ナボコフ『ロリータ』

 ナボコフの『ロリータ』から一箇所だけ、第一部の20章(新潮文庫版で147頁から以下)。
 主人公のハンバートが妻であるシャーロットの殺害を思い立ち、冷静に周囲の状況や自身の振る舞いをイメージする場面。舞台は二人だけで水浴に訪れている湖畔の砂浜で、周囲には遠くの対岸で作業している二人の人間しかいないという状況。《こちらに聞こえてくる槌音は、あの小人のような腕や道具にしてはやけに大きく響いていて、おまけに、どうも遠方音響効果のようなディレクターが人形使いと折り合いが悪いらしく、小さな一撃がたてる重い音がその視覚版よりも遅れていた。》(p.154) 視覚と聴覚とのあいだの合致を調整する共通感覚に生じたこのズレは、殺害者にとって、彼がこれから行おうとしている犯行にとっての目隠しになるという意味で好都合であるだけじゃなく、ポーズだけの救援という欺瞞的な行動にとってもアリバイ的な価値をもつことになると、ハンバートはそう判断する。《取り乱した水泳客が手足をばたばたさせ、妻が溺れかけているから誰か助けに来てくれと大声で叫ぶのが聞こえる程度には近くにいても、取り乱しているとはおよそ言えない水泳客が妻を足で踏んづけるのをおしまいにするところを(たとえ見るのが早すぎたとしても)見分けられないくらい遠すぎるのだ。》(p.155) 作品の第一部全体が叙述の中で示しているものだけれど、「ニンフェット」愛の希求者である主人公ハンバートは彼が欲望する対象とのあいだの埋めがたい懸隔を生きる人物として特徴づけられている。欲望とそれが生み出す行動や知覚とのあいだに開いた隔たりこそがハンバートの生きる隙間的世界となってるだろう。その行動や知覚のあいだに開いたズレが、この湖畔の場面では、眺めと行為(ないし行為のイメージ)とのあいだのズレとして新たな状況を作り出しているように思う。観想されている行動のイメージはハンバートによって《未来回想》と呼ばれている。《そういうわけで、シャーロットはきまじめな不器用さで泳いでいたが、(……)未来回想(つまり、物事を見るときに、見たことがあるのを未来の時点で思い出すという形で見る)の異様な鮮明さで眺めていると、ここで背後にまわり、大きく息を吸い込み、それから彼女の足首をつかんで、虜にした死体と一緒に一気に水中にもぐりさえすればいいのだと思った。》(p.155) 以下の記述ではその殺害行為にともなうありうべき状況と振る舞いとがハンバートの観想したイメージとして具体的に描写されていく。《未来回想》という言葉でナボコフが実際どんなことを言いたかったのかはちょっとよくわからないけど、たぶんそれはデジャヴュみたいもんなのかなと推察する。現実には不在である行動と、知覚とか観念のなかで生じたイメージとの不一致、そういうものが未来の時間のイメージなかで結んだ偽りの映像の逆流みたいなものとして現れたものなんじゃないかなとか思う。ベルクソンとかドゥルーズの議論に詳しければもっと正確に判断できるんだろうけど、そこはわからないんで仕方ない。ここではとりあえず、不在である行動(犯行の虚構のイメージ)とそのイメージが現実の眺めのなかで影響して引き起こす、別の水準でのイメージとの関わり、みたいなものとして理解しておこう。あるイメージは身分としては本質的につねに何かそこに不在であるもののイメージであるということが確かなんだとしても、ナボコフが描くこの場面では、そのイメージの不在的な身分の内幕を暴露するような形で不在としてのイメージがそのようなものとして描かれている。「何も起こらなかった」ということが起こった、という捻じれた形での、不在であるイメージが描かれてるって感じだろうか。ハンバートが観念のなかで育む犯行についての(不在の)イメージが叙述の現在によって描かれる。そのかたわらで、この犯行のイメージが仮に現実となったとしたら……という条件法的な仮定のもとに、それを未来形で語りうる視点からの目撃者(二人の作業者たち)の眺めのイメージが、さらにもうひとつ重なる。不在であるイメージはそれら二重の眺めによって強化されているけれど、最後にもうひとつ、ハンバートも予期しなかったまったく別の視点によって、行動を不在のものにするこの眺めは完成することになる。つまり一人の素人画家がこの不在のイメージをハンバートや二人の想定された目撃者たちのさらに背後から、まったく別の視点で眺めていたことが判明する。《「あなたたちを二人とも、わたしの湖の中に描き入れてしまうところだったわ」と彼女(ジーン)は言った。「あなたたちがうっかりしていたものにも気づいたわよ。あなたは[ハンバートに向かって話しかけて]腕時計をはめたまま泳いでたわね、そう、たしか」》(p.160) 視点の操作によるとても巧みなサスペンスの手法がナボコフによって披露されてるけれど、不在である行動のイメージを不在のイメージそのものとして、不在の出来事としてネガのように浮かび上がらせているだろう。ジーンがその画布に《描き入れてしまうところだった》のは泳いでいるハンバート夫妻の様子であると同時に、それ以下のもの、不在である現実の犯行のイメージの、その不在のままにとどまったイメージでもあるだろう。現実的につねに不在のものであった(犯行の、行動の)イメージが、イメージの不在として、画布に描かれなかった絵として、空白の画布として、描かれる。画布の上の未着手の絵や眺められなかった眺め、といったものがそれとして、つまり、「描かれなかった」、「眺められなかった」、という反-複合過去のような時制の様態で現れるとか言ってもいいんじゃないだろうか。フランス語の文法では過去のある時点での行動の完結を表現するのに「持つ」とか「ある、存在する」という意味の助動詞と過去分詞を組み合わせて過去形を作る形があるらしいけど、存在しないものが現れる、とか、物的な状態や現実的な状況を持たないものがそれとして現勢化する、という意味合いで、素人絵描きの不意の出現は、ナボコフの描くこの小説の場面にあって、複合過去が告げようとするものに反する持続する過去の眺めのようなものを作り出している、というような気もする。ハンバートの観想においてこの行動のイメージは現在において眺められる、二人のあらかじめ想定された目撃者においてこの行動のイメージは条件法的に未来形で語りだされる、そして、ジーンにおいてこの行動イメージの反実現的な実現が陰画的な過去の相において捉えられることになる、そんな感じがしなくもない。……自分で書いててもよくわからなくなったんで、もうこのへんで与太話はやめとく。でもやっぱり、ちょっと気がかりな場面ではあるんだよ。なんかあるんだとはと思うよ。読解力のある人、あとはよろしく。