ロブ=グリエ「もどってきた鏡」

 『早稲田文学5号』に掲載されてるロブ=グリエ「もどってきた鏡」の連載初回分(連載途中の作品にかんしてはあんまり断定的な口調でものを言わないことに決めた。なぜなら、以前書いた連載中の『農耕詩』とか『青い脂』についての文章でたっぷり恥をかきましたので。次回以降の掲載に接する際のとっかかりになりそうな点を覚え書きとして何点か控えておくことにする。いつも以上にとっちらかった文章になってるんで流し読み推奨)。
さまざまなタイプの言説がまだら模様を描くように複雑に混じりあって一篇の言葉の持続を差しあわせていくような作品。作家の自伝的な回想録のような文章もあれば純然としたフィクション的言説もあり、過去の自作に対する自註的なコメントがあると思えば、他者(バルトやサルトルなんか)の作品・思想に対する論評的意見とか彼らの横顔を描く多少とも評伝的な言及があり、私的な文学観や歴史観を表明しているように読める文章もあれば、同時代に対する作家の政治的な見解や信条をうかがわせる意見だったり、あるいは、現在進行形で執筆中のこの作品に書きつけられた自身の言葉に対する再帰的な反省の言葉までがあったりする。それらタイプや視点、時制や言及される対象に応じてそれぞれに異なる言説たちが、分散的で非連続した形でマーブル模様を描くようにして混じりあい一篇を形づくっている。言説の種別的な分類はもっと細かく見ていくこともできるんだろうけど、それら言葉の混じり合い、混合的なある種の見通しのつかない絡まり合いのような側面こそが、ここでより注目に値するもののように思われる。作品冒頭の文章(《それで私は、一九四八年、小説を書く決心をする。》)の文としての姿態がすでにあらかじめ告げているとおり、ここで取りまとめられた言説たちの集まりは、分類の対象としてもろもろのタイプを抽象的で分析的な視線に対して形づくり、あるいは可読的な線状の秩序を章や段落、話柄相互の連関といった修辞的で説話論的でもある単位として形づくる、おそらくそれだけじゃない。それらは言説のタイプや修辞的な順序を形づくると同時に、その内部的な連関において相互にとっての一種の閾の役割をも果たしているだろう。《それで私は……》、揚言といえばあまりに不明瞭で不確実、非公認でいかがわしいこの巻頭の決意は、その言葉を読んだ者に対し波打ち際に寄せ返すある種の反復に接しているかのような印象をもたらすとともに、一篇に読まれる言葉が或る閾をすでに越えて辿り着くものたちの非連続な連なりとなるであろうことをあらかじめ告知するものになるって気がする。《それで私は……》、それはすでに既成の何かの内部をくぐり抜けてこの場に姿を現したものによる大声では到底触れまわることの出来ない訝しげな言挙げであるし、そのようなものとして形づくられる言葉の連なりはその内部に、今度はそれ自身とは別の言葉の系列の発端となるさらに別の閾をもうける限界ともなる。言説の運動はそんなふうにして異質な要素を取り集めて、分散させ、あるいはその下部に覆い隠し、または再び閾を踏み越えることを可能にする可読的な身体を与え、そのような振る舞いの繰り返しのなかである統一性を作品にもたらそうとしているようにも見える。
 作品の言葉の内部に別の書物の言葉を引用することとはそのとき、そこで招かれた異質な言葉とともに設定された閾の水準を可視化することでもあるだろう。引用によって導かれるこの異質な言葉が既存の言説にあって、あらたな系列の開始、運動の始動、形象化の幾つかの契機、分散の拡大や縮減といった、諸要素や諸形態の反転や変換のもろもろの効果をともなってひとつの閾を開き、またそれと同時に、閉じた言説の領域を形成してテクストの言葉をひとまずそれとして読めるものにもする(この閉じるしぐさにおいて始めて、一冊の書物の言葉はそこで読めて、感じて、何らかの作品としてのひとつの実質において読まれることができるものになるだろう。分散をそれとして統一性に差し出す閾におけるこの開閉の働きがなければ作品はもはや仮初にも「ひとつの作品」とは呼べないようなものになってしまうだろう。閾による、弁や浸透膜のようなものとしての透過と開閉、逆流の効果がある)。『弑逆者』執筆について語るロブ=グリエはそこで、現下にまさに書かれつつある作品「もどってきた鏡」の言葉たちがそこで取りうる姿態のひとつを素描してもいるだろう。

