでしょ。手足を痙攣させることだったり、体全体を倒れこみそうなくらい傾けることだったり、ゆっくり動いたり、逆に素早く動いたり、直前のしぐさや動作を繰り返したり、訂正するみたいにやり直してみたり、滑るようにステップしてみせるかと思えば、崩れこみそうな勢いで体をがくつかせてみたり。細分化して取り出せば、それぞれのしぐさはすべて人間の日常的な、私たち自身のよく知ってる運動に差し戻して観察できるものであることがはっきりしているわけでしょう。それらの動作は現代人同様、2千年前のギリシャ人たちの身体にだってもちろん可能的に開かれている。物的な基盤として存在しなかったのはダブステップっていう音楽と、ここでの音楽とダンス双方に対して互恵的な関係を導く視覚的なモデルになるような映像加工的な技術のもたらすさまざまな印象だけだし、ダンサーの発想のなかで気づかれていなかったのはそれら既知の運動的な要素を繋げていく身体における独特の連接のリズムだけなんだと思う。過去の時間のなかにとどまっている人たちと現代の人間とのあいだに横たわる違いはそうしてほんのちょっとのものなのかもしれないし、あるいはそのように考えるかぎりで途方もないような隔たりなのかもしれない。どっちかはわからないけど、身体の運動による視覚的効果として、目覚しい、ほとんど前代未聞といっていいような新しさの印象がいま目の前に現れる。身体の運動に普遍的な、ほとんど無時間的な埋没されたような条件の中から、未知のまったく新しい何かが歴史の中から生まれてくる、生まれてくるってより破裂して身体から噴出してくる瞬間みたいなものが感じられるような気もする。その印象はまた、何十万年も人間の身体で眠っていた運動の可能性が現代にようやく目覚める、再現される、とかいうことじゃないのかもしれない。そういう目的論的な思考において感じられるべきものじゃなくて、ここでの映像的印象は歴史の中で身体がこうむった特異な、避けることも可能だった、実現することが必ずしも必然ではなかった、そんなような一種の不慮のアクシデントのようなものとして出現したものなのかもしれない、とも思う。身体の運動において事前に欠けていたものを眠りからの目覚めみたいな具合で補い、そこに予期されていた普遍性を復活させるようなもの、というよりも、時間の中で実現した個別の特異な事実として、その行為の事後にはじめて身体や運動の普遍性に登録され、まったく新たにそこにリストアップされるべきものとして、それ以後に普遍的な条件の眠りを破りつつ、そのような豊かさの感動において「なくてもよかった、でも確かにそこに現れてしまった」という事件か恩寵みたいにして付け加わってくるような出来事であると感じる。そういうものだけが本当に新しいものだと言われるべきだろうし、たくさん動画のあがってる彼らのパフォーマンスのいちいちにちょっとのあいだ目を奪われながら、そのつど、これこそがそういうものだっていう強い感覚を再更新する気持ちがしてならないわけなんです。それは錯覚なのかしら?

 ↓の動画も愉快ですよ。先週貼った動画にも登場していた赤いパーカーのiGlideの人(左)と、4人目にダンスを披露したグレーのシャツのbluprintって人によるユニット。

 2人ともとても正確な動きをしててうっとりしてしまう。iGrideの人は滑らかな動作が得意らしく、対照的にbluprintの人はハサミみたいなかっちりした支点のある動作が巧みで見ていて小気味いい。見事だなあ。