ハル・フォスター編『視覚論』

 5つの論文どれもおもしろかったけど、特にロザリンド・クラウスの文章(「見る衝撃/見させるパルス」)に興味を覚えた(なかでも、ピカソの習作の分析にあてられた箇所は読みごたえがある。理論とか概説的な部分については、どの論文でも、読んでてどうしても敷居が高く感じる。読みこなすのに最低限求められてる基礎的な教養だったりもろもろ実地の経験が皆無なんで、そこらへんは仕方ないものかなと諦めてる)。芸術もその一部に含まれてるような広い意味での視覚文化とか制度の次元に、あるとき決定的な変化が起こって、近代以降それら視覚性の経験が身体性だとか性的な欲望といった人間学的な領域を吸収する、みたいなところはどの論者にも共有されてる前提事項みたいだけど、ロザリンド・クラウスのここでの論述もその前提にそって進められてる。ただ、読んでてよく分からなかった点があって、たとえばマーティン・ジェイ(「近代性における複数の「視の制度」」)やジョナサン・クレーリー(「近代化する視覚」)、ノーマン・ブライソン(「拡張された場における〈眼差し〉」)なんかでは、それぞれの論者によって微妙な違いはあるものの、ざっくりと19世紀と指定してよさそうないわゆる近代の端緒の時期とほぼ重なるような時代区分で同時に視覚性の変化が起こったと見なされてるように思うんだけど、ロザリンド・クラウスの文章にあっては、この変化がモダニズム絵画とそれ以降の芸術とのあいだの断絶として設定されてる。視覚経験における近代性みたいなものは、カメラ・オブスクーラ的なきわめて抽象化された精神の表象モデルから人間的視覚の不透明さへと進展することになるのか(ジョナサン・クレーリー)、あるいはデカルト的な遠近法主義からバロック的な復古的モデルをヒントにして狂気やエクスタシーといったカテゴリーのもとに視覚性が再措定されようとしているのか(マーティン・ジェイ)、はたまたサルトル/ラカン的な見る主体の執拗な中心化作用から逸れて水墨画的な主体における同一性の解体へと向かうことになるのか(ノーマン・ブライソン)、なんにせよ視覚におけるエロティシズムだとか身体性だとかいったもろもろの人間的与件の誕生の日付と同一視されてるような気がする(ジャクリン・ローズの議論は難しくてちょっとよく読み取れない)。抽象的で精神化され脱身体化された表象可能な視覚のモデルから、不透明な肉の厚みの底に象嵌された人間の物質的視線へ、みたいな議論の流れがあって、その考古学的な断絶をはさんだ変化が近代以前と近代との差として見出されてる。「マネの絵画」でのフーコーなんかもこの線で議論を進めてるだろう。これがロザリンド・クラウスだと、議論の基本的な論調は他の論者たちとまったく同様のトーンなんだけど、時代の指標として選んだ例としてはモダニズム絵画や抽象絵画からそれ以降の現代的視覚芸術へ、みたいなことになってて、つまり視覚性のモダニティはすでに棄却されるべきものとしてのみ見出されてる。モダニズムに対するパースペクティブの取り方に捩れが出てる。素人目に読んでると、ここらへんがちょっとよくわかんない。モダニズムは視覚に肉体を取り戻させたものなのか、それとも視覚から肉体を奪い去ったものなのか。クラウスは正確には、モンドリアンとかのモダニズム絵画それ自体の視覚の抽象性を云々してるんじゃなくて、グリーンバーグとかマイケル・フリードといった、それら近代絵画を参照したフォーマリズム批評のことを念頭に近代性批判を行ってるんだけど、けっきょくグリーンバーグの擁護した当の抽象絵画の近代性についてはいっさい触れずにピカソの晩年の仕事とかジャコメッティの彫刻を俎上にして議論を展開してるんだから、マネから始まる(の?)絵画芸術の視覚のモダニティがそこで明確に免罪されるってことでもない。「モダニズムの絵画をグリーンバーグらはこんな風に受け止めたので間違ってた、私ならばこう見る」じゃなくて、モダニズムの絵画そのものから離れていってしまうので、間違ってたのがそれら抽象絵画のあり方そのものなのか、それともそれらを参照したフォーマリズム批評なのか、あるいはどっちも同程度に間違ってたのか、ロザリンド・クラウスの見取りのなかで近代性の位置づけと評価がじっさいどうなってるのかがよくわからない。それに対してオルタナティブを提示すべきものであるのか、それとも、それがすでにオルタナティブとして提示されたものだったのか、マネの作品とか抽象絵画の位置づけはどうなってんだろう。これは「批評の批評」ではあるし、そのために抽象絵画に対置されてピカソジャコメッティの作品が呼び出されてるのもわかるけれど、これでは代理戦争みたいなもので、なお厄介なことには、そこで敵陣側に代理で立たされたものがどんな顔をした敵なのかもはっきりとはわからない。