 私は最初にタイトルを、ついで誘惑者についてのキルケゴールの引用を記す。誘惑者とは「痕跡ひとつ残さずに世界を通り過ぎる」。そうした最初の言葉から、それ自身矛盾している対象の形をとって、矛盾が提起される。同時に、そのような至上の侵害によって、引用そのものの記述が解体される。そして私自身の分身である海が姿を見せ、私の足跡を消すのだ。そのとき私は最初の文を書いている。それは、常にすでになされた行為の、記憶にもない昔からの反復であり、行為はなされたのに、私の背後にはその行為を示すいかなる痕跡もない。

 引用がもたらした言葉の進展のなかで差異(《矛盾の提起》)と記述の解消とをともなう行為の反復が閾の場所を浮かび上がらせて、というか、そこに盲点のようにして目に見えない陥没した界面が存在することを事後に、逆接的に告げ知らせて、言葉とその言葉を綴る主体とを「海」の分身へと変成させようとしているってことだろう。たんに海があるのではなくて、ロブ=グリエにあってこの海は、もっとも危険な海難水域のような場所を形づくるものであるらしい。上記の文章に直後につづく文章は自作『弑逆者』の冒頭からの引用だ。

 「またしても横切らなければならないのは、岩や穴ぼこが散在する海のほとりの細かい砂のひろがりで、ときには腰まで水に漬かることがある。海が満ち……」いつものように、陰険な危険というか恐怖が約束の場所に姿を見せる。

 《大洋と不確かな浜辺》として定位されるこの危険な海、罠や陰険な仕掛けが潜むとされる不吉な水難区域については作品の別の場所でも繰り返し描かれることになる。作家の幼年時代から青年時代にまで及ぶ回顧的な記述のなかでは、彼の父親にかんして割かれる記述がとくに目をひくものになっている。そこで強調されているのは、善良だが《頭が変だった》というこの父親にまつわる幾つかの逸話における、彼の狂気の兆しをうかがわせる振る舞いや姿態であり、つまり、上記のような《陰険な危険》にすでにさらされてある者として父親はいち早く変調をこうむり、《痕跡ひとつ残さずに世界を通り過ぎる》者として作品の「私」以前に、「私」を巻き込む形で、反復される罠にはまった形象といったものを自身反復の要素として「私」とともに形づくっている者として了解することができるだろう。波打ち際に寄せる波だけがその反復のうちに人をおびき寄せる陰険な罠を形づくるのではなくて、複数の人物のあいだでの転移や相同的な関係のあり方そのものがすでに罠の構成要素となっている。そこでは、罠の場所に引き寄せられるその一歩が危険への漸進的な接近であり、同時に、その一歩を踏み出す主体自身がすでに罠の発動の条件の一部として危険自体に固く組み込まれているということなんじゃないだろうか。
 第一次大戦に工兵隊の工兵として従軍しドイツ軍との坑道戦に参加した父親の姿を記述する短いくだりには、この作品を読み進めていくうえで幾つかの銘記しておきたいポイントが記されている。塹壕の地下という水辺とは程遠い環境にありながらそこでは、任務にあたる工兵たちが地雷の伏在する危険な《無人地帯(ノーマンズランド)を横切る》。罠と危険に満ちた穴だらけの空間を《横切る》というこの移動のあり方は、一篇にあっておそらく、人物たちの特異性を際立たせる細部描写として以降頻繁に目にすることになるものとなるだろう。そしてこの《横切る》運動のイメージが同時にその傍らに顕在化するものは、移動の相関物となる場所的な目安としての「帯状」であったり「縞模様」であったりするもうひとつ別の可視的なイメージあるはずだ。踏まえておきたい点はまずこの相関的な両イメージのあり方である。それとはまた別に、この危険な場所に響く音響的なイメージといったものにも注目しておくべきだろう。

 父がときどき――手短に――話してくれたのは、こうした生き埋めの生活であり、土の塊にぶつかるドイツ軍のつるはしの鈍い音であり、まるでその音が一度にあらゆる方向からくるようで、せわしくなり、急に止み、もっと強くまたはじまり、リズムを欠き、不安でいまにも破裂しそうな心臓が立てる鼓動と同じだが、とはいっても――生死の問題であり――その結果、自分たちの作業を変更するために、その距離と正確な方角を推測しなければならなかった。ロブ=グリエ主任軍曹は、何度も吹っ飛ばし、それで自身も負傷を繰り返し……。

