ニコラ・ド・クレシー『天空のビバンドム』

 フランスのBD作家によるコミック。作者ニコラ・ド・クレシーはここで物語を語るにあたって、員数過多の相互に対立する語りの立場を導入することにより、物語の内容をこの形式の不備に照応させるべく諸勢力からなる広汎な闘争劇へと仕立て上げる。ざっと数えあげればここには、人間と社会・文化・学問といった教育的目標の達成を謳いあげる立場があり(アカデミーの教授連の立場)、またこの同じ人間の衆愚的でやに下がった裏面をなす民衆とポピュリズムの立場もあり(「愛のノーベル賞」の欺瞞を演出する市長の立場)、同時に神学や形而上学的議論にふさわしい悪魔たちの立場があり(使徒セラファンから悪魔へと継承される反社会的な撹乱的役割)、また人類の前史といった観点から支配者の歴史を相対化しようとする犬たちやアザラシたちの革命を志向する立場があり(歴史の古層を露呈させる犬たちの考古学的で終末論的な企み)、そしてそれらの立脚点すべてをエコロジカルでシニカルな笑いに飲みこもうとする、あらゆる存在にとっての永遠の給餌たる鶏たちの立場がある(高層でカウチポテトに興じる鶏たちの絶対的冷笑による観劇的立場)。相互に対立するこれらの立場は語られる物語に対する別様の眺めをそれぞれに形づくり、いかなる収集もつかなくなるまでに物語を動揺の方へと差し出すことになる。このように多すぎる語りの立場は語りそのものの位相を容易には見通しの立たない不透明で不純なものへと導くことになるし、物語の内容もまた、語りの不備を隠す気力などはじめからさらさら持ち合わせていないかのように、時制や場所の一致、出来事のたどるタイミングといったもろもろの平仄を合わせることをあらかじめ放棄してしまっている。物語のなかで繰り広げられる激化する闘争が反映するものは、語りにおけるこのような説話の反詩学的な逸脱であるだろう。また、語りの水準で引き起こされたこのように不純で不透明なありさまは、闘争を演じる諸勢力が不可避的に相互を物語の内容の水準へと送り返しあう力動的な戯れの場を浮上させることにもつながっていく。物語の特定のシークエンスにおける語りの遂行を勝ち取ることは、別のエージェントが可能的に担いうる同じ場での語りの資格を抜き去ることと即応しており、これら語りのエージェントを物語の内容面へと追い落とすこととも同時的であるだろう。逆もまたしかりである。
 フーコーが「物語の背後にあるもの」においてジュール・ベルヌの小説から辿っていくことになる、語りを遂行する視点の不可視性といったものとはまったく相反する、いわば彩りの濁りに塗れた雑居者たちによる語りといったものがそこにはある。イデオロギー的であり宗教的で神話的でもあり、かつはエコロジカルなものでもある、重なりあうそれら諸闘争が、語りの視界をまだらに濁らせていく。他方で、それら語りにおけるヘゲモニー闘争の対象となる語られる内容の側には、一種の無垢の白さをまとうかのような透明さや空虚さの属性をもつものが描かれることになる。対立する諸勢力がそのために闘争を展開することになるその対象は、作品の主人公であるアザラシのディエゴとして、言語行為のあらゆる犯罪的側面といったものから免罪された空虚で無辜そのもののしどけない形象を形づくっている。それは中空を抱える真っ白な古タイヤの堆積から生まれた、いわば無原罪のお宿りのような生誕の伝説をもつ生き物であるだろう(タイトルにもある「ビバンドム」とは、タイヤメーカー・ミシュランの看板キャラクターに授けられた名前である)。杖を突き三本足で歩く盲目の老オイディプスのようでもあるが、尾びれにスニーカーを履き、二本の松葉杖に助けられてたどたどしく地上を歩くその姿は黒く潤んだ瞳をもつ幼子のようでもあり、オイディプスとは反対に、いかなる罪や穢れからも遠く隔てられている。ディエゴはアザラシ族の一員として動物でもあり、ときに冒険に興じたがっているように見える程度には人間のようでもあるが、教育を詰めこまれ、あるいは脳天に穴を穿たれ、または悪魔に憑依され、人間の原質をなすような分子状人間(「ヘモ=サピエンス=グロビン」と名づけられた単眼の極小人間)の乗り物にもなることができるその空虚さそのものの特性(特性がないという特性)、もっとも弱いものだけがもつある力能から、逆説的に神の子のごとき存在にも類比可能な神々しさをまとうことができる。ディエゴは、それが他者に対するものであろうとあるいは内省という形で自身に向けられるものであろうと、何かを語るための言葉といったものをいっさいもたず、彼をめぐって争われる語りの奪い合いに参加することもない。彼は他者によってひたすら見られるだけの存在であるといってもよいだろう(あるいは監視され、見張られ、見世物の演目としてひたすら眺められるという視線の形づくる暴力的な編成に組み込まれた存在であるだろう)。物語の語りがディスクールに秘められたある隠微で絶大な権力を志向しそれに到達するようにも見えるとき、語られるべき当の対象はといえば、その純白の下地に教育の実践的な言説の書き込みがもっとも放恣に施されうる、よるべなさと受動性の次元を生きることになる。語りにおける視点の過剰と語られる内容に描かれるキャラクターの空っぽの特性とのあいだにあるこのような非対称な関係は、権力の闘争劇がそこで戦われる舞台の下部の次元を巻きこんで、物語の全体をコミックの紙面に現れるものへの重ね書き――紙の無垢の白さとパレットの上でだま模様を描く色彩の不透明な混ざり合いとの完全な混合状態として現れるコミックの紙の上の眺めといったものに対する、言表可能なものによる反復として形づくるかのようだ。
 そこでは、物語の内容にとっての空白の形象でもあるような一匹のアザラシが物語の複数の語りにとっての欲望の対象として物象化されており、それゆえにいっそう、物神的な執着の対象となっている――そういっても差し支えないかもしれない。であるならば、対象を虚構化し幻想の姿へと変貌させた力が語りの主体たちへと同じ程度の抵抗で跳ね返ったとしても不思議ではないだろう。語りの諸勢力の演じる相互反射的な戯れはそのような抵抗の自己フィクション化による必然的な結果でもあるだろう。アザラシの姿に注がれる支配的な視線とそれを語る支配的な言説は、自己自身をも物神化し、物象化の過程に巻き込まずにはおかないはずだ。虚構による復讐はそのようにして果たされる。私たちは物語の最後のページに描かれた場面をよく覚えておくべきだろう。言葉を持たない者、今や杖を失い這いつくばることしかできない者、いかなる他者たちの語りからも見離され、あるいはそこから解放された者が、蝿の飛び回る犬の糞塊でできた脆い塔のあいだでもう一度立ち上がろうとするその姿を、よく覚えておくべきだろう。その時なお、何が語られることになるのか、語りうるものとは何なのか、語られるうるとは何なのか、その思念を、一匹のアザラシの震える姿のうちに刻みこんでおくべきだろう。

天空のビバンドム

天空のビバンドム