ドゥルーズ『シネマ2』(弟9章「イメージの構成要素」)

 議論が難しすぎて細かくつめては読めないので、理解した範囲で簡単に、引用多めで。
 現代的映画を特徴づけるイメージの特異なあり方といったものを説くにあたって、ドゥルーズは、それは視覚的イメージと聴覚的なイメージとの分断として映画に現れるものだ、みたいなことをいってるんだけれど、そこで映画のスクリーンに映し出される空虚な無人空間といったものが描かれることになるイメージ的な根拠を述べてもいる。《この(感覚運動の絆の)破壊はイメージにも影響し、今や視覚的イメージは、現代的映画に特徴的な任意の空間、空虚な、分断された空間を開示する。あたかも、言語行為がイメージから退いて創設的行為となったので、イメージのほうは、空間の基礎、「基盤」、言語以前または以後の、人間以前または以後の、このような沈黙した力能を立ちあげるかのようである。》 先史時代の過去を考古学的に復原するということじゃなく、視覚的イメージに現れる空間は《われわれ自身の亡霊が埋まっている無人の諸層》として、出来事や歴史の砕片化した要素が散らばる潜在的な地層みたいなものになるってことらしい。すでに視覚的イメージへの依存や従属から解放されてしまっている言語行為や音声イメージについては、現在的な出来事について語るべき事柄の空無そのものをしるす場所であるこの《無人地帯》の出現を前にして自律的なものとなっており、視覚的イメージに対する相関物としての資格において、《創設的》で《仮構作用的》なフィクションの力能を獲得するものとなるらしい。イメージの両構成要素はそれぞれの形づくる地平でその内部的要素どうしを連鎖させる力を失っているけれど、根本的な不一致は両イメージのあいだの分断としても現れている。スクリーンのうえのイメージはそこに見えるものとして、一種の見えないものの人物なき、行為なき離接的な連関といったもの見せることになるし、音声イメージを含めたもろもろの言語行為(人物のセリフとか画面外の声なんか)もまた、出来事や知の状況を直接的に伝えるものであることをやめてしまう。(直接話法と間接話法が現前性の効力を失い、自由間接的な価値を帯びたパロールが「仮構作用的」なフィクションの言説を創設することになる、ということらしい。映画を観ないからドゥルーズのこのような記述からぼんやり事態を想像することくらいしかできない)。ただし直後に、《「空虚な」とか「分断された」というのは最良の言葉ではない》とドゥルーズは継いで、《人物のいない空虚な(あるいは、そこで人物自身が空虚のための証言をするような)空間は、何ものも欠けていない充実性をもっている》としたうえで、この無人地帯を充たしにくる空間イメージと音声イメージとの間隙を越える《再連鎖化》、《再調和化》の契機を再確認する。無人地帯は視覚的なものであると同時に、自由間接的言説のフィクションによって読まれるべきものでもある、と。《言語行為は出来事を創造するが、出来事のない空虚な空間の中に創造するのである。》
 本を読んでいると、虚構の作品のなかで描かれる無人地帯、証人や報告者としての資格で現場にのぞむような者が誰一人存在しないにもかかわらず、その場の完全に空虚な様子を伝える透明な、両義的で同定不可能な、きわめて曖昧な身分をもつ言表者によって占められた無人の空間、といったものがときどき現れて、それにドキっとすることがある。ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』に描かれる、なかば打ち棄てられて廃墟と化しつつある家屋の内部で行われる描写だとか、ゾラの『ナナ』で描かれた、安置されたナナの遺体だけがひっそりと横たえられるホテルの部屋での彼女の顔に差し向けられた描写だとか。先週読んだフーコーの文章における影の話者の活動なんかもここらへんにかかわってくる問題かなと思う。かっこいい文句だから繰り返し引用すると、フーコーは作品に現れるその影の言表行為を、《辺獄の不可視性のなかで行われる虚構の灼熱の演技》とかと呼んでいたわけだった。フーコーが近代小説に関して語る、言説を支える話者が透明で不可視のステータスを獲得することになる、いわば無人カメラのごときものと化すような変成の過程と、ドゥルーズがここで記述する、視覚的なイメージが字義的な空虚に向けられた撮影と化して言語行為がその不可視に対応する相関物となるような過程、物質であることと同時に物質性を失うことでもあるこのような両過程は、現代的なフィクションの採りうる唯一の姿勢の表裏に覗くふたつの面を形づくるものなのかもしれない、とか思う。《これ以後は、二つの能力いずれも、両者をたがいに分離する限界、ただし分離しながら関連づける限界に到達することなしには、高次の実践にまで上昇することはない。》 映画における音声イメージと視覚イメージとの両能力の特異な結びつきを指摘してドゥルーズはそのように述べるわけだけれど、広い意味でその説を受けとめて、両能力を「見えるもの」と「見えるものを語りうるものとするもの」というふうに敷衍して了解することにする。