 《土の塊にぶつかるドイツ軍のつるはしの鈍い音》、坑道の暗闇のなかで工兵たちを囲繞する危険なシグナルとしての音響、しかしその音はまた、兵士たちが避けなければならない死の信号であると同時に、《自分たちの作業》を完遂するために《その距離と方角を推測》しながらつねに参照しなければならない誘導や誘惑のサインの発信としてもあるだろう。あたかもオデュッセイアの航海にとってのセイレーンの歌声に相当するようなものとして、坑道を横切る工兵たちを二重の危険にさらす音響シグナルがこの描写のくだりに現われている。誘惑と死、漸進と解消、おびきだすことと拒むこと、罠が作り出す二重の反対運動といったものがこうした反復の様態のうちに描き出されている。それは地中にこだまする波打ち際のざわめきのようなものでもあるはずだ。
 工兵であった父親の様子を描く描写をこのように確認しておいたうえで、さらに作家自身とこの父親との関係へも目を向けておいたほうがよいかもしれない。そうすることで、死と危険に満ちたものとされるロブ=グリエの海辺の環境といったものが、その罠の範囲をどのような規模で張り巡らせているものなのかを、今のところは依然として朧げでありながらも、幾分かでも明瞭にするうえで役立つかもしれない。
 《それで自身も負傷を繰り返し……》。上記引用の前後の段落に《頭が変だった》この父親にまつわるもう幾つかの挿話を配して、ここで器質的で心因的なものでもあるだろう彼の変調の遠因が語られていたわけだけれど、あるいは「私」の母親によっては一族に取りつく遺伝的なものであることも強く疑われているこの狂気の徴候は(《母が私に常に助言していたのは、子供をもうけぬようにということだった》)、しかしそれ自体としてとりわけ注目に値するというわけではないだろう。そうではなくて、神経症(ノイローゼ)や変性の心理的状態がこうして問題となるのは、それらがテクストのなかで言説の内的な連関を通じて実現する出来事の分散や収集といった水準でのもろもろの振る舞いに関与するかぎりにおいてのことだろう。この危機的な病(それを「病」と呼んでよければだが)は染色体の異常や偶因的な状況の相同性によってめいめいの個体の内部で別個に発現するものなのではなく(たとえば、ゾラを論じるドゥルーズがそこでルーゴン=マッカールの家系に充当しているような「大遺伝」や「小遺伝」といった病理学的水準に相当する背景をもつものなのではなく)、テクストに記述された非連続の言説たちを通じて、その内部において、その内部に穴を穿ちながら、またその穴や痕跡といったものを埋め戻しもしながら、可読的な言葉の身体の肌理において発動する、不吉な反復による感染的な病態を示すものであるだろう(「私」や父親のみならず、テクストの表面という場を介してバルトや、その他自余の人物たちに転移しうる同一の罠の反復的な作動といったものを見出すことができるのではないだろうか)。狂気や病といったものは罠に起因するものだといえる以上に、そもそも罠そのものの構成要素の重要な一部であるとすらいえるものなんじゃないだろうか。父親と「私」とはこの罠の内部に絡め取られ、双方が罠の発信するサインの資格において、罠の発動条件でありながら発動された罠の作用でもあるものとして相互に交流するようにも思われる。そこから、テクストのひろがりはこの同じものの反復をさらに押し広げていくものとなっていくのではないかという推測が可能となる。
 映画作品『嘘をつく男』に触れながら話者「私」が自註的に開陳するところによれば、物語の二人の主役(ボリス・ヴァリッサとジャン・ロバンという二つの顔をもつ対になる人物)のあいだで交替され、解消され、また弁証法の効力の及ぶ圏域をかすめるようにして非生長的に反復されるその関係とは、個々のものを反転や対立、敵対の力場におきながらもそれらを幽霊のように痕跡ひとつ残さずに同じものの形象へと溶かしていく、いわば転移の無差別で無方向的な発現のようなものとして素描されている。法や権力が形づくる世界はそのとき、そのありのままの外観を維持され、そのもてる力の実質をなお保有しながらも、分散した形象や反転する対立要素、非連続な反復によって穿たれた無数の穴ぼこによりすっかりと立ち枯れた内実をさらす、ということなのかもしれない。反転や対立をともなう反復は法を打ち倒すのではなく、そこで、法の猥らで危険と誘惑に満ちたその身体の内実を記述するものとなるのかもしれない。《そしてこの蘇った善良な息子ジャンこそが、死んだ父親に取って代わり、秩序を回復した女だけの世界を支配することになる》。そのときテクストは、そのような記述に促されて自身をひろげていこうとする、非連続な言説からなるある統一性に向かっていく運動のようなものと化すのかもしれない。
