アガンベン『裸性』

 収録されてるどの論考もおもしろかったけど、なかでも本のタイトルにもなってる「裸性」という文章が自分の関心のあるものと接点がありそうな内容になってて興味深く読めた。(おもしろさという点だけなら、カフカを論じてる「K」という論文も抜群に鋭くて勉強になる)。
 アガンベンによれば、人間の裸といったものに対する追求はやみがたい衝動をともなうものでありながら、他方でその追求は目指している目標にはけっして到達できない不可能なこころみであるものだともされる。それは西洋文化の起源において神学的な背景のもとに刻み込まれた強固な規定であり、不可避の探求と不可能な目標とのあいだで埋めがたい齟齬を生じさせつつ、このひび割れたひとつの相において、(たんにポルノグラフィーやセックスのあり方といった問題のみならず)広く文化や社会のあり方を再考させるきっかけになっている。裸の主題はアダムとエヴァの逸話にまで還元される。エデンの園のそれまで罪をしらなかった素裸の人間が堕落によって恥や腐敗に染まり、以降、神による恩寵の衣服なくしては生きてゆけない存在となる過程がそこに描かれるわけだけど、神学的議論はこの起源の神話が語る裸と衣服との関係から、人間の本性と神の恩寵との関係というより本質的な規定を引き出し、それらを反転させたうえで重ね合わせる。もともと恥とも汚れとも無縁の存在だった素裸の原人が悪のもたらした罪によって堕落し、自身の身体を衣服によって覆うことになるというのではなく(これは裸と衣服との二項対立的な分離による起源の説明だ)、そうではなくて、エデンの園での罪以前のアダムとエヴァの裸は、とはいってもたんなる「衣服の欠如」としてある裸であり、そしてこの裸はもとより光り輝く不可視の恩寵の衣服により覆われているものだったとされる。罪は、神から授けられていたこの恩寵の衣服を剥奪するという形で状況へと介入してくるのであり、そのとき人間の本性の悪しき性格(退廃や腐敗、恥といったもの)がはじめて露わにされる、という順序で経緯をたどる。原罪は人間の本性と裸を、そのように開かれた眼差しのもとで遡及的に認識することを条件づけることになるけれど、それはつまり、裸と衣服、人間本性と恩寵という二重性が分離不可能なひとつの出来事のふたつの契機になるということでもある。実は私たちは、恩寵の前提となる裸の肉体的存在といったものをそれ自体として知ることはけっしてない。認識にとっての不可避のアナクロニズムをつうじて認めることになるものとは、つねにすでに(罪から帰結する)眼差しの「開かれ」によって事後に発見される、(裸の存在ではなく)裸の生起という事態であり、除去された恩寵の衣服の下にひそむ曖昧な前提としての人間本性の腐敗だけである。(その意味で、裸の肉体的存在のごとき不可知の対象はカントの物自体と同じ構造のもとでのみ想定される)。つまり、裸であるものではなく、裸にすること、されることだけがあるし、見出される本性は必ず恩寵を除去された腐敗の本性であるということになる。アガンベンのここでの試案は、恩寵と人間本性の腐敗とに板挟みにされた私たちの生の様態を明らかにするため、神学的重圧を強いているその考古学的な下図を素描しようとするものになっている。

本性と恩寵、裸と衣服は、単一の集合体を構成しており、それぞれの要素はたがいに自律し分割可能であるが、しかし、少なくとも本性にかんしていえば、それぞれが分割されたあとに変化しないままとどまるということはない。だがこのことが意味しているのは、裸と本性は、それ自体としては成立しないということである。つまり、成り立つのは裸にすることだけであり、存在するのは腐敗した本性だけなのである。