 ドゥルーズが述べる視覚的イメージに現れる「無人地帯」といったものにかんして、ここでランシエールのイメージ論を思い出す。『イメージの運命』は2年前に読んだきりで内容もほぼ忘れかけてしまってるんだけど、本一冊を読み直す時間も気力もなかったので、なかでも「表象不可能があるのかどうか」という文章だけをざっと再確認してみた。短い文章のなかに内容それ自体として目を向けるべき箇所はたくさんあるんだけれど、ここで関連のありそうなところだけをピックアップすれば、クロード・ランズマンの『ショアー』という映画作品に関するランシエールの考察の部分がとくに興味深く感じられる。そのくだりでは、絶滅収容所の跡地、今は無人の更地となっているという、ユダヤ人の除去という出来事そのものの痕跡が除去されてしまった、二重の除去作用をこうむる空白そのものの場所に、出来事から生き残った人間が証人として再び訪れるという場面がとりあげられている。映画はその冒頭に、《「筋立て(アクション)は現代から始まる……」》という自身のフィクション性を告げるパロールを、動揺しやすい、頼りのおけない礎石のように据えるけれど、言語行為を覚束なさへとなだれさせていく《決定不全性》(ランシエール)は、その場所の空虚を前にした証人による欠語すれすれの言葉によっても、はっきりと刻印されようとする。(「ここにいることが信じられない」)。見えるものを見せることを本務としながら、そのかたわらで見られてはならないものを見せないものとして強く抑制していた芸術行為における《表象的体制》に属する決定不全性のパロールは、今や、見せることと見せないことのあいだの調整済みの両機能を白日のもとに剥き出しにされて、見えるものそのものの現われの場所であるこの無人空間のなかで、見せることと見せないことを同時に両実現する、およそ考えうるかぎりでもっともあからさまに表象可能な言語的形態を芸術の《美学的体制》のなかで形づくることになる。いま目に見えているものはけっして見られることのできない眺めである、同時に、目に見えないものが見えないものとして、まさに正しく、この眺めのなかに現れている。《ここにいることが信じられない》は沈黙の言説的顕示の形態となって(不一致のものの一致の事態となって)、照らし出される不可視の光景という視覚的イメージの不一致に重なり、複合するイメージ間で生じた断層を現在のこの場所に露頭させる。または、マルグリット・デュラスの映画作品を観るドゥルーズならそれを、地質学的断層に露頭する断片の再連鎖というよりむしろ、大地そのものを覆いつくそうとする大河と海洋によるさらなる広汎な地球規模での流体の運動として認めるかもしれない。
 とにかく、ドゥルーズのいう意味での言語行為の「創設的」で「仮構作用的」な働きはそんなふうにして、ランシエールによる無人地帯と証言のパロールとの不一致的な一致の発見のなかでも作動しているといってよさような気がする。もちろん、著作家の影響関係というようなごくごく素朴な議論の水準ではドゥルーズの仕事がランシエールのイメージ論より先にきまってるんだけど、細かく見れば別々の問題意識をもった者どうしがしめしあわせもなく似たような場所に辿りついてそこで似たような結論を導き出したってところがおもしろなあと感じる。たとえば別に、ランシエールは例の芸術行為全般を規定する教育的で実践的な次元での「表象的体制」から「美学的体制」への移行といった事態を跡づける仕事のなかで、類似性の働きやミメーシスの理念は廃棄されることになるんじゃなくて、先在する規範への従属を解除されるのだ、調整的な配置の変換がそこで起こったのだ、つまり類似性がかつてなかったほど(自身の働きが変調をきたすくらいにまで)高まる場合があるのだ、みたいなことを強調していたはずで、そういう観点はフーコーの議論なんかにも通じるところがあるんじゃないかなあ思った。