それらがグリーンバーグらの語るとおりのものなんだとして、そしてそれを前提としてクラウスが受け入れるのなら、クラウスの展開する視覚論にとっての例外か、または現代的な問題にとって水準に満たない時代錯誤な失敗物として切り捨てるよりほかないだろう。でも人間的な視覚に埋め込まれた性的な欲望の次元だとか心的で身体的な与件を普遍的な枠組みとする彼女の議論にとって、それこそが理論の失敗に繋がりかねないものなんじゃないかとも思う。ピカソジャコメッティが人間である程度には、たぶんモンドリアングリーンバーグも人間的な存在だったろう。だったらクラウスのまずするべきことは、傍目にもわかりやすいピカソの絵のテクストクリティーク(それ自体はめちゃくちゃ刺激的だけど)なんかよりも先に、彼女の理論の水準に見合うよう抽象絵画そのものに隠されたり抑圧されてたりする性的なものを剔抉することだったんじゃないのか。それが不可能なら、それこそが彼女の理論にとって危機的なものだろう。あるいは、抽象絵画とかフォーマリズム批評を前近代と近代以降のあいだで二重に割り振って位置づけるみるのか。たとえば、マネの絵画が自身をそのなかに含むかたちで完成させ終わりに導いた古い視覚性のあり方の側でこれを歴史の後日譚めいた一挿話として置き去りにするか、それともマネによって開始されて現在にまで広がる視覚性の新しいあり方にとっての弁証法的な否定項みたいなものとして扱うかするか。フーコー(やマイケル・フリード?)にならってマネを分水嶺に据えるにしろ、いずれの立場も座りがよくなさそうで、やっぱりよくわからない。……それはそうと、この本にはモンドリアンの絵の図版が一点だけ収められてるけれど(「モダニストのグリッド」の例としてマーティン・ジェイの論文のページで参照されてる)、モンドリアンの「モ」の字も知らなかった者としては、この作品については壁紙の模様かなんかによく似た視覚的印象を覚える。そして壁紙の模様といえば、ロブ=グリエだとかクロード・シモンの小説にしばしば現れる同様の(ときに床の羽目板だったり壁紙だったりする)反復するイメージに割かれる細部描写なんかを思い出す。精神分析の理論に依拠して批評的な言説を組み立てる人たちはヌーヴォーロマンをちょっと蔑ろに扱う傾向があるような気がしなくもないんだけど、ロザリンド・クラウスのこの論文の場合もまさにそのケースにあてはまるような気がする。視覚の純粋性とか抽象性とかいって適当にあしらって処理してしまうのではなく、彼らの言説にとっていちばんたやすくお払い箱にすることのできるそんな対象から、多少無理やりでもいいから何かおもしろいものを取り出して見せてくれれば、精神分析とか心的なものに依拠したそれら言説自体もさらにおもしろく読むことができるのになあ、と他人事ながらちょっと惜しくなる気持ちもある。けっきょくピカソの「草上の昼食」じゃあまりにも安牌すぎるでしょ?ってどうしても思ってしまう。……なんていったらいいんだろう、どの論者の視線も自分の言説にとっての格好の対象とちゃんと出会ってるって感じがする。眼差しとその対象がなんやかんやでちゃんと遭遇してる感じがするし、そこで出会い損ねたものに対する視線がなかったことにされてるという感じがしなくもない。そこに、どこかしら読んでいて感じるこの物足りなさの原因があるように感じる。たとえばフーコーによるマネの作品に費やされた文章のおもしろいところは、鑑賞者が「オブジェとしてのタブロー」を前にして、でもどうしてもうまくその対象を見出すことができないってことを指摘して、表象のモデルとしてこれを提示してくれたことにあった。《フォリー・ベルジェーヌのバー》のおもしろさは眼差しが対象と出会い損ねつづけざるをえないってことを、動揺する鑑賞者の身体と視覚的感性を通じて、この表象の失敗を描くモデルとして表象しているところにある。表象の失敗物がそれとして表象されてるからには、フーコーもマネもそこに眼差しの対象を確かに見出してはいるわけだけど、ピカソの絵を分析するロザリンド・クラウスの議論は、このフーコーがマネから引き出す線にそって延びていくようなものではないだろう(水墨画における空虚によって蚕食された形象といったものを指摘するノーマン・ブライソンの議論が、視線の具体的なあり方としては大分感触が異なるけれど、ひょっとしたらフーコーの述べるような論調に近いのかもしれない)。……どの論文も刺激的で勉強になるしおもしろかったけど、ひととおり読んでみてざっくりと以上のようなことを感じた。