 不可能な対象は裸の自存する肉体的存在であり、不可避である行程とはその裸を明るみに出そうとする回顧的で時間錯誤的なものでもある、衣服の除去にまつわる手続きいっさいであるだろう。神の栄光や恩寵の衣服といったものを人間存在にかんする解釈可能性の限界として際立たせるためにますます、裸の本性の退廃的で曖昧な(表象も説明も不可能な)性格が強く主張されなければならないことになる。伝統的な神学はそのような二重性の装置を人間の探索の場に装填しているけれど、同じ装置は現代においてもいたるところで同様の作動をつづけているとされる。現代アーティストたちによって繰り返される女性の裸体の展示といった試みやサルトルによって記述されたサディストの肉の露呈の戦略(優美=恩寵に包まれた身体の運動性を奪い去り、状況のなかから、猥褻で苦悶に歪む肉体の不動の存在性を引き抜こうとする倒錯者の企み)を引き合いにしながらアガンベンが述べるのは、この裸と衣服との関係が巻き込む終わりのない不可避かつ不可能な試練であるものだろう。
 他方でまた、人間本性の晦冥で曖昧な裸体性が罪や堕落によって占拠された場所ではなく、反対に、純真さや無垢の白さによって特徴づけられる郷愁をおびた目標へと反転する契機が見出されてもいる。《恥じる必要のない裸への郷愁、つまり、頬を赤らめることなく裸でいられる可能性が罪とともに失われた、という考え方は、福音書やほかの正典外のテクストのなかで、繰り返しはっきりと姿を現わす》。キリスト教における洗礼の儀式のもつ本義的な含みや宗教音楽のなかで子どもの歌声の果たす役割を説くくだりで確認されているのは無垢な裸のもつ白さや汚れのなさへの、しかし同様に不可避で不可能な、起源への回帰という側面だろう。《白い声=ボーイ・ソプラノは、エデンの園の失われた純真さにたいする郷愁、すなわち、堕落以前の裸のような、わたしたちにはもはや知る由もない何かにたいする郷愁の、暗号なのである》。同じように、純粋な場への追想をともなう回帰として想定された認識のモデルといったものを提供するものも、夾雑物(可感的で雑多なイメージ=ファンタズマ)のなかから、それらを媒介にして、それらを最終的には払い清めるようにして、神のものである可知的なヌーメノンにいたる過程であるとみなされている。そこにあるのも、取り除かれるべき覆いの下に隠された無垢な裸の起源というイメージである。《完成された認識とは、裸の状態での、裸にかんする観想なのである》。
 原初の裸の状態――罪によって開かれた認識の眼差しや恩寵の衣服の付加、運動状態のなかでの優美な身体、または欲情による恥じらいといったもろもろの覆いに覆われる以前の人間本性が、そこでいかに観想され想定されていようとも、「裸である」ことそれそのものの存在は、「裸にする」ことという遅れてやってくる出来事の時間のなかで必然的に遠ざかり消えていってしまうことを決定づけられている(アナクロニズムの時間構造のなかで裸そのものの存在はかならず変質をこうむる)。ベンヤミンに伴走しながら美の仮象について話題を振りつつ、カントを念頭に置いてアガンベンが確認するのは、「裸にする」試みが不可避的に招くこの「裸である」ものの《崇高なる不在》という不可能なステータスであるだろう。「崇高なる不在」、覆いの下にあると信じられていた秘密の欠如、その顕現の不可能性がベンヤミンによって宣言され、不可避かつ不可能なものに対する追及の停止が告知されているだろう。追求の停止とはいっても、それは、そこに到れば覆いを剥がすという追求が完全に達成されるであろう臨界点のような地点、あるいは、薄布をあと一枚除けばそこに崇高の痕跡であるなんらか原初の輝きの航跡のような揺曳が不在のものとして仄めくことになる、そのようなぎりぎりの限界線の手前で人が立ち停まることを促すものなのではない。そうではなくて、それは今ここで、その仮象の光が純粋な仮象として輝きを放っている今であり、この場であり、眼前であるような出来事の生起の瞬間を、永遠や起源や形相の理念の庇護とは金輪際手を切ってそれと切り結ぶことを促しているものであるように思える。そのようにして、不可避と不可能のダブルバインドとして作動する神学的装置は、このような仮象の輝きによってあらためて照らし出されようとしているようにも思える。

人間の肉体において、美は本質的かつ永久に「覆いを取り除きうる」のであり、つねに純粋な仮象として提示されうるということである。けれど、そこには境界線がある。その向こう側では、もうそれ以上覆いを取り除かれえない本質や、堕落した本性と出くわすことはない。そこで出会うことになるのは、まさしくヴェール、まさしく仮象であり、しかもその仮象はもはや無の仮象ではない。いかなるものも姿を現わすことのない、この、消し去りがたい仮象の残余こそ、いかなる肉体ももはや身につけることのできない衣服こそ、人間の裸である。

 裸にすることの残余として生起する人間の裸の非在性は、こうして不可視の光を放つ仮象の輝きのなかに現われることになる。そこからさらに一歩、仮象として秘密を欠いたこの裸の現前が、人間の「顔」として標定される美と裸の特権的器官、表出されるべき実質の完全なる払底を実現する無表情の顔として集約され、ここまで不在の秘密を追求しながら、この秘密の前で拒まれてつづけてきた者に対し、微笑みながら、事の帰趨を要約する言葉を告げることになる。

(……)微笑みながらその裸を見せびらかす美しい顔は、ただ次のように言うのみである。「わたしの秘密を見たいの? わたしを包んでいるものを明るみに出したいの? ならこれをご覧なさい、もしあなたにそれが理解できるなら、この、度しがたい秘密の欠如をご覧なさい!」。この意味において、裸の教訓はただ一言、haecce!(「これ以外の何ものでもない」)という叫びにほかならない。しかしながら、裸における美という魔法の、このような解除こそが、あらゆる秘密とあらゆる意味の先にある仮象の、このような崇高で悲惨な見せびらかしこそが、神学的な装置の作動を何らかの仕方で阻むのである。

 《秘密の欠如のうちにある仮象は、》と、アガンベンはここでの論考を締め括る結語としている。《自身の特別な振動のなかに、みずからの唯一の居場所を定める。その振動とは裸であり、それはあたかも白い声=ボーイ・ソプラノのごとく、何ものをも意味することはなく、まさにそれゆえに、わたしたちを刺し貫く。》
 意味や表象されるべき内実のかたわらをよぎる、この裸の振動である「白い声=ボーイ・ソプラノ」の響きときわめてよく似ていると思われるものに、アガンベンが述べてきたところとはまったく異なる場所ながら、かつて、確かに一度は刺し貫かれた覚えのある者として、この言葉には深く同意をせざるをえないと感じる。