バルザック『サラジーヌ』

 バルザックは以前から興味があったんだけど、『人間喜劇』がどうにも膨大すぎるって印象があってどの作品から手をつけていいものやら見当がつかずにこれまで放置していた作家だった。ロラン・バルトの『サラジーヌ』論は読んでないんだけどとりあえずその存在は知っていて、それにもやっぱり興味があり、いいきっかけだし岩波文庫でお手ごろな値段ってこともあって先日出版された「サラジーヌ」を含むこの短篇集をまずは手に取ってみることにした(芳川泰久があらためて訳出してるってとこも加点ポイント)。
 表題作「サラジーヌ」に他3篇(「ファチーノ・カーネ」、「ピエール・グラスー」、「ボエームの王」)を収録した短篇集で、どの作品もおもしろく読めた。語りの構成の水準ではどれもけっこう入り組んだ作りになってるんだけど、明瞭でくっきりした輪郭をもつ文体のおかげでほとんど混濁なしに物語の骨格を読み取ることができる。リーダブルといえばリーダブルな作品なんだけど、作家のメッセージなんかとはひとまず別に、作品自体の無意識の水準というか、言述されたポジティブな内容とは別の次元で作品を活気づけているような細部や叙述の働きのようなものが読めば読むほど透けて見えてくるような雰囲気もどこかしら湛えていて、バルトやミシェル・セールのような人たちがバルザックに魅かれる理由もなんとなくわかる気がする(バルトとセールにおけるそれぞれのサラジーヌ論の触りの部分が訳者あとがきで紹介されているけど、どっちもいい意味でかっ飛んでてすごく興味深い。残念ながらバルトの本は現在再版の見込みがないみたいだけどセールのは今も手に入るみたいだ。来月以降ふところに余裕があれば是非入手したいと思ってる)。
 読んでる最中気になった点のメモを取ってたんだけど、さっき本を読み終えてじゃあ感想でも書こうかなって腰をあげつつ参考までに芳川さんの解説を読んでみたら、言いたいところが先に、しかも自分が書けるかなと思ってたものよりずっと見通しのよい形で的確に、ズバっと言い尽くされてしまっていた。批評家 kills 泡沫ブログ(涙)。つまり、それぞれの作品の構成に確認することのできる目に見えるイメージの水準に描かれるものとその内実との乖離、みたいな点をまずは指摘できるかなと思ってたんだけど、まさにそこらへんの問題を芳川泰久は、「バルザックの二つの〈プラン〉」という標題のもとで簡潔に指差してくれている。(芳川氏によって)バルザックがそこで仮構したとされる「二つの〈プラン〉」とは、物語のなかで進行する現在がその状況をもたらすことになった原因や、その活動を推し進めることになる目標として、しだいに縮減され、またつぶさに踏査されるべき隔たりのもとに見出す、ある別のものの実現の時間や場所とのあいだに取り結ぶような企図、あるいは一種の地勢図のようなもののことで、それらを「現プラン-原プラン」とセットで名指しつつ、四つの短篇それぞれの構成からこの「プラン」の形づくる作家の叙述における事態の推移と帰結とを抽き出して、バルザックにおける作品構成の不可欠の単位とみなしている。「サラジーヌ」における醜悪な老人と美しい女性を描いた肖像画との対照、「ファチーノ・カーネ」における盲目の老いた音楽家の窮境と彼に潜在的なままとどまる黄金に囲まれた本来の貴族としての栄えある姿、「ピエール・グラスー」での凡庸な絵描きの手からなる贋作絵画の集積とそれに取って変わるべき真作のコレクションが並べられる展示室の光景、そして「ボエームの王」における没落貴族の若きボヘミアンが踊り子あがりのブルジョワ夫人に対して一種の理想画として脅迫的に描いてみせる正真正銘の貴族的人生を垣間見させる実現不可能な青写真の数々、といった、対照的でありながら、なお踏破することのけっして適わないこれら「プラン」相互の隔たりこそが、物語の運行をここで促しているとみなされる。そうして二つの「プラン」の隔たりを挟んだ終わりのない運動を作品の内部に確認しつつ、芳川泰久は、バルザックに顕著とするその構成を《広くヨーロッパが十八世紀と十九世紀の間で、つまり近代のはじまりにおいて育んだ知の構造そのものに対応する》ものとして簡潔に指摘してみせてもいる。このあたりの知見の堂々としたひろげかたはさすがに本職の批評家だけあるなあと感心した。似たような着眼点を抱いたけど、自分にはさらにそこまでは言えなかったなと思ったし、小説の言葉だけ追っかけているかぎりじゃこうは筆が進まないだろうなあとも感じた。いろいろとまだまだ勉強するところが確認できて嬉しいかぎりではある。