 「もどってきた鏡」のテクストはここでさらにもう一人の中心的人物を、罠におびき出される被害者としてあらたに指定するかのようにして、自身の言説の分散と収集からなる表面へと召喚する。「ペテン師」、「裏切り者」、「伝説上の人物」、「人殺し」、「真の英雄」、あるいは「スパイ」……アンリ・ド・コラントという人物はまずは、そのような容易にはひとつの形象のもとにまとめあげることのできそうにない修辞的な複数の仮装を幾重にもまとう謎めいた男としてテクストへと姿を現わす。詳細のよくわからない彼の履歴や出自、今となっては検証の不可能な戦争中の功績や戦後の足どり、若くして亡くなったというフィアンセの女性とのあいだで起こった彼女の死にまつわる正確な事情、それら謎の数々を偽装と眩惑による遮蔽幕のようにしてまとう者として姿を現している。《セピア色になった時代遅れのグラビア写真の体裁で想像することができる》そのイメージのなかでは、コラントは、戦場でギャロップする騎馬にまたがり勇ましく輝かしい騎乗姿を現わしているが、しかし同時に、この中心イメージとなる騎馬のフィギュールの傍らで、まさにその馬の蹄の下に踏みしだかれんとする地面に這いつくばった敗者の苦悶を示すものでもある。反転と対立が(ボリス対ロバンという二人の人物のあいだでの類似と相違としてではなく)一人の人物のイメージそれ自体の反復において現われている。罠におびき出された者であると同時に、コラントは、罠の作動における疑似餌としての身体を提供する者でもあるだろう。これはつまり、罠とは分散や非連続のなかで生じると同時に、その周囲に連鎖や系列を作り出すものでもあるということだろう。形象の分散のなかに生じて脱中心化の中心となるコラント罠の系列といったものがある(《ボリス―ロバン―K》からなる罠の系列が作られたように、コラント―《アンリ・ド・ケリリス》―《フランソワ・ド・ラロック》―《パリ伯》といった類似の諸形象からなるイメージの連鎖がある)。
 そうして、それが何時起こった出来事なのか、正確な日付けの特定など到底できそうにない曖昧で不定の時間のなかで、コラントの行状を主題にすえるいわゆる「もどってきた鏡」のエピソードが語られることになる。舞台となるのはまたしても、あの危険な水の世界であるだろう。暗闇のなかの浜辺の形象は、先行するそれまでの言説が形づくってきたイメージの閾をくぐり抜けてこのエピソードの場所へと浮かび上がってきている。それはあの帯状の可視的イメージや「縞模様」の連想と合同して言説の閾を越え、テクストの表面へと到達するひとつのトポスの、しかしアトピックで不可解なものでもある現前であるだろう。キップリングの小説に登場する灯台守の変調の原因となる、海峡の渦と水泡が形づくる無数の「縞模様」、幼年時代の「私」の悪夢に現われて危険な魅惑の対象となる《何本もの白っぽい泡からなる小さな線》、《規則正しく打ち寄せる波》のイメージ。コラントにまつわる「もどってきた鏡」のエピソードが招き寄せ、あるいはそこへとおびき出されることになるそのイメージ、人を欺く危険な海辺の光景が形づくる《波の模様を描く白い泡のカーブ》のイメージが、テクストのうえで分散していた自余いっさいの眺めとこうして集合する。白馬にまたがるアンリ・ド・コラントはこの海岸を横切って進む。《引き際の小波が刻む規則的なシューシューという音に混じって、海の方から来る――もっと大きい音で、その音もまた律動を刻み、もっとはっきりと、もっとしっかり、もっと切り離されて、ぱたぱたと音がする》からだ。音響イメージは姿なき幽霊の呼び声のごときものとして、その出所とおぼしき場所へと男をおびき寄せている。この不吉な音響イメージは、一篇にあって女の存在と切り離せないものであるようにも見える。すなわち、罠の中心で男はセイレーンに出会うことになるだろう。正確には、波間に漂う巨大な鏡、その鏡面のなかに死んだ女の微笑を見、再び海辺へと赴くとき、今度は血染めの女物の下着を見出すことになる。そのとき罠はすっかりとその作動を終えており、流されたばかりのように見える血の《鮮紅色は耐え難い輝き》にきらめき、以後、男は決定的な変調か凋落か、失意なのか喪心なのか、あるいは端的な狂気なのか、ともかく取り返しのきかない反対のものである生か、あるいは死の過程を進んでいくことになるんじゃないだろうか……と、そんな気がしないでもない。不明な点はまだたくさんあるけど、それらについては次回以降の掲載をじっと待つしかない。眠いので推敲も体裁も整えずにこのまま投稿する。おやすみなさい。