フーコー「物語の背後にあるもの」

 ……そういえばフーコージュール・ヴェルヌについてなんか書いていたっけなあと思い出して、本棚から『フーコー・コレクション』を引っ張り出して確認してみたら、「物語の背後にあるもの」という短めの文章でジュール・ヴェルヌのテクストがとる説話形態について細かく分析しているものを見つけた。
 フーコーはそこでまず、文学作品に装填されている言語を「フィクシオン」(物語の言説様態)と「ファーブル」(物語の内容)とのふたつの異質な水準に区分する。同じ区分は、たとえばジュネットの用いる術語だと「ディクション」と「フィクション」と呼ばれることになるんだろうけど、要するにテクストの上で書かれて物語られることになる人物の活動だとか出来事の様子と、それらいっさいを切り出してくる「アスペクト(視界)」としての言説行為の次元をまずはきちんと分けて考えましょうってことで、このあたりの知見はヌーヴェルクリティークとかそこらへん以後の文学理論の常識といってよいものであるはずで、フーコーも前提としてのその区分を律儀に守っている。その両水準をジュネットのように「ディクション(物語形式)とフィクション(物語内容)」というふうに呼ぶとすると、語りの水準自体(ディクション)が語られる内容(フィクション)とは別に、それとは外在的にどっかよそに、語りの形式単体として取り出すことができるものとして見出すことができる、というような(プラトンの語るイデアみたいなものとして)誤解を招きそうな気もするけれど、そこらへんの術語の選択にはフーコーも慎重な配慮をしているようにも見えて、つまり語りは「話」(ファーブル)の外部にあるということけっしてはなく、その内部に、「ファーブル」を読めるものとして切り出すカット面(分節された言説の切断面にのぞく眺め)としてだけ、どこまでもいっても「フィクション」としてだけ、見出されるものであるという点を強調しているように思える。《(…)文学作品というのは現実世界の言説のまがい物、似てはいるが非なるものであって、そこでは、今述べた三角関係(言説の担い手-言説-言説の内容)はすべて語りの内容においてのみ存在しているのである。語られている事柄(ファーブル)自体が、誰が、どのような距離を置いて、どのような視点から、どのような語り方を用いて語っているのかということをしめさなければならない。》 「フィクシオンとファーブル」という対を形づくる概念は、たとえば「容器とそこに盛られる内容物」というようなつねに分離可能なものどうしが形づくる比喩によって理解されるべきものなんじゃなくて、あくまでイメージにこだわるのならば、たとえばダイヤモンドとその輝きを生み出しているカット面とのあいだで結ばれる内在的な関係を形づくるようなものとして理解するのがよりふさわしいんじゃないか、とも思える。ダイヤモンドの輝きは物質そのものに属する特性ではないけれどそれが存在しければ同時に消えてなくなってしまうはかなく覚束ないものでもある。しかしまた、この輝きがなければその物質的な存在を認知することはけっしてできないし、ダイヤモンドはけっきょく不透明な炭素の一塊に過ぎないものにとどまる、というような意味で、準原因的に自存する不可視の何かであると、そんなふうにいうこともできるかもしれない。このフィクシオンの放つ実効的だけどそれそのものとしてはけっして目には映らない無色透明の輝きをしめそうとするかぎりで、ジュール・ヴェルヌの作品をめぐるフーコーのこのごくごく短い文学的テクストもまた、たとえば『言葉と物』のような大きな仕事の一部に確かに結びつくものであるというような気がする(フーコーのほかの著作をまともに読んだことがないからそれ以上のことは何もいえないけど)。フィクシオンのもつ触れることのできないという特性、それ単体では目にも映らないし、しかし目に映るときにはかならず物質としての不純物の深みから現れることになるという負量的で逆説的なものでもあるこの性質(それは『意味の論理学』のドゥルーズが語る「表面」の効果に近いものがあるかもしれない)は、フーコーのあまりにも美しすぎる言辞によって、たとえば、《辺獄の不可視性のなかで働いている虚構(フィクシオン)の灼熱の演技》とかとも呼ばれている。ジュール・ヴェルヌの作品に見出されるフィクシオンにおける遷移可能な諸次元を、存在の様態において透明さを増して、話者の場所とパロールの響く場所とのあいだの隔たりを広げてゆき、声の主体における身元の確かさの保証もしだいに失っていく、5つの漸進的段階に分類するその記述の進行のなかで、身体をもたない純粋状態の語りの声、無限定なざわめきと化す影の人物たちの不可視の演技の舞台といったものが、徐々に浮かび上がってくる。文学作品において、《誰が、どのような距離を置いて、どのような視点から、どのような語り方を用いて語っているのか》をしめそうとする仕事は、複数の異なる資格と身元をもつ諸段階を通覧したのちに最終的に、《辺獄の不可視性のなかで働いている虚構(フィクシオン)の灼熱の演技》の場所に導かれることになる。見えるもの、語りうるもののイメージとして描かれるファーブルの水準における登場人物たちの働きや冒険と出来事の推移は、いまや、この希薄化するフィクシオンの影の演技の場に巻き込まれて、科学者における科学的知の確実性から無辜の冒険者のまったき無知による不確実さへと大きく揺れ動き、両極のあいだでの揺り戻しを繰り返し、やはり最後には、無限定の知そのものによる非人称の空白で純粋な記述の次元にさらわれてゆくことになる。ファーブルにおけるもろもろの要素どうしの配分やそれらのイメージの交配から産み出されるべき結果であるフィクシオンが、ひとつの効果として、事後に、母体であるファーブルを波打ち際の砂浜を飲み込む潮のようにしてざわめきだけを残し、海洋の茫漠とした広がりにも似た言説の純粋なつぶやきの連なりのなかへと沈めることになる。《あたかも、物語内容が人物相互の関係において、空想上の冒険譚を物語る言説の錯綜した関係を模倣しているかのようなのである。》 事実上先行して存在するイメージと、権利においてこのイメージを成立させる、書かれ、かつ読まれたうえで初めて見出される言説の両水準があるようにも思う。こうして「物語の背後にあるもの」がその不可視の在り処を指し示されることになるけれど、それはおそらく、「物語の背面に貼りつくもの」というふうに言い換えてもよいものだろう。言説がその固有の力能によって見せているファーブルの「見えるもののイメージ」にはその「背後」に控えるもうひとつの別の空間が存在しているというよりも、それと一体化した影の面、裏面が、フィクシオンとして存在とは別の様態で効力を発しているというふうに、ほかならぬフーコーそのひとによるここまでの記述がそう読み取るよう強いているという気がする。フーコージュール・ヴェルヌの作品に仮託してここで描く記述からは、そんなふうに読める。
 ……『闇の国々』を読んだことがきっかけで再読したフーコーだったけど、行きがけの駄賃といった軽い気持ちで、そこから市川春子のマンガによく登場する科学者の役割についての話だとか、先日読んだコルタサルの小説での語りの形式なんかに話題を繋げるつもりだったんだけど、どうもうまくいかなかった。ここで力尽きる。