 それと繋がっているのかはまだ自分でもわからないし予感以上のものではないんだけど、ここでのバルザックの語りと知の水準とのかかわりとして、たとえばそれを、「私(だけ)の知っている秘密と真実をあなたに教えよう」というような、一種の誘い文句か睦言のような(金銭か、またはエロティックな欲望に深く関与する誘惑という)形で要約することができるんじゃないかな、とも思った。ぶっちゃけていってしまえば、新聞の三面記事とかゴシップ誌のスキャンダラス記事みたいな水準で流通するような知の授受のありかたみたいな側面がバルザックにはひょっとしたらあるんじゃないかな、とかも思った。スクープとしての小説みたいな感じ。芳川氏のいう「バルザックの二つの〈プラン〉」は埋めることのできない隔たりの内部での言説の運動を促すものとして見出されてるはずだけど、そこから、帰結から原因へと向かう漸進的で一方通行的な運動としての側面を承認しつつも、同じく芳川氏もすでに指摘しているバルザック的説話の迷宮的な入れ子構造のありかたなんかも視野におさめながら、むしろ両義性や曖昧さの増大にばかり貢献する不実な知のあり方といったものへと議論が進められないかな、とか思った。その言説が嘘かまことか定かならない、その言説の担い手の地位も立場も信用の置けない、そんな非主体的な語り手が現れるような局面がバルザックの小説に確認できるとすればこれはちょっと面白いんじゃないかなと思う。言説の組織する閾のような次元に複数のイメージが現われ、それら相互に増殖する矛盾したり無関心だったりするイメージが取り集められて、その中からあるひとつのイメージが最良のイメージとして最終的に選別の対象となる。そういったイメージの経る過程は確かにバルザックのここでの作品すべてに確認することができると思う。語り手のもたらす知の真実の光のもとで、美貌の歌手ザンビネッラは最終的に百歳を越える醜怪な老人の現在へと同定され、あるいは盲いた老残のクラリネット奏者は幻視された黄金の輝きのなかへといつの日か再び送付されることに残りの全人生を賭けることになるだろうし、贋作の絵画は一枚ずつ真作へとかけかえられていきいつかオリジナルだけからなるコレクション室の眺めが完成されるのかもしれないし、また、偽りだらけの栄達と変わり身の人生を辿るうちに破廉恥な踊り子はいずれ本物の貴族の夫人という地位を手に入れるのかもしれない。そういった良きイメージに向かっていく叙述の運行の過程から、どうにかして、多少無理を押してでも、イメージと知との切っても切れないような不埒な結託の瞬間みたいなものを掬いだせるとしたらよりおもしろくバルザックの作品に向き合えるんじゃないかな、などと夢想してみるけど、どんなもんだろか。なんにせよ、そのうち別の作品を是非とも読んでみたいと思わせるような作家であり作品ではあった。来月あたりまたバルザック読んでみることに決めた。

 昼間届いた購入書籍。感想文が短めでどうも物足りない感じが否めないので、スペースを埋めるつもりでなんとなく貼っておこう。そういやジュネットの新刊が出ましたね。気づいたら出版日を過ぎていて乗り遅れてしまったんだけど、とりあえずamazonでポチっといた。入荷予定の日にちが未定なんでいつ届くのかわからないけど、クリスマスプレゼントみたいな気分で今からワクワクしながら待つことにする。プレゼント・フォー・ミー。わりかし頑張った今年の自分に、プレゼント・フォー・ミー。